第6話 若き研究者
「よし」
奏多はジャケットを脱いで、側のベンチの上に置くと、彼女と一緒になって植え込みの中をのぞきこんだ。
「昼寝をしていて落とした、か……。この芝生は斜面になっているし、転がっていったとしたら、あっちの方向か」
奏多は状況を分析して、大体の辺りをつけて芝生の上を探すと、少し離れた場所で白いワイヤレスイヤホンを発見した。
「これかな?」
「あっ、それです! なんでそんなすぐ、見つけられるんですか? ありがとうございます!」
イヤホンを差し出すと、彼女はぱっと輝くような笑顔になった。何度も礼を言うので、奏多の方が恐縮してしまう。
「お礼に、お茶くらいは行ってもいいですよ」
どうやらこの女子学生は、奏多のことをナンパだと勘違いしたままらしい。奏多は苦笑して断った。
「いや、そういうつもりではなかったから」
「えっ、すみません! 勘違いして!」
彼女は顔を赤らめて、ばっと頭を下げた。お礼を言ったり謝ったり、賑やかで忙しい子だな……と奏多は思わず笑みをもらした。
それでは、と会釈して立ち去りかけると、「あ、あの!」と後ろから呼びかけられた。振り返ると、彼女はなぜか焦ったような様子をしている。
「あの、工学部の松谷先生の研究室の場所、知ってますか?」
「松谷先生って、応用化学の?」
「はい、そうです! イヤホンを探してたら、気づいたらアポの時間になってた!」
偶然にも、松谷先生は奏多が所属していた研究室の隣の部屋の先生だ。分野が近くお互いに交流もあって、面識があった。
「3号館の5階だな」
「そ、その3号館の場所が、わからなくて……」
「まあ、ちょっとわかりにくい場所ではあるな」
しかし、学生なのに学部の建物も知らないのか、と奏多は少々呆れた。アポに遅れそうになったり、イヤホンを落とした件も含め、相当に抜けた子のようだ。
「アポは何時?」
「14時半です」
時計を見ると、すでに14時20分を過ぎている。ちょっとでも迷ったら、間に合わないだろう。
奏多はふうとため息をついてから、提案した。
「案内しようか」
「本当ですか! 助かります」
女子学生は手を合わせて拝むような身振りで、大袈裟に感謝してくる。今までの人生で、こういうタイプの子と絡んだことがほとんどなかったので、奏多は反応に困って苦笑するしかない。
ふたりは連れ立って、足早に歩き始めた。
「君は、工学部ではないのか」
歩きながら、他愛もない話をする。
「いえ、私は農学部です」
道理で、工学部の建物を知らないわけだと合点がいく。
「何年生?」
「学部の二年生です」
「レポートの提出でも?」
七月だから、ちょうど前期試験が近い頃だな、と学生時代を思い出しながら訊ねると、彼女は首を振った。
「研究のことで、教えていただきたいことがあって」
「へえ、学部生なのに、熱心なんだね」
「はい、研究が好きなんです」
彼女はなんの曇りもない笑顔でそう言った。
そんな風にまっすぐ言えるのは……若いからだろう。奏多は胸の奥にちくりとした痛みを感じた。自分にも、そんな時代があった。だが今ではもう、くたびれた社会人だ。
しかし、二十歳そこそこで研究が好きだと言いきるなんて、変わった子だな、と奏多は思った。
工学部の3号館の建物に入って、エレベーターを乗り込みながら、奏多は数年前の記憶を引っ張り出して話題を続けた。
「松谷先生というと、酵素反応を利用した物質変換や機能性分子の研究をされていたな」
「はい、私の研究で、微生物を介した酵素反応がキーだとわかってきたので、解析手法をお伺いしたくて」
奏多は彼女の言葉に違和感を覚えて、おうむ返しにつぶやいた。
「……私の研究?」
学部二年生だという彼女が、自分の研究を持っているという意味なのか。しかし普通、研究室に配属されて研究テーマを与えられるのは、四年生からだ。
「はい。高校のときから続けている研究があるんです」
彼女は目に強い光を宿して、そう言った。挑戦的ともいえる眼差しだった。
その瞬間、いつか見たネットニュースの写真が脳裏によみがえった。高校生が、国際科学コンテストで受賞したというニュースだ。
「もしかして……」
そのとき、エレベーターがチンと音を立てて、目的の階に到着したことを知らせた。
松谷先生の研究室は、エレベーターを降りてすぐのところだ。
「あっ、先生の部屋はここですね! よかった、間に合った!」
本当にありがとうございます、と彼女は礼を繰り返してから、すっと背筋を伸ばして真剣な顔になり、研究室のドアをノックした。
「どうぞ」
すぐに、中から返事があった。
「では」
女子学生は、最後に奏多に向かって頭を下げると、松谷先生の研究室のドアを開き、物怖じすることなく中へ入っていった。
嵐のように去っていった彼女の残像が、目の奥に残っている。
「変わった子だったな」
奏多がしばらく、閉じた研究室のドアを眺めていると、通りかかった人が不思議そうに見てきたので、慌ててその場を離れる。
「ここまで来たし、辰巳先生に挨拶していくか」
研究から逃げるように仕事を辞めた手前、恩師に会いづらくてアポをとっていなかったが、さすがに黙って帰るのも悪い気がする。
「悠馬もいるかもしれないしな」
奏多は学生時代にお世話になったラボを覗きにいったが、生憎ゼミの最中なのか、部屋には鍵がかかっており、誰もいないようだった。
奏多はがりがりと頭をかいて、落ち着かない気持ちで母校のキャンパスを後にした。
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