第8幕 第3場 自室にて
SHRが終わると同時に椅子から立ち上がり、肩にボストン型のスクールバックを掛けた。我先にと教室から出ていくクラスメイトたちの背中をぼんやりと見ていると、
「なあ、葉山は進路調査を提出したか?」
前の席の北沢蔵馬が後ろを振り返り、声を掛けてきた。
「いや、まだ出してないけど」
僕はスクールバッグを床に置くと椅子に座り直した。体を捻り、横向きで椅子に座っていた北沢は、僕が彼の話を聞く姿勢になると椅子に跨り座り直した。
「締め切りって、今週の金曜日までだよな?」
北沢が顔を顰めた。
「ああ、そうだな」
答えたものの、正直覚えていなかった。北沢は提出期限を守る気でいるんだな、とぼんやり思う。
「俺、最近成績が下がっててさ、志望校のランクを下げるか悩んでるんだよなあ……」
言いながら北沢が頭を抱えて俯いた。
「北沢は志望校どこだっけ?」
過去に聞いたことのあるふりをして鎌をかける。
「Y大の商学部」
北沢は疑うことも躊躇うこともなく、すんなり教えてくれた。
人によっては、自分の志望校を絶対に口にしないヤツもいる。合格する自信がないから公言したくないというよりは、自分の手の内を明かしたくないと思っているヤツの方が多そうだ。中には指定校推薦を狙っているヤツもいるため、その気持ちもわからなくもない。自分の志望校をあえてアピールして牽制するヤツもいるが、どちらかといえば少数派だ。なんせこの学校は、曲がりなりにも進学校だ。頭が切れるヤツらの集合体なのだ。
「葉山は?」
北沢が顔を傾げた。
「オレは……まだ決めかねてる」
僕の場合はどちらでもない。この時期だというのに、本当にまだ決まっていないのだ。
「そうかあ……。そもそも葉山は、まだ部活をしているんだもんな」
自分だけ志望校を教える形になったというのに、北沢は気を悪くする素振りを見せなかった。言葉とは裏腹に、心のどこかに余裕があるのだろう。志望校が決まっている余裕、勉強に集中できる環境が整っている余裕、なんだかんだ言っても受験までまだ半年はある余裕、そして目の前には志望校が決まっていないどころか部活も引退していないヤツがいる余裕。だからこそ不安になれる余裕が生まれてくるのだろう。
進路調査のアンケートはもちろん今回が初めてではない。進学校ということもあり、一年生のときから定期的に実施されている。僕は今まで「未定」と記入してきた。アンケートを元にした学級担任との面談では毎度呆れられてきた。が、その手ももう通用しないだろう。
「オレの受験戦争が始まる前に、北沢はもう諦めるのか?」
夏期講習だってこれからあるというのに、よほど自信を失っているのだろう。
「面談のときに、現実を突きつけられるのかと思うとさ……」
北沢が指遊びを始める。
「オレはこの学校に合格できたことが奇跡だから、常に現実を突きつけられてるぜ」
僕の言葉に、北沢が黙り込んだ。
彼の手に握られている進路調査表は、何度も書いては消した後が残っている。僕は書くことさえできないというのに。
「葉山が受験勉強に本腰を入れるのもこれからなわけだし、もう少し頑張ってみようかな」
僕と話しているうちに前向きになったらしい北沢が白い歯を覗かせた。
「話を聞いてくれてありがとうな」
そう言うと北沢はスラックスのポケットから飴を取り出し、僕の机の上に乗せた。
「ありがとう」
僕は飴の包み紙を破って口の中に放り込んだ。とたんにサイダーの味が口の中に広がる。
「そういや、今日は部活休みなのか?」
「ああ……まあな」
僕は甘ったるくなった舌先で嘘を転がした。
「そっか。それならよかった」
北沢は飴をもう一つ取り出すと、それを自分の口の中に放り込んだ。
「葉山は、部活を引退したら塾に通い始めるのか?」
「それもまだ決めてないんだ」
僕は右の奥歯で飴を齧った。口内で破片が飛び散り、歯の隙間に挟まった。
「ある意味、強者だな」
北沢が笑った。
飴が溶け切り、教室に残って勉強をしていくという北沢に挨拶をして先に出ると、廊下に千歳の姿があった。
千歳はリュックのショルダーストラップを握り締め、不自然なほど真っ直ぐ立っていた。僕は無表情な千歳の顔をちらりと一瞥すると、部室とは反対の方向に足を向けた。歩く足が自然と早くなり、上半身が前のめりになる。そのままの速度で廊下の角を曲がろうとしたところで、パシッと左腕を掴まれた。白く細い指が剥き出しの腕に食い込んでくる。それでも僕は後ろを振り返らなかった。
「シズオは今日も学校を休んだ」
千歳が僕の背中に声を落とした。
「そうか……」
僕は素っ気なく答え、そのまま歩き出そうと左足を踏み出したが、千歳が腕を握る手に力を込めて押さえつけてきた。僕の体が後ろに引き戻される。
「ケイタ……。まさか、部活に来ないつもりじゃないよね?」
千歳が手に力を入れたまま僕の隣に並んだ。
「千歳はオレが部活に来ないと思ったから、今ここにいるんじゃないのか?」
僕は視線を遠くへ投げた。廊下で突っ立ったまま喋っている、幾つかの集団を眺める。恥ずかし気もなく、口を大きく開けて笑っている女子から視線が外せない。
「逃げるの?」
そう言うと千歳は、僕の腕からようやく手を放した。力のなくなった腕がぶらりと垂れる。自由になった僕はいつでも走り出すことができたが、そうはしなかった。
「演劇部の部長はケイタだよ。代役なんていない」
千歳が床板の木目を見つめながら言葉を続ける。
「あんなことがあっても高館さんは逃げなかった。それなのに、ケイタは逃げるの?」
千歳の言葉で、僕の心臓がぎゅっと縮こまった。一瞬、息が詰まる。その息を意識して吐き出してから千歳を見つめると、千歳は震える目を誤魔化さずに見つめ返してきた。
「それを言われたら、もう逃げられねえよ……」
そう言って苦笑したが、千歳は笑わなかった。唇を結んだまま、僕の乾いた笑い声を聞いていた。
「こんなオレでも、まだ必要とされるんだな」
僕は自信がなかった。高館さんや神室さんのように部員たちから信用され、頼られるような部長にはとてもなれそうになかった。
「当たり前だろう。僕は部員の誰にも欠けてほしくないよ」
僕の丸まった背中をピシャリと叩くように千歳が言った。
「早く部室に行くよ。みんなが待ってる」
千歳は僕の顔色を伺う間もなく先に歩き出した。彼の背中のリュックが一度、高く跳ね上がった。
もう腕を握られる心配はしなくていいらしい。
僕は、千歳のリュックを見つめながらのろのろと歩き出した。
ファスナーのチャックに付いている羊のマスコットのキーホルダーが大きく弧を描くように揺れている。すっかり見慣れた羊は、僕たちが高校一年生のとき、学校帰りに、ある雑貨店で吾妻と千歳と三人お揃いで買ったものだ。
『ケイタが猿で、シズオは犬ね』
そのマスコットキーホルダーは十二支の動物がモチーフになっていた。千歳はカラフルな十二支の動物たちと、僕と吾妻の顔を何度も見比べた後、それぞれの手にマスコットを乗せた。
『どうしてオレが猿なんだ?』
僕は吾妻の手の中にいる犬のマスコットを見ながら言った。
『猿は陽気な生き物だからね』
千歳がとびきりの笑顔で言った。
猿に対してあまりいいイメージを持っていない僕は、その理由を聞いても納得がいかなかった。千歳の悪気のなさそうな笑顔がまた、僕に一段と複雑な感情を与えていた。
『俺に一番賢い動物を選ぶとは、さすがヤスだな』
つい先程まで『お揃いとかダサい』と散々文句を垂れて嫌がっていた吾妻が、態度を一変させて調子よく言った。
『オレは虎の方がいいな。強くて格好いいし』
虎のマスコットを手に取ろうと伸ばした腕を、千歳にパシッと掴まれた。
『ダメだよ。猿と犬はペアなんだから』
『ペアって何だよ?』
僕が千歳の言葉の意味を考えている間に、吾妻が口を挟んだ。
『犬猿の仲である二人にぴったりでしょ』
千歳が、彼が握っている羊のマスコットに負けないくらいの笑顔を浮かべた。
『はあ……?』
僕と吾妻の声が綺麗に重なった。
『それならオレ、犬の方がいい』
僕が吾妻の手から犬のマスコットを取ろうとすると、吾妻がそれを瞬時に背中の後ろに隠した。
『ふざけんなっ! 犬は、ケータよりも遥かに頭がいい俺に決まってるだろうが!』
『吾妻こそ、さっきまで全然乗り気じゃなかったくせに! 別に何の動物だっていいだろうが!』
『いいや、この犬は俺のもんだ!』
ここが部室ではなく店内であることも忘れ、僕と吾妻の口喧嘩が始まった。
『だいたい吾妻は、忠誠心の欠片もないだろう。全く犬じゃない!』
『そう言うケータだって、自我が強いから犬じゃないだろう!』
『吾妻よりはオレの方が犬っぽいだろうが!』
互いの粗探しに発展した口喧嘩がヒートアップする前に、仲裁に入った千歳の提案で、どちらが犬のマスコットを手にするかは、公平にじゃんけんで決着をつけることになった。
僕は自分のスクールバックに付けている猿のマスコットを握った。よく見ると顔が薄汚れている。コイツと通学を共にするようになってから、もう三年が経つ。この少し間の抜けた顔に、今ではすっかり愛着が湧いていた。
僕は部室に足が向く体と、千歳から引き止められて安心している心の両方に腹が立った。
演劇部の部室は、笹野が転部してきてからは定期的に掃除をしているものの、どこか埃っぽい。神経質な人がいたら発狂していることだろう。原因はおそらく教室の後方に放置されている過去の産物のせいなのだろうが、見て見ぬふりをしている。背景に使った木の板や小道具の刀を始め、学校生活には不釣り合いな物が数多く散乱している。
笹野に何度も片付けろと言われてきたが、演劇部は部費が少なく、いつ何に再利用できるかわからないという理由で、結局そのままの状態になっている。過去の先輩たちもそうやって自身の在籍期間をやり過ごしてきたのだろう。その結果がこの始末である。
「吾妻先輩の姿が見当たりませんが、説得に失敗したんですか?」
眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げて位置を直した白鷹が、僕を筆頭に千歳と笹野の顔を順に見た。
「やっぱり、私のせいよね……」
笹野がぼそりと呟いた。
「梅ちゃんは悪くないよ。シズオも自分が間違っていることに気づいているから、あんなに怒ったんだと思う。遅かれ早かれ、シズオが向き合うべき問題なんだ」
落ち込んでいる笹野に、千歳がすかさず優しい言葉をかける。
「詳しい事情はわかりませんが、少し時間を置いた方がいいんじゃないですか?」
白鷹が眼鏡を外しながら言った。鼻筋を親指と人差し指で揉んでいる。それを何度か繰り返すと、裸眼になった目が僕を見つめた。
「できることならそうしたいさ。だけど今のオレたちに、そんなことを言っていられる余裕があると思うか?」
千歳と笹野が、白鷹の視線に過敏になっているのが空気でわかった。
「確かにそうですけど、今の状況だと絡めば絡むほど結び目が固くなっていく気がします。いっそのこと、葉山先輩がロミオ役を演じたらどうですか?」
白鷹がワイシャツの裾で眼鏡のレンズを拭く。
「そんなことできるわけがないだろう! ロミオは吾妻だ!」
思わず叫んだ。目の端で、舞鶴さんが体を揺らしたのが見えた。
よく見ると、白鷹の鼻筋には鼻パッドの跡がついている。白鷹が眼鏡を掛け直した。
「先輩たちが最後の舞台で仲良しこよしの思い出作りをするつもりなら自分はもう何も言いません。一、二年生にとっては部の存続がかかっている舞台ですが、自分はあくまでも先輩たちが主役の舞台だと思っているので、先輩たちの指示に従います」
感情的になっている僕とは対象的に、白鷹は静かに言葉を続ける。
「自分は部員を増やす努力をしたことがありません。なので、部から愛好会に降格することに対して、いまさら文句を言うつもりはありません。先輩たちと過ごした二年間は本当に楽しかったし、尊敬している部分も多くあります。できることなら先輩たちの望む舞台を叶える手助けをしたいと思ってます。先輩たちの力になりたいと思ってます。だからこそ、吾妻先輩が欠けることに胸が痛みますが、残った先輩たちにとって最高の舞台を作り上げて欲しいと思ってます」
白鷹の言葉は、僕の心を打つには十分だった。
それでも、と僕は口を開いた。
「白鷹の気持ちはわかった。だけど、吾妻なしの舞台は絶対に成功しない」
「シズオがいないと物語は始まらないし、終わらないよ」と千歳。
「悔しいけど、主役はアイツなのよね。そこは素直に認めるわ」と笹野。
僕と千歳、それから笹野は自然と顔を見合わせていた。どうやら僕たちの気持ちは一つらしい。珍しいこともあるものだ。
「……そういうわけで、これがオレたち三年生の意見だ」
僕の言葉に、千歳と笹野が深く頷いた。
僕たちの意見を一通り聞いた白鷹が、物難しげな表情で黙り込む。舞鶴さんはまだしも、歩もさすがに空気を読んだのか、二人とも口を開くことはなかった。
「白鷹。これは、三年全員からのお願いだ。最後の我儘に付き合ってくれ」
僕が白鷹に向かって頭を下げると、千歳と笹野もそれに続いた。
「……先輩方、一つだけ約束してください」
何を言い出すのか、と思いながら顔を上げる。白鷹の天然パーマの髪の毛が揺れていた。
「来年の舞台を観に来てください。絶対に、文化祭に遊びに来てください。恋人の誕生日や交際記念日と重なっても、大学の講義をサボってでも絶対に来てください。それが条件です」
白鷹が僕、千歳、笹野の顔をぐるりと見渡した。
「ああ、わかった。約束する。二人もだぞ」
僕は、千歳と笹野に視線を振った。
「了解」
「仕方がないわね」
予想通りの言葉を口にする二人に、僕は笑い出しそうになるのをぐっと堪えた。
おそらく僕たちは、高校を卒業したらこの町を出て行く。この約束は、軽々しくできるほど簡単なものでないはずだ。それでも僕らには、白鷹との約束を結ばない選択肢はない。
「……吾妻さんも連れてきてください!」
今まで口を噤んでいた舞鶴さんが声を発した。
「そうだよ! みんなに会いたい! 吾妻さんにも来てもらわないと、おれと舞鶴は納得しないよ!」
歩が続いた。強気な言葉とは裏腹に、歩が捨てられた子犬のような目を向けてくる。捨て犬など、実際に見たことはないが。
「先輩方。自分より、こいつらの方が一枚上手のようです」
白鷹が他人事のように肩を竦めて見せた。
「頼もしい後輩じゃないか」
思わず鼻から息が漏れた。
「なに呑気なことを言ってるのよ。吾妻を説得するのは、葉山の役だからね」
笹野が言葉を放り投げてきた。
吾妻も進路を大学進学に変えたというのなら、おそらくこの町を出ていくだろう。
「断る。オレは役者は引退したんだ」
「つまらない冗談で誤魔化そうなんて、そうはいかないわよ」
笹野が鋭い視線で僕の目を射抜いた。
「千歳はオレの味方だよな?」
千歳に助けを求めると、
「梅ちゃんの言う通り、ケイタもたまには演じないと腕が鈍るよ」
千歳がにっこりと笑顔を浮かべて言った。
「こういう場合も腕になるのかしら?」
笹野が首を傾げた。
「僕も自分で言ってて、そこは気になった」
千歳と笹野が笑い合っている。
「こいつらは薄情みたいだぞ」
「笹野先輩は可愛いからいいんです」
白鷹が僕の方を一ミリも見ることなく、笹野の笑顔にピントを合わせて言った。こいつも大概だな、と思いながら息を吐き出して気持ちを入れ替える。
自分の考えや思いを他人にぶつけるのは簡単だ。押し通すことも大して難しくない。でも。
「吾妻には、何が何でもスポットライトを浴びてもらう。一、二年生には迷惑をかけることになると思うが、最後だからこそついてきて欲しい」
僕は狭い部室を見渡して言った。
壁に寄りかかっている背景が描かれた板に、乱雑に積み重ねられた段ボール。ハンガーラックに掛けられている衣装。まるで子供のがらくた置き場のようになっている一辺。
他人の気持ちを変えるのは難しい。ましてや他人の気持ちを動かすことなど、特別な才能が必要だ。
「どうか、オレたちに手を貸してくれ」
でも、それを知っているならば、それを知った今ならば。
「最後までついていきます!」
白鷹が腹の底から出したであろう声で応えた。狭い部室の壁にその声が反響してすぐに返ってきた。それを受け止めたように、
「はい!」
と、舞鶴さんと歩が声を揃えて返事をした。
「吾妻の件は、オレがどうにかする」
僕は勢いよく椅子から立ち上がると、部室の窓を開けた。
千歳も立ち上がり、後ろの棚からミシンを取ってくると、それを机にのせた。舞鶴さんも慌ててその後に続いた。笹野は脚本を開いて台詞を読み込み始めた。白鷹はノートパソコンを開き、歩はギターを取り出した。キーボードとギターがリズムよく奏でられる。
主役が舞台に戻ってくるまでに、やらなければならないことは、まだまだたくさんある。
僕は椅子に座り直すと、シャープペンシルを握り締めた。
受験生になってから、改めて自分が進学校にいるのだと実感するようになった。ただひたすらにバスケットボールを追いかけていた自分が、これほど机に齧りついている未来があるなんて、コートに立っていた頃は想像したこともなかった。
自分が想像できなかった未来を、不器用な僕は受け入れられずにいる。まるで誰かの人生を借りているようで、どこか他人事になってしまっている。
僕は将来、何になりたいのだろうか。何をしたいのだろうか。
吾妻のように将来設計ができあがっていなければ、笹野のように具体的な夢も持っていない。千歳のような器用さもない。それなのに、好きでもない勉強をこんなに必死で取り組んでいるのはなぜだろうか。
英語の問題集を一ページ解いたところで、部屋の扉がノックされた。
「兄貴、客だよ」
閉まっている扉の向こう側から、昌二のやけに落ち着いた声が聞こえてきた。
「なんだよ、兄貴なんて格好つけて……」
普段、昌二は僕のことを「兄ちゃん」と呼ぶ。そのことを訝しみながら、机の上の置き時計を見た。時刻は二十一時を過ぎている。
こんな時間に一体誰だろうか。そもそも突然、家に押しかけて来るような人物は誰も思い当たらない。いまだにガラケーの吾妻ならまだしも、千歳や白鷹なら家に来る前にメッセージを寄越しているはずだ。それに昨日あんなことがあったばかりだというのに、吾妻が僕の家を訪れるとは思えない。
頭の中であれこれ考えながら椅子をくるりと回転させ、腰を持ち上げる。立ち上がったついでに体を上へと伸ばす。縮こまっていた筋肉が伸びて心地よい。
扉を開けると、セーラー服を着た吾妻七瀬が、廊下の壁に沿って立っていた。
「……え? 七瀬ちゃん!」
予想外の来客に、僕は目を見開いて驚いた。
「ケーくん。お兄ちゃんを助けて!」
七瀬ちゃんはスクールバッグを肩に掛けたまま、僕に抱きついてきた。
「ちょっ、ちょっと、七瀬ちゃん!」
僕は首にしがみついてくる七瀬ちゃんを抱きかかえたまま体を回転させ、後ろ手で扉を閉めた。急に扉が閉まったことに驚いたのか、扉の向こう側で昌二が短い悲鳴を上げた。
「っと、と、とりあえず落ち着いて!」
僕はどうにかこうにか七瀬ちゃんを自身の体から引き離すと、ベッドに置いていたクッションを手渡した。
七瀬ちゃんはそれを素直に受け取り、僕が勧めるがままにカーペットの上に腰を下ろした。
僕はローテーブルを挟み、七瀬ちゃんと向かい合う形で胡座をかいた。
「一体どうしたの? こんな時間に……」
とても女子中学生が一人で出歩く時間帯ではない。私服ではなく制服姿である点も気にかかる。
「夜遅くにごめんなさい。塾の帰りで……」
七瀬ちゃんが申し訳なさそうに頭を垂れた。
「そっか。七瀬ちゃんも受験生だったね。それよりも吾妻に何かあったの?」
下から顔を覗き込むと、七瀬ちゃんは唇を噛み締めていた。
少しして、七瀬ちゃんが口を開いた。
「お兄ちゃん、最近学校に行ってないんだよね?」
それは壁から伝った雨水が、葉の上に滑り落ちるような話し方だった。会話の内容とは裏腹に、あまりにも自然だった。一瞬、いや一度聞き逃し、頭の中で再生してから言葉の意味を捉えた。
「そうだね。かれこれ一週間になるかな」
身内を相手に嘘をついても仕方がない。僕は正直に話した。
「お兄ちゃんは演劇部を辞めたの?」
七瀬ちゃんが膝の上で拳を作っていた。意を決して口に出したようだ。
「辞めてないよ」
「でも部活にも参加していないんでしょう?」
七瀬ちゃんがテーブルに手をつき、身を乗り出してきた。
「それは、そうだね……」
僕は不謹慎ながらにも、突きつけられた顔にドギマギしながら答えた。甘い香りが、鼻からすっと脳を刺激する。
「お兄ちゃん、どうして学校を休んでるのか、私が訊いても教えてくれないの。ケーくんは知ってるんだよね?」
七瀬ちゃんは体を引くと、クッションを胸元に抱え込んだ。
僕は意図的に空咳を零し、自身を律してから、七瀬ちゃんと向き合い直した。
伏せられた切れ長の目、筋の通った鼻、鋭角な顎のライン。どれも吾妻にそっくりだ。正確に言えば、吾妻ではなく、吾妻の母親に瓜二つなのだ。とはいえ吾妻の父親の顔は見たことがなく、もしかしたら父親にも似ているところがあるのかもしれないが、
「七瀬ちゃんには悪いけど、吾妻がバイトを理由に部活を休むようになって、そのことが原因でオレと喧嘩したんだ」
僕は七瀬ちゃんの顔を見ることができないまま白状した。
「お兄ちゃんがバイトを増やしたのは、私のせいなの。私が、お母さんに塾に通いたいってお願いしたことをお兄ちゃんが知ったから……。私はお兄ちゃんみたいに頭がよくなくて、だけど高校はどうしても進学校に入りたくて、それでお母さんに無理を言って……」
七瀬ちゃんがクッションを力いっぱいに抱きしめた。クッションに刻まれる皺の深さが、七瀬ちゃんの心の窮屈さを表しているようであった。
「私ね、将来は弁護士になりたいの」
「すごいね。七瀬ちゃんはもう将来の夢が決まってるんだ」
僕が中学三年生のとき、志望校を決めるので精一杯で、将来どんな職業に就きたいかなんて考えたこともなかった。
「すごくなんてないの。私が弁護士になりたいと思うのは、誰かを救いたいからじゃないの。自分を救いたいからなの。私たち家族からお父さんを奪ったヤツをどうしたら許してあげられるのか、弁護士になったらわかる気がするから……」
七瀬ちゃんの手の甲に骨が浮かび上がる。七瀬ちゃんの強い言葉とは裏腹に、彼女の身体は細くて頼りない。
「それにお兄ちゃんは勘違いしてるの。お母さんは、本当に心から金山さんのことが好きで再婚を望んでる。でも、それを認められないお兄ちゃんは、お母さんが私たち兄妹の教育費を稼ぐために再婚するんだって思い込んでる」
吾妻もそうだ。身体は縦には長いが横は頼りない。
「そう思い込みたい、お兄ちゃんの気持ちはわかるの。昔からお兄ちゃんは、私たち家族のために自分を犠牲にしてきた。仕事で帰りが遅いお母さんの代わりにご飯を作ってくれたし、アルバイトでお金を貯めて家計を支えてくれた……。だから、お母さんを知らない男に取られたくないんだと思う」
七瀬ちゃんの伏せられた睫毛が震えている。
「私、お兄ちゃんに演劇部を辞めてほしくないの! お兄ちゃんにロミオを演じてもらいたいの! でも、私は私で弁護士の夢を諦められないの……。私はもう、何もかも全部諦めたくないの。学校行事にお父さんがいないのも、みんな仕事で忙しくて家族なのに一緒にいられないのも我慢したくないの! 格好いいお兄ちゃんも、全部、全部手に入れたいの!」
七瀬ちゃんが鼻を啜り上げる。
「ケーくん……。私、どうしたらいい……? どうしたらお兄ちゃんにロミオを演じさせてあげられるの? どうしたらお兄ちゃんはロミオになれるの……?」
七瀬ちゃんが僕の腕を掴んだ。桜色の爪が薄紫色に染まっていく。
「ケーくん。お兄ちゃんをロミオにして……」
僕と七瀬ちゃんに一定の距離を与えているローテーブルが七瀬ちゃんの方へと引き寄せられていく。
なあ、吾妻。お前も、オレにこれくらい言ってくれよ。オレに向かって、助けてくれって叫んでくれよ。叫んでくれさえすれば、オレは……。
「オレが何とかする。明日部活が終わったら、もう一度吾妻に会いに行くよ」
実は、僕は吾妻のことを何も知らない。
僕たちの前では偉そうで、態度の悪い吾妻が何を背負っているのか、何も知らない。
「本当に……?」
途端、七瀬ちゃんの腕から力が抜けた。
「七瀬ちゃんがここに来てくれたから、吾妻は救われるんだよ」
僕も吾妻も大バカ野郎だ。
僕たちが演劇を通して伝えたかったことって何だったのか。演劇部を残すことに必死で、一番大切なことを忘れていたらしい。
オレたちは、救われたいはずなんだ。
物語には、力がある。
「だから安心して」
物語には、未来を変える力がある。
それを僕たちが信じなくて、誰が信じるっていうんだ!
僕は自身の左手の甲を見つめながら答えた。腫れは引いていたが、なぜかまだ痛む気がするのはなぜだろうか。
僕はそれを確かめるために、拳の山を指先でなぞった。
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