第9話。伊織と前進

 三人での食事が終わった後、外はすっかり暗くなっており千冬ちふゆを駅まで車で送ることにした。瑠夏るかは後片付けをするからと、一緒には来なかった。


 瑠夏は千冬のことを誤解していたと言っていたが、誤解が解けた今でも二人の間には見えない壁があるように思えてしまった。


 ただ、その壁を作っているのは、瑠夏ではなく千冬の方だ。千冬が抱えているものは瑠夏と同じように簡単に触れてはいけない気がした。


伊織いおりさん」


 車の助手席に座っている千冬が声をかけてきた。


「どうした?」


「前に会った時、色々と言ってごめんなさい」


 あの時は自分も冷静にいられなかった。千冬の言っていたことが間違っていたとは思わないし、そのことを責めるつもりはなかった。


「千冬は瑠夏のことが大切なんだろ」


「……違います」


 否定。それがどんな意味を持っているのか。


「兄があんな風になったのは私に原因があります」


「どういうことだ?」


「……」


 千冬は言葉にすることを迷っていた。それを千冬が口にしてしまえば、一部であっても瑠夏の過去を知ることになるだろう。


「子供の頃。私は兄ではなく。姉が欲しかったんです」


「姉……」


 放たれた言葉が結びついてしまう。


 瑠夏の姿は千冬の求めた理想の姉ではないのか。


「兄はとても優しい人でした。私のわがままを受け入れ、姉として振舞ってくれた。両親も子供のやることだからと、気にもしていませんでした」


「いつから周りの認識が変わった?」


「……昔の兄は私とそれほど体格に差がありませんでした。だから、私の持っていた服を兄も着ることが出来ました」


 もし、瑠夏が千冬の姉を完全に演じたとしたら。


「兄が私の服を着ているところを父に見られました。私は兄に自分の服を着せることに抵抗はありませんでしたけど、父はそれを見るなり兄の顔を殴ったんです」


「いきなり殴ったのか……」


 親が子供に暴力をふるうことが完全に悪だと決めつけることは自分には出来ない。それは自分が子供の頃に経験があるからだ。痛みを伴った方が、自分が間違ったことをしたと自覚が出来る。


 しかし、それが間違いでなかった時。暴力はただ相手を傷つける自分勝手な行為となる。そんなことを考えた時、やはり自分は出来ることなら、何事も話し合いで解決したいと思ってしまった。


「父は兄を殴った後、男のクセになんて格好をしているんだ。と、そんな罵声を浴びせました。私は父の怒った姿が恐ろしくて、兄を庇うことが出来ませんでした」


 千冬はずっと後悔していたのか。瑠夏よりも幼い千冬が親に逆らうのは難しかったのだろう。


「瑠夏は黙っていたのか?」


「いいえ。兄は父に言い返しました」


 千冬は少しの間、口を閉じると。


「ボクは男に生まれたいわけじゃなかった」


 親からの強い人格否定。心の弱い人間なら、自我すらも押し込められてしまう。それを乗り越えて瑠夏は父親と正面からぶつかることを選んだのか。


「しかし、気になることがあるんだが。どうして、父親はいきなり瑠夏を殴ったりしたんだ?」


「……親として何かを察したのかもしれません」


 千冬の言いたいことはわかる。親と子はただ血が繋がっているのとは違う。子供は隠し事をしても親に見抜かれる。それは些細な変化に気づいているだけだが、子供からすれば心を読み取られた気分になるだろう。


 父親には瑠夏の考え方を否定するだけの理由があった。それは父親の理想から、瑠夏の行動が大きく外れてしまったからだろう。


 例え、それが真っ直ぐとした道であっても、受け入れられない人間からすれば曲がりくねっているようにも見える。


 お互いに目指すべき道が違っているのなら、本当の理解なんて得られるわけがなった。




「ただいま」


 千冬を駅まで送り届けてから、自宅に帰ってきた。


 結局、千冬から話を聞いた後も瑠夏と千冬の二人に原因があるとは思わなかった。だからこそ、頭の中で解消の出来ないモヤモヤが大きくなってしまう。


「おかえりなさい」


 靴を脱いでいると、瑠夏が姿を現した。


「千冬は何か言ってましたか?」


 千冬から大事な話をされた事くらいわかる。ただ、瑠夏にとっても重要な過去だ。ここで千冬から聞いたことを瑠夏に話すべきか迷ってしまった。


 しかし、瑠夏に隠し事をして、何も知らないふりをして、自分だけが元の生活に戻ったところで。瑠夏と千冬は苦しみ続けるのだろう。


「……千冬から昔の話を聞いた」


 隠さず言葉にしたのは、それが瑠夏に対する最大限の誠意だと考えたからだ。もし、これで瑠夏に嫌われるようなら、その程度の関係だと思った。


「そうですか」


 瑠夏はリビングの方に歩き出した。


 後を追ってリビングに行くと、瑠夏はソファーに腰を下ろしていた。それを確認した時、安堵しながらも、瑠夏と話を続けることを決めた。


 瑠夏の隣に座るようにソファーに腰を下ろした。


「おじさん。ボク、髪を伸ばそうと思います」


 出会った時よりも、僅かに瑠夏の髪が伸びている気はしたが。それが長く伸ばす為だとは思ってはいなかった。


「ただ、その……」


「どうした?」


「気持ち悪くないですか?」


 瑠夏の怯えた顔。否定されることを心の底から恐れているのか。それでも瑠夏が言葉を口にしたのは、より強い否定を受けたくないからだろう。


 過去を話を聞いて、それが父親との因縁によって瑠夏に植え付けられたトラウマであると気づいてしまった。


 ただ、自分の答えは初めから決まっていた。


「……ずっと、瑠夏の髪には違和感があった」


「違和感ですか?」


「初めて瑠夏を見た時、綺麗に髪が伸びていたからな。今の短い髪だと瑠夏の魅力が減っている気がする」


 手を動かして、瑠夏の髪に触れる。髪の先に指を動かすが、その先はバッサリと切られている。多少は整えられているが、痛みを刻むように、跡が残されていた。


「瑠夏……?」


 突然、瑠夏に腕を掴まれた。そのまま手を動かされ、瑠夏の頬に自然と触れるような位置になった。


「ボクのよさって、髪だけですか?」


「……っ」


 意識して瑠夏に顔に触れたのは、これが初めてだった。指先に伝わる感触。瑠夏の肌は柔らかく、わずかに熱を感じた。


 見た目以上と言うべきか。ずっと触っていたとすら思えるが、あまり手で顔に触る続けるのはよくないとも聞く。すぐに手を離したのは、嫌だからというわけではない。


「瑠夏は肌の手入れをしているのか?」


「そうですね」


 瑠夏が手入れをしているところを一度も見たことがない。見えないところで、やっているのだろうか。


「大変じゃないか?」


「おじさんだって、ヒゲを剃ってますよね?」


「いや、それとはまた違うだろ」


 昔、肌のケアの話を兼島かねしまから聞かされたことがあったが、使っている物の違いがわからなかった。わざわざケアをしなくとも平気な人間もいるらしいが、そんな人間を兼島は羨ましがっていた。


「もし、必要な物があれば買ってやるぞ」


「それは……」


「瑠夏には必要なんだろ。なら、遠慮しなくていい。我慢をさせるのは俺も気分が良くないからな」


 瑠夏には十分に働いてもらっている。その対価を払うだけのことだ。


「今度、買い物に行った時にお願いします」


「わかった。そうだな……次の休みは……」


 仕事が終わった後だとあまり時間が取れず、ゆっくり買い物も出来ない。それなら休日を使って出かけた方が、時間を気にしなくていいだろう。


「おじさん」


 瑠夏が手を握ってきた。


「ボクはおじさんのことを信じたいです」


「それは……」


 自分の方に瑠夏の存在が寄りかかっている気がした。両親を信じられず、妹にも頼れない。そんな瑠夏が頼る人間が他にはいない。


「でも、ボクは否定されることが怖いです……」


 どれだけ強がっても。瑠夏は臆病な人間だ。


「どんな言葉を向けられても、ボクは人を信じられません……」


 瑠夏の不安。それを少しでも、消えるならと瑠夏の体を抱きしめた。瑠夏は手で押して離れようとしたが、その力は弱々しいものだった。


 言葉では瑠夏を縛れない。このまま自分が曖昧な態度を続けていたら、瑠夏は目の前から消えてしまうような気がした。


「瑠夏」


 手を動かして、瑠夏の髪に触れた。


「俺は……お前の綺麗な髪が好きだった」


 言葉が意味が無いなら、行動で伝えるしかない。


 瑠夏が許すかぎり、瑠夏の頭を撫でた。優しく痛みを与えないように。瑠夏の不安が少しでも薄れるように。


 自分にはそれくらいしか出来なかった。


「嬉しいです……」


 二人だけの時間は。


 ゆっくりと流れていった。

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