扉の向こうを見たくて
伊崎の言葉が区切れた瞬間、沙夜はゆっくりと視線を外した。
飲み残しのウイスキーを揺らしながら、何気ない動作に見せかけて、リビング全体をもう一度確認する。
(……ここじゃない。リビングには“匂い”がない)
――匂い。
高岡から聞いたような、“ヤバいもの”を扱う人間が、完全に痕跡を消せるとは思えない。
シンナー系、溶剤の甘ったるい匂い、あるいは妙に乾いた薬品臭。
だがこの部屋には、それがない。
(じゃあ……別の部屋か。閉め切ってる部屋。空気が循環してない場所……)
沙夜は気づかれないように、わざと少し身体を揺らした。軽く酔っているように見せるためだ。
伊崎はその様子に気づいたのか、肩を支えるように手を伸ばす。
「大丈夫?無理しないで飲んでね」
(触らないで。今はまだ崩せない)
沙夜は軽く笑い、手を振って距離を取り返した。
「平気。飲み慣れてるし」
「そうか。それじゃあ……」
伊崎はグラスを置き、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける音、氷を取り出す音が響く。
(──チャンスだ)
沙夜の目が、素早く左右に走る。
クローゼット。廊下の奥。閉まっているドア。
さっきは気づかなかったが、廊下の一番奥の部屋だけ、ドアの下の隙間からほんのわずかに光が漏れている。
(電気つけっぱなし……?それとも機械? 加熱器具?)
胸の奥がざわついた。
高岡の言葉が、脳内でよみがえる。
「伊崎は麻薬をやってる。間違いなく、家にあるはずだ。見つけられたら、写真を撮れ」
(……あの部屋、隠し場所っぽくないけど、むしろ堂々としてる方がバレにくいってことかも)
冷蔵庫が閉まる音。氷がグラスに落ちる音。
……時間がない。
(……どうやって席を立つ?トイレって言えば、あの廊下に出られる。でも、あたしはどの部屋がトイレか分かってるって思われたら怪しいし……)
沙夜は自然に見えるよう、ゆっくりと立ち上がり、ふらついたフリをした。
「……ねえ伊崎。ちょっと、お手洗い借りていい?」
伊崎は振り返り、笑った。
「もちろん。廊下、右側の──」
そこで一瞬だけ、伊崎の目線が廊下の奥 に向いた。
ほんの一瞬だが、確かに。
(……今、見たよね。やっぱり、あそこだ)
沙夜は微笑みながら頷いた。
「ありがと。すぐ戻る」
内心は、心臓が喉の奥で跳ねている。
だが歩幅はあくまでゆっくり、酔ったふりでふらつきながら廊下へ出る。
(絶対に見つける、あんたの“ヤバいもの”。そして──ここから抜ける隙も、逃げ道も、全部確保する)
足音を静かに殺し、沙夜は廊下の奥の、光の漏れる扉に目を向けた。
廊下は思ったよりも静かだった。
リビングで流れていた小さなBGMもここまでは届かず、まるで別世界のように空気が停滞している。
(……音、しない)
光の漏れる扉の方へ歩くたび、足裏から緊張が這い上がる。
沙夜は立ち止まり、そっと指先で髪を耳にかける。
気にしているように見せる“演技”だが、実際は指先が汗ばんでいた。
(クローゼットじゃない。リビングじゃない。匂いが残らないよう、閉め切ってる部屋……)
扉の前に立つと、わずかに温度が違うのが分かった。
……暖かい。まるで、さっきまで人がいたかのように。
(……加熱器具?乾燥機?作業跡……?)
呼吸が浅くなる。
そして、そっと扉に手を伸ばす──その瞬間。
「沙夜ちゃん」
後ろから、声がした。
心臓が跳ねた、というより“落ちた”。
振り返るまでの短い間に、頭の中で十通りの言い訳が走り抜ける。
──トイレと間違えたフリ。
──廊下で酔ってふらついたフリ。
──スマホを落としたフリ。
(どれ……?どれが自然……?)
振り返ると、伊崎がそこに立っていた。
グラスを片手にしているが、氷はまだほとんど溶けていない。
つまり、ほとんど時間は経っていない。
“来た”のだ。わざわざ。
彼は笑っているが、その目はさっきよりずっと静かだった。
「トイレ、こっちじゃないよ?」
柔らかい声の、普通の注意。
しかしその裏に、まったく別の意味が潜んでいた。
(……気づいてる。理由は分からなくても、あたしが“見ようとしてる”って分かってる)
「……あ、ごめん。間違えた」
沙夜は笑って、ふらりと身体を揺らす。……酔ったふりだ。
反射的に、伊崎の腕が伸びた。
「おっと、危ない。大丈夫?」
「あー……ちょっと回ってきたかも」
(触んなよ。けど、避けすぎても怪しいしな──)
バランスを取るフリをしながら、一瞬だけ身体を預ける。それで十分自然になる。
伊崎は優しく支えたが、離すタイミングがごくわずかに遅かった。
(……このタイミングの遅さ。迷ってる? それとも、確かめてる?)
そのまま沙夜を支え、伊崎は首をかしげた。
「ねえ、沙夜ちゃん」
「……なに」
「さっきから、ちょっと探してるみたいに見えるんだけど」
直球に聞いてきた。
しかも、それも優しい声で刺してくる。
(終わった……?いや、まだだ)
「……探すもなにも、トイレ探してただけじゃん」
「そう?」
伊崎は笑う。
それは、柔らかい普段通りの笑み。
だけど──さっきの笑みとも違う。
(これ……“試してる”笑いだ)
「トイレね。ちゃんと案内するよ」
そう言って手首を軽く取られる。
強引ではない。逃げられないほどでもない。
ただ、拒否したら不自然になる……そんな強さだ。
(……これ以上、廊下は見せないってこと?バレバレよ)
伊崎は沙夜の手首を離しながら、ゆっくりと指先で方向を示した。
「こっち。奥は、入らない方がいいよ」
「……なんで?」
問い返した瞬間、伊崎は一拍置いて答えた。
「……片付いてないから」
それは、完璧すぎる言い訳。
誰でも言える、当たり前の言葉。
なのに、不自然なほど滑らかだった。
(片付いてない……?じゃあ、なんで電気つけっぱなしなの?)
沙夜はかすかに笑って、言った。
「そっか。じゃあ入らない」
「うん。約束ね」
微笑む伊崎。その声に、優しさはある。
しかし同時に──ちゃんと「釘」が刺してあった。
そして、沙夜は確信した。
(あの部屋だ。絶対に。まだ見つけてないだけで、あの部屋にある)
伊崎の目が、ほんの少しだけ揺れている。
何を隠しているのか──それはまだ見えない。
だが、その部屋には麻薬の“気配”が確かにあった。
匂いではなく、空気そのものの温度が。
そして沙夜は、もうひとつ気づいていた。
(この人、あたしが疑ってるのに気づいてるのに──止めない。追い返しもしないし、脅しもない。優しく笑って、そのまま続けようとしてる)
それが、一番怖かった。
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