一人でいるのが好きということ
人は集団で生活する生き物だ。
私もまぎれもなくその集団の中の一匹である。私ただ一人では料理をしようともガスを手に入れられないし、火をつける機構も作れないし、そもそも野菜や肉を調達できない。調味料なんて摩訶不思議な物体を作れようはずもない。その他にも電子レンジだったりトースターだったり、あるいは家だったり、およそこの世には一人でできることなどほとんどないように思う。
それを承知の上で、私は人に比べて一人を好む人間だと思う。
別に誰かといるのが嫌いだとか、人と喋りたくないだとか、そういった嫌悪の感情から、集団でいることを選択しないのではない。選択的に一人で過ごすことが好きなのだ。
友人との飲み会で楽しく話していても、なんだか不意に立ち上がってしまいたくなって、しかし楽しい雰囲気を邪魔したくはないから、こそっと一人抜け出して近くのコンビニまで散歩したりする。逃げ出す道具として煙草を用いたこともあったが、1人がタバコに向かうと、煙草を吸う奴らはハーメルンの連れる子供のようについてきて、結局一人では吸えないということに気づいたので、この作戦はもうやめてしまった。今の主流はただ気配を消して出ていくか、「トイレに行く」と言ってトイレに行った後、しばらく店内をゆっくり歩くという方法だ。なんともぼっちらしい行動であるが、心が自然、この方法を取ってしまうので仕方がない。何かほかにいい方法があったら教えてほしい。
ここで断っておくが、別に気まずいから逃げているわけではない。むしろ本当に気まずいときは席を立ってしまうと気まずく思っているのがバレてしまうから、頑張って席に座っている。席に座りながらおしぼりをいじったり、箸入れの紙で折り鶴を折ったり(これは気まずくなくてもするが)、子供用メニューの裏にある間違い探しを解いたりする。それはそれで気まずさを感じ取られるかもしれないが、席を立つよりましかな、と思っている。いや、書いてて思ったけど席にいない方がいいかもしれない。今度から逃げます。
飲み会の席で席を立つ、一般化すれば人と話すより一人を選ぶ、というのはどこから来るのか。
「人と話すのが疲れるから」。間違ってはないがそれは本質的ではないような気がする。
畢竟、「それが安寧であるから」という結論に行きつくのではないか、と私は思う。
人と関わることは、常に「不安定な解答」を求められる。
ある人に対しては正しかった答えは、ある人にとってはとんでもない禁忌肢だったりするし、あるいはもはや自分が回答をしたわけでもないのに、自分のいないところで勝手に回答がなされて点数がつけられたりする。
閉じられた世界の中であれば、明確な解答例が存在して、それに沿って点数をつければそれを正しいと納得することができる。
一方で世界が外に対して開かれてしまうと、そこに無数の「解答例」が存在してしまうために、提出する場所によって点数が変わる。
例えば、私が常々思っていることに、料理がある。
一人暮らしをして生きていると、当然毎日のように行われるのが自炊だ。自分のために飯を作り、それを食べる。当たり前のルーティーンである。
そこで私は、私のために作られた料理の全てに100点を与えてあげられる。たとえそれがグラノーラに牛乳をかけただけのものだったとしても、それは疲れた体で私のために、最高点を取るために用意された料理なのだから、私の採点軸によればまぎれもなく100点の料理だ。
翻って、誰かに料理を振舞った場合はどうだろう。彼らの採点軸は私とはまるで違う。仮に私が半日をかけて仕上げた料理だったとしても、それの過程を評価の軸に入れていないのであれば評価はされない。味の好みなんて千差万別だ。好き嫌いに配慮して作ることは可能であっても、味付けに関しては素人がピシャリと当てられるものではない。
そして結局、その料理には60点だか80点だか(あるいはもっと低いときもあるだろうが)、つまりは「客観的な点数」がつけられることになる。
そういう時にいつも思うのだ。「ああ、あの子は僕の世界の中だけなら100点をあげれるのに」と。
そうしてつけられた客観的な点数は、それがなされた時から私の採点軸を蝕み、私の出したその料理は、自分自身からも80点の料理になってしまうのだ。
そう思えば勉強は本当に楽だった。
問題を解いている最中は自分と目の前の問題のことしか考える必要がない。出た回答に対して、人が感覚で採点するのではなく、明確な採点軸をもって採点する(国語の文章題などは少しばかりは感覚が入るだろう。故に私は国語と英語が嫌いだ)。
「受験は団体戦」などと教師らは嘯いていたが、そんなことはない。受験なんて究極的に個人戦だ。
スポーツ、例えばテニスだって、個人戦とは銘打っているものの、その実対戦相手がいるじゃないか。その相手がいるからこそ、次の打球の場所を考えたり、相手の癖を読んだりだの、自分とは離れた場所のことを考えなければならなくなる。
なんて煩雑、なんて余計。結果を戦わせるのではなく、戦ったあとに結果が残るのだ。相手がいることが前提なのだ。
だが勉強は違う。テスト中に対戦相手はいない。強いて言うなら物言わぬ数行の文と数列が相手だ。いや、相手と言うのはやはり違うかもしれない。どちらかと言えば、初対面の、そしてこれから友人になるやつだ。私はお前と戦うためにではなく、お前を理解するために問題を解くのだ。相手の嫌がることをして点をもぎ取るのではなく、相手のこと理解し紐解くことで解答を紡ぐのだ。
そうしてお互いが言葉のないまま対話をし、相手の本質に向き合う。ともすれば紐解いた相手の顔から、背後にある作問者の教えが浮かんできたありして、それはそれで愛おしく思うものだった。
終了の号令があれば、そこで対話を終える。真剣に相手と向かい合えば、時間はあっという間に流れる。数学の問題を解いているときなど3時間が数十分に思えることも常だった。そうして満足するまで対話した結果、採点をするのだ。それも、明確な基準に則って。
間違えていた、あるいは分からなかった部分があれば、自分の勉強不足を悔やみ、また新たな友人の一面に歓喜する。その新たな一面は、決して一時的なものではない。半恒久的に、彼の、また彼らの本質足り得るものだ。だからこそ私は、それを知り、そしてそれ知ったことで、新たな友人への解釈が生まれることを喜ぶのだ。
採点後のランキングなんて、ただの結果だ。完全に安定した評価がなされた後で、それを人が比べているに過ぎない。私が取った点数は見る人によって揺らぎはしない。どこに出しても確固たる数字のまま屹立している。故に、それを不安がることはないのだ。
人は、分からないものが怖い。
その一方、理解できるものには安心できる。
私はそんな、どうしようもなく一般の人間なのだと思う。
他人は、結局のところ理解できない。採点軸も解答例も用意してくれない。ともすれば嘘の採点をこちらに寄越す。いや、もはやその方が多いと言ってもいい。
そういった人間たちの中に自分を置くことは、きっと刺激的で、自分を成長させることなのだろうとも思う。分からないことだらけの状態は、あるいは興味深い現象で埋め尽くされた、宝物庫のように感じる人間もいるのだと思う。
ただ、それは私にとって安寧ではないのだ。もちろん私だってただ微睡んでいるだけで生きたいとは思わない。自己の外側にあるものからしか得られない知識や見識、発想と経験は何事にも代えがたい尊さを持って輝いていると考えている。しかしそれでも、日々の大半を、体を浸けておくのならば、安寧の中がいい。きっと外にばかりいると、私は疲れてしまう。
私はきっと勝手に一人になって勝手に休息を取り始める。故に、大層我儘な話ではあるが、私が珍しく外に出てきたときは、今までのように、何事もなかったかのように、迎えていただけると大変に助かる。きっとその時は、あなた方と話したいはずなのだ。私も、ただの我儘にならないよう、精進しようと思う。
最後に、回答を気にせず話ができる友人たちに感謝を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます