第9章 第3場 港にて

 インターホンのボタンを押すと、家の中からスリッパを鳴らす音が聞こえてきた。僕と千歳、それから笹野の頭上にある玄関ポーチの明かりが灯り、磨り硝子に縦に長い人影が映った。戸が開かれた瞬間、

「兄ちゃん先に風呂に入るから、なーはゆっくりご飯を食べろ……」

 ネモフィラ柄のエプロン姿の吾妻が、台詞の途中で言葉を失った。

「よう。腹は減ってるか? 兄ちゃん」

 僕は目を丸くして突っ立ている吾妻にビニール袋を掲げて見せた。

「お邪魔します、お兄ちゃん」

 僕の後ろで、笹野が礼儀正しく頭を下げた。

「一緒にお菓子を食べよう、シズオお兄ちゃん」

 最後に千歳が、僕の肩越しから顔を突き出した。

「お前ら……」

 吾妻が声を漏らした。大きく見開かれたままの目が動揺で震えている。

「わざわざ遠回りして、吾妻のバイト先のコンビニから買ってきたんだ。売り上げに貢献したんだから、遠慮なく部屋に上がらせてもらうぜ、兄ちゃん」

 僕は吾妻の返事を聞かないうちに靴を脱ぎ、上がり框に乗った。それから吾妻にビニール袋を押しつけた。彼は困惑した表情でそれを受け取った。

 僕は吾妻よりも先に、勝手知ったる彼の部屋に向かった。笹野も吾妻を気にせず、僕の後ろをついてくる。千歳が、急にごめんね、と言いながら最後に靴を脱いだ。

 てっきり玄関先で追い返されるものだと思っていた僕は、こんなにあっさり吾妻の部屋に入れることに拍子抜けしていた。

「七瀬ちゃんは今日も塾に行ってるのか。ずいぶんと世話焼きだな、兄ちゃん」

「次にそれ言ったら、ぶん殴るからな。それから一つ言っておくが、コンビニのアルバイトに売上の成績はないぞ」

 最後に部屋に入った吾妻が、機嫌悪そうに低い声で言った。

「でもバイト先が潰れたら困るだろう。近くに他社のコンビニもできたことだし、これから客引き競争になっていくぞ」

 言いながら僕は、部屋の主の代わりに、クッションを笹野に手渡し、自分は床の上に腰を下ろした。

「おい、ケータ……」

 吾妻は何か言いたい様子で、僕を見下ろしていた。僕は何も気付いていないふりをして、そんな吾妻を無視することにした。

 突っ立っている吾妻の手からビニール袋を奪うと、中からポテトチップスを取り出して封を開け、それを床の上に置いた。次にチョコチップクッキーの箱を開けた。それからアーモンドチョコレートの箱を開け、最後にせんべいの袋を開けた。

「菓子を食ったら港に行くぞ。最後の練習だ」

 僕は早速ポテトチップスを一枚掴むと、口の中に放り込んだ。

「わざわざ来てあげたのよ。早く食べなさいよ」

 笹野がアーモンドチョコレートに手を伸ばした。

「大きなお世話だ……」

 立ったままの吾妻が、僕と笹野を交互に見つめた。

「携帯の電源、切ってんじゃねーよ。一人で勝手に諦めるなんて、オレは絶対に許さないからな。まあ、そのおかげで、七瀬ちゃんに電話を掛ける口実ができたのは、オレ的には役得だったがな」

「いつの間に、七瀬の携帯の番号を手に入れたんだ?」

 吾妻が丸めた目を瞬時に細めた。

「さあ。いつだろうな」

「七瀬には手を出すんじゃねえぞ……」

 僕は個包装になっているせんべいの封を開けると、吾妻に一枚差し出した。が、吾妻は手を動かさなかった。

「おら、食えよ!」

 僕はもう一度、吾妻にせんべいを押しつけた。吾妻はようやく手を上げ、僕が突き出していたそれを掴んだ。

「前にも言っただろう。俺は甘い方が好きだって」

 吾妻は手にせんべいを持ったままで、それを口に運ばなかった。

「似合わないわよ」

 笹野がつっけんどんに言う。

「甘いのもあるよ」と、千歳がチョコレートの箱を吾妻の方に押した。

「オレはしょっぱい方が好きなんだ」

「だからケータは、頭の回転が遅いんじゃないのか?」

 吾妻が嫌味ったらしく言った。

「どういう意味だ、こら」

 思わず床から尻が浮いた。

「糖分が足りてないってことでしょう」

 笹野が今度はチョコチップクッキーを掴んだ。

「そういや、千歳も甘いものが好きだったな……」

 もしかしてあながち間違っていないのではないか、と思いながらアーモンドチョコレートに手を伸ばす。

「甘いものを食ったからといって、頭がよくなるわけじゃねーからな、単純バカ」

 吾妻がようやくせんべいに噛り付いた。

「そーよ。集中力が高まる状態で勉強をするから効果があるわけで、甘いものを摂取するだけでは全く意味がないのよ」

 笹野が呆れたように肩を竦めた。

「なんだよ。二人、息ピッタリじゃないか。これなら明日も安心だな、ロミオ様にジュリエット嬢」

 僕は指の腹についた塩を舐めながら言った。

 二人が同時に口を開いたのは言うまでもない。



 七瀬ちゃんが塾から帰って来ると、僕たちは自転車に乗って港まで移動した。

「もう夏が始まるっていうのに、夜はまだ肌寒いな」

 僕は風で乱れる髪を手で掻き分けながら言った。港へ近づくにつれ、風が少しずつ強くなっている。

 港は駐車場から離れると、照明の数が減るせいで一気に薄暗くなった。時間が時間なだけに、誰の姿もない。

「寒いくらいだな」と吾妻。

「風が強いね」と千歳が前髪を手で抑えた。

「これくらい平気よ」と笹野が強がる。彼女のスカートの裾がはためき、音を立てていた。

「風邪をひくのもバカらしいから、集中して一回で決めるぞ」

 僕の言葉に、三人が深く頷いた。

 僕の注文どおり、練習はすぐに終わった。完全に本番さながらとはいかないが、吾妻と笹野の掛け合いや動作の間、互いのリアクションは確認できただろう。

「何も心配することはないな」

 僕はホッと胸を撫で下ろした。正直なところ、吾妻と笹野の息が合わないのではないかと心配していた。相方が千歳なら心配することもなかっただろうが、こればかりは仕方ない。このリスクは、千歳と笹野のどちらをジュリエットに抜擢するかを天秤にかけていたときから覚悟していたものだ。

「……本当に、俺が舞台に立ってもいいのか?」

 吾妻が係船柱に腰を下ろしながら訊いた。

「当たり前だろう。迷ってるんじゃねえよ」

 僕は吾妻を叱咤するよう、強い口調で言い返した。

「ロミオを演じられるのはシズオだけだよ」

 千歳が吾妻の背中に手を当てながら呟いた。

「でも……」

 千歳のフォローを受けても尚、納得していない様子の吾妻が不安そうに声を漏らす。

「知らないわけじゃないんだろう。俺がネットで色々言われていることを……」

 吾妻が組んだ手に額を当てた。

「何が『ロミオ過ぎる高校生くん、ママ活をして金を稼いでいる』だ。田舎に対する解像度が低すぎるよな。教師ですら、誰にもバレずにデートができない超ローカルコミュニティだぞ。そんな嘘を拡散している奴らは、どうせこの町の人間じゃねえから気にするな。それに『ロミオ過ぎる高校生』っていうキャッチコピーも、オレ的にはナンセンスだな」

「ケイタの言う通りだよ。最近、何でも『過ぎる』って言っとけば問題ない、みたいな風潮があるよね。僕もいまいちだと思うなあ……」

 千歳がとぼけるように、僕の話に調子を合わせた。

 吾妻の噂話には、尾ひれどころか羽がついていた。「ママ活をしている」を始め、「中学時代はヤンキーだった」だの「未成年なのに飲酒している」だの「万引き常習犯」だの、幼稚な妄想が垂れ流されていた。

「ずいぶん、らしくないことを言うのね」

 笹野が容赦なくぴしゃりと言った。吾妻は何も言い返さず、いじけたように表情を歪めた。

「顔も名前も隠しているような奴らが投げてくる言葉なんて、受け取る必要ないわよ。放っておきなさいよ。クラスの人たちだって、誰も信じていないわよ。そうよね、千歳?」

 笹野が千歳に問いかけた。

「もちろんだよ! シズオのことを知っている人たちは、誰もそんな話を信じてないよ」

 千歳が頷きながら答えた。

「俺は何を言われたっていいんだよ。でもこれがエスカレートして、母さんや七瀬が何か言われるようになるんじゃないかって思ったら……」

 吾妻が背中を震わせた。

「……それなら、誘導するしかないよな」

 僕の言葉に、吾妻が顔を上げた。呆然とした表情が僕を見つめる。

「『演劇部の部長は、高一のときに暴力事件を起こしている』とか『高校受験でカンニングして合格した』とか、そんなところでどうだ?」

「どうだって、どういう意味だ?」

 困惑した表情を浮かべる吾妻がぼそりと呟いた。

「先手を打って、他人のふりをして、自分でネットに書き込むんだ。そうすれば、七瀬ちゃんたちに火の粉が飛ぶ可能性を少しでも下げられるだろう」

「……ケータは! ケータは、関係ないだろう……」

 吾妻が声を荒らげた。

「オレは三年前、悪魔に魂を売り損ねているんだ。いまさら大事にするものでもない。お前と一緒に、地獄に落ちてやるよ」

 吾妻が唇を噛んだ。

「オレは、吾妻を舞台に上げるためなら、それくらいの覚悟はできている」

 吾妻はきっと知らない。誰かに後ろ指を差されることよりも、忘れられることの方が、ずっと虚しいことを。

「ネットの書き込みのことは大丈夫だから、余計なことはするなよ」

 吾妻が溜め息を混ぜながら言った。

 風が吹く。その度に吾妻が前髪を掻き上げる。

 僕たちが無口な間、頭上に散らばっている星々が語り合っていた。琴の音色に寄り添いながら、白鳥と鷲が羽繕っている。

 ああ、あの日の夜も、こんな空だった。

「……なあ。三人は将来のことをどれくらい考えているんだ?」

 僕の唐突な問いかけに、三人が揃って目を丸くした。

「急に何よ」

 驚いたのか、笹野が咳き込んだ。

「センチメンタルかよ」

 吾妻は眉尻を上げた。

「笹野は大体わかるけど、吾妻はどうなんだ?」

 僕は吾妻に詰め寄った。

「なんでケータは、笹野の話を知ってるんだよ?」

 吾妻は話を逸らそうとしているのだろう。話の矛先を向けられた笹野が、焦ったように、僕に目線を送ってくる。

「なんだ、笹野。吾妻には話していないのか。ロミオ様と、もっと打ち解けておけよなあ……」

 昼休みを部室で過ごすようになったとはいえ、僕たちはまだまだ互いのことを深く知らない。

「それなら僕から」

 千歳が手を上げた。僕たちは驚いて千歳に顔を向けた。千歳は、僕らの反応を気にすることなく話し始めた。

「僕は大学に入学したら演劇サークルに入るよ。大学でも演劇を続ける。それから大学を卒業したら、東京のIT会社に就職したい。いずれは父の会社を継ぐことになると思うけど、一度は自分の力で社会から必要とされてみたいから、父とは縁のない企業で働いてみたいと思ってる」

 現実的過ぎて夢がないかもしれないけれど、と千歳が苦笑を浮かべた。

「さすがヤスだな」

 吾妻が誰よりも先に口に出した。

「堅実的だっていいじゃない」

 笹野が小さく頷いた。そうかな、と千歳が照れた様子で微笑む。

「次は吾妻の番だぞ」

 僕の言葉に、吾妻が怪訝な表情を浮かべた。千歳が先に語ってしまった以上、逃げ道はないだろう。

 吾妻は舌打ちを鳴らしてから話し始めた。

「俺は市役所に就職して、七瀬が高校を卒業したら家を出て一人暮らしをしようと思ってた。数週間前までは……」

 そこで一度口を休め、

「だけど今は、東京の大学に行って、金が貯まったら海外旅行をしたいと思ってる」

 俯きながら言った。

「次は笹野の番だぞ」

 僕が言うと、吾妻と千歳が笹野に視線を送った。笹野は目を泳がせてから口を開いた。

「私も東京の大学に行って、お金を貯めて、ニューヨークにいる友達に会いに行くわ」

「パクるんじゃねえよ」

 吾妻が間髪入れずに言った。

「別にパクってないわよ! そうよね、葉山!?」

 眉を寄せた笹野が、僕に助けを求めた。

「確かに笹野はそんなことを言っていたが……。だけど吾妻も笹野ももっと欲張れよ! 吾妻、お前、芸能界はどうするんだ? 笹野、海外に行くだけなら金があればいつでもできるだろう!」

 思わず大きな声が出た。吾妻も笹野も目を震わせていた。吾妻が唇を嚙んでから口を開いた。

「俺は芸能界に入って、金を稼いで、母さんと姉ちゃんと七瀬に美味しいものをいっぱい食わせて、海外旅行にもたくさん行って、欲しいものは全部手に入れてやる」

 吾妻が髪を掻き上げながら言った。それから吾妻は、笹野を挑戦的に睨んだ。笹野も勝気に睨み返した。

「私は国際線のCAになるわ。もちろんニューヨークにいる友達にも会いに行くけれど、世界中をバンバン飛び回ってやる。それと、あなたが乗る海外行きの飛行機のCAは私よ」

 笹野が吾妻を指差した。スカートの裾が、彼女の羽のように踊った。

「それなら機内食かドリンクサービスで、俺がオーダーしなかったものを渡せよな。そしたら笹野だって気づいてやるよ」

 化粧されたら気づかねえだろうからさ、と吾妻が笑った。笹野が目を丸くして驚いている。それからハッとしたように瞬きを繰り返した後、

「……こんな台詞が私の口から出てくるのは、葉山のせいよ」

 笹野が今度は僕を指差した。急なことで返す言葉を失っていると、

「私は明日、ジュリエットを演じる女よ。恥をかく覚悟は、もうできているわ」

 笹野が肩で息をした。

 はは、と思わず声が零れた。前言撤回だ。笹野がこんな風に、僕たちに心を許してくれるようになるなんて。

 千歳が嬉しそうな表情を浮かべている。

「俺の人生が狂ったのもお前のせいだぞ、ケータ」

 今度は吾妻が僕を睨んだ。

「お前さえいなければ、俺は大学生になろうとは思わなかったし、ましてや東京の大学に行こうなんて思わなかった。そして何より、芸能界に入ろうなんてバカなことを考えることもなかった。地道に働いて、贅沢じゃないけど普通の生活に幸せを感じて、そうやって生きていくはずだったのに、全部、全部、お前のせいだ」

 吾妻が叫んだ。笹野が珍しく吾妻に賛同しているのか、何度も深く頷いている。

「それなら僕が冗談を言ったり、遠慮なくはしゃげるようになったのも、ケイタのせいかな」

 千歳が満面の笑顔を向けた。

「なんだよ、お前ら……。ここぞとばかりに、よってたかって……」

 こんなつもりじゃなかったんだけどな、と髪を掻き上げる。本当にこいつらは、一筋縄ではいかない連中だ。

「……ちょっと待てよ。吾妻が本気で芸能界に入るつもりってことは、家にファンの子が押しかけてきたりする可能性があるってことか?」

 はっとして声がひっくり返った。

「何かトラブルに巻き込まれたりしねえかな……」

 顎に手を当てて考えていると、

「あなたたち、本当にルームシェアをする気なの?」

 笹野が怪訝な目つきを向けた。

「いや、オレはあんまり乗り気じゃねえんだけど……」

 吾妻をちらりと見る。

「背に腹は代えられねえからな」

 吾妻がぶっきらぼうに答えた。

「金銭面の問題なら、大学の寮とか育英会が運営する寮とかでもいいんじゃないの?」

 笹野が訊ねながら首を傾げた。

「俺に共同生活ができると思っているのか?」

 吾妻が即答した。

「どうして偉そうなのよ」

 笹野が呆れたように肩を竦めた。

「葉山は共同生活に向いてそうじゃない?」

 笹野が今度は僕を見た。

「ああ。オレは誰かさんと違って、協調性もコミュニケーション能力も高いからな」

 僕の言葉を聞いているのかいないのか、吾妻は澄ました顔で港を眺めていた。

「でも本当にルームシェアをするのなら、今後のことも考えてから決めた方がいいわよ。親友同士でルームシェアをしたら縁が切れたっていう話、よく聞くじゃない」

「逆だ、逆。ケータとはすでに好感度がお互いに最底辺の状態だろう。これ以上、悪くなることがないんだから、互いに気を遣わずに生活ができて、むしろ快適だろう」

「いや、気は遣えよ」

 吾妻の意見に文句が溢れた。笹野の言う通り、吾妻との共同生活は正直不安しかない。

「相性診断をしよう!」

 千歳が手を叩いた。突然の提案に、僕たちが呆気に取られているのをいいことに、千歳が勝手に診断を始めた。

「それでは、第一問。風呂は先に入りたい派? 後から入りたい派?」

 千歳の投げかけに「先」と僕が、「後」と吾妻が答えた。急かされるのは嫌いなんだ、と吾妻が言った。

「確かに吾妻は長風呂だからね」と千歳が納得した様子だ。

「それでは続いて、第二問! じゃじゃん! ズバリ、虫は平気?」

 千歳が効果音を口で言った。

「絶対に無理!」

 吾妻が目を大きく見開いて、胸の前で手を交差させた。

「オレは平気だぞ」

 僕が答えると、

「ちなみに、東京だと家の中によく出没するアレも大丈夫?」

 千歳が訊ねた。

「所詮、虫だろう。問題なし」

「ケイタがいれば安心だね」

 千歳がうん、うん、と頷いている。

「そもそもこの町じゃ、都市伝説みたいなもんだよな。笹野も見たことないだろう?」

「ええ。一度もないわ」

 笹野が首を横に振った。

「こんな大口叩いておいて、いざ出たときに退治できなかったら許さないからな」

 吾妻が鼻を鳴らした。

「第三問! 目玉焼きには?」

「醤油」と僕が答えると同時に「塩胡椒」と吾妻が声を被せてきた。

「ちなみに僕は、ソースをかけることが多いかな。梅ちゃんは?」

「私はケチャップ」

「ケチャップって初めて聞いた」

 千歳が驚いた声を上げた。

「日本人なら醤油一択だろう!」

 僕の意見に、

「いいや、ケータは何も分かってない!」

 吾妻が食い下がってきた。

「それで、診断結果はどうなの?」

 僕ら二人をそっちのけに、笹野が千歳に訊ねると、

「まあ、互いの欠点を補えているわけだし、相性はいいんじゃないかな」

 千歳が無責任に、けろりと言った。

「それじゃあ最後に、部長の夢を聞かせてもらおうかな」

 千歳が言うと、吾妻と笹野も僕を見た。

 海は凪いでいた。ときどきいたずらに音をたてることはあっても穏やかだった。

「オレは東京の大学に行く。バスケが一部リーグの大学に行って、もう一度バスケをやってやる」

 手垢がたっぷりついてみっともないはずなのに、それは頭上に広がる星の一つのように眩しく光っている。

「オレは演劇部に入ってよかったと思ってる。それは吾妻がいて、笹野がいて、千歳がいて、白鷹に出会ったからだ。そして舞鶴さんと、歩も……。正直な気持ちを言うと、ずっと後悔していたんだ。バスケ部に入らなかったことを……」

 波の音が聞こえる。その音は耳に心地よく、ずっと聞いていたいと願ってしまう音色だった。

「本当は、高校生になってもバスケを続けたかった。身長が低くても、体力や技術なら他の誰にも負けない自信があった。だけど亀工の監督は、身長が百七十五センチ以下の選手は試合に出さないという話で有名だった。どんなに優れた技術を持った選手でも、身長が低ければスカウトをしない。それは噂ではなくて、実際にオレとエースの三瀬には推薦がこなかった」

 僕は、今をあの日と重ねていた。三瀬と喧嘩をした日、空に星が瞬くまで一人、港に残った。

「オレが通っていた中学のバスケ部は、地区大会での優勝は当たり前のチームだった。県大会も、蔵王中学校以外は敵にならないほど圧倒的な実力があった。その蔵王中は全国レベルのチームだった。だからチームで掲げていた目標は、ライバルである蔵王中を県大会で倒し、東北大会に駒を進めることだった。オレと同じチームに三瀬という同級生がいた。三瀬は間違いなくチームの要で、エースで、キャプテンだった。だけど亀工の監督は、三瀬とオレには声を掛けず、他のレギュラーメンバーに声を掛けた。声を掛けられたヤツらは、みんな身長が百七十五センチ以上だった。三瀬と比べたら技術は全然のヤツらだ。それでも強豪校のレギュラーという代名詞を持つ百七十五センチ以上の彼らは、指導者から見れば十分魅力的な素材だったんだろうな。そいつらは推薦入試で高校受験を済ませることができると、喜んで亀工に進学した」

 きっと、明日は快晴だろう。雲のない夜空は澄んでいて、星が一段と綺麗だ。

「三瀬は、亀工以外の他の高校からは推薦がきていたんだ。それも一校や二校ではなかったし、県外の高校もあった。だけどそれらを全て断って、一般入試で亀工を受験した。高校生になってから身長が百七十五センチを越える可能性が約束されているわけでもなく、監督の意志が変わる可能性が約束されているわけでもなく、それでも自分の力を信じて亀工に進学した」

 目の前で羽を広げている白鳥。この空を、ロミオとジュリエットも眺めたのだろうかと想像した。あのバルコニーから。白鳥は、他人の目を気にする彼らのために大きな翼を広げ、包み込むように見守っていたのではないだろうか。

「オレは亀工の監督も、三瀬も、自分も、誰も信じられなかった」

 夜は人を素直にする。何もかもを許してくれるような気持ちにさせる。だから、ロミオもジュリエットも夜に隠れ、互いに本心をぶつけ合い、愛を囁いたのだろうか。

「それに三瀬には言えなかったが、オレはもう二度と、三瀬と一緒のコートでバスケをすることができないんだって気づいていた。オレと三瀬のコート上での役割は違っていたが、身長が百七十五センチ以下の選手は試合に出さないと明言している監督が、オレたち二人を同じコートに立たせてくれるわけがない。そしてオレと三瀬だったら、三瀬の方が選手として優れている。だからオレが亀工にいったところで、三瀬がいる以上、コートに立てるわけがなかった。オレが三瀬に苛立っていたのは、そのことに三瀬自身が全く気づいていなかったからだ。三瀬は、高校生になってもオレと一緒にバスケを続けられると信じていた」

 拳を握る手に力が入る。爪は短く切り揃えているはずなのに、手のひらに爪が食い込んで痛い。

「オレは見たくなかった。バスケで活躍する三瀬の姿を見たくなかった。それどころか、将来はそこそこ偏差値の高い大学に入って、大手企業に勤めて、ほらお前の人生よりもオレの人生の方が優ってるぞって、それを言うためだけに死ぬ気で勉強して、進学校である湊高校を選んだ」

 手を広げる。暗いせいで見えはしないが、手のひらにはくっきりと爪痕が残っていることだろう。

「だけどオレは、それを待てなかった。大人になるのを待てなかった。恐かった。この三年間、他人から一度も評価を受けていないことが、ただただ恐かった。称賛を与えられないと、名誉を残さないと、自分がこの世界から消えてしまったかのように感じるんだ。だからオレは、どうしても欲しかった。お前はこの三年間、一体何をしていたんだって訊かれたときに、誰の目から見てもわかりやすい形で提示できる何かが欲しかった」

 風が冷たい。頬を撫でるというよりは叩かれているようだ。

 夏は近いはずなのに、この町の初夏は、夜になるとぐっすりと眠る。

 吾妻と千歳、それから笹野は、ずっと黙っている。黙って、自分の言葉に耳を傾けてくれている。

 波の音が、鼓膜で囁く。

「それが、演劇部を残すことだった」

 顔を上げる。

「演劇部を残せれば、オレはバスケを続けなかった果てしもない後悔に、何とか折り合いをつけられると思った。だからオレは、自分のために必死になっていた」

 暗闇を照らす月は、小夜啼の味方だろうか。

「間違っていたんだ。みんなのためじゃなくて、自分のためだけに必死になっていた」

 それともお前は、雲雀の味方か。

「オレは自分のエゴのために、ここまで脚本を書いて、その道筋どおりにお前たちを意図的に動かしてきた」

 どっちなんだ? さっさと答えろ!

 風が吹く。髪が肌を叩く。

「……そんなことなら、気づいていたさ」

 顔を上げる。

 吾妻は海を眺めていた。鼻筋の通った横顔がまるで一枚の画のようで、自分が彼を今まで好き勝手にしてきたことを少し不思議に思った。

 僕が黙っていると、吾妻は言葉を続けた。

「俺が本当に演じていたのは、ロミオじゃなかったことくらい、気づいていたさ。気づいていて、それでも自分の意志でケータの脚本に乗っかったんだ。……面白いと思ったから」

 吾妻が僕の方に顔を向けた。

「素直に認めるのは悔しいけど、ケータの書く脚本は面白い。だから俺は演じたいと思った。演劇部を存続させるために、文化祭の舞台に立つ演劇部員を。途中、アクシデントがあって、自分の都合でアドリブを入れたのは悪かったと思う」

 吾妻が顎の下で手を組んだ。

「俺は、ケータに甘えていた。ケータになら何を言ってもいいって、ケータなら許してくれるって、心のどこかでお前のことを粗末に扱ってた」

「それなら、オレだって同じだ。オレは自分のために、吾妻を自在に扱おうとしていたところがあったと思う。許してくれ」

 僕は、吾妻に向かって頭を下げた。

「オレの我儘に付き合わせたせいで、吾妻に迷惑をかけた。吾妻がバイトを掛け持ちしていたことに、オレは全く気づけなかった」

 なんて情けないのだろうか。

「どうしてケータが謝るんだ。俺が自分の都合でバイトを一つ増やしたんだ。ケータには関係ないだろう!」

「関係ないって言えば、何でも自分から切り離せると思っているのか?」

「はあ?」

 吾妻が声を荒げる。

 笹野が反射的に僕と吾妻の間に体を入れようとしたが、僕が一瞬早く手を出してそれを防いだ。

「部活に出るために日中の勤務時間を減らして、代わりに深夜のバイトを増やしたんだろう。関係ないわけがあるか」

 吾妻が立ち上がった。

「違う! 俺は大学に通う資金を集めるためにバイトを増やしたんだ。部活は何も関係ない。お袋の再婚は許せても、親父になる人から金を出して貰うのがどうしても許せなくて、それで自分のために働いて、そのせいで罰則を受けた。だから全部自分のせいだ。それに俺の代わりなら、いくらでもケータができるだろう……」

「オレは、吾妻に舞台に立ってもらいたいと思っている。オレじゃダメなんだ! お前じゃなきゃダメなんだよ!」

 千歳の演技が本物以上に本物ならば、吾妻の演技には嘘がない。

 吾妻は誰よりも違う自分になりたがっていた。腕時計を外せる時間を欲していた。だからこそ、あの時間は吾妻にとって本物だった。それが吾妻の魅力だった。

「やっぱり、明日の舞台に立つなんて無理に決まってる……。もし客席から野次が飛んできたら、舞台どころじゃなくなっちまう」

 吾妻が再び係船柱に腰を下ろして頭を抱えた。

「舞台が途中で中止になったら、今度こそ廃部になるかもしれない……」

 吾妻が頭を抱えたまま、顔を持ち上げた。

「中止になんて絶対にさせない。野次を飛ばしてくるヤツがいたら、体育館から引きずってでも黙らせるさ。そのときの責任は、オレが一人で全部引き受ける。他のヤツらには一切責任を負わせない。だから吾妻は迷うな。迷わず舞台に上がれ」

「そんな無茶することがわかっていて、舞台に上がれるわけがないだろう!」

 吾妻が叫んだ。彼の喉仏が大きく波を打った。

「他のヤツならいいが、オレにだけは遠慮するな! 遠慮したら許さないぞ!」

 僕は吾妻の目を見た。

「ケータ……」

 絶対に反らすものかと見つめた。絶対に反らさせないぞと見つめ続けた。

「約束だ。絶対に来い」

 吾妻は、まだ頷かない。隣に立っている笹野が息を漏らしている。

「高館さんに連絡を取った。明日、文化祭に来てくれるそうだ。高館さんが守って残した演劇部の活躍を、オレたちの舞台を見せてやろうぜ」

 吾妻は、まだ頷かない。

「人生で最後の、十八歳の文化祭なんだぞ。精一杯楽しむぞ」

 僕たちの心を知らず、港はどこまでも静かだった。

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