床下の白

 薄い金属の蓋が、重たく鈍い音を立てて持ち上がった。

埃ひとつない床下──いや、違う。

黒いシートが、ぴったりと敷かれている。


「……何これ」


声に出そうになり、慌てて口を噤む。

ただの防湿シート?それとも──何かを隠すためのもの?


 沙夜は息を止め、指先でそっと触れる。

ビニールとは違う、妙に厚い感触。

手袋のようにざらついた繊維が、指に引っかかった。


(これ……下に何かある)


胸の奥で、心臓が高鳴る。

酒を飲んだフリでへらへら笑っていた顔が、自分の中で一気に引き締まる。

酔ってなんかいられない。

“生き延びるためのモード”が、完全に作動している。


床下から漂うのは、土でもカビでもない、

何かが長く置かれていた冷たい空気。


(何か、隠してる。絶対)


 指先で黒いシートの端をつまむ。

ほんの少し浮かせると、中から 薬品のような刺激臭 が微かに立ち昇った。

鼻がツンと痛む。


(ヤバい匂い……。腐敗……? いや、薬……?)


背後から、廊下の方で微かに床が軋む音がした。


伊崎が、戻ってくる……!


 沙夜は咄嗟に黒いシートをめくりかけた手を止め、息を一気に殺した。


3秒。それだけあれば、確認できる。

戻られる前に、覗くしかない。


(今しかない……!)


沙夜はもう一度、黒いシートの端をつまむ。


その下にある“本当の底”へ向かって、ゆっくりと、そっと……めくり上げた。

次の瞬間、沙夜の喉がひゅっと詰まった。


 ――白い粉だ。しかも、一つじゃない。


床下の底には、チャック付きの透明パックがぎっしりと詰められていた。

光を吸ったように沈んだ白。湿った粉。袋の角には黒マジックで数字が書かれている。


(……これ、麻薬だ。完全にヤバいやつだ)


脳の奥がきゅうっと痛む。

心臓が胸の奥で跳ねて、脈が速い。速すぎる。


(証拠……写真、撮らなきゃ……!)


 手が震える。

爪の先まで血が流れすぎて、じんじん熱い。

息を吸うと肺がヒリつき、酒の演技どころではない。


スマホをポケットの奥からそっと抜き取る。

画面の明かりが漏れないよう、胸元で手で覆いながらカメラを起動。


指が汗で滑る。

呼吸が乱れているせいで、胸が小刻みに震えて、ピントが合わない。


(落ち着け……落ち着け……!)


 その瞬間、廊下の床が鳴った。

足音。濡れた足の、ぺた……ぺた……という音。


(戻ってきた……!)


頭の奥が真っ白になる。

脳がブワッと熱くなり、視界の端がぐにゃっと歪んだ。


(まずい……ここで見つかったら……!)


床下の白い粉より、伊崎の顔が目前に迫る想像のほうが恐ろしい。

反射で体が動く。


 シートを慌てて元に戻し、床下の蓋を片足で押しながら、手に持っていたスマホを――


「……え?」


扉が開いた瞬間、沙夜はスマホを落としたフリをした。


 スマホは黒い棚の下へ滑り込む。

沙夜は、よろけるようにしゃがんでそれを拾う。


「うっ……ふふ……酔ってっから……落としちゃった……」


声が震えて、語尾が笑いに崩れる。

演技じゃない。恐怖で勝手に震えてるだけだ。


伊崎が立っている。

髪から滴る水。赤く充血した目。その目は笑っていない。

手はまた、細かく震えている。


 麻薬の匂いが、彼の体からわずかに漂う。

シャワーの蒸気でごまかしきれていない。


「……こんなとこで何してんの?」


……低い声だ。怒っていないような声なのに、喉の奥では刃物みたいに尖っている。


沙夜の心臓が、胸を破って飛び出しそうに脈打つ。


(バレてない……まだ……!)


必死で笑顔を貼り付ける。


「コロコロ……見つけたから……拾ってただけ……あはは……」


 伊崎は無言で近づく。

沙夜の足元、床、そして……さっき開けた床下の位置へ視線を落とす。


一歩ずつ、心臓の音と足音が重なる。


どく……ぺた……どく……ぺた……。


息がうまく吸えない。

頭の奥がざわざわして、音が遠くなっていく。


(来るな……来るな……来るな……)


 伊崎はすぐ目の前まで来て、沙夜の顔を覗きこんだ。

「……酔ってるなら、座っときなよ。転ぶよ?」


優しい声なのに、目が完全に怒っている。

そして、沙夜の肩を軽く触ってきた。

風呂上がりのはずなのに、嫌に冷たい手だ。理由のわからない冷たさで、背骨が震える。


(お願い……殺さないで……)


笑顔を保ったまま、沙夜はゆっくりと頷いた。

「うん……座る……ありがと……」




 伊崎は沙夜の肩を離し、部屋の奥へ歩いていく。


(チャンスはまだある……必ず来るはず)


どくん、どくん、と脈を打つたび、身体が生きている実感を訴えてくる。


絶対に生き延びて、妹のところに帰る。

その一点だけが、沙夜をつなぎとめていた。


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