笑う男
それからしばらくして、伊崎は風呂に入ってくると言っていなくなった。
どうやら、彼は沙夜を信用しているようだ……とりあえずは。
浴室の扉が閉まり、水音が安定した瞬間──
沙夜の胸がどくりと跳ねた。
(今しかない)
誰も見ていないとはわかっていながら、酔っている演技のまま立ち上がる。
膝が笑うほど、自分で仕込んだ“ふらつき”を忠実に再現しながら、ゆっくり、ゆっくりと廊下へ向かう。
奥の部屋。
さっき伊崎が触れられることを嫌がった、あの扉。
手を伸ばす指先がかすかに震えている。
……恐怖ではない。生きるための緊張だ。
ノブは意外なほど軽く回った。
鍵などかけていない。
「…………」
きい、と小さな音が響き、扉が開く。
中は──拍子抜けするほど“普通”だった。
薄い色のフローリング。壁際には無印っぽい棚。雑巾、ペットボトル洗剤、掃除機の紙パック、コロコロ。
そして、使い古したクイックルワイパー。
(……ただの物置?)
肩から力が抜けそうになる。
もっと薬臭いとか、散らかってるとか……そういうのを覚悟していたのに、逆だ。
むしろ、怪しいくらいに整いすぎている。
床には、ホコリひとつ落ちていない。
棚の並びも、不自然なくらいまっすぐ。
生活感はあるのに、誰も使っていないような奇妙な静けさ。
(……違和感)
沙夜は微かに眉を寄せる。
視線を低くし、棚の陰、掃除機の後ろ、壁の隅、そのすべてを舐めるように観察する。
すると、部屋の中央より少し奥──フローリングに、小さな継ぎ目があるのが目に入った。
一瞬、呼吸が止まる。
(……床下があるの?)
しゃがみ込み、指先でなぞると、つるりとしている。けれど、よく見れば正方形の境界線がうっすら走っている。
生活で踏まれたのではつかない、微妙な色の差があった。
(何か、この下に隠してるわね)
しかも、持ち手が外されている。
本来なら金具があるはずなのに、板の一部だけ色が薄い。かつて、そこに金属があった跡だった。
(間違いない……ここ、開く)
心臓が跳ねる。血が早くなる。脳がざわつき始める。
(何が入ってるの?金?薬?いや……まさか、誰かの死体?違う、それは……)
一気に不吉な想像が立ち上がる。
同時に、沙夜の中の“生き延びるための勘”が警告を鳴らす。
――ここは危ない。
でも、確かめなきゃ帰れない。
スッ……と浴室のほうで水音が変わる。
シャワーが一瞬止まり、何かを取る気配。
(……時間がない)
床下収納の端に爪を立てて、そっと持ち上げようとする。
爪が食い込み、ほんのわずかに段差が浮いた──その時だった。
「沙夜ぁ?……どこ行った?」
伊崎の声が、真横の廊下から聞こえた。
浴室の扉が開き、濡れた足音が……近づいてくる。
(ヤバい……!)
沙夜は咄嗟に立ち上がり、床下収納の蓋を足で隠すように戻す。
棚に手を伸ばし、コロコロをつまみ上げ──
振り返った。
「……あ、ごめん。コロコロ探してた……」
伊崎が立っていた。
髪から滴る水。
バスタオルだけを腰に巻き、笑っているのに、目がぜんぜん笑っていない。
「ふぅん……」
その目が、沙夜の足元と、床を、ゆっくり往復した。
――終わったか。バレたのか。
胸の奥でどくんと心臓が跳ねた。
伊崎は一歩だけ近づいて、低い声で言った。
「……ここ、勝手に入らないでね?」
その声音は柔らかい。
いつもと同じ、低く穏やかな調子。
――なのに、部屋の空気が一瞬で“締まる”のが分かった。
(怒ってる……でも、笑ってる……)
沙夜はすぐにわかった。
これは怒りを隠す笑顔じゃない。むしろ、怒りを“笑顔で押しつぶす”顔だ。
「……ごめん、ちょっと酔っててさ」
沙夜は笑い、わざと身体をふらつかせた。
伊崎の視線が、彼女の手元、足元、そして──床の継ぎ目へ落ちる。
その動きはゆっくりで、一つひとつ確かめるようだった。
「そっか……酔ってるんだ。だから、勝手に見ちゃったんだ?」
「見てないって……掃除道具どこかなって……」
沙夜が“コロコロ”を示すと、伊崎の笑顔の口角が、わずかに上がった。
「へぇ……掃除、好きなんだ?
その声は軽いが、眼差しはまったく軽くない。
(こいつ……絶対にあたしの意図を探ってる)
そのとき、ふわりと鼻をくすぐる、微妙な甘い匂いがした。
線香のような、溶剤のような、嗅ぎ慣れない匂い。
(……これ、さっきまでなかった)
伊崎が浴室から出てきたその瞬間だけ、空気に溶けきらない“薬物の匂い”が混ざっている。
伊崎の目を見る。
赤い──血走っているというより、妙に乾いた赤さ。
(……これ、やってるやつの目じゃん)
そして、沙夜の視線は別の異変に気づいた。
伊崎の左手が、かすかに震えていた。
グラスを持つ右手は安定しているのに、左は小さく痙攣するように震えている。
(……離脱症状?それとも、今さっき吸った?)
胸がどくんと跳ねる。
だが、沙夜はあくまで“酔っただけの女”を演じる。
「ねぇ……伊崎。怒ってる?」
少し舌をもつらせた声で、へらっと笑ってみせる。
伊崎は、目を細めた。
笑顔のまま、低い声で。
「怒ってないよ。怒る理由、ある?」
(あるだろ。めちゃくちゃあるだろ……)
しかし、沙夜は笑うしかない。
酔ったふりのまま、弱い女の演技を続ける。
「ほんとに……ごめんね。あたし、トイレって言って……ふらふらしてたから……」
その瞬間、伊崎の手が沙夜の頬に触れた。
優しい動作だが、触る位置が不自然だった。頬の横、頭蓋のあたり。
「沙夜ちゃん……酔ってるなら、無理しないでよ。危ないよ?」
(……触って、探ってる。震えてるか、緊張してるか見てる)
伊崎は人を信用していない。
だからこそ、こういう細かい仕草で相手の動揺を測る。
沙夜はわざと頬の筋肉をゆるめ、ぼんやりした目を向けた。
「……うん、気をつける。ありがと……」
伊崎の目がわずかに揺れた。
ほんの1ミリ。そこに、焦りのような“別の色”が走る。
(……怪しい。あの床下は、絶対に何かある。頑張ってるけど……隠しきれてない)
数分後。
伊崎は「汗流してくる」と言って、再び浴室へ向かった。
「5分で戻るから、ここで待っててね」
(……5分か。短いけど──)
浴室の扉が閉まり、水音が再び流れる。
(この音量……シャワー全開だ。耳を澄ましたら気づかれる。でも──)
沙夜はゆっくり息を吸い、頭の中で時間を計算する。
(床下を開けるなら、音が重なる瞬間しかない。シャワーが一番強い時……排水音が混ざる3秒間。その間なら……)
胸が強く脈打つ。
次が、最後のチャンスだ。
沙夜は廊下に視線を向けた。
光の漏れる危険な扉が、ただ静かにそこにある。
(開ける。必ず)
そして、すべてを賭けた“3秒”が近づいていた。
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