第6幕 第3場 キャットウォークにて
待ち合わせ場所である河川敷に着くと、既に神室さんの姿があった。神室さんは無地の青色のシャツにベージュのチノパンを合わせた格好をしていた。缶コーヒーを片手に、お世辞でも決して綺麗とは言えない最上川を立ったまま眺めていた。
「久しぶりだな、葉山。ちょっと大人っぽくなったんじゃないか?」
近づいて来る僕に気がつくと、神室さんも僕の方に向かって歩き始めた。
「久しぶりって……最後に会ってから、まだ三ヶ月も経ってないじゃないですか」
僕と神室さんの距離が数十センチになり、僕たちは何もない河川敷に向かい合って並んだ。
「でも神室さんは私服のせいか、ますますおじさんっぽくなりましたね」
私服姿の神室さんを見慣れていないせいか、それとも三ヶ月とはいえ、離れていた時間があったせいか、言葉がすらすら出てこない。落ち着かない違和感を払拭したくて、彼の顔をまじまじと見つめてしまう。あれ? そんなところに黒子なんてあったっけ? と思いながら、神室さんの首筋を視線でなぞる。それから後を追って、本当はあまり神室さんのことを知らないのではないかと、自分に対する訝しげな感情が生まれてきた。
「生意気なところは全く変わらないな」
神室さんの方は僕が抱いているような違和感を覚えていないのか、がはは、と乾いた笑い声を零した。その笑い声を聞いた瞬間、時が駆け抜けるように過去へと戻った気がした。
いつの間にか、今僕たちが立っているこの河川敷が、あの狭くて少し埃っぽい部室へと転調していた。
「吾妻よりはマシですよ」
言い慣れた懐かしい言葉が、枝に熟した実が自然と地面へ落ちるように口から飛び出した。
「二人とも変わらねぇよ。どんぐりだよ、どんぐり!」
「なに言ってるんですか。全然どんぐりじゃないですよ。吾妻は神室さんのこと『カムさん』って呼んでいますけど、オレは敬意を払って「神室さん」って呼んでるじゃないですか」
僕の言い分に、神室さんは溜息を吐いてから、
「お前ら、今も相変わらずなのか?」
「相変わらずって……?」
「三年目の付き合いになっても、まだ衝突ばかりしているのか?」
神室さんが律儀に言い直した。
「吾妻とは血液型の相性占いでワースト一位の組み合わせなんですよ。オレたちの不仲はDNAに刻まれているんですから、反りが合わなくて当然なんです」
正直、血液型占いとか星占いとかこれっぽっちも信じていないが、吾妻との気の合わなさに関してだけは、諦めるための材料として都合よく使わせてもらっている。過去に一度、高校一年生のときに吾妻との仲を何とかしようと努力した期間もあったが、数々の試行も虚しく、吾妻との距離が縮まることはあっても、思いやりの心が生まれることはなかった。だから僕たちは開き直って、この関係性を認めることにした。
「そんなこと言ったら、吾妻と同じB型の俺とも相性が悪いってことになるだろう」
「それはそうですけど……」
神室さんとの仲は不良ではない、と少なくとも僕の方は思っている。僕が言葉に詰まっていると、
「でも正直な気持ちを言い合える仲の方が、共同で何か一つのものを作り上げる集団の中では輝くのかもしれないなあ……」
神室さんが缶コーヒーに口をつけた。神室さんは高校生のときからよく缶のブラックコーヒーを飲んでいた。それを僕や吾妻は「大人っぽい」ではなく「ジジ臭い」と言って笑っていた。神室さんは混ぜる必要のない缶コーヒーを、手首を使ってぐるりと回しながら飲む癖があり、その仕草が「大人っぽい」ではなく「ジジ臭い」と感じさせていた。
「そう言えば、葉山が送ってくれた動画を見たぞ。今年はずいぶんすごいことをやっているんだな」
僕は神室さんに、先日インターネットにアップロードした動画を共有していた。
「ありがとうございます。これがどう転がるかは、まだわからないですけど」
吉と出るか、凶と出るか。それは箱を開けてみなければわからない。
「珍しく弱気だな。大学の演劇サークルのヤツらにも見せたけどさ、かなり評判よかったぞ。とくに笹野な。何人もの男たちから、彼女を紹介しろって騒がれて、断るのが大変だったよ。笹野は卒業してからも俺を困らるのかよって」
神室さんが困ったように眉を下げて笑った。
笹野は先輩である神室さんが相手でも、臆さず自分の意見をズバズバ発言しており、しばしば神室さんの手を焼かせていた。自分に都合の悪いことがあれば「私は演劇部員じゃないです」と言って困らせていた。
「それにしても、あの笹野が舞台に立つなんて、一体どんな手を使ったんだ?」
神室さんが自身の首の代わりに、手に持っている缶コーヒーを傾けた。
「どんな手って、人聞きが悪いですよ。オレと笹野の互いの利が一致しただけですから」
僕が笑って誤魔化すと、
「そうか。だけどどんな理由があろうと、あの笹野が演劇に携わってくれるなんてなあ……」
神室さんはそれ以上深く立ち入ってこようとはしなかった。少し寂しいが、それは神室さんが演劇部の部外者になってしまった証拠でもあった。
僕は空を見上げた。空にはうっすらと雲がかかっているが、陽の光はベールを突き破り町全体に降り注いでいた。
「吸ってもいいか?」
そう言うと神室さんは、僕の答えを聞かないうちに自身のシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。地味な赤色というよりは紅色のパッケージが妙に大人っぽく見えた。
「あれ? 神室さんって、吸う人なんですね? ……って、神室さん! まだ未成年じゃないですか!」
僕は心底驚いて、神室さんの顔をまじまじと見つめた。
制服を着ていた頃の神室さんは、どちらかといえば生真面目な性格で、待ち合わせの時間や課題の締切は守るし、服装を始め、校則から外れることもしなかった。決して好奇心で冒険をするようなタイプではなかった。
「葉山。煙草を吸うようなヤツはな、律儀に喫煙年齢を守ったりしない。そもそも煙草を吸うヤツに、まともなヤツなんかいねえんだから」
神室さんが口先に煙草を咥えながら答えた。
僕は神室さんの言葉に、なんだその屁理屈はと思いつつも、煙草を吸うまでの一連の仕草を、自分でもわからないがやけに真剣に見入った。煙草を咥える口先もライターで火を点ける指先もどこか不器用で、神室さんが煙草を吸い始めてからまだ日が浅いことは顕著だった。
「そういえば神室さん、どうしてこんな中途半端な時期に坂田に帰ってきたんですか? 何か用事でもあったんですか?」
どうせならGWに戻ってくればよかったのに、と思いながら訊ねた。
「じいちゃんの一周忌」
神室さんが口先を尖らせ、ふーっと息を吐くと、灰色の煙が瞬く間に僕たちから逃げていった。
ふ、と思い出した。確かに昨年の今頃、神室さんは忌引で学校を欠席していた。
「煙草ってさ、全然美味くねえし値段は高いし、最近は吸える場所が限られてるし、もちろん健康に悪いだろう。本当底なしにいいところが一つもねぇのにさ、それでも手放せねえ人間が五万といるわけで……。じいちゃんの死因は肺癌で、医者から何度禁煙を勧められても、いやはっきりやめろって言われても最後までやめられなくて、オレはそんなじいちゃんをバカだなあって思って見ていたんだ。オレの親父は煙草どころか酒も嗜まないから余計そう見えたのかもしれないけど。でもオレは、親父よりもじいちゃんの背中を見て育ってきたから、そんなバカなじいちゃんの方が、男としては格好よく見えたのかもしれないなあ……」
煙草の苦味が鼻先で香る。この人がこの匂いを纏うには、明らかに年数というよりは経験が足りていなかった。
「じいちゃんが死んだ後、遺品の整理のためにじいちゃんの部屋に入ったんだが、煙草の匂いでいっぱいでさ。じいちゃんが生きてたときはちっとも気がつかなかったのに、どうしてだろうなあ……。じいちゃんが死ぬ前と後で部屋は何も変わっていないのに、俺の感覚は確かに変わっていて。こんな煙草の匂いが染み付いた部屋が残っているのに、この世のどこを探してももう二度とじいちゃんに会えないんだって思ったら、悲しいというよりは理解ができなくて。多分あのときはまだ、じいちゃんが死んだっていう事実を受け入れられていなかったんだろうな。机の上に半端に空いた煙草の箱を見つけて、その一箱だけ吸ったら止めるつもりだった。今の世の中、未成年は煙草を手に入れるのも一苦労だから、高校生のときは本当にその一箱だけしか吸っていないんだ。だけど大学生になったら、サークルの先輩に頼めば簡単に手に入るようになって。俺もバカなじいちゃんの血を引いてるってことだな。最初は口さみしいときに吸って、それがだんだん頭の中を落ち着かせたいときに吸うようになって、今ではなんの理由もなく無意識に吸ってるもんなあ……」
神室さんが目を細め、やけに遠くを望んでいた。その目はここでもおそらく東京でもなく、過去を見つめているのだろうと思った。
「彼女さん……も、神室さんが煙草を吸ってることを知ってるんですか?」
僕は遠慮がちに訊ねた。
「……あ! まだ彼女と付き合ってるか自信がなくて言い淀んだろう。ご期待に添えなくて申し訳ないが、まだ彼女とは続いてるよ」
神室さんが煙草を挟んだ指を僕に向けた。
「アイツはな、気づいているけど何も言わない。何も言わないけど、本音は嫌だと思っているだろうな。でも俺は、それに甘えてる」
神室さんの彼女は、彼の元クラスメイトだ。廊下ですれ違ったときに何度か顔を見たことがある程度で、声は聞いたことがない。眉下できっちり揃えられた前髪と猫背が、彼女に大人しそうな印象を与えていた。
「俺のつまらねぇ話はこれで終わり。次は葉山の番だぞ」
「え?」
「俺に話したいこと、たくさんあるだろう? ないとは言わせないからな。そのために、葉山にだけ声を掛けたんだから」
神室さんが目の端を細めた。
「部長って、大変だろう。まあ、俺の方が絶対大変だったけどさ!」
神室さんが胸を張った。
「それって、後輩のオレたちが手の掛かる問題児だったって言いたいんですか?」
「当たり前だろう。葉山と吾妻は、俺が少し目を離すとすぐに喧嘩するし、千歳もそれを止めるわけでもなく、間に挟まってニコニコしているだけだし。笹野はときどき発作みたいに演劇をやりたくないって我儘を言うし……」
神室さんが短くなった煙草をコーヒーの缶に入れた。灰色に縮れた煙草の先が視界から消えた瞬間、僕ははっきりと思い出した。
僕たちが出会ったばかりの神室さんは、決して缶コーヒーを飲む習慣を持っていたわけではなかったことを。色んな事を知った上で、今冷静になって思い返してみると、神室さんは急に缶コーヒーを飲むようになった。だからこそ僕と吾妻は、彼をからかっていたのだ。
おそらく神室さんは、吸えない煙草の代わりに苦いブラックの缶コーヒーを飲むようになったのだと、散らばっていた点が繋がり一つの線になった。
僕は灰皿代わりになってしまった缶コーヒーを眺めた。
「オレ、千歳を最後の舞台から引きずり下ろしたんです……」
僕はついに口を割った。
「自分なりにかなり覚悟を決めて決断したはずなんですけど、今でもときどき、あのときの判断が正しかったのか不安になります」
そこまで言うと僕は、その場に腰を下ろした。逆になぜ今まで立ったままだったのだろうかと思った。ざわつく胸を引っかきたくて体を丸めるが、もちろん胸に手は届かない。
「部活にレギュラー争いは避けては通れない道だけど、俺たちのやってきた部活は、それとはまた別物だからなあ……」
神室さんも僕に続いて腰を下ろした。
「それと、オレがジュリエット役に笹野を選んだ本当の理由を、みんなに話せないままここまできちゃいました」
言葉の後ろに溜息がついてくる。
「本当の理由ねぇ……。俺はなんとなくわかるけど」
「……え? 神室さん、わかるんですか?」
思わず神室さんの顔を見た。
「葉山。お前は俺のことをバカにし過ぎだろう。お前らとは二年の付き合いだぞ。それくらい、わかるに決まってんだろうが」
神室さんが悪態をついた。
「千歳と笹野はまだしも、吾妻は気づいているんだろう?」
神室さんが言葉を続ける。
「千歳にだけは正直に話しました。吾妻は……アイツは何も言わないだけで、神室さんの言うとおり、気づいてるとは思いますよ。最後まで反対していたくらいですから」
「やり方はどうであれ、葉山が一生懸命やってることは、みんなにも十分伝わっているだろう」
僕は何も返事ができないまま、後ろに倒れ込んだ。草の先がうなじをくすぐりこそばゆかったが、そのまま空を眺めた。
「本当に伝わっていますかね……。今年入ったばかりの一年生の一人が、ここにきて退部するって言い出したんですよ」
風の流れが早く、目の前にあった雲がすぐに目の端へと消えていく。そういえば、自由って速さだよなと思い出す。
「今年は何人入部したんだっけ?」
「二人です」
「そうか……。そいつに退部の理由は訊いたのか?」
「いえ、まだ訊いていないです」
「引き止められそうにはないのか?」
「それがですね、ちょっと複雑なんですよ。引き止めていいものかどうかが悩みどころなんです。もちろんオレは引き止めたいんですけど……」
目を閉じる。
「辞めたがっている人間を引き止めるのは大変だぞ。すごいエネルギーが必要だ」
知ってますよ、とは言えなかった。自分が辞めた側の人間なのだ。僕は誰の言葉にも耳を傾けなかった。
「……なあ、葉山。演劇に一生懸命なのはわかったが、お前、進路の方はもう決まったのか?」
僕は目を開けると、上半身を起こして神室さんを見た。
「神室さんまで、オレの親や教師みたいなことを言わないでくださいよ!」
「まだ決まってないのかあ……」
神室さんが呆れた顔で僕を見た。
「神室さんも進路が決まった時期、遅かったですよね?」
僕は反撃のつもりで言った。
「そんなことないぞ。合格できなかったことを考えて、お前たちに教えていなかっただけで、進路自体は二年生のときには決まっていたんだ」
「それ、ずるいじゃないですか!」
僕は思わず大声を出した。
「ずるいも何もないだろうが。それで、候補ぐらいはあるんだろうな?」
神室さんからの詰問に、僕が黙ったままでいると、
「葉山って、将来やりたいことはないのか?」
神室さんが別の質問をした。
「そういう神室さんは、将来やりたいことあるんですか……?」
「あるよ」
神室さんがきっぱりと言い切った。その殺伐さは、見栄や虚言ではないことを証明していた。
「俺は将来、建築家になりたい。劇場か美術館を建てたいんだ。だから建築学科に進学したし演劇サークルにも入った。自分で言うのもなんだけど、同年代のヤツらと比べたら、将来設計を立てられている方だと思う」
先程聞いたばかりの神室さんの話を思い出す。神室さんは、役者として舞台に立った経験はない。神室さんはずっと裏方として大道具、小道具係として舞台を支えてきた。
あの事件の騒動後、彼の同学年であった部員たちが次々と辞めていくなかで、唯一残った先輩が神室さんだ。ずっと不思議に思っていた。なぜ神室さんは、他の二年生たちと違い、演劇部に残ってくれたのだろうかと。ましてや役者ではなく裏方要員だ。残る意味があるのだろうか、と失礼ながらに思っていた。
神室さんが言葉を続けた。
「大学ってさ、やりたいことを見つけるために通うヤツの方が圧倒的に多いし、結局大学を卒業してもやりたいことが見つけられないまま社会人になるヤツもいれば、違う場所に移動してやりたいことを探し続けるヤツもいる。やりたいことが明確なヤツが偉いとは思わないけど、強いとは思う。遠回りが悪いとは言わないけどさ、早いに越したことはないだろう」
神室さんの口先から、もう煙は吐き出されない。それは青臭い青年の言葉だった。
「葉山。高校を卒業したら、絶対に東京に出てこい。やっぱり東京は、こことは全然違うぞ」
神室さんが立ち上がると、煙草の匂いが鼻先を掠めた。
「景気づけに肉でも食いに行くか? 車なら出せるぞ。自転車も後ろに乗せられるし」
神室さんがチノパンの左ポケットから車の鍵を取り出した。キーホルダーの輪の中に人差し指を入れ、くるっと一回転させて見せる。
「もちろん神室さんの奢りっすよね!」
男子高校生にとって、どんな悩みも焼き肉には勝てない。
「調子がいいのも相変わらずだな」
神室さんが笑った。
僕はそれを都合よく承諾だと受け取った。
神室さんの背中を追いかけるために、僕は飛び跳ねるように立ち上がった。
車の後部座席を倒して自転車を積み込み、助手席に乗り込むと、石鹸の香りが鼻をくすぐった。エアコンの送風口に芳香剤が取り付けられている。
「神室さんって、いつ免許を取ったんですか? まさか無免じゃ……」
湊高校は進学校ということもあり、よほどの理由がない限り、在学中に自動車学校へ通うのは禁止されている。市内の工業高校や商業高校の場合は、卒業後に就職する生徒が多いこともあり、進路が決まった時点で通い始めるヤツが多い。二月から三月にかけて、路上教習を受けている高校生の姿をよく目にする。
「んなわけないだろう。高校を卒業してすぐに上京して通い始めたんだ。夏はサークルの合宿やらバイトやらで忙しいと思ってな」
エンジンが掛かり、シートの下から振動が伝わってくる。神室さんには似つかわしくない陽気な音楽が流れ始めた。
「安全運転でお願いしますね」
バックミラーの位置を調整していた神室さんと鏡越しに目が合った。
「試験は全部ストレートでパスしたから安心しろ」
言葉通り、神室さんの運転には危ないところがなかった。急ブレーキで止まることも、右折のタイミングに戸惑うこともなく、焼肉屋が入っているロックタウンまで辿り着いた。
チェーン店の焼肉屋は、家族連れで混雑していた。小学生は半額、幼児は無料なこともあり、あちらこちらで賑やかな声が飛び交っている。
「大学生って、実際どんな感じですか?」
神室さんとは七輪を挟んでいるとはいえ、大して離れて座っているわけではないというのに、少し声を張らないと声が聞き取れない。
「まだ数か月しか経っていないが、かなり楽しいぞ」
神室さんが肉を裏返しながら答えた。
「授業はついていけてるんですか? 大学って、簡単に留年するイメージなんですけど……」
「そうだな。ほどほどに知り合いを作って、互いに貸し借りの関係性が築ければ何とかなる感じだな。言い方は悪いかもしれないが、社交性があるヤツなら、よほどだらしなくない限り、留年の心配はいらねえよ」
その言葉に少しホッとする。こちとら高校でさえ、授業についていくのに精一杯なのだ。
「そういえば、高館さんに会ったぞ」
神室さんが白米を掻き込みながら言った。
「え! どこでですか?」
僕は奥歯で噛んでいた肉を急いで飲み込んで訊ねた。
「渋谷のカフェで。高館さんに上京した連絡をしたらさ、せっかくだから会って話そうってことになって、それでな。高館さん、綺麗になってたぞ」
神室さんが今度は肉を頬張りながら答えた。
「渋谷って単語、いかにも東京って感じですね。でもまあ、その報告は、オレよりもアイツにしてやった方が喜びますよ。高館さん、元気でしたか?」
「ああ。相変わらず、パワフルだったな。夏に行われる公演で、主演を演じるそうだ」
「主演って、すごいですね」
高館さんはW大学の演劇サークルで活動をしている。そんなすごいサークルの中で主演に選ばれるとはさすがだ。
「招待券をもらったからってわけじゃないけど、観に行く予定なんだ」
まだ口に入れるには熱かったのか、神室さんは口の中に必死に空気を送っている。
「羨ましいですね」
「お前らも観にくれば? 部屋が狭くても文句を言わないなら、一泊くらいなら泊めてやるぞ」
「ええ!? 本当ですか? そりゃあ、観に行けるもんなら観に行きたいですけど、交通費がなあ……」
トングを手に取り、網の上の肉を引っくり返す。ちょうどいい焦げ加減だ。家族で食べに来ると弟の昌二と取り合いになり、じっくり焼くことができないから今日は大満足だ。
「夜行の高速バスで来ればいいじゃないか。それなら新幹線の半額で済むぞ。若いから体力面も問題ないだろう」
「夜行バスか……」
肉を噛み締めながら考える。夜行の高速バスとなると十時間ほど掛かるが、新幹線と特急なら移動に約四時間から五時間だ。高校生にとってもちろん金銭は大事だが、それと同じぐらい大事なものがもう一つある。
「受験生なんですよね……」
もう一度、肉を引っくり返す。油が炭の上に落ちたのか、火が燃え上がった。
「悪い。そういや、そうだったな。すっかり忘れてたよ。誘って悪かった。高館さんならまた主演に選ばれるだろうから、次の機会の方がいいな」
神室さんがグラスを手に取り、烏龍茶を飲んだ。
「高館さん以外には、誰かに会ったりしましたか?」
「いいや、高館さんだけだ」
神室さんが顔を横に振った。
「……神室さんは、どうして演劇部に残ったんですか?」
火がまた吹き上がった。
神室さんが驚いたように目を丸くしていた。
「他の二年生は全員退部したじゃないですか。それなのに、どうして一人残ってくれたのかなと思いまして……」
肉を取り皿に乗せ、塩をたっぷり振りかける。
「俺がいい人だからじゃないぞ。ただ演劇が好きだったから。それだけだ」
神室さんが答えた。
「俺は演者じゃなくて裏方だったが、演劇が好きだと思う気持ちは、お前たち演者と変わらないと思っている」
神室さんの中では、僕はまだ演者側の人間らしい。今ではすっかり裏方の人間なのに。
「本当に、葉山たちには申し訳なかったと思うよ。せめて三人くらいは残ってくれればよかったんだけどな」
先ほどの神室さんの言葉を思い出す。
『辞めたがっている人間を引き止めるのは大変だぞ。すごいエネルギーが必要だ』
神室さんは、一年半共にした部員たちを引き止めたのだろうか。
「俺にもう少し人望があったらな……」
神室さんの目が炎のように揺れていた。
「あれは神室さんの人望とかの問題じゃないですよ。内申が気になって仕方ない人間には続けられなかったんですよ」
「言ってくれるなあ……」
神室さんが頭を掻いた。
「神室さんが演劇を好きになったきっかけは何ですか?」
「小学生のときに、市内の小学生が市民会館や文化センターのホールに集まって、演劇を観劇するイベントがあったのを覚えているか?」
「そう言われると、そんなものありましたね。正直内容はあまり覚えていませんけど……」
年に一度くらいの頻度で、市内のホールで演劇やミュージカルを鑑賞するイベントがあった。教室で授業を受けずに済む代わりに、感想を書かなければならず、それが苦痛だったことを微かに覚えている。僕の通っていた小学校は、イベントホールのある市民会館も文化センターも学区内にあったため、徒歩で移動をさせられていた。あの頃は演劇に全く興味がなかったため、移動時間の方が楽しかった思い出だ。
「葉山とは学年が違うから、同じ公演は観ていないかもしれないが、ある年にすごい面白い公演があってな。残念ながら演目も劇団名も覚えていないんだが、部活紹介のときに高館さんの演技を観て、なぜかそのことを思い出して、それで入部したんだ」
「へえ……。神室さんも、高館さんがきっかけなんですね」
僕たち三年生は、英会話同好会から転部してきた笹野を除いて、全員が高館さんから声を掛けられたことをきっかけに、演劇部の門を叩いている。
「でも、どうして裏方要員に徹していたんですか?」
「観る方が好きだったんだよ。例えるなら、運動部のマネージャーみたいな感覚かな。それと……」
神室さんが一瞬、言い淀んで、
「物を作るのが好きだったんだ。それなら美術部に入れよって思うかもしれないが、団体活動の方が合っている性分でな。こう見えても中学生までは野球部で、みんなで何かをやるってことが好きだったんだよ。野球は下手だったから、未練なく辞めちまったけどな……」
神室さんが恥ずかしそうに髪の毛を掻き上げた。
「そんなわけでさ、葉山。志望大学を決めるのは急がなくてもいいからさ、その代わりに早く夢を見つけろよ。とにかく、早く夢を持て。さっき『やりたいことが明確なヤツは強い』って言ったが、それと同じくらい、夢を持っている人間は強い。躓いたり、壁にぶつかったり、逃げ出したくなったときに、自分を引き止めてくれるのは他人じゃなくて、自分の中にある夢だぞ」
神室さんを演劇部に引き止めてくれたのは、夢だったのか。神室さんは口にこそしなかったが、建築家になりたいと思ったきっかけは、きっと亡くなった祖父の影響なのだろう。
教師たちの顔色を伺って辞めていった一学年上の先輩たちを責める資格は持ち合わせていないが、情けないと思ったのは事実だ。
今の僕には、誰かを引き止める資格を持ち合わせていない。だが、その資格は必要なものなのだろうか。
「網、交換しますね」
丁度網から肉が消え去ったタイミングで、店員が手際よく網を交換していった。
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