第9幕 第4場 港にて
覚悟を決めてしまえば、彼に電話を掛けることは、呼吸をするのと同じくらい簡単なことだった。
それもそうだ。高額なお金も、難解な手順を踏む必要もない。ただスマートフォンの画面をタップするだけで済むのだ。だけど、それだけのことが、僕には二年の間、一度もできなかった。
吾妻と千歳、それから笹野と別れ、バスケットリングのある駐車場まで移動する。そこで彼を待つことにした。
この後、吾妻は、笹野と千歳の二人を家まで送って回るという。笹野はまだしも、千歳まで送るとは相変わらず過保護な野郎だ。吾妻に、千歳だって男なんだから心配し過ぎだろう、と言ってみたが、彼は聞く耳を持たなかった。吾妻の帰りが遅くなって彼自身が補導されなければいいけどな、と思いながら三人の背中を見送った。
等間隔に立っている照明の灯りは頼りなく、停泊している船がときおり大きく揺れる影を不気味に照らしている。
無意識に、まるで月でも見上げるように、バスケットリングを眺める。手を伸ばせば届く距離にあるはずなのに、なぜか今は月よりも遠い。
ベンチに腰を下ろしてから十分ほど経つと、風で煽られたのであろう前髪をボサボサにしたままの
驚いた。
忘れかけていた記憶が一気に脳に流れ込んでくるほどに懐かしい姿だった。懐かしいって言葉だったのか、と初めて実感した。歩と再会したときには感じられなかった何かが、確かにそこにあった。
風が吹く。撫でられた波の音が、僕を遠くなった明日へ連れて行く。
僕とマサは、薄汚い坂田第一中学校の体育館で出会った。出会ったといっても、僕の方は小学生のときからマサのことを知っていた。マサだけではない。市内の小学校に通う、スポーツ少年団が運営するバスケットボールクラブに所属しているヤツらのことは大抵知っていた。だからマサの両隣に立っていたやつらのことも知っていた。
マサは小学生のときから目立っていた。体の線が細いチビが、コートの中を誰よりもがむしゃらに駆け回っていた。底なしの体力なのではないか、と大人たちが驚愕していたことをよく覚えている。マサはペース配分を考えながらプレイする性分ではないらしく、いつでも全力投球だった。だから最後のクォータになると全身が汗まみれで顔は真っ赤。それなのにパスを呼ぶ声は誰よりも大きい。ベンチに下げられると、悔しそうに眉根を寄せながらも、これまた人一倍大きい声を出して声援を送っていた。マサは元気だけが取り柄なチビではない。小さい体をバネのように動かし、正確なシュートを決める。体格に恵まれていない天才だった。
さらにマサは観客を味方にするスター性も兼ね備えていた。体格差のハンデを苦にせず一生懸命走り回る姿に、胸を打たれる者が多いのだろう。敵チームであろうと、どこか憎めない存在になってしまう。この子に負けてしまうのならば仕方ない、と思わせてしまう何かを持っていた。
中学校の部活は、一年生の自己紹介から始まった。出身小学校とバスケの経験年数、そしてポジションを発表した。僕のポジションはポイントガード、マサがスモールフォワードだった。
僕とマサはクラスが別で部活でしか顔を合せなかったが、僕たちはすぐに意気投合した。
それまで坂一バスケ部には朝練の文化がなかったが、僕とマサが始めてから、少しずつ参加する部員が増えてきた。全員一年生だったが、先輩に気を遣う必要がなく、自由に練習できた。
坂一バスケ部は、顧問の方針で、試合に出場するメンバーは実力主義だった。実力さえあれば、一年生でもメンバーに選ばれる可能性があった。
顧問は、心の成長や思い出よりも勝ち負けを重視する人だった。試合を勝ち抜いていくためには、学年関係なく上手いやつを起用するという考えの人だった。
顧問はバスケの経験者で、名義だけの指導ではなく、技術指導もした。体育館に叱責が響き、隣で練習をしている他の部からやんわりクレームが来ることもあるほど熱心な指導だった。独身で自由な時間が多かったからなのか、休みはお盆と大晦日、それから元日の三日間と、テスト期間のみだった。
僕たちが一年生のとき、三年生は九人、二年生は十二人だった。
一年生の初夏。三年生の先輩たちにとって負ければ即引退になる大会が始まった。地区予選から、マサは一年生ながらにスターティングメンバーに選ばれた。フル出場こそしなかったが、僕たち一年生の中からスタメンに抜擢されたヤツがいるという事実は、モチベーションを高まらせた。
一年生の秋。三年生が引退し、新体制での活動が軌道に乗ってきた頃、僕もスターティングメンバーに選ばれるようになった。今振り返ると、この時期が一番部活が楽しかった時期だったと思う。高校受験までまだ時間があって、部活に打ち込んでいても罪悪感を覚えず、親からも口煩く言わることがなく、バスケだけに集中できた時期だ。授業が終われば体育館でバスケをし、家に帰れば夕飯を食べ、外に走りへ行く。まさにバスケのために学校に通っていた。
二年生の春。進級に合わせて最初で最後のクラス替えがあったが、僕とマサはまた違うクラスだった。だから僕とマサを繋ぐものは、バスケだけだった。僕とマサは、放課後の体育館で共に汗を流した。
二年生の夏。先輩たちが引退し、マサがキャプテンを引き継いだ。マサは一年生の秋から絶対的エースだったこともあり、キャプテンになることでパフォーマンスが低下するのではないかという意見もあったが、結果的にはマサが就任した。マサはキャプテンの役職をプレッシャーに感じる性格ではなかったし、キャプテンになったところで事務的な負担はほとんどなかったため、問題ないだろうということになった。だからマサは、坂一バスケ部のエースでキャプテンだった。
僕たちのコートにはマサがいる。その事実だけで、チームの士気は高まった。他の学年よりも結束力が強かった要因でもあっただろう。絶望したくなる試合展開でさえ、マサが何とかしてくれるという思いでボールを回した。実際、そんな場面をいくつも乗り越えてきた。
三年生の春。修学旅行は二泊三日沖縄の旅で、マサとはクラスが違うながらも、自由行動の行先を合わせ、一緒にジンベイザメを見上げた。海無し県の出身でもないくせに、あまりの海の綺麗さにはしゃぎ、二人揃って靴を濡らした。それだけですめばよかったのだが、最終的には二人で海の中にダイブし、全身びしょ濡れになった。それぞれ担任の先生から怒られたのは言うまでもない。修学旅行は楽しかったが、それでもやはり体育館での思い出には到底適わなかった。蒸し暑い体育館が、僕たちの居場所だった。
三年生の初夏。僕とマサの最後の戦いが始まった。
『……なあ、ケイはいつまでバスケを続けるつもりでいるんだ?』
部活が終わり、ジャージから制服に着替えているときだった。マサがワイシャツのボタンを掛け間違い、外しながら訊ねてきた。
『どうしたんだよ、突然……』
僕は上から二番目のボタンを掛けるかどうか迷っていた。バスケ部の顧問は、生活指導の担当だった。制服の乱れた着用にうるさく、見つかったら自分の部活の生徒であろうが長い説教をする人だ。
『この間、三者面談があっただろう。オレの母ちゃんがさ、高校生までは目をつむってやるけど、高校を卒業したら働けって言うんだぜ』
マサが二番目のボタンを留めるのを見て、僕もそれに倣った。まだ熱を忘れていない体を閉じ込めるには窮屈だったが、一人だけ捕まるのはごめんだった。
『マサは高卒で就職するのか?』
『さあな。まだ何も考えてねえよ』
マサがワイシャツの袖を捲くる。
『それで、ケイはいつまでバスケをするつもりでいるんだ?』
右側の袖を捲り終えると、手を止めて僕を見た。
僕は考えた。マサも考えたことがないように、僕も考えたことがなかった。いや、無意識だが考えることから逃げていたという方が正しいだろう。目の前にあるケーキに対して、食べる前から食べ終わったらどうしようと考えるようなものだ。
『マサはさ、プロは考えてねえの?』
僕はマサに訊ねた。
『山形にプロチームがねえじゃん』
マサが口先を尖らせた。
『東京は?』
『オレ、東京に行ったことねえから全然想像できねえよ』
僕も東京には一度しか行ったことがない。僕が小学六年生のときに、夏に家族旅行で遊びに行ったきりだ。
『何で山形にはプロチームがねえんだろうな』
言いながら、マサが後ろに倒れ込んだ。
『ド田舎だから、じゃねえか?』
『オレ、高校を卒業したら、東京に行こうかな?』
『はあ? 本気か』
『今まで考えたことがなかったっていうだけで、そういう選択肢もあるんだって気づいちまったからさ。それに、それしかバスケを続ける道がないのなら、選ばないっていう選択肢はないだろう』
『高卒で働けって言っている親が、上京を認めてくれるとは思えねえけどなあ……』
マサの母親は絵に描いたような逞しい肝っ玉母ちゃんだ。大会には欠かさず顔を出し、マサに負けず劣らず、いつも大きな声を張り上げて応援している。マサがプレイをミスすると、誰よりも大きな声で叱咤する。
『そこは、バスケで納得させるさ』
マサが笑った。クシャッとした笑顔は、こんなときでも無敵だった。
その残像が、星空の中に溶けていく。
「……大事な時期に、いきなり呼び出して悪かった」
僕は一瞬だけマサの手を見ると、すぐに視線を足元に下ろした。
「悪いわけないだろう。ケイから連絡をくれて、すげー嬉しかった」
そう言うとマサは、僕の隣には座らず、僕の真正面に位置する場所に胡座をかいた。バスケットコートの床材はコンクリートで、塗装してあるとはいえ、素肌ではゴツゴツするだろう。
「もう一生、連絡はこないと思ってた」
約二年半ぶりに顔を合わせたマサは、頬の膨らみが消え、その代わりに輪郭が角張っていたが、身長はあまり伸びていなかった。
「オレから呼び出したのに、オレの家の方が近い場所に来てもらって悪かったな」
「何を言ってんだよ! 俺たちが落ち合う場所は、昔からここだって決まってんだろう!」
マサがバスケットリングを見上げながら笑った。マサが使った「昔から」という言葉が少し引っかかったが、僕は何も言わなかった。そんなことよりも、今すぐベンチから立ち上がり、マサの隣に移動するかを考える方が先決だ。マサに対して、これほどまでに緊張感を味わうことは初めての経験だった。
マサとは中学時代、家族以上に同じ時間を過ごした。無音の時間さえ気にせずにいられた距離感はあれほど心地よかったはずなのに、今は何かが違う。
僕は逡巡したまま、沈黙を恐れて口を開いた。
「マサからの連絡、今までずっと無視して悪かった。電話も途中から着信拒否してた」
「知ってる」
マサが待ち構えていたかのように、瞬時に言い放った。
「着信拒否に気づいたときは、すげー落ち込んだもん。三日間くらいは立ち直れなかったなあ……」
マサがわざとらしく口先を尖らせ、おどけてみせた。茶化して言わなければならないほどに傷ついていたのだろう。
ごめん、と心の中でもう一度呟く。
マサは中学校を卒業してからも、僕にスマートフォンでメッセージを送ってくれていた。僕はそのメッセージを一つも画面に表示することができないまま、ずっと放置していた。通知バッジの数字が、日に日に増えていった。だがその数字も、いつしか諦めたように止まった。そのことからさえも目を逸らし、今日までやり過ごしてきた。
マサからのメッセージを読んでしまったら、僕は自分が捨てたはずのバスケットボールのある世界が、この世に実在していることを認めなくてはならなかった。僕はこの世にバスケは存在しないと自身に嘘を吐き、体育の授業や球技大会でするバスケは、僕の知らないバスケルだと思い込むことで、どうにか今日まで正気を保ってきたのだ。
「……それで、そんなケイが、どうして今頃になって、俺に連絡をくれたわけ?」
マサの顔から笑顔が消えた。僕を責めているわけでも怒っているわけでもなく、ましてや泣いているわけでもなかったが、表情の無い顔つきは、僕にプレッシャーを与えた。
「それは……」
覚悟を決めたはずだったが、いざとなると戸惑った。
「大会の前だから?」
僕が答える前に、マサが言った。
中学三年生の県大会。決勝戦で蔵王中に負けたとき、絶対にリベンジするぞ、と二人で誓い合った。それなのに僕は、彼を裏切った。僕の腕を掴むマサの手を振りほどき、身勝手に逃げ出した。あのときの感触が、後悔として今も記憶にベッタリ結びついていた。
蔵王中の大井と花田は、今もバスケを続けている。二人は同じ高校に進学し、レギュラーとして活躍している。だからきっと、今のマサの目標は、打倒山中央であろう。
全部、知っていた。
知らずにはいられなかった。自分がマサと同じ亀工に進学していれば、もしくは湊高校のバスケ部に所属していれば、もしかしたら、もしかしたら……。
僕はゆっくりと首を横に振り、ようやくベンチから立ち上がった。
「オレさ、演劇部の部長なんだ」
マサの顔を正面から捕らえる。月明かりが、彼の顔に影を落としていた。
「知ってる。飯豊から聞いた」
マサも僕を見つめ返した。
飯豊とは、おそらく歩のことではなく、姉の恵の方だろう。地区は異なるとはいえ、県内のバスケ部員同士、顔を合わせる機会も多いはずだ。
「湊高校に進学したとはいえ、ケイはバスケ部か、少なくとも運動部に入るものだと思っていたから、その話を聞いたときはびっくりした」
「オレもそのつもりだった」
風が吹く。横に流れる前髪が、明日が始まる方角を教えていた。
風が優しいときの港は、波の音が規則正しく、心が落ち着く。大丈夫、大丈夫と背中を丁寧に擦ってくれる。
「それならケイは、演劇と運命みたいな出会いをしたんだな」
マサの言葉に、僕の喉がキュッと縮こまった。
バスケを忘れさせてくれるものなら何でもよかった。頭の中が忙しくなるものなら何でもよかった。暇を弄ばずに済めば、それでよかった。だから、そんな風に考えたことは一度もなかった。
「湊高校に進学してよかったな。亀工には、演劇部はないからさ」
マサが目を細め、歯を出して笑う。
「だって学校の中に、ほとんど男しかいないんだぜ。演劇部があったところで、むさ苦しい話しかできないぞ」
指先を差し込めそうなほど大きな笑窪が、彼を一瞬で中学生に戻した。大きく開かれた口からは右の八重歯が見えた。小さな体で次々と長身の壁を切り込み、リングにボールを通した後に見せるその顔が、「どうだ、まいったか」と今にも聞こえてきそうなその顔が、その笑顔を見たら、もう無理だった。
「ごめん。オレ、ごめん。本当に、ごめん……」
情けないことに、自分の内側から突き上げるように湧き上がってくる感情を抑えきれなかった。
これでは、演劇部の部長は失格だ。
事前に用意していた台詞が全部宙へと吹き飛んだ。頭の中の言葉は、白鳥の姿に変わって、空高く羽ばたいていく。それが星になって輝いた。
「二年半かかった。オレ、バカだからさ、マサに謝るのに、こんなに時間がかかっちまった……。バスケを忘れるのに、こんなに時間がかかっちまった……」
声が掠れた。なけなしのプライドで正気を保ち、どうにかアドリブの台詞で乗り切った。
顎を空へと突き上げる。夜空のカーペットは、白鳥が翼を広げて自由に駆け回るには、絶妙なコントラストだった。
自分の体なのに、どうしてか今は自由に操作できない。何度も、何度も、何度も、他人が自分だったらどれほどよいだろうと思っていたはずなのに、他人を自身の身体のように、思い通りに操れたらどれほどよいだろうと思っていたはずなのに。
いや、僕は知っていた。自分を操ることが、何よりも簡単ではないことを。
「どうしてバスケを忘れる必要があるんだよ? 好きなままでいいじゃないか。バスケを好きなまま、演劇も好きでいいじゃん。忘れられないって、最高じゃん!」
僕は視線を夜空からマサへと走らせた。
「ケイって、本当に根は真面目だよな」
マサが僕の肩に手を置き、ポン、ポンと二回叩いた。
僕はほっとしていた。
マサがここにバスケットボールを持ってきやしないかと内心ドキドキしていた。マサがこの場所に来るのに、バスケットボールを手に持っていなかったことなど、今まで一度もなかったから。
「さすが、一般入試で湊高校に受かっただけのことはあるなあ……」
マサが腕を組み、一人で頷く。
進学校の港高校に合格したといっても定員は割れていたし、持ち前の強運が発揮され、一か八かのサイコロが当たり目だっただけの話だ。模試のD判定は嘘ではなく、入学してからの半年間はまともに授業についていけず、日々の宿題はやっとの思いでこなした。同級生の中には、吾妻のように努力せずとも勉強に全く苦労しない憎たらしいヤツもいたが、自分がこれまでバスケットボールに打ち込んでいた時間を勉強にあてていたヤツらが集まる場所だと思えば、何とか割り切れた。そして何より、バスケットボールができれば、他のことが許されるような場所ではなかったから、死に物狂いでしがみついた。
「ケイ。今、身長何センチ?」
マサがさらりと訊いた。
「百七五.二センチ」
「嘘つけ。もう少しあるだろう?」
「そう言うマサはどうなんだ?」
「俺は百七五.二センチだ」
マサが一人で笑う。
マサの身長が百七五センチに満たしていないことは明白だった。目測で相手の身長がわかるのは、バスケットボール部の職業病みたいなものかもしれない。
僕が百七十五センチに到達したのは、高校一年生の夏だった。
忘れもしない。あと数ヶ月早かったら、今後何十年も続いていく人生が今と大きく異なっていたのではないかと考えたら、途端に恐怖を感じて体が震えた。
身長が百七十五センチを越えたと知った十六歳の僕は、ここに来て、バスケットリングを眺めた。何十分、いや何時間も眺めていた。日が沈み、弱弱しい照明が点灯したところで、ようやく家に帰った。
あのとき、僕は変わった。だが、彼は変わっていなかった。変わったのは自分だけだった。
やはり、マサは強い。強い人間は根拠を持たない。希望という可能性だけを見ている。ときにはマサの無責任とも言える前向きな言葉に苛立つこともあったが、それが彼の強さであることはわかっていた。彼はその強さで周囲の人々を変えた。
亀工の監督は、監督に就任してから初めて百七十五センチに満たない彼をレギュラーメンバーに選び、スターティングメンバーに抜擢した。彼は自身の持っている強さで、監督のプライドを捻じ伏せた。
それどころの話じゃない。
山形にバスケットボールのプロチームが新設された。信じられなかった。奇跡だと思った。
あのときの僕たちには想像できなかった未来が、今のマサには待っていた。
「明日の文化祭で、最後の舞台を公演するんだ」
台詞が自然と口から溢れた。頭の中で、何度も何度も、千回も、一万回も繰り返した言葉だった。きっと頭上で輝いている星が瞬いた回数よりもずっと多い。
「オレが脚本を書いて、演出もしているんだ。」
僕が書くつまらないフィクションよりも、マサが演じるノンフィクションの方が完璧な創作だ。彼を中心に世界は動き、彼は物語の主人公だった。
「演出ってさ、バスケのポイントガードと似ててさ、試合の攻撃パターンを組み立てる司令塔みたいな役割なんだ」
チームメイトの性質や力量、今日の調子、対戦相手との相性、コンマ一秒でひっくり返る試合の流れ、コート上にある全ての情報を掌握し、瞬時に最善のルートを導き出す。それがコート上での自分の役割だった。
「演劇部のヤツらは脳筋だったマサたちと違って、もれなく全員性格が捻くれているからさ、性格を把握するのもコントロールするのも難しかった。一筋縄ではいかなくて、いつも振り回されてばかりなんだ」
マサとは決して大袈裟な表現ではなく、本当に目と目で会話ができた。マサ以外のチームメイトも、顔を見れば何を考えているのかが理解できた。コートに立てば。
コートにさえ立てば、自分が思い描いたシナリオで勝利を手に入れられた。
マサは得点に拘っていたが、僕は違った。自身がシュートを決めるよりも、自分の思惑通りに試合が展開されることに快感を覚えた。自分の命令に従って他人が動く。自分が試合を支配しているという優越感と征服感が最高に心地よかった。
だがコートの外に一歩でも出ると、ユニフォームを脱いでしまうと、それが上手にできなかった。
吾妻は学業優秀だが、百八十を優に超える恵まれた身体を持て余すほどに運動神経が悪い。端正な顔立ちをしているため、初対面の女性から好意を持たれやすい。だが思ったことをすぐ口に出す悪癖があり、言葉遣いも高圧的だったり乱暴的であることが多い。それ故に、一定数の女子からは「これだからイケメンは」と冷たい目で見られることもしばしば。その一方で、家族想いな一面を持っており、家族のためなら自分が犠牲になることを厭わない。幼少時に父親を交通事故で亡くしており、高校生になってからは近所のコンビニでアルバイトをして家計を支えている。
千歳は自分の意思を貫くよりも周りを尊重する気遣いの塊だ。男子高校生にしては体の線が細く、見た目通りの優しい性格で、男女問わず友人が多い。四人兄弟の長男で、末っ子の妹をとくに溺愛しており、祖母の介護で忙しい母親の代わりに、幼稚園の送り迎えをすることもある。母親の実家が手芸店を営んでいることが関係しているのか裁縫が得意だ。一方、単身赴任で東京に残っている父親は会社を経営しており、裕福な家庭の社長子息でもある。実は男らしい一面も持っているが、本人は隠したがっているため、知っているのは家族の他には僕だけだ。
笹野は帰国子女ではないが、ハーフの親友の影響で英語に興味を持っており、日々勉強に励む努力家だ。可愛らしい顔立ちをしているうえにスタイルが良く、男子からの人気は圧倒的だ。が、サッカー部のエースだった先輩が振られたのを機に、異質な白鷹を除き、彼女に告白する勇者は絶えた。高校一年生のときに、同じ英会話部だった女子たちと交友関係を上手く築けなかった影響で、クラスメイトに対して壁を作り、校内に友達はほとんどいない。英会話部の廃部を機に、演劇部に転部してきたが、僕は神様に仕組まれた運命だったと思っている。
白鷹は元野球部のエースで、運動神経が抜群。野球部を引退するまでは坊主だったため、高校生になってから髪を伸ばし始めたものの、己の天然パーマと格闘する日々を送っている。笹野に一目惚れして演劇部に入部。ことあるごとに笹野に思いを伝えているが、彼女には相手にしてもらえていない。部屋に引きこもる妹とコミュニケーションを取るために、時間さえあればノートパソコンでオンラインゲームをしている。視力に気を遣って伊達メガネを掛けていることも相成り、周囲からはパソコンオタクだと勘違いされているが、本人は気にしていない模様。
舞鶴さんは、吾妻に好意を寄せているという理由で演劇部に入部してきたが、あくまでも美術品を愛でるような感覚で、ラブではなくライクらしい。女の子の気持ちはわからないが、笹野をライバルとして意識していないところをみる限り、どうやら嘘ではなさそうだ。自分が描いた絵で親友を傷つけてしまった過去を持ち、それ故に美術部には入らず、演劇部で衣装のデザインをしたり、書割を描くなど裏方として活躍している。退部騒動もあったが、彼女にとっては先輩である白鷹を相手でも物怖じしない性格で、頼りがいがある。
歩は根っからの弟気質で、人に甘えるのが上手だ。年上の懐に入るのが得意だが、計算ではなく天然だ。バカなうえにアホな怖い物知らずで、僕の後を追いかけて湊高校を受験し奇跡的に合格する。僕とは幼馴染で、僕の影響でバスケを始めるが、歳が二つ離れていることもあり、中学生になってからは、試合で同じコートに立ったことがない。自身にバスケットボールの才能がないと気づき、新たに始めたギターにのめり込み、今では作曲もしている。が、独学のため譜面がまともに読めないという奇才ぶりである。なんとも癪なことだが、演劇部唯一の彼女持ちだ。
僕は世界中の誰よりも、マサに舞台を見てもらいたかった。自分がバスケの代わりに選んだことを、かつての相棒に認めてもらいたかった。ずっと話したかった。ずっと聞いてもらいたかった。
でも今はもう、その必要はない。
「明日も一日練習なんだろう? 頑張れよ」
今は自分で自分を認められる。自分の努力を讃えられる。自分の嘘を許せる。
「ああ。八時から十九時まで練習だ」
マサが後ろに倒れ込んで大の字に転がった。
高校に進学して演劇部に入り、彼らと出会った。ときには派手にぶつかり、ときには手を取り合い、互いを認め合ってきた。ようやく自分が好きな自分になれた。
「インターハイ出場、おめでとう」
一秒経って、思わず口を抑えてしまった。
アドリブだった。
マサが腹筋を使って、上半身を起こした。
「ああ。蹴散らしてくるぜ」
マサが目をぎゅっと瞑って答えた。
三年前、僕とマサが何よりも欲しがっていた全国大会への切符だ。
吾妻も千歳も笹野も白鷹も舞鶴さんも歩も、自分の居場所に自信が持てないまま、自分の役に自信が持てないまま、ミスキャストに気づかないまま、それでも自身を騙して演じていた。
そんな彼らを変えてやりたかったのは、やっぱり何よりも自分のためだった。自分を肯定するために彼らを利用した。
それでもいい。自分を好きになれて初めて人は、他人に手を差し伸べられる。そこにエゴがあったっていい。不純があったっていい。そう教えてくれたのは、彼らだった。
バスケが何よりも好きなのに、演劇部の部長を努めている僕が、一番のミスキャストだった。
それでも明日、舞台の幕は上がる。
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ミスキャスト 柳ツバメ @OmuCurry
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