第8幕 第2場 自室にて

 一日の授業が全て終わると、スクールバッグを背負って体育館に向かった。途中、昇降口から体育館へと続く廊下に置いてある自動販売機で紙パックのミルクティーを買い、それを手に持ったままキャットウォークに上った。

 体育館の西側にバドミントン部、東側にバレーボール部がいる。それぞれネットや支柱を運んでおり、準備に取り掛かっていた。

 僕は体育館を二つに分断している間仕切りネットの位置まで歩くと、スクールバッグを足元に下ろした。それから紙パックにストローを刺し、手すりにもたれかかった。

 バドミントン部の部員たちは、今にも鬼ごっこが始まるのではないかといった雰囲気でじゃれ合っている。対して、バレーボール部の部員たちは口も開かず、きびきびと動き回っており軍隊を連想させた。

 僕がストローを噛んでいる間に、バレーボール部のネットの組み立てが終わった。彼らはバドミントン部の部員たちには目もくれず、自然と二列になるとコートの周りを走り始めた。

 いーちにっ、いちにっ、そっれ、という掛け声が、狭い体育館に響き始める。その声に急かされるように、僕はようやくミルクティーを飲み始めた。一口飲んで、すぐに失敗したな、と思った。思ったと同時に、不細工な左手が目に飛び込んできた。

 親から何か言われるのが面倒で、傷口に包帯を巻くことも絆創膏を貼ることもしていない。念には念を入れ、長袖のワイシャツを袖も捲らずに着ている。そのせいで、ときどき袖が傷口を掠めて顔が歪んだ。その表情を顔を伏せて隠しながら一日を過ごした。

 時刻は十六時を過ぎ、一日の中の暑さの峠は越えたが、それでもこの格好ではまだ暑い。捲くりたくなる袖を、飲み物で乾いた喉を潤すことでごまかす。

 バレーボール部のランニングは足踏みや腕の振りまで揃っており、呼吸から揃っている印象を受けた。こういう行動の一つ一つの積み重ねが、チームワークと呼ぶのだろう。

「葉山!」

 突然背後から名前を呼ばれ、バレーボール部の動きに見惚れていた僕は肩を跳ね上げて驚いた。振り返ると新井田が立っていた。

「何してるんだよ。こんなところで」

 訊きながら、新井田が僕に近づいてくる。

「暇つぶし……」

「暇なのか?」

「暇じゃねえけど……」

「暇じゃねえのかよ」

 新井田が僕の隣に並んだ。

「……で、どうしてバレー部の練習を見学してるんだよ。演劇部が」

 新井田も体育館を見下ろし始めた。落ち着きのない子どものように顔を左右に振っている。僕がバレーボール部を観ていた理由を探ろうとしているようだった。

「意味なんかねえよ。ただの暇つぶしだって言っただろう。そう言う新井田こそ、どうしてこんなところにいるんだ?」

 僕からの質問に、今度は新井田が言葉を詰まらせた。新井田は躊躇ってから渋々と言った様子で、

「相模に用事があってな」

 突っぱねるような言い方をした。新井田は呼び捨てにしているが、相模とは体育教師のことだ。

「なあ、葉山は進路を決めたか……?」

 新井田が呟いた。僕に訊ねるというよりは独り言のように聞こえた。

「決めてねえ……」

 僕も呟いた。独り言のように。

 僕と新井田はしばらくの間、黙り込んでいた。バレーボールが体育館の床に叩きつけられる音とシューズが床を擦る音だけが聞こえてくる。

「お疲れさまです!」

 バレーボール部の部員たちが声を揃えて叫んだ。その声は体育館の床を跳ねて僕の耳まで届いた。バレーボール部員たちが頭を下げている方向に視線を走らせると、顧問の倉津先生の姿があった。倉津先生は肩で風を切るような歩き方をしており、すれ違う部員たちが次々に頭を下げている。まるで時代劇のワンシーンでよく目にする、身分の高い人に対する仕草のようだ。

「大学で、バスケやらねえの?」

 新井田が言った。

「東京の大学なら、部活以外にもサークルとか、インカレとかいくらでもあるだろう」

 僕が黙っているのをいいことに言葉を続ける。

「新井田は続けるのかよ?」

「華の大学生、勉学よりもサークル活動だろうが!」

 新井田が胸を張って答えた。

「偉そうに言うことかよ」

「それなら葉山は、勉強がしたくて大学に行くつもりなのか?」

 新井田が僕の目を覗き込んできた。

「んなわけねえだろう」

「そうだろう」

 新井田が満足そうに口の端を持ち上げた。

「でも、夢を叶えるために大学へ行くヤツもいんだろ」

 例えば、笹野とか。

 志望校がすでに決まっている千歳にも夢があったりするのだろうか。今まで訊いたことがなかったが、急に気になった。

 そうだ。僕たちは高校を卒業するのだ。小学校や中学校を卒業するのとはわけが違う。湊高校の生徒には少ないが、人によっては社会人になるヤツも出てくる。中には浪人生になるヤツも出てくる。今までみたいに、仲良しこよし肩を組み足幅を揃え同じ道を歩いていけなくなる。

「それなら葉山の夢はなんなんだよ?」

 新井田が鼻息を荒くした。

「別にそんな大層なもん、持ってねえよ」

 新井田が呆れたように溜め息を吐いた。

 体育館を見下ろす。バレー部はおそらく基礎練習をしているのだろう、同じ動きを何度も、何度も繰り返している。一人の選手がサイドラインを狙ってボールを打ち込み、もう一人の選手がそのボールに向かって高く飛びブロックをしている。ボールはネットの向こう側に返ることもあれば、ネットに吸い込まれるように引っかかることもある。

 今体育館にいるほとんどの生徒が二年生だ。もしかしたら全員が二年生かもしれない。この学校で、運動部の中でまだ部活をしている三年生がいるのは野球部と、陸上部の一名という噂だ。

 たった一年の差だが、その届かない一年が今はこんなにも眩しい。

「もう高校生活も残り八ケ月だぜ。信じられねえよな」

 新井田が僕と同じことを感じているのか、自分の中にもある感情を吐き出した。

「その台詞、絶対色んなヤツに何百回も言ってるだろう?」

「言ってねえよ。三回くらいしか」

「言ってんじゃねえか」

 うっせ、と新井田が悪態をついた。

 コートの中に女子生徒がやってきた。彼女はボール出しをしていた選手と交代して練習の手伝いを始めた。

「そういえばバレー部には、女子マネがいたなあ……」

「バスケ部にはいなかったのか?」

「俺らが一年のときには、三年生に一人いたんだが、それきりだな」

「それは、同学年の女子を勧誘しなかったのが悪いな」

「うっせーな。勧誘はしたけど誰も捕まらなかったんだよ。あー心残りといえば、彼女の一人や二人、作っておけばよかったなあ……」

 新井田が嘆いているのに上を見上げた。僕もつられて見上げると、天井のあちらこちらにボールが挟まっていた。

「笹野さん、可愛いよなあ……」

「新井田もかよ」

 思わず溜め息が零れた。

「はあ? 何だよ、その反応。彼氏ヅラすんなよ。まさか葉山、笹野さんと付き合ってるわけじゃねえよな?」

 新井田が顔を近づけてきた。

「付き合ってるわけねえだろう」

「それなら安心した」

「笹野に彼氏はいねえよ」

 本番前につまらない噂が流れたら困る。僕ははっきり否定した。

「笹野さんって、理想が高いのか?」

 笹野がサッカー部のキャプテンだった先輩や、野球部のエースだった先輩を振ったことは、なぜか校内の生徒のほとんどが知るところだろう。

「知らねえよ、そんなこと。本人に聞け、本人に」

「訊けるわけないだろう。今まで喋ったこともないんだから」

 新井田が舌打ちを溢した。

 かくいう僕も、笹野とは部活が一緒になるまで一言も喋ったことがなかったので、あまり人のことを言える立場ではないのだが。

「俺もう行くわ」

 じゃあな、と片手を上げて新井田が去っていった。

 口の中が甘ったるくて気持ちが悪い。疲労には糖分がいいだろうと考え、普段は飲まないミルクティーを選んだが、想像以上の甘ったるさに参っていた。それでも何とか最後まで飲み切ると、紙パックを右手で力一杯握った。

 キャットウォークの階段を降りると、体育館の入口の前に先ほど別れたはずの新井田が立っていた。どうやらバスケ部の後輩に捕まったようで、部活に顔を出してくださいよ、いやいや練習の邪魔になるだろう、そんなことないですよみんな喜びますよ、と押し問答をしている。

 僕はその脇を通り過ぎ、自動販売機の隣に置いてあるごみ箱に握り潰した紙パックを叩きつけるように捨てると、重たい足取りのまま部室に向かった。



 部活の開始時刻の数分前ということもあり、吾妻以外の部員たちは全員椅子に腰を掛けていた。

「シズオ、今日は学校に来ていないんだ」

 僕の顔を見るなり、千歳が言葉に溜め息を混ぜながら言った。

「昨日の帰りはどんな様子だったんですか? 千歳先輩、吾妻先輩を追いかけたんですよね?」

 唇を噛んでいる僕の代わりに、白鷹が前のめりになりながら訊いた。

「シズオに追いついたことには追いついたんだけど、今は一人にしてくれって頼まれて、昇降口を出たところですぐに別れたんだ」

 白鷹の正面の席に座っている千歳は、彼の視線から逃げるように目を伏せながら答えた。

「そうだったんですか。吾妻先輩、大丈夫ですかね……」

 白鷹の言葉に、誰も何も言わなかった。

「吾妻、最近様子がおかしかったわよね。バイトのシフトを減らせない理由があったんじゃないの?」

 笹野が机を睨みつけながら言った。

「思い返してみると様子がおかしかったような気もするけど、それは部活とバイトの両立で疲れているからだと思っていたからなあ……」

 千歳が顎に手を当て、目を閉じながら答えた。

「随分ハードそうでしたね」と白鷹が続く。

「何かあったんなら、黙っていないでオレたちに言えよな……」

 僕は悔しさで引くつく喉を鳴らしながら声を漏らした。

「言えなかったんでしょう。私たち、みんな自分のことで精一杯だったもの」

 笹野が項を垂れながら言った。流れる髪の毛が彼女の表情を隠している。隠された表情はまた泣いているだろうか。それとも悔しさで歪んでいるだろうか。

「でもオレは、吾妻のためならいくらだって時間を作ったぞ!」

 僕は堪らず机に拳をぶつけた。傷口がじーんと痺れる。一度叩いただけでは腹の虫が収まらなかった。何度も、何度もぶつけたかったが、まだ痛みの残っている拳は僕に少しだけ冷静さを与えていた。

「吾妻のいないところで、ああだこうだ言っても何も解決しないわよ! それに今の私たちに過ぎたことを反省している時間はないの。これからどうするのかを話し合うことの方が先決でしょう。部長の葉山がそんなんでどうすんのよっ!」

 笹野が手のひらで机を叩いた。その反動で、僕の背筋が折れ曲がりそうなほどに反り返った。

「部長なんだから、しっかりしなさいよ……」

 笹野が少し潤んだ目で僕を睨んだ。

「吾妻は学校を休んでもバイトには行くだろうから、部活が終わったらコンビニに顔を出してみようと思う……」

 僕は誰の顔も見ずに告げた。

「それなら私も一緒に行くわ。今の葉山には任せておけないもの」

 笹野が力強い視線で僕を見つめた。

「それなら僕も行く。シズオに言いたいことがあるんだ」

 千歳がにっこりと微笑んだ。その笑顔に、僕は観念する他になかった。

「勝手にしろ……」

 自分の不甲斐無さを突き付けられた僕は、甘ったるい溜め息を零した。



 部活を終えると、僕は千歳と笹野を連れて吾妻のアルバイト先まで自転車を走らせた。自転車を漕いでいる間、僕たちは始終無言だった。田んぼ道を走っている間は、蛙の方がお喋りで、大通りに出れば車のブレーキライトの方が感情的だった。

 吾妻がアルバイトしているコンビニは、坂田港の近くにある。昼間は船の汽笛の音が微かに聞こえてくる程度だが、雨が降る前日はその音がはっきりと耳に届く。汽笛の音に混ざって、クレーン車が作業する音も聞こえてくるのだ。

 コンビニの駐車場に着き、自転車から降りる。ああ、明日は雨なのか、と思いながら自転車の鍵を掛けた。

 僕の後ろを走っていた千歳が隣に並ぶと、そういえば、と今思い出したように前置きをして、

「シズオ、進路を就職から大学進学に変えるらしいよ」

 こちらが身構える間もなく、爆弾を投下した。

「え?」

 僕よりも一足先に、千歳の隣に自転車を停めた笹野が大げさに声を上げた。

「僕のクラスの女子が、シズオが進路相談室から出てくるところを見かけたらしく、密かに噂になってるんだ。なんでも手に大学のパンフレットを持っていたとかで……。どこの大学かまでは見えなかったらしいんだけどね。シズオ本人から直接聞いたわけではないから、まだ確かな情報とは言えないけど……」

 千歳は自信なさそうに、語尾を弱々しく萎ませた。

「それが本当なら、今回の件と関係がありそうね。とにかく葉山は、吾妻に殴ったことを謝りなさい。話し合いはそれからよ」

 笹野が鼻息を荒くした。

「わかってるよ」

 僕は笹野に答えるというよりは、自身に言い聞かせるように言った。

 僕たちは店の中には入らずに、建物と駐車場の段差に並んで腰を下ろし、受験の話をして時間を潰した。千歳と笹野は直近の模試の結果を踏まえたうえで志望校が決まっているという。

 コンビニという建物上、田舎町とはいえ人の行来が忙しない。夕食の時間帯ということもあり、おそらく弁当が入ったビニール袋を片手に店から出てくる男性客が多い。時折、数人組の女子高生が飲み物やアイスを買って来て、僕たちと同じように店の前に座り込み、楽しそうに笑いながら飲み食いをして去っていった。

「前にここに来たとき、シズオのファンの子が出待ちしてたんだよね」

 千歳が少し離れたところに座っている女子高生二人組をちらりと見てから呟いた。

「千歳の勘違いじゃねえのか?」

「ううん。勘違いじゃないよ。会計の後に、その子たちから、SNSのアカウントを書いたメモを渡されていたんだよ。シズオも慣れた感じで断ってたし……」

「断ってんのかよ」

 思わず舌打ちが溢れた。

「アルバイト先の決まりで、受け取っちゃいけないルールらしいよ。過去にアルバイトと客でトラブルがあったとかで……」

 それから断ったとしても店長に報告は必要らしいよ、と千歳が肩を寄せた。

「あんな男のどこがいいんだろうな?」

 笹野の顔色が気になり、何気ない風を装って話題を振った。一見落ち着いているように見えるが、内心どう思っているのだろうか。

「外面だけはいいんじゃないの」

 笹野はいつもと同じ調子で軽口を叩いた。僕はそれに安堵して話題を変えた。

「それにしても腹が減ったな。まさかここに入るわけにはいかないし、途中、他のコンビニで何か買ってくればよかったな」

 へこんだ腹を撫でるが、紛らわしにもならない。

「ケイタ、変装して買ってきてよ」

 千歳が鞄から使い捨てマスクを取り出して渡そうとしてきた。

「バレるに決まっているだろう。それにマスクだけじゃ変装にならねえよ。せめてサングラスの一つでもないとな」

 そういや白鷹は伊達眼鏡だったな、と思いながら言葉を返した。

「ワックスならあるわよ。これでオールバックにするのはどうかしら?」

 笹野が鞄からワックスを取り出した。

「それいいよ、梅ちゃん! ナイスアイディア!」

 千歳が手を叩いた。

「ワックスなんて絶対に嫌だからな。ベタベタして気持ち悪い」

 まだつけてもいないというのに、想像したら身震いした。

「実は前から思っていたのだけど、葉山は前髪が短い方が似合ってると思うわよ」

「笹野。そういうことはもっと早く言ってくれ」

 もう高校生最後の年だぞ。おまけに、これから受験で恋愛どころじゃないんだぞ、と心の中で肩を落とす。

「僕もケイタは前髪ない方が格好いいと思うな」

 千歳が僕の前髪に触れて掻き分けた。大人しくされるがまま受け止める。

「明日、床屋にでも行ってくるかな」

 千歳のダメ押しに、少し心が揺らいできた。

「行くなら美容院にしなさいよ」

「美容院なんて恥ずかしくて行けるかよ」

「僕が通ってる美容院でよければ紹介するよ。メンズ専用店だから、男性客しかいないところだよ」

「せっかくだから千歳から紹介してもらいなさいよ」

「高校生に美容室はハードルが高いだろう。料金も高そうだし……」

「そんなことないわよ。でも、調子に乗ってツイストパーマをかけるのはやめてよね」

 笹野がピシャリと言った。

「ツイストは女子ウケが悪いよね」

 千歳が苦笑いを浮かべた。

「笹野。それ、白鷹の前で言うなよ。アイツが聞いたら泣くぞ」

「白鷹くんは天然パーマでしょう」

 笹野が呆れたように短い溜息を吐いた。

「ツイストパーマは、パーマの束が細かいんだよ」

 ほら、こんな感じだよ、と千歳がスマートフォンの画面を見せてきた。メンズの髪型特集のページだ。確かに笹野の言う通り、同じパーマでも白鷹の髪型とは随分違う。ツイストパーマをかける気はこれっぽちもなかったが、笹野の言葉は肝に銘じておこう。

「オレ、女子の髪型ならポニーテールが好きだな」

「僕はハーフアップが可愛いと思うな」

「笹野、明日からポニーテールにしてくれよ」

「嫌よ。どうして葉山の希望に答えないといけないのよ」

 笹野が声を荒げると、ようやくアルバイトを終えた吾妻が店から出てきた。顔の傷跡を隠すためか、黒色のマスクをつけている。

「ケータ……」

 吾妻が思わずと言った調子で声を漏らした。僕たちは競うように立ち上がっていた。

「ほら」

 笹野が僕の肘をつついて急かした。千歳も僕を後押しするよう、丁寧に頷いて見せた。

「吾妻、昨日は殴ってすまなかった」

 そう言うと僕は、体を直角に曲げ、頭を深く下げた。

「吾妻の話を最後まで聞かないで、手っ取り早く解決しようとした。吾妻の気持ちとか考えを全部無視して、力づくで丸め込もうとした。オレの気持ちを全部押しつけようとした。焦ってたんだ。本当に悪かった」

 僕は予め用意していた言葉を、アスファルトを睨みながら言った。

 隣に立っている千歳が、息を呑んだ音が聞こえてきた。

「別に謝らなくていい。そんなに痛くなかったし……」

 顔を上げると、吾妻が居心地悪そうに首の後ろに手を当てていた。痛くないというのは強がりだろう。昨日の時点で、赤く腫れ上がっていた。痛くないわけがなかった。

「いくら吾妻の態度に腹が立ったとはいえ、殴ることはなかった。笹野に言われて目が覚めたよ。だから謝らせろ。本当にごめん」

 僕はもう一度、頭を下げた。

「小学生じゃあるまいし、謝るだけならケータ一人で十分だろう。ヤスと笹野は一体何しに来たんだ? 引率の先生か?」

 吾妻がわざとらしく顔を顰めた。

「僕はシズオの様子を見に来たんだよ。学校を休んだから心配で……」

 間髪入れず、千歳が答えた。

「そうよ。わざわざ来てあげたのよ」

 笹野が腕を組み、偉そうに言った。

「笹野はもっと可愛い言い方はできないのか。少しはヤスを見習えよ」

「私が吾妻に対して、可愛くある必要はないと思ってるけど」

「そういうところが可愛くないんだって」

 吾妻が呆れたように声を漏らした。

「吾妻、大学受験することにしたんだってな」

 僕は無理やり、吾妻を自分の方に向かせた。

「どうしてそれを知って……」

 吾妻が目を見開いた。

「僕がケイタに話したんだ。クラスで噂になってるんだよ」

 千歳が肩を窄ませた。

「大学受験とバイトのシフトを減らせない理由に、何か関係があるんだろう?」

 僕の言葉に、吾妻は唇を結んだ。

 長い間、沈黙を守る。交差点を走る車の音だけが、一定の間隔で聞こえてくる。

 吾妻の代わりに、僕は続けた。

「オレたちには話せないか? お前らには関係ないって、今度はその言葉で片付けるか?」

 吾妻はアスファルトを睨んでいる。

 僕は吾妻に一歩近づいた。そのことに気づいた笹野が、僕を押さえ込もうと一歩近づく。その隣で、千歳が僕の腕を掴み、頷いた。

 僕はよほど信用がないらしい。

「なあ、吾妻。何か困ってるんだろう? それなのに、どうしてオレたちを頼らないんだ?

 確かにオレは、吾妻が悩んでいることに気づかないで、それどころか殴っちまうような情けないバカだよ。でもな、やっぱりオレは、吾妻に頼って欲しいと思ってる。

 それが、演劇部に直接関係のない悩みだってかまわない。吾妻がその胸に抱えているものなら、オレが吾妻の力になる理由になると思ってる」

 僕はさらに吾妻に近づいた。

 僕たちの距離は百センチもなかった。

「オレの言葉は、吾妻の胸まで届かないか?」

 僕の声が掠れる。

 店内から出てきた客が、スマートフォンで通話を始めた。車のエンジン音が、容赦なく周囲の音を塗り潰していく。信号機の点滅さえ、今は煩い。

「お前らには関係ない。これは俺の問題なんだ。俺の部活に対する姿勢や態度が部の空気を悪くして迷惑をかけているっていうのなら、俺は今日をもって演劇部を退部する」

 吾妻の低い声が、静かに響いた。

 客が店を出入りしない。車が通らない。通りの信号機は……。

 目の前が、赤で揺れた。

「シズオ……!」

 千歳が絶叫した。

「誰もそこまで責めてないわよ!」

 続いて、笹野も叫ぶ。

「俺を引き止める権利、お前たちにはないだろう」

 二人の動揺を物ともしない吾妻が、冷たい口調で言い放った。

「権利ならある。オレは演劇部の部長だ。正当な理由のない退部届は受け取れない」

 吾妻は僕を睨んでから口を開いた。

「お袋が再婚する。俺の学費を賄うために、好きでもない男と婚約するんだ。だから俺は、お袋の再婚を阻止するために、大学に通う資金を自分で稼ぐ必要がある。お前たちにも時間がないかもしれないが、俺にも時間がない。だから演劇部にかまっている暇はない。これが退部の理由だ。わかったなら帰ってくれ」

 吾妻がくるりと体を回し、僕たちに背を向ける。

「わからないな」

 僕は、ぶっきらぼうに投げ出している吾妻の背中に言葉を投げた。

「俺は正直に理由を話した。それでもケータは、俺に演劇部を続けろって言うのか?」

 吾妻が首だけで振り返る。

「言うよ」

「ケータの我儘を、俺に引き受けろって言うのか?」

「ああ。だって吾妻は、本当は舞台に立ちたいと思っているだろう」

「舞台なんてどうでもいい。俺は自分の将来の方がずっと大事だ。お前たちよりも、自分の家族の方がずっと、ずっと大事なんだ!」

 吾妻が顔を歪めて叫んだ。

「俺は、そういうヤツなんだ……」

 作業着の二人組が笑いながら店内に入っていく。エンジンを吹かしたバイクがあっという間に通り過ぎていく。信号機は青に切り替わっていた。

 目の前が、青に包み込まれる。

「それならオレが演劇部を辞める。だから吾妻は部活を続けろ。台詞は頭の中に入っているんだろう? オレが辞めれば、本番まで練習に出なくても口うるさく言うヤツはいない。それに吾妻なら、本番一発勝負でも八十点の演技ができるだろう」

 僕はなるべく落ちついた口調で話すように努めた。それでも狂犬さながらに震える拳を、太股に無理矢理押しつける必要があった。

「いきなり何を言い出すんだ!」

 吾妻が訝しげに眉を潜めた。

「主演の吾妻と演出のオレ。どちらに部活を辞められたらみんなが困るか、答えは明白だろう。演出なんて、もっともらしい偉そうな冠がついているだけで、実際は名ばかりだからな。オレが辞めたところで誰も困りやしない」

「誰が辞めるか考えるなんておかしいでしょう!」

 笹野がはち切れたように叫んだ。

「みんな、ちょっと落ち着こう! なっ!」

 千歳が幼子を諭すよう手振りをつけながら声を掛けてくる。その声は不安で裏返っていた。

「これで全て解決するだろう。明日からの部活は、副部長の千歳が指揮を取ってくれ」

 笹野は何か言いたい様子で僕を睨んでいたが、僕を無視することに決めたらしく、吾妻の方に体を向けた。

「ねえ、吾妻。どうしてお母さんが、好きでもない男と再婚すると思ってるの? その人のことが好きじゃないのは、お母さんじゃなくて吾妻なんじゃないの? 吾妻がお母さんの気持ちを認めようとしていないだけなんじゃないの?」

「ちょっと、梅ちゃん……」

 千歳が口を挟む。千歳の手は、僕が吾妻を殴ったときと同じように宙に浮いていた。

「お母さんからはっきり言われたの? あなたを大学に行かせるために、私は好きでもない男と再婚するのよって。お母さんの口から直接聞いたの?」

 笹野が吾妻に詰め寄る。吾妻が決まり悪そうに眉を寄せている。

「そんなこと、わざわざ訊かなくても俺にはわかるんだ! お袋が死んだ親父のことを今でも忘れていないって! だから俺のことがなければ、お袋が他の男と再婚するはずがないんだ!」

 吾妻が叫んだ。

「でもそれは、あくまでも吾妻の憶測でしょう?」

 笹野がすかさず言葉を返した。

「とにかく! 俺は今日で部活を辞めたからな! これ以上、関わってくんなよ」

 吾妻は再び背中を向けると、今度こそ裏側の駐輪場へと歩き出した。

「シズオ!」

 千歳が呼んだが、吾妻は立ち止まらなかった。

「お母さんと話し合ってみなさいよ。吾妻が誤魔化してる部分、ちゃんと確かめてみなよ」

 笹野が叫んだ。

 吾妻は僕たちの方を振り返ることなく、そのまま自転車に乗って去って行った。彼の後ろ姿は、真っ暗な景色の中に簡単に溶けて消えていった。

 しばらくの間、誰も声を出さなかった。

 ぼんやりと浮かぶ信号機のライトが、音よりもうるさく響いていた。

「……ごめん。私が出しゃばり過ぎたのかもしれない」

 笹野がか細い声で謝った。

「気にするな。笹野は何も間違ってない」

 僕は、どうにか飼い慣らした拳をゆっくりと広げた。

「どうしよう……。吾妻が、このまま本当に部活を辞めたらどうしよう……」

 笹野が肩を震わせ始めた。

 僕は白鷹のように笹野の肩を抱けないまま、血管の浮かんだ手のひらを再び強く握った。

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