第9章 第2場 港にて

 湊高校の文化祭は、三年生が受験勉強に集中できるよう、夏休み直前に行われる。

 文化部に所属する大半の三年生が、文化祭での活動を最後に部を引退する。大会に出場しない演劇部もその例に漏れない。

 文化祭は決して大規模なものではないが、二日間に渡って実施される。

 湊高校の生徒だけが参加できる一日目は、内部向けのイベントが催される。午前はクラス選抜による腕相撲大会と女装コンテストが、午後は翌日のリハーサルも兼ねて模擬店とクラス展示が行われる。

 一般公開される二日目は、一日通して模擬店とクラス展示が行われる。さらに体育館ではステージ発表が行われる。吹奏楽部や合唱部など、主に文化部がこのステージ発表に参加するが、ここ数年はバンド演奏をするグループも増えている。湊高校には軽音部がないが、バンドを組んで活動している生徒がそこそこいるらしい。

 文化祭一日目。 

 千歳が女装コンテストにエントリーしているため、僕は白鷹と歩を引き連れ、ステージの前方を陣取った。

 女装コンテストは、各クラス一名選出することになっている。審査員は我が校の男性教師陣の中から選抜され、男目線で評価される。

 毎年グランプリは三年生から選ばれるのが通例となっている。そのため端からグランプリを諦めている下級生たちはネタに走りがちだ。

 衣装はドン・キホーテに売っているコスプレ衣装や、その年に流行したアニメキャラクターのコスプレ衣装を着用する者が多い。そのため、女装コンテストというよりはコスプレ大会と呼んだ方がふさわしい年もある。

「いよいよ千歳さんの出番だね」

 歩は見えるわけがないというのに、閉ざされた幕の向こう側を覗こうと身を乗り出した。初めての高校の文化祭ということもあってか、人一倍はしゃいでいる様子だ。

「今年の衣装は何ですかね?」

 白鷹がビデオカメラで撮影する準備を始めながら訊ねてきた。

「千歳さんって、三年連続で女装コンテストに出場しているんだよね?」

 歩が口を挟んできた。

「そうだ。去年が着物で、一昨年は湊高女子の制服だったが……」

 昨年演劇部は、神室さんが執筆した脚本『団子には花を添えて』というSFラブコメディを上演した。千歳は団子屋の看板娘役だったこともあり、その衣装を着用してもらった。着用してもらったのには、もちろん理由がある。演劇の宣伝をしてもらうためだ。女装コンテストはクラス対抗ではあるが、昨年度は二年生という立場上、優勝できない前提であったため、千歳からクラスメイトを説得してもらい、融通を利かせてもらったのだ。優勝が狙える今年は、さすがの千歳でも私情を挟むことができず、クラスで決めた衣装を着ることになっている。

「楽しみですねー」

 歩がそわそわと、無駄に長い体を揺らす。

 千歳がどんな衣装を着るのか、本人に直接訊ねてみたが、なぜかはぐらかされてしまい、ついに今日まで教えてもらえなかった。千歳が僕に隠しごとをするのは珍しい。何か理由がありそうだが、それもあと数分でわかるだろう。

「飯豊。千歳先輩がステージ上にいる間は大人しくしてろよ。お前のバカ声が動画に入るのだけは勘弁してくれ」

 白鷹が僕を挟んで歩に声を掛けた。

「えー! せっかくなら盛り上げたいんですけどー!」

 歩が周囲の目を気にせず、子どもっぽい泣き言を漏らした。

「それよりも、自分と飯豊はいいですけど、葉山先輩は自分のクラスを応援しなくて大丈夫なんですか?」

「ああ。オレらのクラスは優勝を諦めてネタに走ったから別にいいんだ」

「でも演出は、今年も葉山先輩が担当したんですよね?」

 演出は女装コンテストの醍醐味の一つでもある。ただテーマを決めてウォーキングするだけのクラスも多いが、ストーリー性のある演出を披露するクラスもある。

「……あ、出てきた!」

 早速歩が大きな声を張り上げた。

 幕が上がり、千歳がランウェイに現れた。メイド姿だ。スカート丈は膝上で、黒色のニーソックスを合わせ、ストラップが付いている厚底のパンプスを履いている。おそらくクラスの女子たちから整えてもらったのだろう、ほんのりと化粧もしている。

「黒髪ロング! 可愛い!」

 歩が甲高い声を上げた。そういえばコイツの彼女も黒髪ロングだったなと、夏南ちゃんの顔が思い浮かんだ。

 千歳が左右満遍なく笑顔を振り撒きながら歩き出した。舞台度胸はさすがだ。照れも恥じらいも感じさせない、完璧な笑顔だ。それと今まで出てきた参加者とは段違いのウォーキングだ。ランウェイを軽やかに歩く千歳は、どこからどう見ても女にしか見えなかった。さすが三度目の出場ともなると、観客に手を振る余裕も生まれるようだ。

 千歳がランウェイのトップで立ち止まると、

「せーのっ!」

 最前列に並んでいた男子生徒の野太い声に合わせ、彼の周囲にいる十人ほどの男子生徒がオレンジ色のペンライトを天に突き上げた。

「ヤスしか勝たん!」

 陽気な掛け声に合わせてオレンジの光が舞い踊る。いわゆるオタ芸と呼ばれるものだろう。コールが終わると、千歳が指でハートマークを作り、審査員たちに向けてアピールをした。

「世界一可愛いよー!」

 野太い声が飛び交い、千歳が背を向けて再びランウェイを歩き出した。千歳は幕の向こう側に消える直前、くるりと体を回転させ、駄目押しと言わんばかりに、ウインクを飛ばした。

「これはもう、千歳さんの優勝で決定ですね」

 まだ三人残っているというのに、歩が放心気味に呟いた。圧巻されて言葉を失っている様子だ。

 MCの男子生徒が、教頭先生に批評を求めた。

「えー、そうですね。こんなに可愛いメイドがいるカフェがあったら、通ってしまいそうですね」

 さすが教頭先生だ。生徒受けするコメントがわかっている。生徒たちが手を叩きながら笑っている。

「低俗な演出だったな……」

 この雰囲気に溶け込めない自身に苛立ち、思わず口から飛び出した。

「でも完成度は圧倒的ですよ」

 白鷹がビデオカメラを下ろしながらしみじみといった。

「そこは認めるが、千歳の良さが全く引き出せていない!」

「ちなみに、葉山先輩なら、千歳先輩のランウェイはどんな演出をしますか?」

 興味津々とばかりに、白鷹が視線をよこした。

「オレだったら……」

 千歳ならば、正直何パターンでも思いつくが、

「衣装は青色の女優帽に白いワンピース。足元は、少しヒールの高い白のサンダル。相手役は吾妻だ。吾妻の衣装は白いTシャツに水色が強いジーンズ。それから小道具に茶色のトランクを用意する。演出は、まず吾妻をステージのトップまで走らせる。それから人を探す仕草をさせて、その後に千歳が登場。最初は帽子を深く被らせておいて、中間位置で立ち止まり、ツバを上げて顔を見せる。そこで吾妻と千歳が目を合わせ、恋に落ちる。その後、千歳がランウェイのトップまで歩き、口元に人差し指を当てたポーズの後に、審査員に向かってウィンク。スカートを翻しながら回転して、吾妻と腕を組みながら折り返す。BGMは、もちろん、オー・シャンゼリゼだ」

「さすが葉山先輩ですね。少しベタですけど、ドラマティックで、映画のワンシーンみたいに情景が思い浮かびます」

 白鷹が何度も頷いた。

「次はケイちゃんのクラスだね」

 歩が背筋を伸ばした。

 今年はクラスの出し物の宣伝も兼ねて、テーマはお化けだ。

 幕が開くと同時に、体育館の照明が落ちた。あちらこちらから女子の奇声が聞こえてくる。時間にしてわずか数秒間。照明が点灯し、

「キャー!」

 女子のさらに大きな奇声が体育館に響き渡った。

 ステージのトップに、白装束に黒髪ロングの男が這いつくばっている。いや、今だけは女と呼ばせていただこう。その女の前髪は胸元ほど伸びており、顔をすっかり覆い隠してしまっている。ちなみに白装束は、クラスメイトの葬儀社の息子からお借りしたものだ。

「おい飯豊! お前の好きな黒髪ロングだぞ!」

 白鷹が珍しく歩に笑いかける。

「あれは違うでしょう!」

 歩が声を震わせた。

 女がのそのそと立ち上がり、頭を振って前髪を後ろに流した。ようやく顔が見えたかと思うとマスクをしている。女がフラフラと体を揺らす。その間が妙に長く感じられる。いつの間に奇声は収まり、今度は静寂に飲み込まれそうになっていた。次は一体何が始まるんだ、と誰もが固唾を飲んで身構えている空気が伝わってくる。

「私って、綺麗……?」

 女が審査員の教師陣の顔をねっとりとした視線で順に見た。教師陣はどんな反応をしたらよいのか戸惑っているようで、困惑した表情で互いを見ている。

「口裂け女かな?」

 どこからか呟く声が聞こえる。

「貞子かと思った」

 周囲の感想は恐いから面白いに変わってきているようだ。クスクスと笑い声がこぼれ始めていた。

 口裂け女と貞子、最後までどっちでいくか悩んでいた。貞子にする場合は、テレビと見立てるための木の枠を小道具にして、テレビ画面から体を出す演出にしようと考えていた。

「ねえ、今野先生。私って綺麗? 先生の花嫁にしてくれる?」

 女がポケットからベールを取り出し、髪に取り付けた。

 今野先生は国語担当の二十代・独身教師だ。急に名指しで絡まれた今野先生が、座っている体を後ろに引くほど驚いている様子だ。え? 俺? 俺? と左右に顔を振って周囲に助けを求めているが、他の先生方は目を合わせないように天井を見たり、床を見たりしている。

「私を先生の花嫁にしてくれるよね?」

 なかなか返ってこない返事に、女が再度質問を投げかけた。これは脚本にない台詞で彼、いや彼女のアドリブだがナイス判断だ。

 今野先生が困惑した表情を浮かべたまま、

「ごめんなさいっ!」

 と頭を下げた。

「呪ってやるー!」

 女が叫びながらマスクを外した。女の口には真っ赤な口紅が塗ってあり、それは口からはみ出して耳元まで続き、口が裂けているように見える。

 体育館が爆笑の渦に包まれる。今野先生はいつの間にハンカチを取り出したのか、汗の額を拭っている。

 ステージに黒服の男二人組が現れ、それぞれ女の両脇に手を差し込むと、

「三年二組、お化け屋敷をやります! ぜひ遊びに来てください!」

 暴れる女を無理やり引きずり、幕の向こう側へと消えていった。

「確かにこの演出は、優勝を捨てていますね。自分は面白くて好きですけど」

 白鷹が呟いた。

「うちのクラスは文系で男が少ないし、正統派で勝負できる素材がいないんだから仕方ないだろう」

 千歳レベルという贅沢は言わないが、せめて化粧を施せば、遠目から見れば女に見えなくないくらいの人材がいれば、僕だってもう少し頭を捻るのだが。

「熱烈なプロポーズでしたが、今野先生、彼女の評価はいかがでしょうか?」

 MCの男子生徒が今野先生に批評を訊ねた。

「なかなか個性的でしたね」

 今野先生が何度もハンカチで額を抑えながら答える。トラウマにならなければよいが。

 最後のクラスも終わり、すぐに結果発表に移った。審査員が一番良かったと思う生徒を一人ずつ発表していく形式だ。

 結果は蓋を開けるまでもなく、千歳の満場一致だ。満票での優勝は、十一年ぶりのことらしい。

 教室に戻ると、クラスメイトたちはお化け屋敷の最終チェックに取りかかり始めていた。ビニール紐が足りない、用意しておいたはずのコンニャクがない、衣装が破れちゃった、とみんながみんな、異なる理由で慌ただしく走り回っている。

 教室の窓は黒幕のカーテンで締め切られており、室内は真っ暗だった。そのうえ迷路のような作りになっているため、腰を掛ける場所も見つけられない。これでは脚本に目を通すことさえできそうにない。

 手伝いを免除されている僕は、顔にお化けのメイクを施されているクラスメイトを横目に、そっと教室から抜け出した。

 二組の教室の前を通りかかると、丁度そこから笹野が出てきた。どこに向かうつもりなのかわからないが、僕に気づかず足早に廊下を歩き出す。

「笹野!」

 僕の声に、笹野が足を止めて振り返った。

「何だ、葉山か……」

 声を掛けてきた相手が僕だとわかると、彼女は素っ気ない表情を浮かべた。

「何だとはずいぶん失礼だな。笹野はこれから何をする予定なんだ?」

「何も用事がないから、部室に行こうと思っていたところよ。教室にいても勝手がわからないから手伝いもできないし、居心地の悪い思いをするだけだし……」

 笹野は通路を塞がないよう廊下の端に寄った。僕たちの間を、両手に買い物袋を持っている生徒たちが足早に通り過ぎていく。

「それなら台本の読み合わせでもするか?」

 僕の申し出に、笹野はすぐに頷くわけでもなく、僕の顔をじっと見つめた。それから口を開き、

「葉山はいいの?」と訊ねてきた。

「何が?」

 何のことを言われているのか、さっぱりわからず、僕は思わず顔を傾げた。笹野は口に出すことを渋った様子で、僕をきつい視線で見上げてから口を開いた。

「葉山はクラスの人たちと上手くやっているでしょう。高校生活最後の文化祭なんだから、一日目くらいはクラスの方で騒いでくればいいのに……」

「何だ、そんなことか。別にいいさ。オレには部活の方が大事だからな。でも部室に行く前に、せっかくだから模擬店を回ろうぜ」

「私、そんなにお腹は空いていないんだけど……」

 笹野が面倒そうに眉を寄せた。

「高校生最後の文化祭なんだ。オレは可愛い女子高生と一緒に校内を回りたい! とりあえず、白鷹と歩と舞鶴さんのところには顔を出すぞ」

「わかったわよ」

 不機嫌に振る舞う笹野を連れ、早速僕は一年生の教室を目指した。階段を降りると、廊下の中央でメイドの格好をした千歳がチラシ配りをしていた。

「千歳、まだそんな恰好をしてるのか」

「シズオがする予定だった広告塔を、僕が代わりにやらされているんだ。連帯責任だとか言われてさあ……」

 そう言うと千歳は、僕と笹野にチラシを渡してきた。

「千歳は吾妻の妻だから仕方ないな」

 軽口を叩きながらチラシに目を落とす。「このチラシを見せると20円引きにします」と書かれている。

「それに、この恰好の方が客ウケがいいからって言われて。困っちゃったよ」

 千歳が苦笑した。困ったと言っているわりには、さほど困っているようには見えない。満更でもないのではないかと思ったが、わざわざ口に出すほど僕もバカではないので黙っていることにした。

「遠目から見たら、女の子にしか見えないわ。腕も足も細いし……。やっぱり千歳がジュリエットをした方がよかったんじゃないかしら」

 笹野が千歳のスカートの裾を掴み、値踏みするような視線を向けながら、感嘆の声を漏らした。

「うーむ……。ダブルジュリエットもありだったかな」

 僕も顎に手を当て、千歳の足のラインを視線でなぞった。中学時代は運動部だったにもかかわらず、筋肉のついていない脚は男にしてはかなり華奢である。

「ちょっと、やめてよ! 梅ちゃんの方が可愛いに決まってるだろう! それに女装コンテストだって、今年は出たくなかったのに、クラスの準備を手伝わない代わりに出場させられたんだから! それなのに、結局シズオのせいで広告塔までやらされて……」

 千歳が甲高い声を張り上げた。

「でも優勝できたんだから出場してよかったじゃない。副賞として、購買券をクラス分貰えたんでしょう?」

 笹野が涼しい顔で言った。

「僕はクラスの人柱にされたんだよ」

 千歳が不満そうに頬を膨らませた。場所も忘れて部室にいるノリで騒いでいると、

「お話中にすみません。一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」

 二人組の女子生徒が遠慮がちに声を掛けてきた。靴のラインの色から、彼女たちが二年生であることがわかった。

「いいですよ。その代わり、後で芋煮を食べに来てくださいね。これ、チラシです」

 千歳は満面の笑みを浮かべ、彼女たちにチラシを差し出した。切り替えの早さはさすがである。

「やったあ! 絶対に行きます!」

 二人は手を取り合って喜んだ。

「お願いします」

 言いながら、ポニーテル女子が、僕にスマートフォンを渡してきた。写真を撮ってスマートフォンを返すと、千歳に耳打ちをした。

「チラシを配るついでに、明日の舞台の宣伝も頼むな。頑張れよ」

「僕も全部配り終わったら、すぐに部室へ行くから!」

「了解」

 そこで千歳と別れ、再び笹野と歩き出した。廊下を曲がると「すごかったわね」と笹野が呟いた。

「まあな。さすが演劇部のヒロインだ」

「千歳は、私が演劇部に関わる前から、ずっと女役をしていたんだよね?」

「ああ。千歳は部員が多かった頃から女役だ。ヒロインを務めるようになったのは、当時の三年生が引退してからだけどな」

「千歳がいてよかったわね」

 笹野が空を見ながら言った。

「ああ、そうだな」

 僕たちは、誰一人欠けていたら駄目なんだ。もちろん隣にいる笹野も。

 それを今この場で伝えないのは、照れ隠しではなく、やさしさだということにして、僕はそれ以上、言葉を紡がなかった。

 僕と笹野は一年生の教室に足を運び、舞鶴さんと歩のクラスにそれぞれ顔を出した後、裏方で仕事をしているという白鷹に、二人の店で買ったものを差し入れてから部室に向かった。

「葉山先輩! 抜け駆けですよ!」

 僕が笹野と二人で校内を回っていることを知った白鷹が、歯を剥き出しにして僕に詰め寄って来たのは言うまでもない。言い訳をいくつも並べたが、聞く耳を持たず、最後は逃げるようにして別れた。

 特別教室棟は、ずいぶんと静かだった。この棟では何も催しが行われないため、文化祭の喧騒から遠ざかっている。明日の一般公開では、湊高校の生徒以外は立ち入り禁止になる。 

「本番を迎える前に、葉山に一つだけ言っておきたいことがあるの」

 部室に入るなり、突然笹野が言い出した。

「どうしたんだ? 急によそよそしくなって……」

 僕は緊張を誤魔化すように苦笑した。笹野は、僕につられて微笑むような真似はしなかった。その無愛想な表情は、いつもと大して変わりはなかったが、彼女は喉を小さく震わせていた。

「ありがとう」

 彼女のふっくらとした唇が言葉を作った。

「葉山が、いえ、あなたたち演劇部が、私を選んでくれてよかった」

 そう言うと笹野は柔らかく微笑んだ。その表情に、心臓が身震いした。

「本当はもっと早く言うつもりだったのよ。だけど、葉山の周りにはたくさん人がいるし、なかなか一人にならないんだもの。伝えるタイミングがなくて困ったわ」

 笹野が組んだ手を空に向けながら苦笑した。

「笹野……」

「本番前に言えてよかった」

 笹野は照れ臭くなったのか、くるりと回って背中を見せた。その美しい曲線は、青空を背負う窓際によく似合っていた。

 空には入道雲が浮かんでいた。夏を連れて来る雲の重なりだ。

「葉山は、ロミオの台詞を覚えているんだよね?」

 窓の外を眺めながら笹野が訊いた。

「ああ」

「明日、吾妻は来てくれると思う?」

「来るに決まっているだろう!」

「もし……だよ。もし吾妻が来なかったら、そのときは葉山が舞台に上がるんだよね? 舞台を中止にしないわよね?」

 笹野が僕の方を振り返った。

「笹野……」

「前に白鷹くんに言ったよね。吾妻がいなければ、成功の舞台とは言えないって。それが私たち三年生の考えだって。あのときはもちろん、その言葉に嘘はなかった」

 笹野が息を吸ってから続けた。

「だけど今の私は、吾妻が隣にいなくても立ちたいの。舞台に」

 風が吹き、彼女の髪の毛が持ち上がった。ふわりと光が浮かぶ。

「私が頑張ってきた姿を、見て欲しい人がいるのよ」

 それは数ヶ月前、僕が笹野に問いかけた質問の答えだった。あのときの笹野は、そんな人は一人もいないと答えた。そのときの答えが嘘だったのか、それともあのときから答えが変わったのか、それは知らない。

「葉山にもいるでしょう?」

 今度は僕が答える番だった。

「ああ……」

 僕は嘘がつけなかった。自分にも、彼女にも。もう逃げられないし、もう逃げるわけにもいかない。

 僕はスラックスのポケットの中に手を入れ、スマートフォンを握った。

「笹野は何も心配するな。吾妻は絶対に来る。だから練習するぞ」

 僕の言葉に、笹野はしっかりと頷いた。

 笹野と台本の読み合わせをしていると、千歳と舞鶴さんが連れ立って部室にやって来た。

 衣装係の二人が揃ったこともあり、最後の衣装合わせをすることにした。笹野が部室で着替えている間、僕は千歳と一緒に廊下へ出た。

「いよいよ、明日だね」

 千歳が壁にもたれ掛かりながら言った。

「そうだな」

 僕も壁に背中を預けた。

「あまり実感が湧かないね」

「オレもだ」

「今日シズオがここにいないのは残念だけど、明日一緒に楽しめばいいよね」

 千歳が吐息交じりに言った。

 僕は相槌を打つのをやめ、横目で千歳を見た。千歳は窓越しに見える一般教室棟を眺めていた。どの教室も大変賑わっているようで、慌ただしく人が動いている。耳を澄ますと楽しげな声も聞こえてくる。

 明日で部活が終わる。

 長いようで、短い二年半だった。

 色んなことがあった。バスケを辞め、演劇部に入り、吾妻に出会って、千歳に出会って、そして笹野に出会った。吾妻とはよく喧嘩し、千歳には喧嘩の仲裁役をさせ、笹野には冷たい視線を向けられた。

 本当に短い時間だった。

 僕は、息を長く吐き出してから言った。

「高館さんが部活を引退して、オレが副部長になったとき、彼女から言われた言葉があるんだ」

 吐き出した息が夏の風と混ざり、軽やかに僕たちの脇を通過していった。

『もし葉山がどんなに無茶をしても、それでも後ろをついてきてくれる人がいるのなら、それは葉山の価値だよ』

 高館さんは無理に笑ったように、今にも泣き出しそうな表情で言った。演劇部の部長なのだから、そこは感情を押し殺して満面の笑みで言って欲しいところだった。

 高館さんは、一体どんな気持ちでその言葉を自分に託したのだろうか。

 彼女は卒業するまでの間、よく口にしていた。「神室には悪いことをした」と。

 神室さんは当時七人いた二年生の中で、下剤騒動後唯一残った部員だった。そして三年生が引退した後、当時一年生だった僕たちにとっては唯一の先輩となった。

 自分には向いていないと言って、演出は後輩の僕に譲りながら、部長だけは上級生というプライドで務め、裏方専門として僕たち後輩が立つ舞台を影から支えた。

「高館さんが言うと、妙に説得力があるね」

 千歳が苦笑した。その表情が、あの日の高館さんの顔と重なった。

「そうだな」

「それでその言葉は、今でもケイタの中にあるんだね」

 千歳がやさしい声色で言った。

「ああ。高館さんは、本当に心の強い人だったと思う」

 僕は目蓋を閉じた。

 硝子の向こう側の喧騒が急に遠ざかる。

「高館さんは、部員が何人も退部していく中で、それでも部長として引退するまで居続けた。オレが彼女と同じ立場だったらおそらく途中で逃げ出していたと思う。高館さんは、自分のせいで崩れていく部を最後まで見届けたんだ。あの小さな体で全部受け止めていたんだ。辛かったと思う。苦しかったと思う。それでも目の前で起こっている現実を受け止め、オレたちに未来を託した」

 僕は目を開いた。少し眩しくて、堪らず細めてしまう。

「演劇部、続けられてよかったよね」

 千歳も目を細めていた。

「ああ。神室さんのおかげだな」

「神室さんに会いたいな」

 まだ半年も経っていないのに懐かしい、と千歳が呟いた。

 先日神室さんと会ったことを、千歳と吾妻には話していなかった。隠すことでもなかったが、かといってわざわざ話すことでもなかった。それに、僕だけが神室さんと会った理由を話すのは億劫だった。

「神室さん、文化祭に来てくれないかな」

 千歳が首を傾げた。

「さすがに来ないだろう。たかだか母校の文化祭ごときで」

 真実を包み隠すように、顎先を天井に突き上げる。

「僕たち、そのたかだか母校の文化祭ごときに、来年行かないといけないっていう約束、忘れてないよね?」

「忘れてねえよ。今から億劫なだけだ」

「それならいいけど……」

 千歳が口先を尖らせた。

 今日は文化祭だ。確かに目の前で起こっている。それなのに、この空間はとても遠い。

「オレは残したい。高館さんが守ったこの部を、来年に繋げていきたい。そして白鷹に演劇部の部長を継いでもらいたいと思っている。アイツはすごく頼りになるヤツだ」

「そうだね」と千歳が頷く。

 さらに言葉を続けようと口を開きかけたところで、廊下の端から足音が聞こえてきた。

「遅くなってすみません!」

 噂をしていた白鷹が現れた。

「二人とも、廊下で何をしてるんですか?」

 白鷹は一般教室棟から走ってきたのか、顔に汗が滲んでいた。今日は彼のトレードマークである黒縁の眼鏡をかけていない。

「梅ちゃんが最後の衣装合わせのために部室を使っているんだ」

「そうですか。それなら、これ食べませんか? 友達から貰ってきたんです」

 白鷹が胸に抱えていたパックを差し出した。お好み焼きに、クレープ。フランクフルトに焼き鳥。他にも色々ある。

「また凄い量だなあ。食べすぎて、腹を壊すなよ」

 僕の口から思わず小言が零れた。白鷹はすでに僕と笹野が差し入れた唐揚げとポテト、それから焼きそばを食べているはずだ。相変わらずの食欲である。

「僕たちの本番は、明日なんだからね」

 さすがの千歳も黙っていられなかったらしい。追い打ちをかけるように言った。

「大丈夫です」

 その自信はどこからくるのか、白鷹が満面の笑みで答えた。

「笹野の衣装合わせが終わったら、最後のリハーサルをするぞ」

 吾妻のバカ野郎。焼きそば、あんなに食べたがっていただろうが。

 ソースの香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。

 僕はいつの間にか握りしめていた拳で太股を叩いた。

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