第8幕 第4場 自室にて

 吾妻の家には何度も訪れたことがあるが、一人で訪問するのは今回が初めてだ。

 吾妻のアルバイトが休みのタイミングを見計らい、千歳と白鷹を連れて家に押しかけては映画を観たり、トランプをしたりして遊んだ。

 雑談が盛り上がり一晩明かしたこともある。そのときは客人である僕たちを床に放ったまま、一人ベッドで眠ろうとする吾妻を邪魔して、結局全員が一睡もできないまま朝を迎えた。いや、全員と言ったが正しくは違う。千歳だけは壁に背を預け、直角の姿勢で眠っていた。

 緊張しながらチャイムを鳴らすと、頭上のランプが点灯し、少しして玄関の錠が解除された。

「七瀬、鍵でも忘れたか?」

 ネモフィラ柄のエプロンを身に付けた吾妻が、左手で頭を掻きながら戸を開いた。

「よお」

 僕は吾妻の予想外の姿に動揺し、意味もなく右手を上げた。

 吾妻の方も、僕の突然の訪問に戸惑っているようで、その場で身を硬くした。よく見ると顎髭が伸びており、口端にはまだ僕がつけた傷痕が残っていた。

「ずいぶんとファンシーな格好だな。そんな姿をしているってことは、バイトは休みだよな? 遠慮なく、部屋に上がらせてもらうぞ」

 僕は吾妻が石化しているのをいいことに、上がり框に膝をつき、脱いだ靴を端に揃えた。

「昨日、七瀬ちゃんがオレの家に来た。あまり妹に心配を掛けるなよ、お兄ちゃん」

 僕は呆然としている吾妻に買い物袋を押しつけた。吾妻の家に来る途中、吾妻のバイト先のコンビニで買ってきたお菓子である。

「七瀬には手を出すなよ」

 吾妻が声を絞り出すように言った。

 僕は聞こえなかった振りをして、家の中へ足を踏み入れた。

 吾妻の部屋は二階にあるが、階段を上るためにはリビングも兼ねたダイニングを通らなければならない。

 小さめのキッチンは味噌の香りで包まれており、鍋が煮える音と換気扇の音が入り混じっていた。

「これ、吾妻が作ったのか?」

 僕は思わず足を止めた。ガスコンロにかけてある鍋には芋煮、フライパンには金平ごぼうが入っている。

「俺以外に誰がいるっていうんだ」

「いや、そうだけど……」

 僕は昨夜の七瀬ちゃんの言葉を思い出していた。

「これくらい簡単だろう。誰にだってできる」

 吾妻はエプロンを脱いで椅子の背もたれにかけると、ガスコンロの方に移動して換気扇を止めた。

「いや、オレは卵焼きも作れねえし」

「それはさすがに問題だぞ。ケータ、東京の大学に行くんじゃないのかよ」

 吾妻が右の頬を持ち上げ、目尻を尖らせた。

「志望はしてるけど、受かるかどうかは別の問題だろう」

「今からそんな弱気でどうするんだ。それに一人暮らしをするつもりなら、料理ぐらい、今からできておかないと困るぞ」

「東京ならいくらでもコンビニがあるから食には困らないだろう。こんなド田舎と違ってさ」

「毎食コンビニ弁当なんて食ってたら食費はかさむし栄養は偏るし、健康に支障が出るぞ」

「それならオレ、吾妻と同棲するわ。なかなかいいアイディアだと思わねぇか? 家賃は折半でお得だし、オレの健康は守られるし。ウィン・ウィンだろう?」

「何がウィン・ウィンだよ。俺の負担の方が確実に大きいだろうが。それに俺は、東京にも大学にも行かねぇよ」

「でも大学進学に進路を変えたって……」

 今度は吾妻が僕の言葉を無視した。冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを取り出し、食器棚からグラスを二つ準備した。

「俺の部屋に行くぞ」

 吾妻が大人びた顎で僕を促した。

 僕はそれが面白くなくて、意味もなく吾妻の尻に軽い蹴りを一発入れた。



 吾妻の部屋は白色と灰色で統一されているせいか、どこか寂しく、どこか眩しい。室内には壁掛け時計どころか置き時計もない。針の音一つしない空間は、自由と思いきや現実は裏腹で、窮屈な上にむだに緊張を煽られる。

「……それで七瀬は、ケータに何を言ってきたんだ?」

 吾妻が床に直接グラスを置き、麦茶を注ぐ。吾妻の部屋には、僕や千歳の部屋にあるようなローテーブルなんて洒落たものは存在していない。かといって、お盆やトレーのようなものを用意する心遣いもない。どちらのコップにも縁のぎりぎり辺りまで並々に注ぐと、それを一つ、慎重な手つきで僕の方に押し出した。

「ケーくんを好きになっちゃったから、私と付き合って、だってさ」

 七瀬ちゃんの声色を真似て甲高い声で言うと、僕は早速グラスに口をつけた。見た目どおりに味の濃い麦茶が乾いていた喉に染み渡っていく。

「つまらねえ冗談を言うな。七瀬がケータを好きになるはずがないだろう。さっさと本当のことを話せ」

 吾妻はぶっきらぼうに言うと、僕が玄関口で渡した買い物袋からうすしお味のポテトチップスを取り出して封を開けた。取りやすいように袋の全面を展開し、いわゆる「パーティー開け」をした。

「七瀬ちゃんに感謝しろよ。七瀬ちゃんのおかげで、オレも吾妻もこうやって向き合わざるおえない状況になってるってこと、わかってんだろう?」

 僕はポテトチップスを一枚掴み、口の中に放り込んだ。

「そうでなけりゃ、吾妻は玄関口でオレを追い返していたはずだ」

 もう一枚、続けて放り込む。ポテトチップスの咀嚼音でさえ今はありがたい。

 吾妻は麦茶にもポテトチップスにも手をつけない。顎に親指の腹を当て、人差し指だけを動かして髭を撫でている。

「おせっかいを承知で首を突っ込むが、吾妻の家は一体どうなってるんだ?」

 僕の軽い咀嚼音だけが薄暗い部屋に響く。

 ときどき唇にのった塩を舌先で舐め取りながら、僕はポテトチップスを掴んでは口に運んだ。それでも一度に複数枚まとめて掴むことはなく、一枚、一枚、丁寧に扱った。

「七瀬ちゃんは、吾妻がバイトを増やした理由を、彼女が塾に通うためだと言ってた。でも吾妻は自分の大学進学の費用を賄うためだと言ってる。一体どっちが真実なんだ?」

 僕の問いかけに、吾妻は沈黙を守る。校庭で校長先生の話を聞かずに砂いじりをする子どものように、ただ髭を撫でている。

 僕はようやくポテトチップスに伸ばす手を止め、今度は意味もなくグラスを傾けては吾妻が口を開くまでの時間を繋いだ。

 僕たちが真正面から向き合うには、吾妻の部屋は少し静か過ぎた。こんなことなら吾妻を港に連れ出せばよかったと頭の片隅で思いながらも、僕は仕方なく言葉を続けた。

「学費は、奨学金を借りればそう急ぐ話じゃないはずだ。吾妻が人並み以上にバイトをしている本当の理由は、七瀬ちゃんの……」

 ずるいかと思ったが、七瀬ちゃんに大口を叩いてしまった以上、ここで大人しく引くわけにはいかなかった。

「どっちも本当の話だ……」

 僕の思惑通り、吾妻がようやく口を割った。

「俺の大学進学と七瀬の塾通い。この二つを叶えるために、お袋は再婚する」

 吾妻の口は漕ぎ出したばかりの自転車のペダルのように、まだ確かな重みを引きずったままゆっくりと動き出した。

「俺は高校に入学したときから、お袋には大学に進学する気がないことは散々伝えてきた。そのことにお袋は何も言わなかった。だからてっきり理解してくれているものだと思ってた。だけどお袋は黙っていただけで、何が何でもオレを大学に進学させようと決めていたらしい」

 僕は吾妻がペダルを漕ぐ自転車の荷台に跨り、吾妻の話を彼の背中越しに聞いていた。彼の声は向かい風を受けて、ときどき聞こえづらい。

「お袋が俺を大学にいかせたいと思う気持ちは理解できるんだ。死んだ親父が学のある立派な人だったから、俺をそういう風に育てたいと思っていることはわかるんだ。でも俺は、お袋の傍で金が稼げればそれでいいんだ。それに……」

 吾妻がグラスに手をかけたが、掴んだまま言葉を続けた。

「死んだら学歴なんて関係なくなるだろう……」

 吾妻はペダルから足を外すと両足のかかとを地面につけ、首だけで振り返った。

 吾妻が部屋に入ってから、初めて僕の目を見た。

 吾妻の髪の毛は潮風ではためき、肌を叩く音が風の強さを伝えていた。空になったペダルは、風見鶏のように回り続けていた。

「ケータ……助けてくれ……」

 吾妻が崩れるように項垂れた。その拍子に、一口も飲んでいなかった吾妻のグラスが傾き麦茶が溢れた。見る見るうちにグレー色のカーペットに滲みが広がっていく。

 僕は吾妻の震える視線を受け止め切れず、湿った唇に歯を立てた。

「高校生の俺じゃだめなんだ。いくら時間があっても、子どもが金を稼ぐのには限界がある。俺、七瀬に夢を諦めろなんて言えねえよ……。でも言わなきゃ、俺たちの将来のために、母さんが再婚しちまうんだ……」

 吾妻の声も風に流れていく。

 僕は倒れたグラスを元に戻すことも濡れた床を拭くこともできないまま、背中を丸める吾妻を見下ろした。

 唇に残っていた塩味が、僕を海の中に引きずり込んだ。鮮やかな色の熱帯魚たちが優雅にたゆたうような世界ではない。目を凝らさないと光の筋さえ届かない真っ暗な世界だ。

 母親に対する敬称が「お袋」から「母さん」に変わったとき、吾妻は、もう……。

 お前、そんな声も出せるのかよ。

 お前、そんな顔もできるのかよ。

 お前、そんな姿、オレに晒せるのかよ。

 それは昨日、僕が望んだはずの吾妻の姿だったが、いざ目にすると優越感よりも戸惑いの方が遥かに強かった。

「吾妻……」

 あの吾妻がこの僕に、素直に助けを乞うとは思ってもみなかった。手の差し出し方がわからないのに、殴り方は知っている自分が心底情けない。

 溺れていたのは、僕の方だった。

 僕は吾妻に何をしてあげられると思って、ここに来たのだろうか。七瀬ちゃんにいい格好をしたい手前、いざとなれば、どうにかできるなんて自惚れていたのだろうか。

「今でも思うんだ。どうして事故にあったのが、俺の父さんだったんだろうかって。どうして母さんから、どうして俺たち家族から、たった一人の父さんを奪ったんだろうって……」

 お前、そんな風に、オレよりもでかい体を震わせられるのかよ。

 吾妻が自身の左腕を掴んだ。高校生が身につけるにはあまりにも高価な腕時計の天板が、薄暗くなった部屋の中で光った。

 家の中にいるというのに、吾妻の左腕には腕時計がつけられたままだった。

 思い返してみれば、吾妻の左腕にはいつも腕時計がついていた。今日だけの話ではない。彼は家の中に居ても絶対に腕時計を外さない。舞台に立つ本番直前まで、彼の左腕から外されることはない。

 きっと父親の形見だ。

 バカ野郎な僕は、吾妻と二年半も一緒にいたくせに、その可能性に今になって初めて気がついた。

 吾妻の部屋の中に、時計が置かれていない理由に初めて気がついた。

「俺、知ってるんだ。母さんのことを悪く言う人間がいることを。俺のことをヤングケアラーって呼んで、勝手に同情している人間がいることを。俺はそれが一番許せない……。俺からしてみれば、家族のためにバイトや家事をすることは何だってないんだ。ただ自分にできることをしているだけなんだ。それなのに、他人がそれを許してくれない……」

 吾妻が床を拳で殴った。その衝撃で、僕のグラスが倒れた。数センチだけ残っていた中身がゆっくりと絨毯に染みを作っていった。

「俺たちに関係ないのに、関係ないくせに、なぜか外野から石を投げてくるんだ。関係ねえくせに黙っていないんだ。関係ねえくせに偉そうなんだ! 俺たちに関係ねえくせに! それなのに、口は出してくるくせに、助けてはくれねえんだ……」

 吾妻の背中が大きく波を打った。

「俺は、七瀬に自由な夢を持って欲しかった。でも七瀬に不自由な夢を持たせたのは俺なんだ。俺は全然いいお兄ちゃんなんかじゃない。俺が弁護士への不満をいつまでもネチネチと口に出していたから、七瀬にはそれが刷り込まれているだけなんだ。だから七瀬が弁護士になりたいと望んでいるのは、俺のせいなんだ……」

 震えている拳が二度、床を突いた。

「今でもときどき、あの日を思い出すんだ。あの日観た青色が忘れられなくて、青信号なのに足がすくんで、横断歩道を渡れなくなるときがあるんだ……」

 吾妻が掠れた声を漏らす。

「あの日のことを思い出して、その場から動けなくなるんだ……」

 僕は瞬時に、先日吾妻と千歳とラーメン屋に行ったときのことを思い出した。あのときはアルバイトで疲れているのかと思い何も気に留めなかったが、まさかそういう事情があったとは。

 満月から遠ざかっていく月夜が、窓の外から吾妻を包み込むように照らしていた。

 吾妻の荒い息遣いが、目に見えるように震えていた。

「お前が青信号でも横断歩道が渡れないって言うんなら、オレが脚本を書いてやる。お前が演じられるように、オレがお前の行く先を書いてやる。だからお前は、オレが書いた脚本どおりに演じてみせろ!」

 手の差し出し方なんて知らない。知らなくていい。相手が吾妻なら、やり方が違う。

「吾妻、本当はわかってんだろう? 再婚と養育費に関係がないってこと。吾妻が母さんの再婚を素直に認められないだけだってこと。それは、七瀬ちゃんを泣かせてまで貫かないといけないプライドなのかよ!」

「わかったような口をきくんじゃねえよ! 俺だって、本当はわかってるんだ……。母さんが、アイツのことを好きだってこと……。だけど! どうしても納得できないんだ……。俺には、人の気持ちを変える力なんてないのに……」

 吾妻が両手で自身の頭を抱え込んだ。

「オレに吾妻の気持ちがわかるなんて無責任なことは言わない。オレの両親はまだまだ当分死にそうにないほど元気だし、少ないけど小遣いだってくれるし、毎日温かいご飯はもちろん、弁当も作ってもらってる。まあ、ときどきお金を渡されて、購買のパンを頼ることもあるけどな。吾妻からしてみれば、自分がどれほど家族や金に恵まれているかってことはわかってる。わかってるけど……オレは、吾妻の身長が死ぬほど羨ましい! 正直な話、オレが持っているものなら何を差し出してでも交換して欲しいと思ってる!」

 誰かに対する遠慮に、本当は優しさがないことを知っている。結局は、自分を守っているだけ。自分が傷つきたくないだけ。

 だから、物分りのいいふりはしない。この心が傷ついたってかまいやしない。お前の目を覚まさせてやるためならば、自分の拳に血が流れたっていい。 

「オレは! お前にすっげー嫉妬してる!」

 つまらない嘘も駆け引きもやめた。自分だけが損をしたっていい。こいつになら裏切られたってかまわない。

 だからオレについてこい、吾妻。

「オレは、憎くて憎くて堪らないお前に、何が何でも舞台に上がってもらわないと気がすまねえんだよ」

 吾妻を使ってあいつらを見返してやることしか、僕に残されている道はない。

「吾妻って、箸の持ち方も、鉛筆の持ち方も綺麗だろう。オレの母さんが褒めてたぞ。オレはどっちも正しい持ち方ができないわけじゃないが、面倒くさくて、つい楽な持ち方をするわけ。それを母さんに見つかると、いつも決まって言うんだよ。『吾妻くんは、親御さんから大事に育ててもらったのね』って。それを言ったら、自分が子育てに手を抜いたっていうことになるって気づいてるんだか、どうだか知らないけどさ……。別に、箸や鉛筆を正しく持てない人が、親の愛情を受けれなかったとは思わないけど、でも吾妻みたいに、綺麗に持っている人間を見るとさ、親から丁寧に育ててもらったんだなって思うわけ。だから吾妻はさ、胸を張って生きればいいじゃん。それで、くだらねえことを言ってくるヤツの前で、吾妻は綺麗なままでいればいいじゃん」

 長台詞を噛まずに言い切ると、

「ただいまー」

 床から、玄関が開く音とともに、吾妻の母の声が聞こえてきた。

 なんて完璧なタイミングなのだろうか。僕は緩みそうになった口元を引き締めてから、

「確かめるぞ」

 言うが早いか、その場にすくっと立ち上がった。

「は?」

 吾妻が涙を引っ込めて、僕の顔を見上げた。

「吾妻の母さんの気持ちを確かめに行くぞ」

 僕の言葉の意味を理解した様子の吾妻が、目を大きく見開いた。

 僕は重い足取りの吾妻の背中を押しながら階段を降りた。ダイニングに着くと、吾妻の母はテーブルの傍らに立っていた。

「お邪魔しています」

 吾妻の前に立ち、頭を軽く下げた。

「あら、葉山くん。久しぶりね」

 青白く疲れている顔とは裏腹に、吾妻の母が明るい声を出した。

「ケータ、今日、家に泊まっていくから。あと、晩ご飯は作っておいた」

「え?」

 吾妻は僕の口から余計な言葉が出ないうちにさっさと部屋に連れ込もうと考えたのか、僕の肩を無理やり抱いた。

「静央、いつもありがとう。葉山くん、何もおかまいができなくて申し訳ないけれど、ゆっくりしていってね」

 吾妻の母が胸の前で手を合わせながら言った。僕の母のものよりもずっと細く、薄い手だった。

「いえ、あの、オレのことはかまわずに……」

「それじゃあ、俺たちは一旦部屋に戻るから」

 僕の言葉を遮って、吾妻が僕の背中を押し始める。

「すぐに着替えてくるわね。支度が整ったら声を掛けるわ」

 事情を知らない吾妻の母は、最後までにこにこと笑っていた。



「おい! 泊まるって、どういうことだよ?」

 吾妻の部屋の戸が閉まるなり、僕は彼に詰め寄った。

「一泊くらい平気だろう。ケータの親は、そういうの全く気にしないし。思わず口から出ちまったんだ。許せよ」

 吾妻が壁に背をつけながら言い訳をした。僕は舌打ちを鳴らしてから、

「明日、学校に着ていくワイシャツは貸してくれよな」

 今度は溜め息を零した。

「俺のワイシャツで大丈夫か? ダボダボになるんじゃないか? ヤスに、学校に持ってきてくれるように頼んだ方がいいんじゃないのか?」

 吾妻が茶化すように歯を出して笑った。

「そんなに身長差ないだろう! それに、千歳のワイシャツこそ入らねえよ!」

 誰のせいでこんなことになっているんだと思って、と声が荒んだ。

「本気で怒るなよ。本当にケータは、身長のこととなると、すぐに熱くなるんだから。どうしてそんなにコンプレックスなんだ?」

 吾妻が不思議そうに唇の先を尖らせる。

「身長の高いヤツには一生わからねえよ」

「そういうケータも十分高い方だろう。何センチあるんだっけ?」

「百七十九だ」

「ヤスが聞いたら怒るぞ。アイツは百六十五もないんだから。それに、百七十を越えていれば、十分成人男性の平均身長以上だろう」

「オレは身長が高いヤツらの世界で戦ってきたんだ。吾妻みたいなヤツがうじゃうじゃいる世界だ」

 僕はこれ以上、この話を続ける気になれず、話題を変えることにした。

「ここまで人を巻き込むからには、吾妻の親父の話を聞かせてくれ」

 僕はずっと吾妻の家庭事情が気に掛かっていた。

 吾妻は僕の視線に気づいたのか、腕時計を浅黒い指先でやさしく撫でた。てっきり嫌がるかと思っていたが、意外にも吾妻はゆっくりと口を開いた。

「親父は、俺が小学校一年生のときに交通事故で死んだ。それまで俺たち家族は東京に住んでいたんだが、親父が死んで間もなく、お袋の実家のあるこの町に引っ越してきた。お袋は大学を卒業してすぐに親父と結婚したこともあり、外で働いた経験がなかった。それで何とか働き口を探そうと考え、自分の母親を頼るために、この町に引っ越してきたんだ」

 吾妻の顔は母親に似ている。ぱっちりとした二重の目、筋の通った高い鼻、すっきりとした顎。全部、同じだ。唯一似ていないのは背の高さだろう。あくまでも僕の目測だが、吾妻の母は女性の平均身長である百五十八センチを満たしていないはずだ。

「親父が死ぬ前は、俺が小学校から家に帰ってくると、お袋が手作りのお菓子を作ってくれていたんだ。俺はそのお菓子が大好きだった。今日はこんな遊びをした、こんな勉強をしたって話をしながら、お袋と一緒にお菓子を食べる時間が大好きだった。お袋が働くようになってから、その時間はもう二度と訪れなかった。持たされた鍵で家の中に入っても、真っ暗な空間が広がっているだけだった」

 吾妻が指先で床を突いた。そのリズムは吾妻の心拍数と同期しているのだろう。正常時よりも速く忙しない。まるで生き急いでいる吾妻の人生そのものの音だった。

 話は続いた。

 吾妻の母親は、幼い頃に病気で父親を亡くしており、彼女自身も母子家庭だったこと。頼りにしたはずの祖母が、この町に引っ越して間も無く、病気で亡くなったこと。

 吾妻の父親は銀行員だったこと。学生時代に野球部で甲子園を目指していたこと。自分に男の子が生まれたら野球をやらせたいと思っていたこと。それでも子どもが他にやりたいことがあったら、それをやらせてやろうと思っていたこと。自分の子どもにはお金を理由に、何かを諦めさせたくないと思っていること。

 吾妻の父親が望んでいたことが、今の自分はほとんど手にできていないこと。それを吾妻の母親が気にしていること。

 吾妻の父親と母親は駆け落ち同然で結婚したため、父方の祖父母とは疎遠であること。父親の墓は東京にあるため、何年も墓参りに行けていないこと。

 父親は、吾妻の目の前で車に跳ねられたこと。自分を庇うために犠牲になったと、吾妻が思っていること。

 事故は、赤信号を無視して飛び出してきた子どもを避けようとした車が、吾妻と吾妻の父親の方に突っ込んできて起こってしまったこと。事故の原因を作った子どもは現場から逃走していて、今も見つかっていないこと。車を運転していたのは二十代の女性で、この女性も現場から逃走して自殺してしまったこと。犯人が逃げていなかったら、もしかしたら父親は助かっていたかもしれないこと。

「親父の命日は、今でもシャワーの音が一晩中流れっぱなしで全く途切れないんだ」

 吾妻の背の高さは、おそらく父親の遺伝だろう。吾妻の家には家族写真が一枚も飾られていないため確かめようがないが、僕は確信めいたものを感じていた。

「俺がお袋の泣く姿を最後に目にしたのは、親父の葬式の日だ。その日以来一度も見たことがない。でも本当は違うんだ。お袋は風呂の中で泣いていたんだ。シャワーの水をガンガン流して、その音に隠れて、その音に紛れて泣くんだ」

 吾妻の声が掠れる。

 話が一段落して部屋に沈黙が下りたとき、

「ご飯を食べましょう」

 階段下から、吾妻の母の声が聞こえてきた。その声に、僕と吾妻は顔を見合わせた。

「今度は逃げるなよ」

 僕が釘を刺すと、吾妻は、ああ、と短く答えた。



 僕は吾妻の後に続いて階段を下りた。ダイニングに入ると、味噌の匂いが部屋の中を満たすように広がっていた。

「そういえば、七瀬ちゃんは?」

 僕は椅子が三脚しかないことに気づき、自分が座っても問題ないのかが気に掛かった。

「七瀬は塾に行ってるわ」

 吾妻の母が、お椀に芋煮を注ぎながら答えた。

 僕は無意識に時計を探し、壁に掛けられているそれで時間を確かめた。時刻は二十時を過ぎたところだった。

「こんな遅い時間まで、外で勉強なんて大変ですね」

「そうね。でも志望校が決まっているから頑張れているみたい」

 僕がそのまま世間話を続けようとしたところで、

「母さん。飯を食べる前に話があるんだ」

 吾妻が彼の母の背中に声をかけて遮った。

「あら。一体何かしら?」

「俺の進学のことだ」

「その話は今聞かないといけないの? 葉山くんもいるし、せっかく温め直したご飯がまた冷めちゃうわよ」

 吾妻の母が渋るように言った。

「ケータにはもう事情を説明してあるから……」

 吾妻の母が、吾妻の顔をじっと見つめた。

「今日でいいのね?」

「ああ」

 吾妻が頷いた。

 それを受けて吾妻の母は、うっすらと皺の浮かんだ口元を緩めて微笑んだ。

「わかったわ。とりあえず座りましょう」

 椅子に腰をかけると、吾妻はすぐに話を切り出した。

「母さんは、再婚相手のことが本当に好きなのか?」

 吾妻は、彼の母の顔を見ることができなかったのか、テーブルの上に並ぶおかずを睨みながら言った。これから父親になるであろう人を「再婚相手」と言ってしまうところが吾妻らしいと思った。

「好きよ」

 吾妻の母は迷いなく答えた。

「でも、父さんは……」

 吾妻が食いつくように言った。

「あなたのお父さんのことは、もちろん今でも愛しているわ。忘れてもいない。だけどね、朝陽が結婚して、あなたと七瀬も立派に育ってくれて手がかからなくなったら、男の人に頼りたいと思うようになってしまったのよ。静央は、こんなお母さんは許してくれないかしら?」

 しばらく無音が続いた。このままの調子だと、話し合いの途中で七瀬ちゃんが塾から帰ってくるかもしれない。

「本当に、俺や七瀬のためじゃないんだな?」

 吾妻が低い声で訊いた。

「ええ、そうよ。それに金山さん、あなたのお父さんに少しだけ似ているの」

 吾妻の母が柔らかな声で答えた。吾妻は歯を立てていた唇を開いて言った。

「わかった。それなら俺はもう反対しない。七瀬がいいって言うのなら同意する」

 吾妻の声が、換気扇の回る音の上に響いた。

「あなたが認めてくれて、お母さん嬉しいわ。それじゃあ、この話はもう終わりでいいわね。さあ、食べましょう。お腹がペコペコだわ。葉山くん、遠慮しないでたくさん食べてね。静央が作った芋煮は、とっても美味しいのよ」

 吾妻の母が椅子から立ち上がり、ガスに火をつけて芋煮を温め始める。

 吾妻が箸を手に取り、サラダを小皿によそった。僕もそれに倣った。

 芋煮の中の里芋を齧ると、口の中に味噌の味がぶわっと広がった。体の芯から温まっていく。

 僕の母が作る芋煮よりもずっと美味しかった。



 食事の最中に七瀬ちゃんが塾から帰ってきた。七瀬ちゃんは鞄をリビングに置いて風呂場へ直行した。

 食事を終えると、客人だからと進められるがまま、吾妻よりも先に風呂をいただいた。七瀬ちゃんの後ということもあり、さすがに湯船に浸かることは遠慮してシャワーだけ済ませると、吾妻が入れ替わりに風呂へ入った。僕はダイニングに残り、風呂上がりの七瀬ちゃんと、吾妻の母と話をして吾妻を待つことにした。

 七瀬ちゃんも吾妻の母も、吾妻の学校での様子を知りたがった。僕は、吾妻が絶対に自分から話し出さなそうな話題を考え、彼が去年のバレンタインにチョコを二十五個貰ったことや、修学旅行の班決めで吾妻と同じ班になりたがった女子たちが揉めたせいで男子だけの班になったこと、それから球技大会でバレーボールの種目にエントリーされていたが全くコートに立たず、それなのに吾妻にタオルを渡したがった女子たちが体育館に殺到したことなどを話して聞かせた。

 七瀬ちゃんと吾妻の母は声を上げて笑っていた。おそらく僕が話を面白くするために脚色したと思っているのだろう。

 吾妻が風呂から上がり、ようやく彼の部屋に戻った。

 吾妻は隣の部屋から布団を運んで来ると、それをベッドと水平の向きに敷いた。

 僕は吾妻に敷いてもらった布団に寝転がると、スマートフォンのアラームアプリを立ち上げた。起きる時間は吾妻に合わせることにして、登録されている設定をオフにする。

「明日の朝食はパンでいいか?」

 ベッドの上でファッション雑誌を読み始めた吾妻が訊ねてきた。

「葉山家は平日の朝は米派なんだが、ごちそうになる身分で文句なんか言わねえよ」

 僕はスマートフォンから目を外し、吾妻を見上げた。

「それは文句に入らねえのか?」

 吾妻が雑誌を閉じて枕元に置くと、体を横向きにして僕を見下ろした。

「トーストなら付け合せの卵はスクランブルエッグがいいな。それにトマトが入っているのもありだな。あと、ベーコンは少し焦げているくらいカリカリに頼むな」

「文句を言われるほうがマシなくらい、注文の多いヤツだな」

「東京に行ったら一緒に暮らすんだろう。今からオレ好みの料理を覚えておいて、損はねえだろう」

「寝言を言うには少し早すぎるだろう。もう寝てるんなら、電気を消すぞ」

 吾妻が部屋の照明を消した。瞬時に視界が真っ黒になる。いつもならば横向きの姿勢で眠るのだが、枕の高さが違うせいか自然と仰向けの姿勢になっていた。天井を眺めていると、だんだんと夜目が効いてきた。

「……ケータは、志望校の判定は大丈夫なのか?」

 沈黙を破ったのは、意外なことに吾妻の方だった。

「吾妻こそ、ここのところ学校を休みっぱなしで、勉強は大丈夫なのか?」

「俺を誰だと思っているんだ? 一週間の休暇なんて、遅れにもならないぞ」

「相変わらず嫌みなヤツだな」

 僕は少しでも彼を心配したことを後悔した。

「ケータは、大学に行っても演劇を続けるのか?」

 不思議なことに、僕と吾妻が大学進学以外のことで、未来の話をするのは初めてだった。

「さあな……」

 僕は素直に答えた。

「そう言う吾妻はどうなんだ?」

「俺は続ける」

 即答だった。つい先日まで、大学に進学するつもりさえなかったくせに。

「ケータも続けろよ。それでまた役者をやればいいじゃないか」

「確かにオレは、役者ができないから演出をしているわけじゃない。演技力だけなら、吾妻にも引けを取らないとさえ思ってる。だけど……」

 元々演劇に興味があったわけじゃないし、高館さんから誘われなければ始めてもいない。

「オレの舞台は、ここじゃねえんだよ」

「どういう意味だ?」

 吾妻が訊く。

「それくらい自分で考えろ」

 僕は掛け布団を口元まで引き上げた。

「もういい。明日も学校なんだ。さっさと寝ようぜ」

 布団の音から、吾妻が寝返りを打ったのがわかった。

「今日は悪かったな……」

 ありがとうとは言わないところが彼らしいと思いながら、

「ああ」

 僕は照れくさくて、そっけなく答えた。

 耳を澄ませると、微かにシャワーの音が聞こえてきた。吾妻の母が風呂に入っているのだろう。吾妻もシャワーの音に紛れて泣いたりするのだろうか。

 僕はまだ腫れている左手を擦った。

 シャワーの音に耳を傾けていると、僕は吾妻と彼の母の会話の違和感に気づいた。吾妻の母は『今』ではなく『今日』と言った。言葉を間違えたのではなく、意図的に選んで使っていた。

「吾妻! 起きてるかっ!?」

「寝てる……」

 吾妻が寝返りをうって僕に背中を向けた。

「嘘つけ! まだ起きているな? お前、今日が親父さんの命日なんだろう!」

 無言の背中が、僕の予想を肯定していた。

「親父さんとの思い出話、もっとちゃんと聞かせろ」

「はあ? 何バカなことを言ってるんだ。さっさと寝ろ」

 吾妻が体を反転させて僕の方を向いた。

「いや、今日は寝かせねえぞ」

「ふざけたことを言ってんじゃねえぞ。俺は六時に起きて、弁当を作らにゃならねえんだ」

「そうだ、弁当! オレとしたことが、すっかり存在を忘れてたぜ……。オレの分も一緒に作ってくれよ」

「作らねえよ」

「コンビニで菓子を買ったせいで、全財産使い果たして財布の中身が空なんだ」

 吾妻が一瞬躊躇って、喉仏をギュッと縮ませたのが空気でわかった。

「……七瀬のための弁当だから、野菜が中心だぞ」

「それで、かまわねえよ。アスパラのベーコン巻きとかブロッコリーのバター炒めとかポテトサラダとかマカロニサラダとか、美味そうだったしな」

 僕は吾妻の弁当の中身を思い出しながら声に出した。

 体を横にしているせいか、喋らなくてはと思うものの、眠気が襲ってくる。必死に抗って目を開けようとするが、瞼の上がピクピクと痙攣する。

「明日、あし、あ……」

 僕の声が、シャワーの音で掻き消されていった。

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