第9幕 第1場 港にて

 母親の再婚を受け入れた吾妻は、何事もなかったかのようにしれっと部活に戻ってきた。そんな彼に、笹野は何か言いたげに唇の先を尖らせていたが、その口が開くことはなかった。一方で、舞鶴さんは素直に喜びを言葉にし、白鷹と歩も安堵した表情を浮かべていた。

 晴れ晴れとした気持ちで再スタートを切った坂田湊高校演劇部だったが、七月に入るや否や、遅れてやってきた梅雨のせいで傘を差す日々が続いていた。

 昨晩、日付を越えた辺りから降り出した滝のような雨は、煙雨に変わったものの、絶え間なく降り続いている。薄黒い真っ平らな雲は、市内全体を覆いかぶさっているのではないかと思うほど大きく広がっている。

 移動手段として自転車の利用を余儀なくされている僕たちド田舎の高校生にとって、雨は何よりもの天敵だ。雨のせいで行動範囲が制限され、家に閉じこもる者が多いのか、ホームページに載せた動画の影響がじわじわと出始めてきていた。クラスメイトのみならず、一度も話したことのない他のクラスの生徒からも「頑張れよ」と声を掛けられるようになっていた。

 白鷹が言うには、昨日の時点で、ホームページに設置したアクセスカウンターは一万に到達したとのことだった。インターネットの世界で一万という数値が果たして多いのか少ないのか、僕には判断がつかない。

 人口が約十万人の坂田市を基準にすると、市民の十人に一人がホームページにアクセスしている計算だ。東北地方の片田舎に住む男子高校生にとっては、その数値は胸奥から熱いものが込み上げてくるほど破壊力のあるものだった。

 その話を早く千歳と共有したい、と部室に向かう足が自然と早くなる。階段の最後の段を上り切ると、ついに駆け足になった。

「うーす」

 勢いよく戸を開くと、吾妻の後ろ姿が目に入ってきた。千歳と笹野の姿は見当たらない。吾妻と千歳が休み時間に一緒にいないのは珍しいな、と思いながら自分の席に着く。

「千歳は?」

「ヤスは委員会」

 吾妻が僕の顔も見ずに答えた。彼はすでに弁当を食べ始めており、ベーコンのアスパラ巻きが口の中に吸い込まれていった。

「笹野は……」

 言いかけて、すぐに口を閉ざす。どうせ吾妻に訊いても知らないだろうと思い直し、手に持っていたパンとペットボトルを机の上に置く。吾妻の方も聞き流したところを見ると、知らないのだろう。

 僕は焼きそばパンとカレーパンとエビグラタンパン、それからチーズソーセージパンとの睨めっこを始めた。腕を組み、どれから食べようかと逡巡していると、

「それ、全部食うつもりなのか?」

 吾妻が顎でパンを示した。

「ああ。四時間目が体育だったんだ。いつもより腹が減っているからな」

 僕の返事を聞いた吾妻が、怪訝そうに表情を歪めた。

「そもそもケータって、購買のパン率高くないか?」

 葉山家は、いつもならば母が弁当を作ってくれている。だが本日は、炊飯器のスイッチを入れ忘れて米が炊けていなかったというアクシデントがあり、弁当箱の代わりに五百円玉を手渡されていた。弁当だけでは足りなそうなときは購買のパンを購入して追加で食べることもあるが、決して購買パンの頻度は高いほうではない。

 クラスメイトの北沢蔵馬なんて、毎日購買のパンを食べている。よく飽きもせず毎日食べられるものだ、と呆れを通り越して感心さえ覚えるが、北沢の家は米屋なこともあり、食卓にパンが並ぶことはなく、その反動でパンへの憧れが一般人よりも強く大好物なのだという。それに。

「千歳がチョコピーを食べてても何も言わねえくせに」

 舌打ちを混ぜながら嫌味を溢す。

 チョコピーとは、チョコとピーナッツから命名されたと思われる購買パンの一種だ。コッペパンの中にピーナッツクリームがたっぷりと塗られており、外側の端に気持ち程度のチョコがコーディングされている。千歳のお気に入りで、たまに部活が始まる前に食べている。甘いものがからきし苦手な僕は口にしたことがないが、甘いものは別腹と豪語する千歳が太鼓判を捺すぐらいなので相当美味しいのだろう。

「ヤスは常識の範囲内だろうが」

 吾妻が不機嫌そうに言った。

「オレだって、男子高校生の常識の範囲内だろう。焼きそばパン百五十円、カレーパン百五円、エビグラタンパン百三十円、チーズソーセージパン百十五円、締めて五百円也。これが五百円以内に収まる、購買パンの葉山セレクトってもんよ!」

 購買のパンは全て鈴木製パンの商品だ。鈴木製パンは、僕がかつて通っていた坂田第一中学校の学区内に店舗を構えている。中学時代は、店の前をよく通っていた。高校の購買に商品を卸してくれているだけのこともあり、コンビニパンよりも安価だ。安価なうえに味も格段に美味しい。学生のみならず、地元の人たちから愛されているパン屋だ。

「そういうことには頭が使えるんだな」

 吾妻の軽口を聞き流し、食べる順序の検討を再開する。味が濃いカレーパンを最後に食べようと真っ先に決め、他の三つのパンを見比べる。一瞬、エビグラタンパンに手が伸びたが、思い直してチーズソーセージパンを掴んだ。

 互いに無言の時間が続く。が、今さらそれを気にする相手でもない。かまわず、食事に集中する。

 美味い。口の中にチーズの風味が広がる。

 僕も吾妻も口数が多いほうではない。僕のほうは相手が誰であるかによって多少ばらつきはあるが、吾妻のほうは千歳以外のヤツが相手だと、それが顕著になる。話しかけられれば話に乗るが、自分から話を広げることはあまりない。

 チーズソーセージパンの最後の一口を口の中に詰め込むと、ビニール袋を手のひらで丸めた。口を動かしながら、次はどのパンを食べようか考え始める。口の中が空になると同時に焼きそばパンを手に取り、中央に一枚のっている、鈴木製パン特有のスライスしたゆで卵を指で摘み、先に食べてからパンに齧り付いた。ゆで卵をのせたまま食べ進めると、途中で落ちてしまうことがあるのだ。

「……高校を卒業したら、一緒に暮らすぞ」

 吾妻がぼそりと言った。

「……は?」

 一瞬、聞き違いかと思った。が、神経の方は素直に受け取っていたようだ。驚きのあまり手に持っていた焼きそばパンを押し潰していた。上から具が溢れ出し慌てて手の力を弱めた。

「何を驚いてるんだ? この前、ケータが自分で言ったんだろう。一緒に住んだ方が家賃が安く済むって……」

 吾妻が怪訝な表情で僕を見た。見たというよりは睨んでいた。おそらく裏切られた気分になったのだろう。

「ああ、確かに言ったな……」

 僕は人差し指の先で溢れ出た焼きそばをパンの中に戻しながら答えた。

 あのとき吾妻は、僕とのルームシェア話に乗り気だったどころか大学進学も否定していた。それに付け加え、料理ができない僕に対して悪態をついていたはずだ。そんなこともあり、僕の中ではすっかりなかったことになっていた。一体彼にどんな心境の変化があったのだろうかと思っていると、

「だからな、ケータ。絶対に首都圏の大学に合格しろ」

 吾妻はわざわざ箸をランチョンマットの上に置き、僕に向かって人差し指を突きつけて言った。

「そんなことを言われましても、そればかりは神のみぞ知る……」

 僕は吾妻の人差し指を右手で握り、無理やり下ろした。

「何を腑抜けたことを言ってるんだ。自分の人生を神に任せるな。残り半年間、死ぬ気で勉強しろ!」

 どうやら吾妻は本気のようだ。だが、現実主義者の彼らしくない。僕が東京の大学に進学でき、ルームシェアするという将来設計を立てるとは。

「それならいっそのこと、千歳も誘って三人でルームシェアしようぜ」

 僕は焼きそばパンに喰らいつきながら言った。

 あのときはその場の勢いというか、全くの思いつきで言っただけのことだ。口走った、と表現した方が正しい。冷静になって考え直すと、僕と吾妻の共同生活が上手くいくとはとても思えない。仲睦まじく生活する姿など到底想像できない。偉そうに言うことではないが、自分の家事能力はほぼゼロに等しく、おまけにマメな性格でもないため、吾妻の小言が止まらないのは目に見えている。

「ヤスは東京に実家があるだろうが」

 言いながら、吾妻が箸を持ち直した。

 すっかり忘れていたが、千歳の実家は東京だ。祖母の介護のために坂田に住んでいる千歳たちの方が、地方に赴任していると言えるだろう。

「確かにそうだったな。それなら笹野でも誘うか……。いや、笹野が顔を立てに振るわきゃないか」

 笹野も女だ。さすがに異性とのルームシェアはまずいだろう。

 僕は過去の自分を恨みながら、この場に及んでもなお、誰か道連れできる相手はいやしないかと頭を回転させていた。一年我慢すれば、おそらく笹野の後を追って東京の大学に進学するであろう白鷹を生贄にする手もあるが、そもそも一年間我慢できる自信がない。

「笹野と一日中一緒にいるとか、想像しただけでも頭が痛くなりそうだな」

 吾妻が生姜焼きを口に放り込んだ。

 鈴木製パンのパンは間違いなく美味しいのだが、それはそれとして吾妻の弁当も随分美味しそうに見える。主役の生姜焼きが白米の上に敷き詰められており、もう一つの容器にはブロッコリーとゆで卵の白和え、ひじき、かぼちゃの煮物、アスパラのベーコン巻きと彩りが綺麗な副菜が詰まっている。

 男子高校生の弁当にしては野菜が多めなのは、大好きな可愛い妹の好みに合わせて作られているからであろう。これを吾妻が作っているというのだから……。

「オレ、覚悟を決めるわ」

 僕は拳ほどの大きさになった焼きそばパンの残りを全て口に詰め込むと、ペットボトルのお茶で流し込んだ。

「ケータ。俺は学費も生活費も最小限に抑えて、可能な限り自分で金の工面をして、それでも徹底的に東京を満喫してやる。東京にいってからのバイト先も決まっているし、あとは受験日を迎えるだけだ」

 吾妻が静かに言った。

「は……? もうバイト先が決まってるって、一体どういうことだよ?」

 今度はペットボトルを力一杯に握った。ラベルがしわくちゃになる。

「演劇部の動画を見たっていう芸能事務所のスカウトマンからモデルの仕事をやってみないかって連絡がきたんだ。本当は今すぐにでもっていう話だったんだが、高校が芸能活動を禁止しているって伝えたら、それなら上京してからということで話がまとまった」

 吾妻は昨日イオンに買い物に行ってきた話でもするかのような涼しい顔で言ってのけた。

「え……? そんな話、オレは一切聞いてないぞ!」

 僕は身を乗り出して吾妻に詰め寄った。

「まだ誰にも言ってないからな」

 吾妻が鬱陶しそうに滑らかな眉間に皺を寄せた。

「それ詐欺じゃねえのか?」

「そうだな。詐欺かもしれないな」

 僕の嫌味に、吾妻は顔色一つ変えずに答えた。

「ほんっとうに、吾妻には腹が立つなあ!」

 僕は食べ終わったパンの包み紙を小さく丸めると、ごみ箱に向かってシュートを打った。包み紙はコンパスで描いたような綺麗な放物線を描いて、見事ごみ箱の中に収まった。

「もし詐欺だったら、別のバイト先を探せばいいだけだ。東京ならいくらでも働ける場所があるだろう」

「どうせ働くなら、オレは賄いが食えるところがいいな」

「飲食のホールとか?」

「そうだな。オレにキッチンは務まりそうにないからな」

「いや、むしろバイト先で料理を教えてもらえよ」

「仕事にしたら、なおさら家でしたくなくなるだろう」

 まだ確定していない未来の話がどんどん膨らんでいく。

 僕たちの未来は、一歩先ですらどこに繋がっているのかがわからない。志望校に合格できるかわからないし、東京に行けるのかもわからない。それなのに不安を通り越してキラキラと輝いている。

「……入試に落ちたら殺すぞ」

 吾妻がぼそりと呟いた。僕はお茶をまた一口飲んでから、

「オレが大学に合格したら、七瀬ちゃんに告白してもいいか……?」

 僕の言葉に、吾妻がびくりと体を震わせた。

「……本気なのか?」

 吾妻が眉を顰める。

「冗談でこんな話をすると思うか?」

「七瀬のどこが好きなんだよ?」

「顔」

 間髪入れずに答えると、

「許可できねえな」

 吾妻が鼻で笑った。

「一目惚れだ」

 僕は素直に答えた。

「遅くなってごめん!」

 千歳が部室に駆け込んできた。

「あれ? 梅ちゃんもまだ来てないんだね」

 言いながら千歳が席に着いた。

「二人で何の話をしてたの?」

 千歳が弁当袋を開けながら訊ねてきた。

「ケータの頭が悪いって話」

 吾妻が箸をケースに片付けながら答えた。

「違う。吾妻が都会の大人に騙されてるって話だ」

 千歳が机に弁当箱を広げる。千歳の弁当箱は、僕が使っているものの半分のサイズだ。小さな弁当箱にオムライスが詰められている。彩をよくするためか、ブロッコリーとミニトマトが添えられている。

「もー! また喧嘩してたの?」

 千歳がミニトマトを口に入れて頬を膨らませた。



 演劇部の準備もいよいよ最終段階に入っていた。

 ミーティングと称し、当日の流れについて打ち合わせをしていると、ノックの音もなく部室の戸が開かれた。

「吾妻はいるか?」

 教師の牛渡が、ずがずがと重い足音を立てながら部室の中に入ってきた。

 突然の訪問者に驚いた僕は、息を止めて牛渡の行動を眺めた。牛渡は太い首を動かして机を囲んでいる僕たちをぐるりと見渡した。吾妻の姿を見つけるとそこで視線を止めた。

「今すぐ職員室に来い。理由は自分で分かっているな。心当たりがあるだろう」

 牛渡の言葉に、みんな顔を傾げた。ただ一人、吾妻だけが何を言われているのか意味が分かっているようで神妙な面持ちで頷いた。

「行くぞ」

 牛渡が太い顎で、吾妻に先を歩くように促す。

「ちょっと待ってください。吾妻に何かあったんですか?」

 僕は椅子から立ち上がり、二人の進行を妨げるよう足幅を広げて牛渡の前に立った。

「聞きたいのはこっちだ。それを今から確かめる」

 牛渡が不機嫌に答えた。

「心当たりって、一体何のことだ?」

 僕は吾妻を見たが、吾妻は僕から顔を反らした。

「吾妻!」

「悪い……」

 吾妻はそれだけ言うと、僕の脇をすり抜け、そのまま部室を出て行こうとした。

「吾妻!」

 もう一度叫んだ。しかし吾妻は背中を見せたきり何も応えなかった。

 部室の戸が閉まり、室内に静けさが戻った。

「一体何が起こっているんだ……」

 噛み合わない口から、思わず心の声が漏れた。

「シズオの身に何かあったのかな?」

 いつの間にか隣に立っていた千歳が不安そうに言った。

「分からないわ」

 答える笹野の声も震えていた。

「心配ですね」

 白鷹の声だけが、やけにしっかりとしたものであった。

 吾妻のことが気になり、練習に集中できないまま時間だけが過ぎていった。少しでも廊下で物音がすると、誰もの視線が扉の先へと動いた。

 十九時も過ぎ、今日の活動を終えようとしていたところで吾妻が部室に戻ってきた。

「吾妻! 一体何があったんだ?」

 僕は真っ先に吾妻の元へ駆け寄った。

「悪い、ケータ……。俺、ロミオ役を降りる」

 吾妻は口数少なくそれだけを言うと、僕の肩を押し、机の下に置いていた荷物を手に取った。

「ちょっと待て! 一体何が起こっているんだ? オレたちに分かるように説明してくれ!」

 僕は咄嗟に吾妻の腕を掴み、部室から出ていこうとする体を引き止めた。掴んだ左腕に付けている腕時計の天板が照明の光を弾いた。

「何をやっている吾妻! 早く行くぞ!」

 廊下から牛渡の怒鳴る声が響いた。思わずといった調子で舞鶴さんの体が震えた。

「今行きます」

 吾妻が答えた。が、痺れを切らした牛渡が苛立ちを隠そうともせず、舌打ちを鳴らしながら再び部室に入ってきた。

 僕は仕方なく吾妻の腕を離した。自由になった吾妻は、自らの足で部室を出ていく。

「牛渡先生! 吾妻が一体何をしたって言うんですか?」

 僕は生徒の前で苛立ちを隠そうともしない、腕を組んでいる牛渡に訊いた。

「本人から何も聞いていないのか? 吾妻は学校の許可を得ずに無断でバイトをしていたんだ。これから保護者と担任を交えた面談を行う」

 牛渡が面倒くさそうに答えた。

「何を言ってるんですか? 吾妻は一年生のときからバイトをしていて許可はきちんと貰ってるはずですよ!」

「もう一つ、無許可のバイトをしていたんだ。それも校則で禁止されている深夜の時間帯にな」

「そんな……!」

「明日から一週間の停学だ。もちろん部活動も禁止だ」

 牛渡は声色を低くして言った。

「ちょっと待って下さい! 一週間って、停学明けは文化祭二日目じゃないですか!? 文化祭の準備はどうなるんですか? 吾妻が一週間も部活を休むことになったら、とてもじゃないけど準備が間に合いません!」

 僕は悲鳴に近い声で叫んだ。

「停学中に文化祭の準備も何もないだろう。自宅謹慎に決まってる。それに停学で済んだだけでもよかったと思え」

 途端牛渡の目つきが鋭くなった。

「吾妻は主役なんです! 吾妻なしに舞台は成立しません!」

「あのなあ、葉山。吾妻は校則を破ったんだ。それなりの罰は受けて当然のことだろう」

 牛渡が呆れたように言った。その口から吐き出された溜め息に鳥肌が立った。

「オレたち三年生にとって最後の舞台なんです! 放課後の時間だけは、どうか吾妻の自宅謹慎を免除してください!」

 僕は震える腕を誤魔化すよう、上下に振りながら叫んだ。

「そんな都合のいい罰則があるか。無理に決まってるだろう」

 牛渡が怒鳴った。

「そこを何とかお願いします!」

 僕は迷わず床に膝をつけると額がつくほど深く頭を下げた。

「おい、葉山。そんなことをしたって無駄だぞ。頭を上げろ」

 牛渡が低い声で言った。

「嫌です」

「罰は罰だ。お前が何をしたところで一切無駄だ。みっともない真似をするな。お前たちもあまり遅くならないうちに家に帰れ。文化祭だからって羽目を外すな。とくにお前ら三年はこれから大学受験が控えているんだってことを忘れるな」

 重たい言葉を置き去りにしたまま、うるさい足音が遠ざかっていく。どうやら牛渡が部室から出ていったようだ。

「何でだよ、吾妻……。どうして……どうして……」

 僕は床に押し付けた顔を持ち上げられないまま、木の板の床を拳で殴った。板の隙間から埃が舞う。それでももう一度拳を振り下ろした。

「残念だけど、お手上げだよ……」

 千歳の掠れた声が落ちてくる。

「こればかりは私たちにはどうすることもできない問題だわ」

 笹野が後に続いた。

「ケイタ、さすがに土下座はやりすぎだよ。後輩たちも見てる。早く立ちな」

 千歳が僕の脇の下に手を差し込み、無理矢理体を起こさせた。

「オレはここにいる誰かのためなら、みっともない真似だろうが、無様な姿晒そうが何だってやってやる!」

 千歳に体を支えられたまま僕は叫んだ。

「だからって土下座はやりすぎだよ」

「それなら『はい分かりました』って、すんなり諦めればよかったのか!」

 僕は千歳に向かって言葉を吐き捨てた。千歳は困ったように眉を下げた。怒りをぶつけるべき相手が千歳ではないことは分かっていたが、口は止まらなかった。

「そこまでは言ってないよ。それにシズオの代役ならケイタができるだろう」

 千歳が慌てて言った。

「代役って……。吾妻を見放すつもりか?」

 僕はさらに口を強くして言った。

「ちょっと落ち着いて! 葉山、さっきから話が極端よ。すぐ喧嘩腰にならないで。冷静に話し合いましょう」

 笹野が横から口を挟んだ。

「先輩方、一旦椅子に座りましょう。立ってるから頭に血が上るんです」

 白鷹の言葉に従い、部室にいる全員がのそのそと椅子に座り出した。誰もの視線が、今は空席である吾妻の定位置に自然と引き寄せられていた。

「オレは、吾妻がいなければ舞台は成立しないと思っている。だから吾妻なしの舞台は考えられない」

 瞬きをするなり、僕は一番に言った。

「それは僕も同じ気持ちだよ。だけど、ケイタはシズオの台詞を覚えてきたわけだろう。それはシズオに何かあったときのためだ。それが今なんじゃないの? 何のための代役なの?」

 千歳が僕の顔を見つめた。

「それは、そうだけど……」

 彼の正論に、僕はしどろもどろになりながら答えた。

「私も千歳の意見に賛成だわ。校則を破った以上、自宅謹慎は免れないわ。本番まで合わせ稽古もリハーサルもできないとなると、葉山がロミオを演じるのが最善の選択よ」

 笹野が悔しそうに机の天板を睨みながら言った。

「オレにロミオの代役はできる。だけど吾妻の代役はできない」

 僕はすぐに反論した。それが演劇において一番のタブーであることは僕自身が分かっていた。

 代役。

 演劇に代役は付きものだ。演劇は生きている。生きているからこそ、代役というシステムがなければ成立しない。皮肉なことだが、三年前のあの事件も、演劇が生ものであるからこそ起きたのだ。

「ケイタ……」

「葉山……」

 千歳と笹野が同時に呟いた。すると白鷹がすっと左手を挙げた。

「自分は葉山先輩についていきます。これで二対二です」

 白鷹が三年生を順番に見つめた。誰もが不安に目を揺らしている中、彼だけはどっしりと目の位置を定めていた。

「こんな大事なことを多数決で決められるわけがないでしょう。私だって、本当は吾妻に舞台に立って欲しいと思ってる。だけど現実的に考えて、それが難しいからどうにかしようって言ってるの」

 笹野が声を強くした。

「そうだよ。梅ちゃんの言うとおりだ。もし舞台が失敗したら、シズオは責任を感じると思う」

 千歳も慌てて言った。

「失敗なんてさせない」

 そう言うと僕は唇を強く噛み締めた。

「それならどうするの? 現実は演劇みたいに、自分たちの都合で自由には動かせないわよ」

 笹野が僕を見た。その目は僕に救いを求めていた。

「それは……」

 僕は言い淀んで口を噤んだ。そのとき、熊野先生が部室に入ってきた。

「熊野先生! 吾妻が……」

 僕は机に手をついて立ち上がった。

「ああ、知ってる。この時期にやってくれたなあ……」

 熊野先生は吾妻の椅子を掴むと、僕たちから少し離れた壁際まで椅子を運び、そこに腰を下ろした。

「そんな言い方をしなくても……」

 千歳が熊野先生を非難するように呟いた。

「熊野先生! 何とかしてください! このままだと、吾妻は舞台に上がれないんです!」

 僕は机に拳を落として訴えた。

「何とかしてくれって言われても、俺には何もできない。若手の俺が、何十年も教師で飯を食っている先輩方を相手に意見が通るわけがないだろう。それに、ここは教育の場だ。罪を犯したら罰せられる。学校はそれを学ぶ場で、その法則をそう簡単に崩せるわけがないだろう」

 熊野先生の言っていることは正論だった。誰も何も言い返すことができない。熊野先生は表情の硬い顔を持ち上げ、僕たちの顔をぐるりと見渡すと静かに言葉を続けた。

「吾妻は、文化祭二日目まで学校には登校できない」

 そこで熊野先生は一度息を吐き出すと、その緊張が僕たちにも伝染したのか、場の空気が引き締まった。

「どうする? 舞台を中止にするか……?」

 熊野先生の言葉に、心臓ががっしりと捕まれた。

「中止になんてしませんっ!」

 僕は反射的に言い返した。

「熊野先生、協力してください! オレたち何でもします!」

 熊野先生は冷静だった。腰を浮かせた僕を宥めるよう、手の動きで座るように制した。僕は大人しく椅子に座り直した。

「俺も演劇部の顧問という立場上、お前たちを応援したいと思っている。だけどな、人生は理不尽なことで溢れてる。これからお前たちはいずれ社会に出る。社会に出ればもっと、もっと理不尽な思いを沢山するはずだ。自分の行いだけではなく、他人からの行いによって苦しむ場面もあるだろう」

 僕は黙って聞いている他なかった。

「俺が……。俺だけは、お前たちの味方だぞって言える教師だったら、よかったのかもしれないなあ……」

 熊野先生は天井を見上げて言った。

 そこには決して眩しいとはいえない、弱々しい照明の光があるだけで、他には何も見えなかった。



 ホームページに載せた動画の影響は、良い意味でも悪い意味でも、僕たちの予想を遥かに超えていた。一度放たれた火はみるみると広がり、僕たちはそれをコントロールできなくなっていた。

 吾妻はコンビニエンスストアとは別に、市内のガソリンスタンドでもアルバイトをしていた。年齢を偽り、アルバイトの面接を受けたという。そのため店長は、吾妻が高校生であることを知らず、深夜の時間帯にも働かせていたのだった。

 SNSを通じて演劇部の動画を見た店長の息子が、ロミオを演じる吾妻に気づき、学校に問い合わせたのだという。

 吾妻の言い分によると、大学進学に進路を変えたことで学費を少しでも多く稼ぐためにガソリンスタンドのアルバイトを始めたという。しかし母親の再婚相手を受け入れることで学費のあてができたこと、狭い田舎町ゆえ、いつ嘘がバレてもおかしくない環境が高ストレスだったこと、そして何より部活に専念するため、次の出社日にアルバイトを辞める話をつもりだったという。

 ガソリンスタンドは家族経営の小さな店で、人員確保を急ぐあまり、身元確認を怠った自分たちにも落ち度があるし大事にしたくないという店長の意向で、吾妻は一週間の停学で済んだらしい。

 演劇部の公演日まで吾妻が部活に参加できないことが正式に通達された今、改めてロミオ役を吾妻のままでいくか、代役の僕が立つかの話し合いをしていた。熊野先生からは、自分たちで決めろと言われた。

「オレは、吾妻が舞台で主役を演じることをまだ諦めていない」

 僕はそう言ってから、部員たちの顔を順に見つめた。

 千歳と笹野は顔を俯き、舞鶴さんと歩は不安そうに唇を結んでいる。白鷹だけが、レンズを挟んでいるとはいえ、強い眼差しで僕を見ていた。みんなにもそう思っていて欲しかった。主役は吾妻しかいないと。

「放課後に、吾妻さんの家で練習するのは駄目なんですか? さすがに先生たちも、吾妻さんの家まで見張りませんよね?」

 歩が首をぐるりと回しながら訊ねた。

「さすがに家までは見張らないだろうが、問題はそこじゃない。本番さながらまでとは言わないが、広い空間で笹野と合わせができないことが問題なんだ」

 すかさず、僕が答えた。恐らく歩に限らず、誰もが一度は頭に浮かべた案だろう。

「シズオはまだしも、梅ちゃんは広い空間に声を張る感覚を身に付ける必要があるし、シズオの部屋での練習は得策じゃない」

 千歳が続いた。

 もしジュリエットが千歳だったら、と何度頭をよぎっただろうか。彼が相方だったなら、ぶっつけ本番だろうが賭けになるだろう。吾妻のフォローも上手くやってのけるだろう。だがその役割を、初めて舞台に立つ笹野に求めるのは酷だし、現実問題無理な話だろう。

 僕はしばらく考えてから口を開いた。

「やっぱり、吾妻には一人で練習してもらうしかない。オレたちは、笹野の練習を優先する」

 体を笹野に向ける。笹野が緊張したように背筋を伸ばした。

「笹野。オレを吾妻だと思え。オレは、ロミオじゃなくて吾妻を演じる」

 蒸し暑さから、僕の額には汗が滲んでいた。

 今日は朝から一日中雨が降っているため、窓を開けることができない。じめっとした空気が室内にこもっている。笹野の髪の毛が珍しく広がっているのも湿気のせいだろう。

「わかったわ。葉山の好きなようにしなさい」

 笹野が溜め息を吐きながら言った。

「千歳も賛成してくれるか?」

 僕は昨日の千歳の言葉を思い出しながら言った。

「僕だって、シズオが舞台に立てるなら、立ってほしいと思ってる。昨日は突然のことに混乱してあんなことを言ったけど、ロミオはシズオだ」

 千歳が眉間に眉を寄せて言った。

 白鷹と目が合う。彼は黙ったまま頷いた。

「よし、活動を始めるぞ」

 僕は手を強く打って、椅子から立ち上がった。

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