第六章 夏莉

第44話

一体、どこから話せばいいのだろうか。

オリエンテーションの日のことも覚えてないなどと嘘をついて、私は何がしたいのだろうか。



「あ!!!橘くん……だよね?」


春風が吹き付けるような日だった。

大切なハンカチが飛んで行ったと泣く、知らない女の子のために必死に校庭を探し回っていた時に、目の前に現れた人だった。


――一言一句、ちゃんと覚えている。


「あれじゃない?」


引きで見るのが上手い人だと思った。

どこか達観している雰囲気を纏っているその人は、儚い顔で笑った。


「ああ!ありがとう!!!!届けてくる!!」

「ちょっ……届けにいってたら遅刻するよ……」

「大丈夫大丈夫ー!!!あ!橘くん先行っててね!!」

「え……ええ……」


少しでも、優しい人だと思われたかった。

自分、なんてものがとうの昔から行方不明で、定まっていなかった。

高校では、優しくて親しみやすくて変わった人でいたかった。


春風の中、走る校庭は気持ちが良かった。


隣の席の松田くんは、少しだけど抜けてそうな雰囲気の顔の整った男の子だった。

もう少ししっかりしてそうならばモテそうな程に、綺麗な白い肌と爽やさが印象に残る。

なんだか見ているとレモン風味の炭酸水を飲みたくなるような、そんな雰囲気だった。


「私、城野夏莉!よろしくね」

「よ…よろしく。って言っても、多分次の席替えまでだけど……」

「何言ってんの、1回友達になったらずっと友達でしょ」


会話が上手なタイプではないのか、松田くんとはほとんど話さないまま2週間が過ぎた。

そんな中で、美男美女コンビだと持て囃されていることはもうとっくに気づいていた。

―――そして、橘真冬から向けられる目にも少しずつ気づいていた。


ある日、なんとなく授業がつまらなかった。

松田くんの横顔は、黒板を射抜くような激しくも静かな目で、数学が好きなのかな?と思ってはノートを見た。ラクガキしかなかった。


ああ……圭原春希か。

そう気づくと、なんだかイタズラしたくなってきた。


「ねぇ、この授業つまんなくない?」


シャーペンの背でつついて振り向かせては、松田くんは笑ってない目で「まぁ、つまんないよね」なんて言った。演技が下手くそな人だと思った。


「じゃあ、抜けようよ」

「へ?」


今思うと、滅茶苦茶だったと思う。

自分勝手に振舞って、でも着いてきてくれるのが嬉しかったんだと思う。


春希へのあの目線も、ふゆちゃんのあの目線も、春希の黒板も、全てに気づいていた。


春希のノートには大量の数字が書いてあるのも気づいていた。本当はみんなの前に立ちたくて、必死に数学を勉強してから来ていることを。

そして、惹かれていく秋也を。


そう、全てに気づいていた。

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