第7幕 第3場 職員室にて
僕は千歳を連れて『佐藤酒造』を訪れた。事前に地図アプリで周囲の様子を確認していたこともあり、迷わずに辿り着けた。
未成年の僕らには縁がない場所のため、建物の前を通ったことは何度もあるが、中に入るのは今回が初めてだ。
「緊張するね」
千歳の声がいつもより甲高い。
「そうだな」
僕と千歳は店の前に並んで立ち、建物の外観をじっくりと眺めた。敷地面積が広く、見るからに立派な建物だが、掃除後の埃をチェックする姑のようにまじまじと見ると壁紙が所々剥がれている箇所がある。それは、この会社が積み上げてきた時間の重みと風格をまとっているようであった。
「事前に連絡はしてないんだよね?」
千歳が念のためといった風に確認してきた。
「ああ。電話で話すとややこしいことになりそうだからな」
「まあ、そうだよね。いきなり高校生から電話が掛かってきたら驚くよね。でも本当に、僕が付き添いでよかったの?」
一人で訪問するには心細く、だからといって大人数を引き連れて訪問しても相手方の迷惑になるだろうということで、付き添いは一人だけにした。社交性がゼロの吾妻は論外なため真っ先に候補から外した。笹野は目上の人に対する礼儀は備わっているし外面は悪くなく、女性を連れて行った方が場が和やかになるかとも考えたが、演劇の話になったらボロが出る可能性があるため除外した。白鷹はコミュニケーション能力に問題はないが、千歳と比べれば彼の方に軍配は上がる。それから部長と副部長で来たという方が空気が締まるだろうと考え、今回千歳についてきてもらった。
「……千歳でいいんだよ。いいっていうか、どう考えても適材だろう」
喉から息を吐き出しながら答えた。
「そうかなあ。地元民の方がいいかもしれないよ」
千歳が言葉通り自信なさそうに言った。
「何を言ってるんだ。千歳ももう立派な山形県民で坂田市民……には見えないな。千歳は本当に田舎に染まらねえなあ……」
僕は千歳の髪に触れた。自分の物と同じとは思えない柔らかさだ。
「それって褒めてるの?」
千歳が顔を傾げた。
「褒めてるに決まってんだろう。何が嬉しくて、田舎に染まりたいヤツがいるんだよ」
「でも、それはそれで何か寂しい気もするなあ……」
「それなら、千歳の一番好きなラーメンは?」
「え? ラーメン?」
急な話の転換に、千歳がオウム返ししてから、
「どの店も美味しいから甲乙つけがたいけど……」
腕を組んで唸り声を上げる。
「強いて言うなら『さらしな』のいで葉naしお白湯ラーメンかな。ゆずの香りがいいし、チャーシューが大判な上にワンタンもたくさん入っていて美味しいよね」
「正解。自分の一番好きなラーメンが答えられれば、千歳も立派な坂田市民だ。胸を張れ」
「そんなんでいいの?」
千歳が目を丸くした。
「そんなんでいいんだよ」
緊張を解したところで、千歳がそろそろ店に入ろうとばかりに視線を店に向けた。
僕は覚悟を決めて歩き始めた。すぐ後ろを千歳がついてくる。背筋を伸ばしてからガラス戸に手を掛けた。そのまま横に引くと、天井に取り付けられていたベルが高らかに鳴った。
「いらっしゃいませ……」
店の奥から声を掛けてきた男の声が、尻窄みに小さくなっていった。ここは高校生が来るような店ではない。当たり前の反応だ。僕は唾を飲み込んでから、
「こんにちは。熊野先生の教え子の葉山です」
爽やかな青年を演じて挨拶をした。男の目がさらに大きく見開いた。
「驚いたな。クマの教え子って存在するのか。そりゃあ、実在するか。それにしても『教え子』って、いい響きだな」
男は驚きで飛び出した目を引っ込めると、カラッとした笑い声を漏らした。
「それと懐かしいな、その制服」
男が僕と千歳を上から下まで視線で撫でた。彼の「懐かしい」という言葉に引っ掛かっていると、
「俺の自己紹介がまだだったな」
男は咳払いを一つしてから、
「湊高校出身、鳥原清凪。君たちの先輩だ」
鳥原さんが決めポーズとばかりに腰に手を当てた。
「え? 佐藤さんじゃないんですか……?」
僕は反射的に声を出した。
「ああ。佐藤は母の苗字で、鳥原は父の苗字なんだ。その台詞、久しぶりに言われたなあ……」
鳥原さんが人差し指で頭を掻いた。
「母の兄、俺にとっては叔父になるんだが、その叔父が家業を引き継いだものの、不幸な事故で若くして亡くなってしまってな。叔父は未婚で子どもがいなくてな、後継者として白羽の矢が立ったのが、俺の母だったというわけだ。だが母はすでに鳥原家に嫁いだ後で……」
僕は鳥原さんの説明を話半分に聞きながら、記憶を思い返していた。
「……湊高校の鳥原って、まさか演劇部、五十一代目部長の鳥原さん!?」
思わず大きな声が出た。
「え? 俺のことを知ってて、ここに来たんじゃないのか?」
「いえ、失礼ながら存じあげませんでした。改めて自己紹介をさせていただきます。湊高校演劇部六十代目部長の葉山と、こっちは副部長の千歳です」
僕は自分の気持ちを切り替えるために背筋を伸ばした。まだ状況を飲み込めていない様子の千歳が遅れて頭を下げた。
互いに自己紹介を済ませ、立ち話もなんだからという流れになり、僕と千歳は店の奥にある客室に通された。校長室に置いてあるような革がしっかりしているソファに勧められるがまま腰を下ろす。座ってみると柔らかく、いかにも本物って感じがした。
「まだ演劇部が存命していてよかったよ。何か色々あったっていう噂を聞いてたからさ」
腰を落ち着かせるなり、鳥原さんが言った。
「そうですね……。部員数は少ないですが、何とかやっています」
例の事件以降、OBとの交流が絶たれているのは事実だが、そもそも交流があったときでさえ、関わりがあったのは高校の在籍期間が重なっている二、三世代上ぐらいまでだ。そもそも湊高校は進学校故に、大学進学を機に地元を離れる生徒が多数で、地元に残る卒業生は少ない。
「脚本は、今も部長が書いてるの?」
「はい、僕が書いてます」
「そうなんだ。あの伝統、今でもちゃんと受け継がれているのか。嬉しい限りだね」
「鳥原さんが部長だったときも、鳥原さんが脚本を書かれていたんですよね?」
「もちろん」
鳥原さんが大きく頷いた。
「彼の方は、ずいぶん可愛い顔をしているね」
鳥原さんの視線が千歳に向いた。
「えっと、僕は役者をやらせていただいています」
「うちの看板俳優です」
僕がそう言ったとき、かしこまったノックの音がして、奥さんと思わしき女性がお茶を運んできた。茶たくを敷いた湯呑が目の前に置かれる。女性は、どうぞごゆっくり、と頭を下げると、すぐに部屋から出て行った。
「……あの、僕たちは演劇部なんですが、今日は熊野先生のことをお伺いしたくてお邪魔しました」
僕はソファに座り直し、背筋を伸ばしてから本題を切り出した。
「最初に断っておくけど、クマとはある事件を境に交流をしていないんだ。アイツ、地元にいるくせに同窓会にも参加しないし……」
鳥原さんが鬱陶しそうに髪を掻き上げた。
「個人的な付き合いもないんですか?」
「ああ。何度か連絡はしたんだが、返事がこなくてな……」
鳥原さんが足を組み直した。
「事件のことは知っています」
そうか、とでも言う風に、鳥原さんが無言で頷いた。
「僕たちは熊野先生が抱えている問題を解決したいと思っています。それで鳥原さんには、熊野先生の演劇サークルでの様子を教えていただきたいんです」
僕は今年M大に進学した湊高校の演劇部の先輩から、熊野先生と鳥原さんが演劇サークルの同期だったことや、その彼から鳥原さんのことを教えてもらった経緯などを手短に話した。
「クマを演劇サークルに誘ったのは俺なんだ。ご存じのとおり、俺は高校から演劇を始めたんだが、クマは未経験者だった」
「え? 熊野先生は、女の先輩から誘われたって言ってましたけど……」
「それは嘘だな。クマもすっかり立派な教師になったんだな。教え子につまらない見栄なんか張っちゃって……」
鳥原さんはくっくと喉を鳴らすと、熊野先生との思い出を語り出した。鳥原さんは喋ることが好きなのか、こちらから質問をしなくても、卒業アルバムのページを捲っているかのように時系列に沿って語ってくれた。一通り語り尽くしたのだろう、
「クマは米所坂田の生まれのくせに酒が弱くてな、ビールなんてグラス一杯で顔が真っ赤になるんだ。大学の文化祭が終わった後、飲み屋で打ち上げをしていたら、隣でラーメン同好会のヤツらも打ち上げをしていたんだ。ラーメン同好会は毎年模擬店で自作のラーメンを販売しつつ、ラーメンのランキングを冊子にまとめて頒布してるんだ。坂田市民としては見逃せなくってさ、俺とクマで割り勘してその冊子を一冊購入したんだ。だけどそのランキングの中に坂田の店が一軒も入っていなくて、クマはそのことを内心面白く思っていなかったんだろうな。クマが酒に酔った勢いで『坂田のラーメンを食ったことがない舌で、日本のラーメンを語るんじゃねえ』って、隣の席に乗り込んじまって乱闘騒ぎが始まってさ。店から喧嘩するなら表でしてくれって追い出されて、本当に公園で喧嘩をおっぱじめちまってな。まあ、喧嘩って言っても、殴り合いじゃなくて口喧嘩だったんだけどな。俺はクマが他人にあそこまで言いたい放題になっているのが面白くて、その喧嘩を止めなかった。クマとそいつは最初こそ喧嘩をしていたんだが、途中からいつの間にかラーメン談義になって、結局徹夜で語り明かしたよ。それでそいつは『ラーメン合宿』と称して、毎年夏に坂田へ旅行に来るようになった」
僕と千歳はようやくお茶に口をつけた。湯呑の色が暗く、飲むまで中身がほうじ茶だと気づかなかった。
「俺もクマも大学を卒業してこの町に戻ってきたけどさ、やっぱり東京で過ごした四年間は、他の何にも代えがたい時間だったな。SNSを観てるとさ、東京に残っている連中を羨ましく思うことも多い。とくにクマはこの町で色々あって、東京の企業に転職することもできるのに、その道を選ばなかった」
鳥原さんが目を伏せた。
「多分この町って、一年に一回戻ってくるくらいがちょうどいいんだ。デパートも映画館もなくなった。カラオケよりもパチンコ店の方が多くて、若者が心の底から楽しめる商業施設がないだろう。東京にいる同年代のヤツらが、楽しそうに遊び回っている姿を横目に見ることしかできない」
僕たちが小学生の頃、この町にも子どもが楽しめる施設が少しはあった。駅前にあったダイエーが潰れ、唯一のデパートだった清水屋が潰れ、商店街もシャッターを下ろす店が次々に増えた。町はドミノ倒しのように、目に見える形で寂れていった。
「たまに思うんだよ。この町に残っている連中は、意地になっているだけなんじゃないかって。引き際がわからなくなって、土地や墓を守ることだけに人生を費やしてるんじゃないかって。で、こういうド田舎の恵まれていない話を持ち出すと、発展途上国で生まれた人はもっと苦労してるぞとか言うヤツが出てくるんだよ。そりゃあ、下には下があるさ。日本が十分恵まれている国だってこともわかってる。だけど俺が言いたいことってそういうことじゃないんだけどなあって思うんだが、都会で生まれ育ったヤツにはなかなか伝わらねえんだよな。小学校が徒歩五分圏内にあるようなヤツらと、徒歩三十分は掛かる俺らとでは絶対に同じ立場にはならねえだろうって。でも、それはただの言い訳だな。伝えられない俺にも問題がある。伝わらねえヤツにも伝えるのが演劇だよな」
鳥原さんの言葉に、僕は自然と頷いていた。千歳も僕と同じように頷いていた。
「……君たちのロミオとジュリエットの動画を観たよ。ロミオの子、すごいな。演技も抜群なんだが、なによりもオーラがある。無視できない、惹き付ける魅力がある」
鳥原さんが身を乗り出して言った。鳥原さんはその勢いで、鏡のように反射しているテーブルの天板に手をついた。
「あ、ありがとうございます!」
僕は咄嗟に頭を下げた。
「てっきりクマが指導しているものだと思い込んでいたんだが、高校生だけであの完成度っていうのは本当にすごいな」
OBという贔屓目はあるだろうが、大人から褒められるのは、悪い気はしない。ましてや演劇経験のある人からとなると嬉しさは格別だ。
「でも僕たちは、熊野先生に演技指導をしていただきたいんです」
思わず声が強くなる。
「熊野先生、部活にほとんど顔を出してくれないんです。必要以上に生徒と関わりたくないと言っていて、指導どころではない状況なんです」
僕の後に続いた千歳も語気が強い。
「なるほどね……」
鳥原さんが顎に手を当てた。
「そういうことなら、いいアイデアがひとつだけあるんだけど……」
テーブルには、鳥原さんの手形がくっきり残っていた。このテーブルは、奥さんが毎日丁寧に拭いているのではないだろうか、と頭の片隅で思った。
僕と千歳は、鳥原さんの店を出ると、途中、坂田駅の中に入っている、山形の土産菓子を取り扱う清川屋に立ち寄ってから学校に戻った。
「クマちゃんの話は聞けたのか?」
部室に戻るなり、早速吾妻が挨拶もなしに訊いてきた。
「ああ、熊野先生の興味深い話をたくさん聞けたぞ」
椅子に腰を掛けながら答える。
「これ、ケイタと僕からの差し入れだよ」
千歳が手に持っていたビニール袋を机の上に乗せてから椅子に腰を下ろした。目ざとい歩が、やったー、と手を上げて喜びながら早速ビニール袋の中身を取り出し始めた。
「からから煎餅とミルクケーキだ! 懐かしい!」
「ミルクケーキ、満衣香も小さいときによく食べてました」
「どっちも千歳が食ったことないって言うから買ってきたんだ」
僕は椅子に深く腰掛け、天井に向かって息を吐いた。ようやく緊張の糸が解れてきた。相手は部活のOBだとはいえ、初対面の大人との会話は精神的に疲れる。
「なるほどね。からから煎餅はまだしも、ケイちゃんがミルクケーキを買ってくるなんて珍しいと思ったんだ。甘いものが苦手なはずなのに……」
歩が腕を組み、満足そうに一人頷いた。
「ミルクケーキは好き嫌いがありますよね。自分もどちらかというと苦手ですね」
白鷹が苦笑いを浮かべた。
「味が濃いのよね。一度に何枚も食べなければ美味しいわよ」
笹野が言った。
「はい、千歳さんからどうぞ」
歩がミルクケーキの袋を開け、中から一枚手に取ると、それを千歳に差し出した。千歳は、ありがとう、と言って受け取ると、
「とてもケーキには見えないね」
まじまじと見つめながら首を傾げている。
「『洋菓子』じゃなくて『塊』って意味の方らしいぞ」
吾妻が言った。
「さすが吾妻さん! 博識ですね!」
舞鶴さんが手を叩いた。
「それじゃあ、いただきます」
みんなが千歳に注目している。彼のリアクションが気になるのだろう。みんなから見守られる中、千歳が少し緊張した顔つきでミルクケーキを口に入れた。
「……美味しいね!」
千歳の目が大きくなり、お世辞ではないとわかる。
甘党の吾妻と笹野、それから歩と舞鶴さんが食べ始めた。甘いものが得意ではない僕と白鷹は遠慮することにした。
「オレたちは先にからから煎餅を食べるか」
「そうですね」
三角形の中心に力を入れて煎餅を割ると、中から白い包みが出てくる。一口の大きさに割った煎餅のかけらを口の中に放り込む。甘い。黒糖味で、チョコレートとはまた違った甘さだ。口の中を動かしながら、おもちゃを包んでいる和紙を開ける。中から出てきたおもちゃの紐を摘んで揺らしてみる。
「葉山先輩はだだちゃ豆の根付ですね! 自分はコマでした」
僕が和紙を開けるところを覗き込んでいた白鷹が、机の上で木のコマを回し始めた。煎餅に入るくらいの小さなおもちゃとはいえ、しっかり回っている。
「からから煎餅って、フォーチュンクッキーの日本版ですよね」
歩が言いながらせんべいに齧りついた。
「おい、飯豊。からから煎餅は手で割ってから食べるんだぞ」
白鷹が叱咤した。
「大丈夫ですよ。子どもじゃないんだから、誤って玩具まで食べたりしませんよ」
歩が口をもごもご動かしながら答えた。飯豊なんかまだガキだ、ガキ、と白鷹が苛立ち気味に言葉を返している。
「何が入っているのかなー」
千歳が無邪気に包み紙を開けている。
「なんだろう? これ?」
千歳が中から出てきたおもちゃを指先で掴むと、手首を捻り、色んな角度から眺めている。
「それはでんでん太鼓ね」
笹野が答えた。
「へえ。面の部分が花柄で可愛いね。梅ちゃんは何のおもちゃが入ってたの?」
「私は紙風船だったわ」
答えると笹野は、紙風船に空気を吹き込んで膨らませた。
「シズオは?」
「よくわからない花の飾りだ」
吾妻がおもちゃを摘むと、顔の横に掲げた。
「それは飾りではなくて花水引。縁起物よ」
また笹野が答えた。
「梅結びだね! 梅ちゃんにピッタリだ」
花水引は紐が赤と白の二色使われており、千歳の言う通り、よく見ると梅の花のように見える。
「おら、やるよ」
縁起物だというのに、あろうことか吾妻は、笹野に向かって花水引を投げた。笹野が咄嗟に手を皿にして受け止める。
「ちょっと吾妻先輩! 笹野先輩を口説かないでくださいよ!」
白鷹が声を張り上げた。
「一年コンビは何だったんだ?」
喚いている白鷹を無視して、吾妻が舞鶴さんと歩に訊ねた。
「満衣香はこけしでした」
舞鶴さんの手には、体に花柄が描かれているこけしが握られていた。
「おれはサイコロでした」
答えるが早いか、早速歩がサイコロを振った。コロコロと音を立てながら転がった末に、赤の目が出た。
「飯豊は幸先が悪そうだな」
白鷹がニヤリと口元を緩めた。
「次こそは!」
歩が手の中でサイコロを激しく振り出した。
「はあっ!」
大げさな掛け声と共に、サイコロを投げた。ところに、白鷹がすかさずコマをぶつけてそれを弾いた。
「タカさん! 邪魔しないでくださいよー!」
白鷹と歩のくだらないやり取りが始まった。
「彩葉の分も買ってあげればよかったなあ……」
千歳がでんでん太鼓を回しながら呟いた。
「彩葉って可愛い名前ね。千歳の妹って、何歳なの?」
笹野が訊いた。
「今年五歳で、幼稚園に通ってるんだ」
千歳がスマートフォンを操作すると、並べている机の中心に画面を上に向けて置いた。横長のブランコに、子どもが三人座っている写真が映っている。千歳の弟と思わしき少年二人に挟まれ、中央に腰掛けている少女がとびきりの笑顔を浮かべている。
「可愛いですね! 満衣香は一人っ子なので、お兄ちゃんか妹が欲しかったです」
舞鶴さんがきゃあきゃあと声を上げている。
写真の中の子どもたちは、三人とも千歳と顔が似ており目が大きい。中でも妹は、顔が小さい分、さらに顔から溢れ落ちそうだ。
「からから煎餅なら三個余るから、家に持って帰っていいぞ。弟たちも食べてみたいだろう」
僕はまだ封を開けていないからから煎餅をビニール袋に入れると、それを千歳に渡した。
「ありがとう! でもケイタの弟はいいの?」
千歳が受け取りながら訊いた。
「オレの弟、中一だぞ。もうおもちゃなんて柄じゃねえから気にするな」
「それならありがたくもらっていくね。みんな喜ぶと思うなあ……」
僕と違って、千歳は兄の鑑だ。
「からから煎餅って、味は美味しいし、煎餅の中にどんなおもちゃが入っているのかなってワクワクしながら食べれて楽しいね」
白鷹が、自分のコマも弟さんたちにあげますよ、と千歳に手渡している。
「そんなことよりも、鳥原さんはどうだったんだ? もう少し詳しい話を聞かせろよ」
吾妻が訊いた。
「それがな、鳥原さん、我が演劇部のOBだったんだ」
ええ、と白鷹と歩の声が重なった。
「本当ですか?」
逸早く台詞を言い切った白鷹が訊ねた。
「ああ。九年前の卒業生で、しかも五十一代目の部長だ」
「そんなことってあるんですね……」
白鷹が感嘆の息を漏らした。
「ケータ。お前、鳥原さんに会うまで気づかなかったのかよ?」
吾妻が呆れたように眉を歪めた。
「神室さんからは社名しか教えてもらっていなかったんだよ。おまけに社名についている『佐藤』は奥さんの名字だったんだから、そりゃあ気づけねえよ」
「そりゃあ、カムさんに一杯食わされたな」
吾妻が白い歯を見せた。
「おそらく確信犯ですね」
白鷹が頷いた。彼は神室さんとは数ヶ月の付き合いだが、食えない一面を持っていることには気づいているようだ。
椅子から立ち上がり、教室の後方に置いてある本棚の前で膝をついた。あたりを付けて数冊分まとめてノートを手に取ると、パラパラとページを捲り、ざっと中に目を通す。
「あった。これだ」
鳥原さんの名前が出てくるノートを五冊見つけると、腰から立ち上がる。自分の席に戻ると、部誌を机の中心に置いた。早速、吾妻が一冊手に取り、目を通し始める。その隣で千歳も過去の部誌を読み始める。笹野も興味があるのか、静かに読み始めた。
「鳥原さんが部長だった頃は、演劇部もずいぶん活動的だったんだね」
千歳が感想を漏らした。
「地区大会どころか、県大会にも出場しているんだな」
吾妻が呟いた。
「タカさん! おれたちも来年は地区大会に出場しましょうよ! 人数の制約はないんですよね!?」
歩が無邪気な声を出した。
「バーカ。随分とお気楽なもんだな。大会には一人でも出場は可能だが、そもそも五人揃わなきゃ、うちは部から愛好会に降格になるんだぞ」
大会どころじぇねえだろう、と白鷹が歩に向かって舌を出した。
「それじゃあ、来年は十人入部させましょう!」
歩がガッツポーズを取った。どこまでも前向きな歩に呆れたのか、白鷹は長々と溜息を吐いた。
「何かの奇跡で全国大会に出場できることになったとしても、タカは出られねえからな……」
吾妻が呟いた。
「それって、どういう意味ですか?」
吾妻の言葉に、歩が顔を傾げた。
「演劇部の全国大会は翌年に開催されるんだよ。だから全国大会の出場権を獲得しても、その年の三年生は大会には出場できないってわけなんだ」
吾妻の代わりに千歳が答えた。
「え? それっておかしくないですか……?」
歩が喉を震わせた。
「まあ、そう思う気持ちはわからないでもないが、演劇部の全国大会はそういうものなんだ」
僕は歩の姿を二年前の自分と重ねながら言った。
演劇部に限らず、部活動は一学年ずれれば、それはもう違うチームだ。強豪校の運動部でさえ、毎年同じ技術力を保つのは難しいだろう。だからこそ、本来演劇部は、バトンを意識して活動すべきなのだろう。
「そういえば、鳥原さんと連絡先を交換してきたよ。これからは、もう少しOBとも交流できた方がいいかと思って」
千歳がスマートフォンを振って見せた。
「千歳さ、鳥原さんから、二十歳になったら店の商品カタログのモデルをしないかってスカウトされたんだぞ」
「ちょっとケイタ! その話はみんなには秘密にしてって言ったじゃん!」
千歳が顔を真っ赤にして声を上げた。
「はあ? ちゃんと牽制してきたんだろうな?」
吾妻が眉を潜めた。
「もちろん。代わりに吾妻を差し出したら、鳥原さん、かなり乗り気だったぞ」
「何だそれ!」
今度は吾妻が声を上げた。
「偶然スマホに吾妻の全身写真が入ってたからさ、鳥原さんに『こっちはどうですか』って見せたんだよ。とはいえ、鳥原さん、予告編の動画を見てくれていたから、吾妻のことは知ってたんだけどさ。バイト代も弾んでくれるって言ってたし、吾妻にとっても悪い話じゃねえだろう」
「お前は芸能事務所のマネージャーか。人を商品みたいに扱ってるんじゃねえ」
吾妻が足を組み直した。
「カメラの前に立ってポーズを取るだけでお金がもらえるんだから、やってみればいいじゃない?」
笹野が言った。
「お前ら、モデル業を舐めすぎだろう」
吾妻が口先を尖らせた。
「それで、肝心の収穫はあったの?」
今度は笹野が訊ねてきた。
僕と千歳は見つめ合ってから、
「ああ。鳥原さんからとっておきの秘策を伝授してもらってきた」
僕と千歳は満面の笑みで答えた。
熊野先生のことはさておき、気分を入れ替えて立ち稽古を始めた。
「歩、英語の発音がひどすぎるぞ。そんなんじゃ、観客が舞台に集中できないぞ」
僕が叱責すると、
「だって、英語わかんないんだもん!」
歩が捨てられた子犬のように目を震わせている。
「それに、タカさんもおれと同じレベルじゃん!」
歩がここぞとばかりに白鷹の名前を出した。
「無念です……」
白鷹が珍しく反論せず、唇を噛んで悔しがっている。発音がひどい自覚はあるようだ。
「本当なら笹野にワンツーマンをお願いしたいところなんだが、笹野はセリフ量が多いし、ロミオとの掛け合いに集中してもらいたいからな」
「笹野先輩が飯豊の相手をするなんて贅沢すぎですよ!」
落ち込んでいた白鷹だが、歩への減らず口を叩く余裕はあるらしい。腕を組んで集中するが、打開策となるような妙案は思い浮かばない。
「歩が舞台に立つには、まだ早かったか……」
独り言のつもりだったが、歩本人に聞こえていたらしい。
「やだ! 絶対に出たい!」
歩が悲鳴を上げた。
「他に英語が得意なのは……」
首をぐるりと回すと、千歳と目が合った。
「自信がないなあ……」
千歳が目を逸らさないまでも苦笑いを浮かべた。近くに笹野がいるせいで本人は謙遜しているが、彼は英語の成績も上位のはずだ。だが白鷹と歩レベルを相手にするとなると、荷が重いのだろう。
「吾妻には笹野の演技指導もしてほしいからな」
吾妻が言葉を返す代わりに鼻を鳴らした。
「マイマイはどうなんだ?」
吾妻が舞鶴さんに話を振った。
「英語は読み書きなら得意ですけど、話すのは苦手ですね。それに飯豊くんはまだしも、先輩の白鷹さんに教えるのは気を遣いますよ」
舞鶴さんが顔の前で手を振った。
「タカ、笹野のためにも独学で頑張れ」
「吾妻先輩、突き放さないでくださいよ」
白鷹が嘆いた。
僕は藁にも縋る思いで天井を仰いだ。天井に何かが書いてあるわけではないが、見上げずにはいられない。
「いっそのこと、小見先生に頼めないものかな……」
急に、狭い部室の中でだけで物事を考えていたことに気づいた。数ヶ月前、この特別教室棟の角にある図書室で小見先生と話したことを思い出していた。
「小見先生、英会話同好会の活動が終了してからは、部活の顧問は何も担当していないはずよ」
小見先生のことに一番詳しいであろう笹野が答えた。
「小見先生に協力をお願いできたりしないか? 英会話同好会のときは、あまり積極的に指導する感じではなかったんだよな?」
僕は小見先生と話したときのことを思い出していた。確か活動にあまり関わらなかったがゆえに、生徒同士のトラブルに気付けなかったと言っていたはずだ。
「あまり活動には顔を出さなかったけれど、相談したときは時間を取って、真剣に向き合ってくれたわ」
笹野が僕を真っ直ぐに見つめて答えた。
「小見先生に発音の指導をしてもらえたら、もっと自信を持って演技ができるね」
千歳が言いながら頷いた。
「そうだよな。いっそ当たって砕けろで頼んでみるか! 今から職員室に行ってくる!」
椅子から立ち上がり、足を一歩踏み出した瞬間、足元がふらつき背景が歪んだ。視界にぼやがかかり激しく揺れた。咄嗟に床に手をつこうと思ったものの、その前に体が重力に引きずられ、意識が途切れ始めた。
遠くで、誰かの悲鳴が、床の上で弾けた気がした。
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