第7幕 第4場 職員室にて
目を開けると、目に眩しいくらい真っ白な景色が広がっていた。見慣れない景色に戸惑いながら、目だけを動かして辺りの様子を伺う。
埃が床に着地する音や睫毛が肌に触れる音が聞こえてきそうなほどに静かだ。事実、時計の針の音が心臓の音よりも強く響いていた。
針の音に急かされるように少しずつ頭が冴えていく。
ベッドはパーテーションで囲まれており、ここが保健室か病院のどちらかだと気づく。瞬きを五回すると、ここが年に一度の健康診断でしか訪れない、健康優良児な自分には縁のない保健室だと確信した。
柔らかな掛け布団を押しのけ、ゆっくりと上半身を起こした。
「葉山先輩!」
白鷹が弾けるような声量で僕の名前を叫んだ。
「このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思いましたよ! 無茶だけはしないでくださいって、何度も何度も言ったじゃないですか!」
白鷹は手に持っていた脚本を床に落としたことに気づいていない様子で布団に手をついた。彼の言葉で、僕は自分が倒れたのだということを瞬時に悟った。
僕はもう少し寝ていたい気持ちをぐっと堪え、仕方なく起きることにした。布団の裾を握ったままの白鷹ごと布団を持ち上げ、上半身を起こす。それからベッドの手すりに寄りかかった。
窓から入ってくる涼しい風のおかげか、少しずつ頭が冴えていく。
「心配させたみたいで悪かったな」
「悪かったですみませんよ! 自分だけじゃないです。みんな心配したんですからね!」
白鷹はようやく布団から手を放したかと思うと僕の肩を掴み、激しく揺らしながら喚いた。白鷹の唾が顔に飛んでくる。
「とりあえず体を揺らすのをやめてくれないか」
僕の頼みに白鷹は我に返ったのか、僕の肩から手を外すと丸椅子に腰を落ち着かせた。それから足元に落ちていた脚本を拾った。
「あとどうせならお前の役は、笹野か舞鶴さんがよかったな」
「何贅沢なことを言ってるんですか。舞鶴はともかく、笹野先輩には絶対にやらせませんから!」
白鷹が目をかっと見開いて、僕の顔に近づけてきた。
「オレが悪かったからちょっと離れろ」
僕はようやく息をつき、壁に掛かっている時計を眺めた。どうやら一時間ばかり眠っていたらしい。
「千歳だったら可愛く怒ってくれるんだけどなあ……」
「まだ我儘を言ってるんですか。千歳先輩は、熊野先生に報告するために職員室へ行きました。あと飯豊も途中までついて来ていたんですけど、あまりにもうるさかったので部室に帰しました」
「そうか……」
歩の狼狽えようは目に浮かぶようだ。
「飯豊を見てると、自分も一年前は、あんなにガキだったのかなって不安になりますね」
白鷹が人差し指で頬を掻いた。
「いや、白鷹はもう少しだけ大人だったぞ。あくまでも少し、だけどな」
白鷹は、それなら良かったです、と一呼吸入れてから、
「今の葉山先輩は、誰がどう見ても一人で頑張り過ぎです。それに、どんなに頑張ったとしても、葉山先輩が倒れたら何の意味もなくなりますよ」
僕に聞かせるというよりは、独り言のように呟いた。よく見ると白鷹は、丸椅子が座高と合っていないのか、いやに背中を丸めていた。
「オレが頑張り方を見せないで、どうして他の部員たちが頑張れるっていうんだ? 今日は迷惑を掛けて申し訳ないと思ってるが、オレは自分のやり方を間違ってるとは思ってないからな」
僕は純白な布団の皺を見つめながら、きっぱりと言い切った。
「葉山先輩はずるいです。そんな風に言われたら、何も言い返せないじゃないですか……」
そう言うと白鷹は、眼鏡を外して目頭を摘んだ。
ワックスのかけられている床は太陽の光を惜しみなく照り返していて、寝起きの目には刺激が強い。
海風を受けてはためくカーテンの隙間から、吹奏楽部の演奏が聞こえ始めた。曲名は「シング・シング・シング」。おそらく文化祭のステージ発表に向け、パフォーマンス性の高い曲を選んだのだろう。
「葉山先輩……。引退しないでください。卒業しないでください」
白鷹の膝にのっている二つの拳が震えている。 彼の突然の告白に、僕は息を詰めた。
「無理を言うな。オレに留年しろって言うのかよ」
不意打ちだったせいか、つい茶化した言い方になってしまった。
「だって、寂しいじゃないですか。自分だけ取り残されていくみたいで……。自分、どうして数日早く生まれてこなかったんだろうって悔しいんです。先輩たちと同級生だったら、どれほど良かっただろうって……」
白鷹は四月二日生まれだ。言葉通り、あと一日早く生まれていれば、僕たちと同学年だったのだ。
「もしオレたちと同級生だったら、白鷹は演劇部に入っていなかっただろう」
「確かにそうですけど……」
「それに、もしオレと白鷹が同じ年に受験していたら、どっちかが落ちていたと思うぞ」
「虚しいことを言わないでくださいよ。自分も学年最下位で合格した自覚はありますけど……」
白鷹が情けない声を漏らした。
運命なんだろうな、と思う。白鷹が四月二日に生まれたことも、オレの身長が百七十五センチを越えたのが高校一年生の夏だったことも。全部、神様が仕組んだ運命だったのだろう。
「自分は、部を引っ張っていく自信がないです」
それきり白鷹は黙り込んだ。
「いいか、白鷹。オレたちが引退したら、お前は脚本に集中しろ。演出は他の奴に任せればいい。歩は周りが見えないだろうから、舞鶴さんに期待すればいい」
白鷹の目が大きく見開いていく。そのスローモーションは、自分が何度も見てきた一瞬だった。
「こんなところで終わらせねえよ」
僕は顔を崩して笑った。
白鷹は、本当にずるいですよ、と悔しさを滲ませた声を漏らしてから言葉を続けた。
「本当は……心の隅で、このまま演劇部がなくなっても構わないって思ってました。飯豊に偉そうなことを言っておきながら何を言ってるんだって思うかもしれませんが、そしたら自分は部長という重い責任から逃れるのにって考えていました」
白鷹の告白に、僕は驚かなかった。話の先を促すように、うん、と小さく頷いた。
「葉山先輩。自分、頑張ります。必ず自分が部長を引き継いで、次の世代に引き継ぎます」
白鷹の声は震えていたが、意志のこもった力強い声だった。
「おう。期待してるぞ」
僕が大きく口を開いて笑うと、つられたように白鷹も笑った。
「それにしても、このオレが寝不足で倒れるとはなあ……。中三に受験勉強をしていたときは、徹夜続きでも平気だったんだけどな。人間って、どんなに体力があっても、寝ないと生きていけない生き物なんだな」
「何を当たり前のことを言ってるんですか! まさか今年の受験勉強も、徹夜で乗り切る気だったんですか? 悪いことは言いませんから、コツコツ健康的に頑張ってくださいよ」
「それは無理なご注文だな」
言いながら、僕は腕を上に伸ばした。
「自分、そろそろ部室に戻りますね。葉山先輩が目を覚ましたこと、吾妻先輩たちに報告してきます」
そう言うと白鷹は、保健室から出ていった。
一人になり、ようやく長い息を吐いた。それから上半身を倒して、枕に頭を預けた。保健室のベッドってこんなに気持ちの良い寝具なのか、と感動しながら天井を眺めていると、遠くから足音が聞こえ始めた。
「……葉山! 大丈夫か!」
パーテーションに影が映るとともに急に開いて、熊野先生の顔が現れた。ギョッとして体を引くと、熊野先生がベッドに乗り上がってきた。
「まさか、吾妻と一騎打ちしたんじゃないだろうなっ!」
熊野先生が僕の肩を掴み、激しく体を揺さぶった。
「熊野先生! 落ち着いてください! ここは漁船じゃないですし、熊野先生もマグロじゃないんだから、ベッドに乗り上がってこないでくださいよ!」
僕が抗議の声を張り上げると、遅れて保健医の油戸先生が駆け込んできた。熊野先生を追いかけてきたのか、息が切れ切れである。膝に手をつき、肩で呼吸を繰り返している。
「喧嘩じゃなくて、寝不足ですよ……」
油戸先生が熊野先生の肩を掴み、僕の体から引き離した。
「全く心配かけやがって……」
熊野先生は声を萎ませながら、先程まで白鷹が座っていた丸椅子に腰を下ろした。体から力が抜けたのか、背中が丸まっている。
「熊野先生が人の話を最後まで聞かないで、勝手に早とちりしたんじゃないですか!」
油戸先生が額の汗をハンカチで押さえ、荒い呼吸を挟みながらぼやいた。いつもは綺麗に整えられている髪の毛が散らかっていた。
「葉山くんをここまで運んできた生徒の方がよっぽど冷静でしたよ……」
言いながら、油戸先生がデスクの椅子に腰を下ろした。
「運んできたって、誰がですか?」
保健室まで自分で歩いた記憶はもちろんないが、誰かに運んでもらった可能性があったことを全く考えていなかった。
「吾妻くんよ」
油戸先生の答えに、僕は額を抑えた。千歳は……無理だとしても、せめて白鷹だったらよかったのに。いやいや、こんなときこそ無駄に図体のでかい歩の出番だろうが。堪らず、チッと舌打ちが溢れた。
「もう少し休んでいくか?」
熊野先生が、僕の顔を覗き込んできた。
「いえ、大丈夫です」
ベッドから降りると、布団が暖かかったせいか肌寒く感じられた。
「お騒がせしました」
デスクに向かって何か書類を広げている油戸先生の後ろ姿に声を掛けた。油戸先生は椅子を回転させて、こちらを振り向いた。
「吾妻くんから聞いた話だと、葉山くんが倒れかけたところを受け止めたから、床に頭を打ち付けたりはしていないとは言っていたけれど、家族の誰かに迎えに来て貰わなくて大丈夫?」
「ただの寝不足なので問題ないです。それに自転車を置いて帰るわけには行きませんので、親の迎えも必要ないです」
「そう。まだ顔色が優れないから無理しないでね」
油戸先生にもう一度頭を下げて保健室を後にした。
「葉山、部室に行く前に職員室に来い」
熊野先生が先に歩き出した。
保健室から職員室までの道中、熊野先生とは一言も喋らなかった。僕は熊野先生の横には並ばず、後ろをついて歩いた。
時刻は十八時を過ぎていることもあり、職員室は閑散としていた。熊野先生のデスクの周りには誰もいない。他の先生たちは、帰宅していたり部活に顔を出していたりするのだろう。
熊野先生が隣のデスクから椅子を引いて持ってくると、僕にそこに座るように命じた。
「読んだぞ、脚本……」
熊野先生が僕に脚本を手渡してきた。
「勝手に人の机に置いていくなよ。大事な書類が埋もれてたんだぞ」
僕はそれを黙って受け取ると、自分の膝の上に乗せた。
「……葉山。お前、受験生だろうが」
熊野先生が重たそうな溜息を吐いた。
「オレの熱意、伝わりましたか?」
「こういうのは熱意っていわねぇんだよ。無謀っていうんだ」
熊野先生が呆れ顔を横に振った。
「でも熊野先生は、これでオレのことを邪険にできなくなったわけじゃないですか」
僕が勝気に笑うと、熊野先生は不機嫌そうに眉を潜めた。
「それで葉山が倒れちゃ、元も子もないだろうが。……というか『坂田のラーメンを食ったことがない舌で、日本のラーメンを語るんじゃねえ』って台詞、葉山が考えたのか?」
「その台詞はオマージュですね」
「何がオマージュだ」
熊野先生がわざとらしいぐらいの溜め息を吐いた。
「……鳥原に会ったのか?」
「熊野先生の華麗なる大学デビューの小話の数々を拝聴しましたよ。キャンパスで迷子になって講義を受けられなかったり、学食でハニートーストを頼んだらまさかの食パン一斤が出てきて苦しみながら完食したり、美容院ではなくて市販のブリーチ剤で金髪に染めようとして失敗したり、あとは……」
「わかった。もういい」
熊野先生が手のひらを僕に向けた。
「葉山、将来は探偵になった方がいいぞ」
熊野先生が腕を組み直した。
「そうですかね。才能ありますかね?」
熊野先生は返事をしなかった。
「今や不倫相手を探すマッチングアプリがある時代ですからね。探偵業も需要があって安定しているかもしれませんね」
僕が軽口を叩くと、熊野先生は自身の髪の毛を掻き上げた。
「鳥原さんが元気だったのか、訊かないんですね」
熊野先生をまっすぐに見つめた。
「狭い町だ。大人しくしていられないアイツの動向は嫌でもわかる。Uターンの模範生らしく、熱心に町おこしをしているらしいからな」
熊野先生が溜息混じりに言った。そうですか、と相槌を打つ。
鳥原さんの活躍ぶりは、狭い町では耳を塞いでいても吹き込んでくることだろう。
「脚本はここ数日間、徹夜して書きました。キャストは三人です」
僕は手を挙げると、
「会社員Aは白鷹、会社員Bは歩、ラーメン屋の店主は熊野先生です」
指を一本ずつ順に突き立てた。熊野先生は微動だにしなかった。僕はそれを気にせずに続けた。
「新入生歓迎会や文化祭なら、顧問の先生が舞台に上がってもいいと思いませんか? 顧問の先生が、部活に積極的に関わっていることもアピールできます」
僕は自信満々に言った。
熊野先生を演劇に巻き込む。これは鳥原さんから頂戴したアイデアだ。
「……葉山は、演劇が好きか?」
熊野先生が呟いた。僕は顔を持ち上げて答えた。
「別に好きではありません」
「嫌にはっきり答えるな」
熊野先生が乾いた笑い声を零した。
「これから自分を信頼して欲しいと願っている人間に嘘をつくほど、オレはバカではありませんし、熊野先生を相手に、自分の演技が通用するとも思っていません」
「ははは。葉山って、本当は頭がいいのか、それとも究極のバカなのか、わからねえーなあ……」
この間の中間テストは全教科赤点ギリギリだったって、担任の先生から話を聞いてるぞ、と呟いてから、熊野先生が細めた目で僕を見つめた。目尻に笑い皺が浮かび上がっている。
「でも楽しそうに演出をやっているじゃないか」
「たまにしか部活に顔を出さないくせに、どうしてそういうことには気がつくんですか?」
熊野先生は答えなかった。僕はそれを気にせず、椅子から立ち上がった。
「どうか、オレたちを指導して下さい」
頭を下げる。熊野先生の顔は見えないまま、台詞を続けた。
「オレは熊野先生に、オレたちのことを信じて欲しいなんて言えない。そんな無責任なことは絶対に言えない。だけどオレたちは、演劇部を潰すようなことだけは絶対にしません。ただ演劇部を存続させたいだけなんです」
熊野先生に渡した脚本の中身は、公演を控えているロミオとジュリエットではない。これは来年度の演劇部のために執筆した脚本で、いわば置き土産だ。僕がここに残していけるものって、これくらいしかないのだ。
鳥原さんから聞いた話を参考に、ラーメン屋を舞台に、コメディ色の強いすれ違い会話劇を執筆した。僕がこの舞台を観ることはできないが、想像はできる。
「指導っていっても、本番まであと一ヶ月しかないだろう」
「他校の演劇部でも、OBから指導して頂いたりしてもらっていることがあるじゃないですか。あれだって、たった一日だったりとかしますけど、アドバイスを受けたことによって、演技が見違えることってあるじゃないですか」
演劇部だけではない。他の部活でも、OBから指導をして貰ったという話を耳にする度に羨ましく思っていた。我が演劇部は、二年前の下剤騒動がきっかけで、OBとの交流は完全に途切れていた。
「それにオレは、今じゃなくて未来のために、熊野先生を演劇部の顧問にしたいんです。吾妻と千歳がいなくなった後の演劇部の話をしているんです。舞鶴さんは裏方に徹するだろうから、白鷹と歩、それからこれから入ってくる新入部員に演技指導をしていただきたいんです」
自分たちがいなくなった後の演劇部の姿を想像する。考えても仕方のないことなのだが、無関心ではいられない。この感情を老婆心と呼ぶのだろうか、それとも余計なお世話と呼ぶのだろうか。
「熊野先生って、何のために高校教師になったんですか?」
「前にも話しただろう。教師になると奨学金を返さなくていいからだって」
「違いますよね?」
「違わねえよ。葉山は、たかが教師に夢を見過ぎだ。野望を持っているヤツなんて一握りしかいねえよ。安定した収入、世間体、俺みたいに奨学金を返済しなくていいからという打算……。そういうヤツしかいねえんだよ」
「それなら、どうして高校教師なんですか……? 小学校や中学校を選ばずに、高校を選んだ理由はどうしてですか……?」
「給与だ、給与。教師のなかでも、高校教師が一番給与が高いんだ」
「違いますよね?」
「だから違わねえって。どうせ同じ時間働くのなら、少しでも賃金は高い方が得だろう」
「違いますよね? それなら教師よりも賃金の高い職種はいくらでもあるじゃないですか! 熊野先生、良い大学を出ているんだし、大手企業からだって選び放題でしたよね?」
僕の執拗さに、ついに熊野先生が黙り込んだ。
「そんな理由じゃないですよね。この町に演劇部のある小学校はもちろん、中学校もただの一校もないからですよね? だから高校教師になったんですよね?」
弾丸を放つように口が動く。
「熊野先生は、この町は演劇と縁がないって言いましたけど、縁ならあるじゃないですか……。演劇部っていう縁があるじゃないですか……」
千歳と二人で鳥原さんに会いに行ったときのことを思い出す。
『実は、劇団を立ち上げようと思っているんだ』
これなんだけど、と鳥原さんが、僕と千歳の前に一枚のフライヤーを置いた。僕はソファの前の方に体重を掛け、フライヤーに目を通した。それは大人向けの劇団員の募集だった。代表者の名前が鳥原さんになっていた。
『演劇経験のある人を探して、一人ずつ声を掛けて集めているところなんだ』
鳥原さんが口端を持ち上げた。
『大人のサークルみたいなもので、ストイックに活動していくつもりはなくて、あくまでもストレス発散になるように楽しんでいけたらいいなと考えているんだ。でも、いつか公演を実現したいと思ってる。だが実は、既に勧誘は始めていて、今のところほとんど断られているんだ。仕事だけで手一杯だから、とてもそんな活動はできないって。それでもめげずに声を掛けているんだ』
フライヤーはスーパーの掲示板にも貼っているという。熊野先生が目にしたこともあるだろう。どんな思いで、親友の活動を見守ってきたのだろうか。
『君たちは、もう進路は決まっているの?』
鳥原さんは、僕と千歳を交互に見た。僕が黙っていると、
『僕は決まっています』と千歳が先に答えた。
『自分はまだです……』
僕の答えを聞くと、鳥原さんはにこりと目を細めた。
『青々しくて羨ましいな』
僕を咎めなかった大人は初めてで、思わず見惚れてしまった。
『葉山くん、それならW大を目指しなよ』
『いやいや、それは無理ですよ!』
僕は助けを求めるために千歳を見た。千歳は僕の成績を知っていて、浪人しても入れないことを知っているというのに、何も反論せずにニコニコと微笑んでいた。
『世の中、無理なことなんて一つもないよ』
鳥原さんが高校生のような屈託のない笑みを浮かべた。まるで同級生になった気分だ。
『いくら他人だからといっても、無責任すぎますよ!』
僕が反論しても、鳥原さんは笑顔を引っ込めなかった。
『男が見る夢は、大きい方がいいよ』
熊野先生の横には、いつもこの人が立っていたのかと思うと、少し羨ましく感じた。
「熊野先生……。演劇に未練がありますよね?」
未練がある者の目は分かりやすい。飢えた獣のような目をしている。自分の目と同じだ。
「熊野先生が必死に勉強をしたのも、この町に戻ってこられたのも、高校教師になったのも、全部、全部、演劇に携われる機会があったからですよね……? 熊野先生が教師になったのは、演劇部の顧問になれば、演劇に関われる機会があると思ったからですよね!」
毎日対面している目だ。わからないわけがない。間違えたりしない。
「熊野先生、演技が上手過ぎますよ……。演劇部に興味がないふり、上手過ぎました。オレ、大抵の嘘なら見抜ける自信があるんです。それなのに、全く見抜けなかった。それだけ例の事件が、熊野先生を変えてしまったんだと思います」
人の心を動かすのは、こんなにも難しい。
「一緒なんですよ……」
僕の薄っぺらい言葉よりも。
「熊野先生が実家の墓を守りたいのと、オレが演劇部を守りたいのは一緒なんですよ。オレはただ、演劇部を残したいだけなんです!」
アイツの一言の方が、よっぽど人の心を動かせるとわかっている。わかっていても、伝えないといけない思いがある。
「……熊野先生。演劇部の顧問になってくださいとは言いません。演劇部の顧問を演じてください」
僕はもう一度、頭を下げた。
しばらく返事はなかった。仕方なく顔を上げると、熊野先生は何かを噛み締めるように目を閉じていた。
「葉山、お前の勝ちだ……」
熊野先生が顎を天井に突きつけた。
「『顧問を演じろ』か。即興でこんな台詞が思いつくヤツ、お前以外にそうそういねえよ」
優等生で頭でっかちの吾妻や千歳には無理だな、と続けながら髪の毛を掻き上げた。
「お前が書くシナリオ、悪くねえよ。型にハマっていないわけじゃないのに、どこかハッと拍子を突かれることが多くてさ。お前が書くシナリオ通り、演劇部の顧問を演じてやろうじゃねえか」
熊野先生が口端を持ち上げ、白い歯を覗かせた。
「ただし、テストの採点期間は部活に顔を出せないぞ。それでもいいよな?」
「……はい! 十分ですよ!」
腹の底から声が出た。まるで走った後のように身体が火照っている。胸が躍るとは、まさしくこういうときに使う言葉だろう。でも僕は脚本家だから、幕際にはオチをつける必要がある。
「熊野先生に、ずっと言いたかったことがあるんです」
僕は想像を膨らませながら言った。
「何だ?」
熊野先生が顔だけで振り返った。
「熊野先生、死ぬほど金髪が似合わないですね」
熊野先生の顔が引きつってから、
「うっせ」
僕の尻を目がけて足を上げた。が、足は全く上がっておらず、膝の裏側に当たった。
「まずは体力作りからですね」
この野郎、と歯を見せる熊野先生の表情は幼く、同級生のように見えた。
「おーっす!」
元気よく開いた戸の向こう側に、手を挙げている鳥原さんが立っていた。真っ白なTシャツに真っ青なジーンズと、随分ラフな格好だ。以前、店で会ったときはスーツを着用していたこともあり、ずいぶんと印象が違う。背景が校舎なことも手伝ってか、さすがに高校生とまではいかないが、老けた大学生くらいには見える。日焼けしている小麦色の肌が、これまた若々しさを感じさせた。
「清凪……」
熊野先生が棒立ちのまま絶句していた。
僕たちは各々のタイミングで、鳥原さんへ軽い会釈をした。鳥原さんは熊野先生の反応を気にせず、部室の中に入ってきた。スリッパの音が、木の床を鳴らした。
「葉山くん。連絡くれてありがとう」
「いえ。こちらこそ、こんな山奥まで来ていただき、ありがとうございます」
「大人っていいもんだな。あの坂も車で一飛びよ。自転車じゃ、もう登れる気がしねえなあ」
鳥原さんが脇に手を当て、高笑いをした。それから熊野先生に体を向けると、
「クマ、全然変わらねえなあ……」
熊野先生を上から下までじっくりと眺め、執拗に視線を這わせた。
「どうして、ここに……」
ようやく熊野先生が動き始めた。
「心配するな。職員室で許可は取ってきたぞ」
「そんな心配はしていない。仕事はどうしたんだよ?」
熊野先生が言った。
「今日は定休日だ」
そう言うと鳥原さんは、室内を歩き始めた。まずは大道具や小道具が無造作に置かれている教室の隅の方へ進んだ。
「うわー! これ、まだあるのかよ!」
鳥原さんが大声を張り上げた。手には弓が握られている。
「俺が三年生のときの文化祭で上演した『徳尼公伝説』で使ったときの小道具だぜ。美術部から要らない木材を貰ってきて、手彫りで作ったんだよなあ……。なあ、クマ。俺たちが高校三年生だったのって何年前だ?」
鳥原さんが振り返って熊野先生の顔を見た。
「九年前だ……」
「さすが数学教師。計算が速いな」
鳥原さんがカラカラと笑う。
「そうだ! 部誌! 部誌は残ってる?」
今度は僕たちの方に視線を飛ばした。
「あります。ここに……」
僕は本棚を指さした。鳥原さんが颯爽と本棚の前に移動し、腰を下ろした。
「一応、年代順に並んではいるはずなんですけど……」
僕は鳥原さんの隣に中腰になり、肩幅の広い背中を見下ろしながら言った。
「あ! あった、この辺りだ!」
鳥原さんが何冊かノートを手に取った。躊躇なくページを開き、目を通していく。
「懐かしいな……」
鳥原さんが口を閉じたまま一枚、また一枚ページを捲る。
「おい、清凪。お前は一人同窓会を開催するために、わざわざ母校まで来たのか?」
「まさか」
鳥原がノートから顔を上げた。
「葉山くんが、俺に指導をして欲しいってお願いしてきたからさ、五十一代目部長として、引き受けないわけにはいかないだろう」
鳥原さんが胸を張った。
「それと、クマの高校教師姿を一目見ておかないといけないと思ってな」
「そっちが本命だろう!」
「そんなことないって」
二人の掛け合いが始まる。熊野先生は言動だけでなく、顔つきから幼くなっている。大学生時代の二人は、きっとこんな感じだったのだろう。
「それにしても、彼はすごくいいね」
鳥原さんが吾妻に視線を投げた。吾妻は格好つけているつもりか、表情を変えなかった。
舞鶴さんが「大人の男性にもイケメンって通じるんですね」と小さく呟いた。
「彼女も負けてないけどね」
鳥原さんは、今度は笹野に視線を投げた。笹野は居心地悪そうに肩をすくめた。その様子を見て、
「ごめん、ごめん。値踏みしたわけじゃないからリラックスして」
と、自身の胸の前で手を合わせた。それでも笹野は警戒を解かずに身体を強張らせている。
「おい、清凪。キャバクラに通うおっさんみたいな台詞はやめろよ」
熊野先生が呆れたように溜息を零した。
「それじゃあ、まずは見せてもらおうかな。君たちの演劇を」
鳥原さんは部誌を閉じると、ぐるりと首を回して僕たちを見渡した。
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