第10話。伊織と会議
どんな時でも仕事には行かなくてはならない。
自分の抱えた問題が何も解決しないまま、今日もデスクと向き合い。一日頑張るだけだ。いつもの仕事と何も変わりはしない。
はずだった。
「
仕事中に
「話があるならメールで送ってこい」
「いや、緊急事態なんですって」
「どうした?」
いつもと違う小林の様子を見て、手を止めた。
「兼島先輩。最近の立ち回りやばくないですか?」
兼島と話をしたのは随分と前のことに思えた。あの日から兼島の様子が変わったと言えば、そんな気もするが。仕事に熱が入る分には何も言うつもりはなかった。
「さっき聞いた話だと、前よりも兼島先輩に不満を持った人間が増えてるみたいですし」
小林の言っている、最近の兼島について。
以前よりも多くの仕事をこなしている。このままいけば兼島はさらなる上の立場も狙えるだろう。しかし、周りの人間と兼島の働きは、どこか空回りを始めていた。
「だからって、俺達には何も出来ないだろ」
「……実はある人に相談をしたんです。その人は鳴澤先輩なら解決出来ると言ってました」
「誰だ。そんなマヌケなアドバイスをした人間は……」
よく見ると、小林の手に缶ジュースが握られていた。それは以前、自販機の前で立ち話をした女性から奢ってもらったものと同じだ。
「鳴澤先輩。みんなの為を思って、お願いします」
つまり、兼島の働きを止めてほしいということか。おそらく、周りの人間の中で兼島の本気で心配をしている人間は誰もいないのだろう。
「……話はしてみるが、期待はするなよ」
「ありがとうございます!」
自分が兼島に何かした覚えはない。それでも兼島と話をする気になったのは、小林の切実な態度を受け入れたからだ。
小林は失敗はするが不真面目なわけではない。兼島の教育にも耐えた、数少ない後輩だ。ここで無視をするのは先輩としても失格だろう。
「後で兼島先輩を会議室に呼び出しておいてくれ」
「それ、大丈夫なんですか……?」
「心配するな。ちょうどこっちで兼島先輩と話をする仕事があったからな。ただ打ち合わせをするだけだ」
本当は別に担当がいたが、そいつも兼島とは上手くやれていない。出来れば代わって欲しいと頼まれていたが、タイミングがよかった。
「鳴澤先輩。ご武運を」
「いいから。仕事に戻れ」
小林が立ち去ったところで、兼島と話をする為の準備を始めることにした。兼島と顔を合わせるのはあくまでも仕事の話をする為だ。そっちも手を抜くことは許されない。
「時間通りだな」
腕時計を確認すると、小林に伝言を頼んでいた時間よりも少し過ぎている。人を待たせるなんて社会人のやることではないが、これも兼島を逃がさない為には仕方がない。
会議室の扉を開けると、既に兼島が席に着いていた。そこでパソコンを操作していたが、扉の開く音が聞こえたのか、こちらに顔は向けずに反応を示した。
「いつまで待たせるつもり?それに時間に遅れるなんて社会人としての自覚が……」
「兼島先輩」
声をかけると、兼島が手を止めた。
「鳴澤君。何か用?今から仕事の打ち合わせをするから、用件があるなら手短にお願い」
「打ち合わせの相手は俺ですよ」
「何を言って……」
ようやく兼島が顔をこちらに向けた。
抱えた荷物を目にすれば、冗談を言っているわけではないと兼島も理解するはずだ。担当が変わることは珍しくもなく、兼島は受け入れるしかない。
「そう。誘い込まれたってことか」
兼島を会議室に監禁するつもりはない。もし、兼島が本気になればこちらを押しのけて会議室から出て行くことも可能だった。
「座ったらどう?」
ここで兼島が仕事を投げ出す可能性はほとんど無いと考えてはいた。それでも警戒をしているのは少し前の出来事を気にしていたからだ。
兼島と向かい合って座ることにした。テーブルの上に持ってきた資料やらパソコンを置くが、その間に兼島は手を動かして作業を再開していた。
本来、ここで兼島と仕事の打ち合わせをするはずだった人間から引き継いだ仕事内容。ある程度は固まっていたが、まだ直すべきところはある。
「兼島先輩。最近、調子いいみたいですね」
「口じゃなくて手を動かしたら?」
自分からする世間話というのは苦手だ。それに仕事中ということもあって、兼島が気を張っているのが感じ取れる。
「でも、俺は心配なんですよ」
だから、強引に兼島を話に引き込むことにした。
「心配?鳴澤君がどうして私の心配をするの?」
「ああ、違います。俺が心配しているのは仕事のことです」
兼島個人の心配をしているわけじゃない。兼島の抱えている仕事はすべて滞りなくおこなわれている。現状で兼島の仕事に口を出せる人間はいないだろう。
しかし、周りの人間は兼島の働きをよく思っていない。中には兼島に仕事を奪われと考えるような人間もいるだろう。
それだけなら、余計な心配で済むが。兼島の行動によって引き起こされた事件が頭をよぎってしまう。
兼島の態度に腹を立てた社員の一人が暴れて、傷害事件が発生した。その時から、似たような事件がもう一度起きる予感が自分にはあった。
「今回は失敗しない」
自分が何を言いたいのか兼島には伝わっている。
「世の中、理不尽なことばかりです。兼島先輩が思ってるほど、世界は優しくないと思いますよ」
「だったら、どうしろって言うの?」
現状を打開するような代用案を思いついたわけじゃない。今さら兼島が手を抜くような真似は許されないだろう。兼島は周りからの評価を高め過ぎている。それを崩すことは、兼島の立場を危うくするだけではなく、会社での居場所すら奪う可能性もあった。
「俺は……兼島先輩ならもっと上手くやれると思ってました」
一度失敗を経験した兼島がまた同じ失敗をするなんて考えていなかった。なのに、兼島は同じことを繰り返そうとしていた。
「それは……」
兼島は言いずらそうな顔をしている。
自分でも気づいているのか。
「私は鳴澤君が思ってるほど、賢い人間じゃない」
それは兼島が逃げる為に口にした言葉だと思った。きっと、その言葉を周りの人間に向ければ、馬鹿にされていると感じる人間もいるだろう。
「だったら、俺達は大馬鹿なんですか?」
「そんなこと言ってないでしょ……」
「仕事出来る先輩が馬鹿だって言うなら、俺達はもっと馬鹿だってことですよね?」
「……っ!」
兼島が椅子から立ち上がった。
「兼島先輩。自分を下げるほど周りの人間がどう思うか考えたことありますか?」
言葉が届かないのか、兼島は歩き出した。そのままこっち側まで回り込んで来ると、兼島に肩を押さえつけられた。
「やめて」
「何をやめてるんですか?」
兼島はうつむいて、顔がよく見えない。
「そうやって、誰かに押し付けられて。やりたくもない悪者を演じている鳴澤君なんて見たくなかった」
「俺は自分の意思で……」
本当にそうだろうか。
兼島を説得することは後輩や周りの人間に頼られ、遠回しに上司からも押し付けられた結果だ。そこに自分の意思があったのか、疑うことすらしなかった。
「鳴澤君が傷つくのなんて見たくない」
「……っ」
兼島が顔を上げた時、その瞳から涙が溢れているのが目に入った。顔を真っ赤にして、必死に泣き声を抑えている。いつもの強気な兼島の面影すら忘れるほど強烈な光景に戸惑ってしまう。
「兼島先輩、俺は……」
「やめて!」
余計な言葉を口にすることを兼島は嫌がっている。だからこそ、兼島の行動には理由があったはずだ。
兼島の体が大きく動き、次の瞬間には視界いっぱいに兼島の顔があった。自らの唇が味わっている一つの感覚。脳裏に焼き付くようなソレを忘れることは絶対にないのだろう。
「鳴澤君。好きよ」
その言葉と共に記憶に深く刻み込まれたのだから。
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