第8幕 第1場 自室にて

 六月も中旬に入っていたが、未だに雨は振ってこない。決して待ちわびているわけではないのだが、雨が降らない六月というのはどこかそっけない。

 OBの鳥原さんは、仕事の調整がつくときに顔を出してくれるという。熊野先生と漫才みたいなやり取りをすることはあるが心強い支援者だ。

 裏方の準備も着々と進み始めている。字幕を投影するスクリーン作りは、衣裳係だった千歳と舞鶴さんが受け持ち、字幕の製作は白鷹と歩が担当することになった。

「ケイちゃんがパソコンを使えれば、わざわざ脚本を打ち直す手間を掛けずに済むのにねー」

 歩がペタペタとした手つきでキーボードを叩きながら不満げに言った。

「せめてもう少し字が綺麗だったら、AI-OCRアプリで自動読み取りできたんですけどね……。葉山先輩、癖字が強過ぎで誤認識率が高くて、目視確認と修正する手間を考えたら直接入力したほうが早いですし……」

 白鷹が珍しく歩の意見に賛同している。

「パソコンだと授業中に書けねえだろうが」

 僕が反論すると、

「赤点ギリギリ常習犯が、授業中に内職すんじゃねえよ」

 吾妻が会話に割って入ってきた。

「そうよ。どうせ自習しないんだから、授業中くらいはしっかり勉強しなさいよ」

 笹野が続いた。

「これでケイタが浪人でもしたら、申し訳ないよ」

 千歳が目を伏せて言った。

「それは自業自得だろう。ヤスが申し訳なく思う必要なんか一切ない」

 吾妻が偉そうに腕を組んだ。

「それはその通りなんだが、吾妻に言われると、それはそれで腹が立つな」

 僕は部誌を書く手を止めた。

「タカさん。これ、入力しづらいんですけど……」

 歩がキーボードを打つ手を止め、情けない声を漏らした。歩は白鷹のタブレット端末にワイヤレス接続している小さなキーボードを使って台詞の文字起こしをしていた。どうやらキーボードが、長身の歩の手には小さいらしい。癪だが、歩の手は僕の手よりも大きい。

「文句を言うな。スマホのフリック入力よりも早いだろう?」

 白鷹はノートパソコンの画面から目を逸らさないまま言った。

「おれ、フリック入力の方が早い気がします」

「慣れればキーボード入力の方が絶対に早いぞ」

「慣れる前に指が攣っちゃいますよ! おれの指には、演劇部の未来がかかってるんですから、大事にしてくださいよ!」

「お前の指は、そんな大したもんじゃねえだろうが」

「タカさん! 何を言ってるんですか! 生演奏するんですよ! 大事に決まってるじゃないですか!」

 歩が一段と大きな声を上げた。

「元気だね」

 千歳が衣装を縫っている手を止めて言った。

「白鷹は、妹のために張り切ってるんだよ」

 僕が答えると、

「そういえば、最近、光緒が自室ではなくて居間でご飯を食べるようになったんですよ」

 まだ家の外には出られないんですけど、と白鷹が頬を掻いた。

「それはよかったね。十分進歩だよ」

 千歳が胸の前で小さく拍手した。

「笹野先輩を観に行きたいって、張り切っているんです」

 白鷹が照れくさそうに言った。

「そこは吾妻さんじゃないんですね」

 歩が口を縦にして言った。

「白鷹家の血を感じるな……」

 僕が思わず呟くと、

「笹野の顔に弱いDNAなのかもしれないな」

 吾妻が口元を緩ませながら言った。

「人をウイルスみたいに言わないでよ」

 笹野が口先を尖らせて小言を漏らした。

「みんな、揃ってるか?」

 熊野先生が部室に入ってきた。

「揃ってます」

 代表して僕が答えた。

「今日はこれから会議があるから部活には出られないが、葉山にこれを渡しておく」

 そう言うと熊野先生が、僕にプリントを手渡してきた。斜め前に座っていた千歳が覗き込んでくる。

「シアターゲーム?」

 おそらく熊野先生の自作のプリントだろう。熊野先生が演劇部の顧問に就任して二年目だが、こんなことは初めてだ。

「そうだ。練習の一つに入れてみろ。やってみると、なかなか面白いぞ」

「M大の演劇サークルで取り入れていたんですか?」

「まあな。それじゃあ、終了時間になったらちゃんと帰れよ」

 はーい、と間延びした返事をしているうちに、熊野先生は忙しなく職員室へと戻っていった。

「熊ちゃん、えらく張り切ってるじゃんか」

 吾妻が僕の手からプリントを取って目を通し始めた。吾妻から僕にプリントが返ってきたところで、僕は他のみんなにプリントに記載されている内容を要約しながら説明をした。

 シアターゲームとは、表現力や想像力、瞬発力を高める目的で用いられる演劇の練習方法の総称で、様々な種類がある。例えば、相手と向かい合って立ち、同じ動きを合わせる『ミラーリング』、あいうえお作文を複数人で作成する『あいうえお作文』などがある。

「まずは『ナイフとフォーク』というゲームをやってみよう。テーマはどうする?」

 僕はみんなの顔を見渡した。みんな咄嗟には意見が出ないようで、首を傾げている。

『ナイフとフォーク』とは、二人一組になり、ゲーム名にもなっている「ナイフ」と「フォーク」のように対となる物をそれぞれを身体のみで表現するというゲームだ。

 グーチョキパーでチームを分けた結果、吾妻と笹野、千歳と白鷹、舞鶴さんと僕の組み合わせになった。一人余った歩がお題の出題者だ。

「最初のお題は『あじまん』と『からからせんべい』!」

 歩が声を張り上げた。

「はあ?」

 吾妻の声に邪魔されて、僕たちは体を動かさなかった。

「どうして、あじまんなの?」

 千歳がくすくす笑いながら訊いた。

「とくに意味はないです。なんか今日、朝起きたら急に食べたくなっちゃったんですよね。でもどうしてあじまんって、冬しか買えないんですかね? 大判焼きは一年中買えますよね?」

 歩が首を傾げながら言った。

「坂田だと、寒い時期じゃないと売れないからじゃないか。それと、ラーメンばっかり食う人種だからだろう」

 吾妻が他人事のように答えた。

「吾妻先輩、正解です。やっぱり暑い時期は売れないからだそうです。あとは、夏場だと食品の衛生管理が大変らしいからだそうですよ」

 白鷹が珍しくスマートフォンの画面を見ながら言った。おそらくインターネットで検索して調べたのだろう。

「仕切り直して、もう一度やるぞ」

 僕が手を叩くと、みんな距離を取った。

「『あじまん』と『からからせんべい』!」

 歩がまた叫んだ。

 僕が体を丸めてしゃがみ込むと、隣に立っている舞鶴さんは腕を三角にしてしゃがみ込んだ。対面に立っている吾妻と笹野ペアは、吾妻が頭の上で丸を作り、笹野が頭の上で三角を作った。僕と舞鶴さんペアが体全体を使って表現しているのに対し、吾妻と笹野ペアは腕だけで表現している。千歳と白鷹ペアは、僕たちとまた違った。白鷹が前屈をして丸を表現し、千歳が体育座りをして三角形を表現した。

「みなさんバラバラですねー」

 歩が感心したように頷いた。

 確かに面白い。表現の無限の可能性が感じられる練習だ。

「それにしても、吾妻と笹野は省エネし過ぎだろう」

 僕が堪らず文句を溢すと、 

「表現の自由だろう」

 吾妻がすかさず反論してきた。

「次からはもっと体全体を使えよ。それから、今度はテンポよく続けてみるぞ!」

 張り切って手を打ったものの、歩の口からは、空と海、朝と夜、と抽象的で単純なお題のコールが続いた。お題が無形なうえに正解がないため、盛り上がりに欠けてきた。

「お題を考える方が難しいですよ!」

 歩が頭を抱えて嘆いた。

「仕方ないな。休憩したら、ペアをシャッフルするぞ」

 僕が告げると、

「やったー」

 歩が安堵した表情で両手を上に突き上げた。

 休憩に入ると、白鷹と歩が飲み物を買いに部室を出て行った。笹野と舞鶴さんは壁際に寄せた椅子に腰掛け、コンビニスイーツの話を始めた。僕と吾妻と千歳は、埃を気にせず床に腰を下ろした。

「クマちゃん先生、すっかりやる気モードだね」

 千歳が言った。

「ああ。期待以上だな」

 答えると僕は、熊野先生が作ってくれたプリントに目を通した。熊野先生が大学の演劇サークルで経験したことをまとめてくれたのだろうが、素直に嬉しく思う。

「コージたちが少し羨ましいな」

 千歳が目を細めた。

「どうせならもっと早く協力して欲しかったけどな」

 吾妻が鼻を鳴らした。

「でも、安心するね。ケイタ、正直心配してたでしょう? 僕たちが引退した後の演劇部のこと」

 千歳が僕に向かって微笑んだ。

「……まあな」

 白鷹を信用できないわけではないが、同学年に誰もいないことを考えると不安はある。例え白鷹に部長の素質があったとしても、相談役は必要だ。舞鶴さんはまだしも歩は頼りにならないだろう。

「あとはオレたちがいる間に、新入部員が入ってくれれば、心置きなく卒業できるんだがな……」

 お節介な先輩かもしれないが、大学受験が終わってから高校を卒業するまでの間であれば面倒をみられる。

「ケータの場合、大学が決まっているかどうか怪しいけどな」

 吾妻が口を挟んできた。おまけにくつくつと喉を鳴らして笑っている。

「うるせえな」

 思わず舌打ちが溢れた。

「今年の初詣はさ、梅ちゃんも誘って、四人で合格祈願に行こうよ」

 千歳が随分と気の早いことを言うと、

「悪い、ちょっと電話」

 吾妻が立ち上がって、部室の外に出て行った。

「四人は無理だと思うぜ」

 千歳との会話を再開すると、

「やっぱり、梅ちゃんは誘っても来てくれないかな?」

 千歳が残念そうに眉を垂らした。

「いや、そうじゃなくて、笹野がいるなら、白鷹が黙っていないだろう」

 この場にいない白鷹の姿を思い浮かべながら答えると、ああ、と息を漏らしながら千歳が手を打った。

「そういうことね。それならアユとマイちゃんも誘おうか。でもアユは彼女がいるから……」

 部室の戸が開いた。白鷹と歩が戻ってきたのかと思ったが、

「先に上がるな」

 吾妻が黒色のリュックサックを掴んで踵を返した。

「バイトか?」

「ああ。ヘルプで呼ばれた」

 吾妻が颯爽と部室を出ていく。 

「お疲れー」

 千歳がその後ろ姿に声を掛けた。

「あんなんで大丈夫なの?」

 笹野が舞鶴さんとの会話を止め、戸が閉まり切っていないうちから愚痴を溢した。僕は咄嗟に言葉が出てこなかった。正直なところ、笹野と同じ気持ちだったからだ。

「葉山も部長ならひとこと言うべきよ」

 笹野が僕の方に体を向けた。

「オレにばかり責任を押し付けるなよ。吾妻のバイトは仕方ないだろう」

「何が仕方ないのよ。急に帰るってことは、ヘルプなんでしょう? それなら断れるはずよね?」

「バイトのことは、オレにはわからねえよ。経験がないんだから」

 興奮して顔を近づけてくる笹野に、焦りながらも体を後ろに引いた。

「梅ちゃん、今日はもうシズオも帰っちゃったんだから、明日改めて話そうよ。今は、ここにいるメンバーでできることをやろう」

 笹野は不満げに口先を尖らせていたが、千歳の話には聞く耳を持つ気でいるのだろう、それ以上、文句を続けることはなかった。



「タカさーん! 目がしょぼしょぼします」

 歩が顔を後ろに反らして嘆いた。というよりも遠吠えを上げた。

「目薬でも指しとけよ」

 白鷹はノートパソコンの画面から視線を反らすことなく言葉を返した。

「目薬なんて持ってないですよ!」

 歩がまた喚き声を上げた。

 部室に着くと、昨日の再放送かと思わず突っ込みたくなる景色が流れていた。

 こんな騒々しい中でも、笹野は脚本に目を通しては目を閉じて諳んじ、また目を開けては閉じてを繰り返している。

 白鷹と歩の声が賑やかになってきたのを他所に、吾妻が机に手をついたかと思うと椅子から立ち上がった。

「悪いが、今日は帰るな」

 吾妻が腕時計に目を落としながら言った。

「バイト?」

 千歳が吾妻に声を掛けた。

「ああ。ヘルプを頼まれた」

 吾妻はそれ以上会話が膨らまないようにするためか、千歳が相手だというのに素っ気なく答えた。

 千歳が僕に視線を送ってきた。笹野も僕を見ている。

 部室のある特別教室棟は、昇降口とは反対側に位置する。吾妻は部活に出るつもりがないのに、少し顔を出すためだけにわざわざ部室に来る性分ではない。急にアルバイトが入ったというのは嘘ではないだろう。しかし……。

「吾妻」

 僕が呼び止めると、吾妻は戸に手を掛けたところで立ち止まった。

「本番まであと一ヶ月しかないんだぞ。バイトは休めないのか?」

 ヘルプなら断っても問題ないはずだ。せめて最後の一ヶ月くらいは部活に集中して欲しい。

「自分の台詞はしっかり覚えているんだ。練習に参加できなくても問題ないだろう。それでも何か文句があるのか?」

 戸から手を離した吾妻が、威圧的な視線で僕を見下ろした。普段はあまり気にならない五センチの差が、今はどうしてか数値以上に高く感じられた。

「演劇には台詞を覚える以外にもやることがたくさんあるだろう! それに今日はクマちゃんが演技指導をしてくれる予定なんだから、ヘルプのバイトよりも優先すべきだろう!」

 僕は椅子から立ち上がると、吾妻に負けじと胸を反らして反論した。

「無理なものは無理だ」

「無理ってなんだよ? 無理じゃなくて、やる気がないだけだろう!」

「やる気ってなんだよ? やる気があれば演技が上達するのか? やる気なんて舞台の成功には関係ないだろうが!」

「吾妻のやる気のない態度が、周りのヤツらに悪影響を及ぼすだろうが!」

「それは本人の問題だろう! 俺のせいにしてんじゃねえよ!」

「少しは自分が主役だっていう自覚をしろよ!」

「うるせぇな! 俺はお前たちと違って、ごっこ遊びに青春を全てかけられるほど、呑気でも暇人でもないんだ!」

 吾妻が唾を吐き出す勢いで言葉を吐き捨てた。

「吾妻、それ本気で言ってるのか?」

 僕は反射的に吾妻の胸ぐらを掴んでいた。吾妻の体がふわっと持ち上がり、ぐらりと揺れた。

「やめなさいよ!」

 今まで黙って見ていた笹野が叫んだ。

「本気で言ってるのかって訊いてるんだ! 答えろ! 吾妻っ!」

 僕は笹野を無視して、吾妻のワイシャツの襟から手は離さないまま体を揺らした。吾妻の体は想像していたよりもずっと軽い。

 笹野がその場に立ち上がり、

「お願い! やめてっ!」

 声を尖らせて叫んだ。

「二人ともやめろよっ!」

 言いながら千歳が、僕と吾妻の間に体を割り込ませようと肩に手を掛けてきた。僕は吾妻の体をさらに引き寄せ、それを許さなかった。

「笹野先輩! 危ないです!」

 白鷹が、僕と吾妻に近づこうとする笹野を後ろから羽交い締めにして押さえ込むのが、見開いた目の視界の隅に映った。

「飯豊! 舞鶴を連れて、廊下に出てろっ!」

 白鷹が首だけを回し、歩に向かって叫んだ。

「はいっ……」

 歩はワンテンポ遅れて舞鶴さんの腕を掴むと、半ば強引に彼女の体を引きずって廊下へ連れ出した。舞鶴さんは混乱している様子で、おぼつかない足取りだ。

「俺はお前たちみたいに、学校に通っていればそれでいい、能天気なガキじゃねぇんだよ!」

 吾妻が叫ぶ。僕の頬に唾が飛んだ。

「誰がガキだっ! 文句ばっかり言ってる吾妻の方が、よっぽどガキだろうが!」

 僕は怒りに身を任せ、左手を振り上げて吾妻の顔を殴った。吾妻の体が吹っ飛んでいく。吾妻は床の上に倒れ込むと、体を横にしたまま動かなくなった。

 笹野が口元に手を当てて悲鳴を上げた。吾妻の元に駆け寄ろうとする笹野を、白鷹が歯を食いしばって抑え込んでいる。千歳の右手が、不自然に宙に浮いたまま止まっていた。

 狭い部室の中は、視界に全て納まっていた。

「今までそんな風に思ってたのかよ! オレたちがやってきたことを、ごっこ遊びなんて幼稚な言葉で片付けるのかよ! ふざけんなよっ!」

 荒い息を吐き出しながら言葉を吐き捨てる。

 部室の中の様子を上から見下ろしている冷静な自分がいるのに、何もかもが止まらなかった。

「うるせえよ……。いくら頑張ったって、誰も俺たちの舞台に心を動かされたりしねえよ! 新入部員も入ってこねえよ! こんなこと、全く意味がねえんだよ……」

 吾妻がのそのそと立ち上がる。唇の端が切れて赤く膨れ上がっていた。

 立ち上がった吾妻の影が、僕の体を覆った。それが、僕をさらに不自由にさせた。

「誰がロミオを演じたって結果は同じだ! そんなに必死になるんなら、ケータが自分で主役をやれよ! ケータが舞台に上がれよ!」

 吾妻は黒色のリュックサックを拾って右肩に背負うと、乱暴に戸を開いて部室から出ていった。

 戸の嵌め込みガラスが割れたかと思ったが、意外と頑丈らしい。

 僕は瞬きをすることさえ億劫になっていた。

 開いたままの戸から冷たい空気が流れ込んでくる。日がすっかり落ちたこともあり、どうやら外は冷え込んできたようだ。頬が冷たくて、自分の体が熱いことを知った。

「ケイタ……。シズオからあんなことを言われて怒りたくなる気持ちはわかるけど、何も殴ることはないだろう……」

 ようやく太ももの高さまで手を下ろした千歳が弱々しい声を漏らした。千歳は今にも泣き出しそうな顔になっていた。千歳の流れない涙が、僕に取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づかせた。

「ごめん、オレ……。頭に血が上って……思わず……」

 僕はそこから誰の顔も見ることができなくなり、視線を床に落とした。床には何も書いていないというのに、何か正解を求めるように睨み続けた。

「僕はシズオを追いかけるね。こっちのことは任せたよ」

 千歳が忙しなく部室から出ていった。

「葉山先輩……。手が腫れてますよ」

 白鷹の言葉に、僕は自身の手を見た。左手の中三本の指が膨れ上がっていた。じりじりと痺れも感じる。

「……どうして殴ったの?」

 ようやく白鷹から解放された笹野が僕の手を掴み、自分の両手で包んだ。僕は笹野の手を振り払おうとしたが、彼女の手が震えていることに気づいて思いとどまった。

「ごめん……」

 僕はもう一度謝った。

「どうして殴ったのよ! 胸ぐらを掴んだとき、吾妻は逃げ出そうとしなかったじゃない! 反撃しようとしなかったじゃない! それなのに、どうして殴ったりしたのよっ!」

 すっかり興奮している笹野は、僕に肩をぶつける勢いで顔を寄せてきた。白鷹が再び、笹野を後ろから押さえ込む。

「笹野先輩! 落ち着いてくださいっ!」

 白鷹が叫ぶが、笹野には白鷹の声が全く聞こえていないようだ。その声を無視して僕との距離を詰めてくる。白鷹の力がいよいよ強くなって、笹野の体が宙に浮いた。

「部長の葉山がそんなんでどうすんのよっ!」

 笹野が頭を振りながら吐き捨てた。途端、笹野の体が雪崩れるように崩れ、白鷹が慌てて床に座らせる。

「ごめん。オレだって後悔してる。まだ手が覚えてるんだ。吾妻を殴ったときの感触が、まだこの中に残ってる……」

 艶を弾く黒髪が笹野の顔を隠し、丸められた背中が小刻みに震えている。

「バカ……。本当にバカなんだから……」

 笹野が髪の毛を逆立てる勢いで顔を持ち上げ、僕を睨んだ。その目からは大粒の涙が溢れ出していた。

「……昨日私が、部長のくせにって言ったから?」

 笹野の目が震えていた。

「それは違う。笹野は関係ない」

 僕は首を激しく横に振った。

「だから嫌だったのよ! 私が関わるとろくなことにならないんだもの! また私のせいで、部活が壊れちゃう……」

「笹野のせいじゃないって言ってんだろう!」

 ごちゃごちゃ言われて、笹野に向かって怒鳴ってしまった。笹野は一瞬、目を丸くして息を飲んだが、すぐにまた泣き始めた。広くない部室に、彼女の啜り泣きが響く。

「とりあえず、今日のところは帰りましょう。この空気で活動を続けるのは無理ですよ」

 白鷹が笹野の背中をさすりながら言った。

 居てもたっても居られなくなったのか、舞鶴さんと歩が恐る恐るといった足取りで部室に戻ってきた。

「ケーちゃん、大丈夫?」

「吾妻さんと千歳さんが出ていきましたけど……」

 二人からの問いかけに、僕は何も答えなかった。僕に倣うように、笹野と白鷹も無言だった。

「明日の部活は予定通り行う。今日は解散だ」

 どうしようもない僕の意見に、反論する者は誰もいなかった。

 歩と舞鶴さんは目配りをしてから静かに部室を出ていった。その後に、白鷹が笹野を促して一緒に部室を後にした。

 一人部室に残った僕は時計の短針の音を聞きながら、いつまでも震える手の感触を手放せずにいた。



 予定の時間を五分過ぎて、熊野先生が部室にやってきた。

「何かあったのか?」

 熊野先生が部室を見渡しながら会口一番に訊いた。

「……吾妻とぶつかりました」

 どうせ嘘を吐いても仕方ないと、素直に白状した。

「それで、どうして吾妻だけじゃなくて、みんな部室にいないんだ?」

「部活を続けられる空気じゃなかったので、オレの判断で家に帰しました。せっかく熊野先生が指導してくれるっていうのに、すみません」

 僕は熊野先生の目を見られないまま頭を下げた。

「俺に謝る必要はねえよ。俺の部活じゃないし、俺が困ることは一つもないんだから」

 言いながら熊野先生が椅子に腰掛けた。

「でもオレたちは、先生の大切な時間をいただくわけじゃないですか。指導してもらう立場のオレたちが、今日は部活の気分じゃないので休みにします、は失礼な話ですよ」

「確かにそうだな。今のは俺が悪かった。相手が俺ではなく、小見先生に対して同じことをしていたら、俺は叱っていただろうし……。俺が独身で自由な時間が多いから、俺自身が時間に対してルーズだったな。葉山の方が、時間に対してずっと誠実だな」

 熊野先生が椅子に深く座り直した。

 僕は熊野先生が職員室に引き返さなかったことをいいことに、口を開いた。

「あの、熊野先生が所属していた演劇サークルでもトラブルはありましたか?」

「そんなもん、一々数えていられないほどあったぞ」

 高校生の喧嘩なんて可愛いものだ、と熊野先生が笑い飛ばした。

「人間関係のトラブルが断トツで多かったな。サークル内で二股を掛けていた男もいたし、サークル内の男を取っ替え引っ替えしていた女もいた。かと思えば、演技の方向性で殴り合いの喧嘩をしたこともあるし、本番当日に飛んだ役者もいた。すぐには思い出せないこともあるくらいに色々あったぞ」

 熊野先生の目が木の床を撫でた。僕もいつか、今日の出来事をこんな風に思い出すことがあるのだろうか。

「でも、お前たち高校生にとっては、今の喧嘩が自分たちの全てだからな。そこをバカにするつもりはねえよ。大人になってから、自分たちであのときはバカだったなあって、振り返られればそれでいいさ。高校生のお前たちに、俺から言えることとしたら、とことんぶつかれってことだけだな。何かを一生懸命やっていれば、他人とぶつかることは避けられないからな」

「一生懸命やっているのが、片方だけだった場合も同じですか?」

 熊野先生は一瞬、いやしっかり考えてから口を開いた。

「演劇部に限らず団体競技は、必ずしも全員の熱量が同じだとは限らない。だからこそ個人ではなくチームとしての目標を掲げる部もあるんだと思う。目標を部員たちで決めている部も少なくないだろう? 部活に対する気持ちにばらつきがあると衝突も起こりやすいだろうし、周囲のモチベーションも下がってしまう面もあると思う」

 決して思いつきではなく、考えた末の言葉であることを素直に嬉しく思った。

「正直な気持ちを話すと、葉山は恵まれていると思うぞ。吾妻という俳優を自由に扱える立場は、演出家なら喉から手が出るほど羨ましいことだと思う。うちの演劇部は生徒主体だからあまり表面化されていないと思うが、顧問主体の演劇部だったら、それこそ吾妻は推薦入学させたいほどの逸材だと思う。あの見かけで、自分よがりではなく人を惹きつける演技ができる術を身につけていることは、容姿以上の才能だと俺は思っている」

 高館さんが憧れていた黄金時代の湊高校演劇部は、伝統通り部長が脚本を執筆していたが、顧問が全面的に協力をしていたこともあり、一時期は共同制作になっている。そのときの顧問は心底部活動が楽しかったことだろう。脚本を生徒と一緒に制作できるだけの体力だけではなく熱意もあった裏には、教師の心を突き動かす何かがあったのだろうと予測する。大人が打算抜きで全面協力する理由には絶対に裏がある。

 瞼を閉じたまま、ビデオテープに焼かれた舞台を思い出す。

「葉山が大人しく演者から演出にコンバートしたのも、吾妻の実力を認めているからだろう。あんなやつが、こんなド田舎にいるなんて、誰が想像できる?」

 熊野先生の台詞が、温度を持って響き始める。それが思い出と結びついて、頭の中で勝手に映像が流れ始めた。初めて吾妻を見たとき、僕は時間を奪われた。

「想像できないよな。できるとしたら、作る『創造』の方だ」

 熊野先生が人差し指を宙に振った。

 吾妻と同じクラスだった一年間。僕は彼と同じ教室の中にいるのが苦痛だった。

「そんでもって、あんなヤツが視界に入ってきたら、嫌でも創造しちゃうよな」

 熊野先生の口元が厭らしく歪んだ。その曲線に、僕は今までずっと騙されていたのだと気づいた。動揺で吐き出せなかった息で呼吸が詰まった。熊野先生の唇が弾くよりも先に、答えが頭の中で点滅した。

「……演出家なら」

 それが音として流れたのか、それとも映像として流れたのか、混乱している僕には区別がつかなかった。熊野先生のねっとりとした目の動きが、容赦なく僕を丸裸にした。

 僕としたことが、神室さんから送られてきた熊野先生の舞台公演動画を観ていたせいで先入観にとらわれていた。目の前にいるこの人が、役者ではなく演出家だってことに、この瞬間まで気が付かなかった。

「葉山。お前、吾妻が主演の脚本を何本執筆したんだ?」

 この人、とんだ曲者で、とんだ役者だ。

 生唾さえ上手く飲み込めない。瞬きで逃げることさえ許されない。

「形にしていなかったとしても、頭の中で十本、いや二十本は執筆しているんだろう? 上演する予定もない脚本を……」

 ああ、敵わない。そうだ。この人は、僕らを一年間騙していたような人間だ。いや、自分自身も騙すような性根の持ち主だ。普通じゃなかった。普通なわけがなかった。

「吾妻のヤツ、飯を食っているだけでも画になるからな」

 熊野先生が細長い溜息を吐いた。

 この人も本当は、吾妻を自由に操ってみたかったのだろう、と僕には理解できた。

「吾妻、ああ見えてアクションは苦手なんですよ。体は見せかけだけで、運動神経が悪いもんで。苦手なだけで、及第点は軽く越えますけど。オレはコメディが好きなのでそういう路線の話ばかり書きましたが、アイツが一番映えるのは、メッセージ性が強いドラマ作品ですよ」

「俺だったら、吾妻に泣かせるな」

 熊野先生が口端を持ち上げた。

「熊野先生、性悪ですね」

 驚いた感情を抱えたまま言葉を返した。

「何を言ってるんだ。葉山だって、一度くらいは想像したことがあるだろう?」

 熊野先生の決めつけに僕は黙った。そんな僕を見て、熊野先生が小さく笑った。それを答えだと受け取ったようだ。

「熊野先生は、学生時代に何本くらい執筆したんですか?」

 熊野先生は、俺か、と呟きながら顎に手を当てて考え出した。

「50本くらいだったかな? とにかく経験を積むために、良し悪しはさておき、量だけは書いたな……」

「すごい本数ですね」

「大学生は時間だけはあるからな」

 熊野先生がさらりと答えた。

「話を戻すが、葉山は中学のときはバスケ部だったんだろう。そのときだって、部内でのいざこざがいくらかはあっただろう?」

「それがですね、幸福なことになかったんですよ。みんな勝つことしか考えていない連中の集まりだったので、ただひたすらバスケだけをやっていました」

 決して嘘ではない。先輩後輩間のいざこざが全くなかったと言えば嘘になるが、取るに足らない程度のものだけだ。ありがたいことに、バスケに集中できる環境だった。

「とにかく、吾妻とちゃんと話し合えよ。人間関係の修復に近道はないからな」

「人間が一番難しいですね……」

 天井を見上げて、細い息を吐き出す。

 演技プランや台詞回しでの対立であれば妥協点を探るが、演劇の本質ではない事柄に関するすれ違いとなると話は違う。この燻っている感情も上手く扱えない。焦りが後悔の隙間を流れ出してくる。

「それじゃあ、俺は職員室に戻るからな」

 熊野先生が机に手をついて立ち上がった。

 僕はそのまま部室に残り、薄汚い天井を眺めた。ただ呆然と眺めているうちに、頭の中に色んな考えが流れ込んできた。潮風が僕の頬を撫で、その風に乗って聞こえてくる吹奏楽部の演奏が僕の凝り固まった思考を擽った。色んなものに体を預けているうちに、本当はもっと吾妻と話したかったのだと気づいた。

 薄暗い教室の壁に映る陰が、水面のように揺れていた。

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