第6幕 第4場 キャットウォークにて
僕は舞鶴さんと二人きりで話をするために、放課後に彼女をキャットウォークに呼び出した。
キャットウォークに到着すると、すでに舞鶴さんの姿があった。彼女は手すりに掴まり、動き回っている運動部の生徒たちを眺めていた。
体育館はネットカーテンで仕切られており、西側は卓球部、東側はバトミントン部が使用していた。左耳からは卓球のボールのどこか忙しないが耳に心地のよい乾いた音が、右耳からはバドミントンのシャトルの全てを否応なく拒絶するような爽快な音が聞こえてくる。
「舞鶴さん」
僕は一定のリズムでラリーが続いている卓球のボールを視線だけで追いかけながら口を開いた。
僕と舞鶴さんの間には、人が三人並べるくらいの距離があった。
「……はい」
舞鶴さんのワンテンポ遅い返事は、実際の距離以上に遠く離れたところから発せられているように感じられた。
「退部届を提出するのを待ってくれてありがとう。舞鶴さんは、オレたちを騙してるって言ったけど、それは演劇に興味があって入部したわけじゃないって意味であってるかな?」
バドミントンに比べ、卓球の方が移動範囲は狭く見えるが、卓球台に立っている彼らは頭皮から汗を吹き出している。見た目以上に激しいスポーツなのだろう。
舞鶴さんは少し考えてから口を開いた。
「葉山さんの言うとおり、満衣香は演技ではなく裏方の仕事に興味があって演劇部に入部しました。だけど入部してから部員が少ないことを知り、裏方の仕事だけがやりたいとは言い出せませんでした」
過去の演劇部のように部員が何十人もいる状況ならば、裏方専門を志望しても大歓迎されたことだろう。実際、神室さんは下剤騒動で部員が減少するまでは、祖父が大工で、当人も工作が得意ということもあり、ノコギリを駆使して大道具、小道具を作ることに徹していた。神室さんの他には、衣装担当や音響担当の者もいた。
だが、今はあの頃と状況が違う。ただ、違うという言葉一つでは片付けたくない。裏方の仕事も最高の舞台を作り上げるためには蔑ろにできない大切な役割だ。
「演劇部の見学には、友達に誘われていきました。そのときに『鳥かご傘の少女』を観たんです。吾妻さんと千歳さんの演技がとても素敵でした。ただ、背景の神社の絵が、その……なんと言いますか、あくまでも満衣香の目から見て、微妙だったんです。あの絵では、せっかくの演技がもったいないと言いますか……。満衣香だったらもっと上手に描けるのにって思いました。それと同時に、絵を描くことのできる場所は、なにも美術部だけじゃないんだって気づいたんです。それで演劇部に入部しました」
舞鶴さんは僕に話して聞かせるというよりは、自分の中で整理をするために口に出しているようで、目を伏せたまま話を続けた。
「正直、人前に立って何かをするのは得意ではないのですが、それでも演劇部の活動は、いえみなさんと一緒に過ごした時間はとても楽しかったんです」
舞鶴さんは落ちつかないのか、爪を立てるように手すりを掴んでいる。辞めると告げてしまった今、僕と顔を合わせているのは気まずいのだろう。
「舞鶴さんが演劇部を退部したいと思っていることを、吾妻と千歳には話したんだ。二人は、もし舞鶴さんが美術部に転部したいと思っているのなら、引き止めるのは気が引けるって言ってた。だけどオレは、それでも君を引き止めたいと思ってる」
バトミントン部が一足先に休憩に入り、体育館は少しだけ静かになった。その代わりに卓球玉の弾ける音が目立つようになった。
「葉山さんたちは、なにか勘違いされているみたいですね。満衣香は美術部に転部したいから演劇部を辞めたいわけじゃないです」
窓を全て閉め切っている体育館はサウナのように蒸し暑かった。バドミントンは風に左右される室内競技ということもあり、窓を開けるわけにはいかないのだろう。
「それならどうして……」
「それに満衣香は美術部に入部しなかったんじゃなくて、入部できなかったんです」
僕は動いてもいないのに鼻の頭にかいた汗を手の甲で拭った。一方、舞鶴さんは汗の玉一つ浮かばせず、青白い顔をしていた。
「人物画が描けないんです。いえ、描けなくなっちゃったんです……。だから美術部には入れなかったんです」
舞鶴さんは手すりの上に腕を組むと、その上に顎をのせて背中を丸めた。
バトミントン部が練習を再開した。スマッシュを打つ練習なのか、コートのラインに沿うように置かれたシャトルケースを的にラケットを振り下ろしている。
「でも衣装のデッサンを描いてたよね?」
僕は千歳が興奮して見せてきた、彼女のスケッチブックを思い出していた。
「あれには顔が描かれていないんです。正確な言い方をすれば、人物の表情が描けないんです」
確かに彼女の言う通り、顔はただの丸で表現されていた気がしてきた。
「葉山さんは、似顔絵屋というものを知っていますか?」
「知らないな」
質問の内容に、僕は話の矛先が見えなくなって戸惑った。
「簡単に説明しますと、お客さんを前にして、その方の似顔絵を短時間で描く職業のことです。観光施設やショッピングモールにいることが多いんですけど、どこかで見かけたことありませんか?」
舞鶴さんの説明を聞いて、僕は中学校の修学旅行で東京タワーに行ったときに、クラスの女子たちが記念に似顔絵を描いてもらっていたことを思い出した。
「ああ、あれのことか! 見たことがあるよ。それで、その似顔絵屋が何か関係しているの?」
「似顔絵って、実際に描いてみるとわかるんですけど、個人の特徴をやや過剰に表現することが多いんです」
舞鶴さんの言いたいことが少しずつ理解できてきた。
幼稚園のときに、母の日や父の日に両親の似顔絵を描いたことがあるし、小学生のときに図工の授業で隣の席の女の子の似顔絵を描いたこともある。
「中学三年生の秋でした。親友の美智子が父親の転勤で引っ越すことになって、彼女への餞別のプレゼントとして、彼女の似顔絵を色紙に描いて渡したんです。彼女よく言ってたんです。『満衣香の描く絵が好きだ』って」
そこまで話すと舞鶴さんは一度唇を休めた。
「だけど満衣香が描いた絵を見て、彼女は静かに泣き出したんです。最初、彼女は嬉しくて泣いてくれているのかと思ったんですが、とんでもない勘違いでした。満衣香は彼女の笑顔が大好きで、それで歯を出して笑っている表情を描いたんです。いわゆるガミースマイルと呼ばれているもので、満衣香は彼女のチャームポイントだと思っていたんです。だけど彼女にとっては、コンプレックスだったんですよね」
舞鶴さんが口端を持ち上げて再現して見せた。
「前に演劇部の部室に押しかけてきた女子を覚えていますか? 彼女は村上って言うんですけど、彼女とは同じ中学校で、部活も同じ美術部でした。だけど満衣香と村上はあまり気が合わなくて……。そんなときに村上から言われたんです。『あんたのせいで、美智子は笑うときに手で口元を隠すようになったよ。あんたの描く絵は上手かもしれないけど、人を不快な気持ちにさせる』って」
舞鶴さんが俯いた。肩が小刻みに震えていた。
「美智子とは仲直りができないまま別れました。思い出作りに日和楼で抹茶フロートを飲もうとか、モアレでジェラートを食べようって約束をしていたのに、結局どこにも行きませんでした。満衣香は自分が一番好きなことで、自分の一番大切な親友を傷つけたんです。そんな自分に、絵を描く資格なんてもうないんですよ……」
途中から言葉の節々に嗚咽が混じり始めていた。それでも僕は口を挟まず、舞鶴さんの言葉に最後まで耳を傾けた。
「怖いんです。自分の気持ちが、自分が思っていることと違う形になってしまったことが怖かった。それからでした。人物画が描けなくなってしまったのは……。だから満衣香は、美術部に入らなかったんです」
舞鶴さんの言葉ははっきりと僕に届いた。それは退部を決意した今だからこそ、僕に打ち明けられた真実なのかもしれなかった。
「でもやっぱり絵を描くことを捨てられなくて、偶然知った演劇部に入ったんです。背景なら描けると思ったし、合わなかったらすぐに辞めればいいと思って……。それなのに満衣香が考えた衣装案を千歳さんが褒めてくれたうえに採用してくれて、それが嬉しくて……」
舞鶴さんが顔を持ち上げた。
「葉山さんから宣伝用のポスターを描いて欲しいと頼まれたとき、頭の中に構想のパターンが次々と浮かび上がってきました。ワクワクしたんです。だけどその一方で、人物たちの表情は全くイメージできなくて……」
舞鶴さんの顔が崩れた。
「満衣香、我儘なんです。誰かに評価して貰いたいけど傷つきたくなくて、自分を支えるものだけが欲しくて。都合のよいものだけに囲まれて安心したいだけなんです」
僕はまた、舞鶴さんが描いた衣装案のデッサンを思い出していた。鉛筆の力強い一線に彼女の迷いは見受けられなかった。
彼女は迷っていなかった。絵を描きたいとずっと願っていた。それに気づいてやれなかったのは、僕だ。
「舞鶴さんは、みんなを騙してるって言ったけど、オレたちは演劇部だ。演劇部を相手に、本心を騙せているというのなら、舞鶴さんが一端の役者だってことだろう。それは演劇部員として、最高の素質だ。それに、舞鶴さんがみんなを騙してるっていうのなら、オレの方がよっぽどみんなを騙してるよ」
僕は舞鶴さんの隣に移動し手すりに腕を乗せると、そこから体育館を見下ろした。
「今オレがいるこの場所は、身長が百七十五センチなかった自分が選んだ場所なんだ。もし百八十センチある自分がいたら、絶対に選ばなかった場所なんだ」
こんなにも早く、理想の自分になれないことを知るとは思っていなかった。それは早くても将来サラリーマンにならざるを得ないときに知る感情だと思っていた。無敵だった中学生の自分が、こんなにも早くいなくなるなんて、ちっとも知らなかった。知りたくもなかった。
「みんな本当は気づいてる。オレが演劇よりもバスケをやりたがっていることに。それでもこんなオレを許してくれている。オレが許せない自分を、オレの代わりにみんなが許してくれている」
自分の価値を決めるのは何も自分じゃなくてもいい。意地を張らず、他人の言葉に素直に耳を傾けたっていい。それを教えてくれたのは、ここで出会ったヤツらだった。
「だからオレは、ここにいることを決めた」
だからオレは他人以上に自分を騙し、演劇に一生懸命な自分を演じることにした。それがせめての償いだと思ったから。
「裏方専門でもいい。舞鶴さんに、演劇部に残って欲しい」
僕は舞鶴さんの横顔に言った。舞鶴さんが振り向く。
「オレは演劇部の部長として、舞鶴さんを引き止めたい。舞鶴さんは演劇部に必要な人だから」
これは自分の我儘かもしれない。彼女の大事な運命を狂わせることになるかもしれない。それでも……。
「宣伝用のポスターを描いて欲しいっていう件は、まだ有効ですか?」
「え?」
「ぜひ満衣香に描かせてください」
舞鶴さんの声は決して大きくなかった。汗を流している卓球部やバドミントン部の生徒たちは、キャットウォークに立っている部外者の僕たちに気づいていないのだろう。覚悟を決めた一人の少女に気を遣うわけもなく、彼女の決意は、運動部たちの張り合うような声援の波にあっという間に飲み込まれた。
僕はそれをとても勿体ないと思った。まさか自分たちの頭上で、薄汚れているキャットウォークの片隅で、一人の女の子の物語が今まさに動き出す瞬間を、彼らは剥き出しの二の腕で汗を拭っている間に見逃しているのだ。
でも僕は知っている。悔しいけれど、彼らにとっては目の前のボールやシャトルから集中を反らせることの方がずっと、ずっと勿体ないということを。
「舞鶴さんが演劇部にいてくれてよかった。オレたちの中に、絵心のあるヤツは誰もいないんだ」
僕は苦笑しながら言った。
「それと、あの神社の絵を描いたのは……実はオレなんだ」
僕が首の後ろに手を当てると、舞鶴さんは手すりを握っていた手を離し、大きく開いた口をその手で隠した。
舞鶴さんが四枚のポスターを描き終えたのは翌日のことだった。
「たった一日でよく四枚も描き上げたね」
「実は、葉山さんから声を掛けていただいたときから、アイデアだけは描き溜めていたんです」
舞鶴さんが恥ずかしそうに肩を寄せた。
彼女は、僕がポスター制作の依頼をした日、つまりあのキャットウォークで退部を伝えてきた日からラフスケッチは描いていたとのことで、昨日家に帰るなり下書きに着手して徹夜で仕上げてきたとのことだった。
僕は舞鶴さんからポスターを受け取ると、一枚、一枚天井に掲げてじっくりと眺めた。舞鶴さんが緊張した顔持ちで僕の表情を伺っている。
一枚目は仮面で顔を隠したロミオとジュリエットが見つめあっている運命的な出会いのシーン。二枚目はジュリエットがバルコニーで愛を囁いているシーン。三枚目はマキューシオとティボルトが決闘しているシーン。そして四枚目は亡骸になったロミオの傍らでジュリエットが短剣を自分の喉元に向けているシーンだ。
四枚のポスターを順に並べることで物語の起承転結を表現する構成になっている。舞鶴さんの意図に気づいた僕は、堪らず舞鶴さんの顔を見つめた。舞鶴さんの目の下には真っ青な隈ができていたが、彼女の瞳には確固たる自信が宿っていた。
「依頼しておいてなんだけど、文化祭のポスターなのがもったいないくらいだな」
今まで僕たちが作成してきたポスターとはてんでレベルが違う。時間がないときなんぞ、文字だけのときもあった。映画のポスターでも十分通用しそうだ。
照明の光がポスターの中のロミオとジュリエットに魂を吹き込んでいる。二人の息遣いや瞬きの音が聞こえてきそうなほどにリアルだ。
「もったいないことなんてないですよ。吾妻さんが主演なんですから」
舞鶴さんの吾妻贔屓は、ここでも有効なようだ。
「かなり無理をさせたみたいで悪かったな」
舞鶴さんの顔を見ると、どうしても目の下の隈に視線が留まってしまう。
「いえいえ。絵を描くのは好きですから。楽しみながら描かせていただきました。さすがに今日の授業はほとんど眠っていましたけど……」
舞鶴さんが苦笑いを浮かべた。
「好きだけでやり遂げられることではないと思うぞ」
「それなら、みなさんのおかげですね」
舞鶴さんはそう答えると、手を上にかざしてみせた。僕のものよりもずっと小さくか細い指だった。この手が、この力強い曲線を生み出しているのかと思うと、なんだか不思議な気持ちだった。
「絵を忘れるために、楽器や習字、苦手な運動……とにかく色々始めてみましたが、どれも駄目でした。駄目だったんですけど、駄目でよかったです」
舞鶴さんが顎を持ち上げて天井を眺めた。
「本当にお疲れさま」
「先輩たちの頑張りに比べたら、満衣香のしたことなんて全然です」
舞鶴さんが顔を横に張った。
「そんなことないさ。これは舞鶴さんにしかできないことだから」
宣伝用のポスターを校内に貼ることは全く考えていなかった。というのも、今まで人目につくポスターを描ける部員が誰もいなかったからだ。文字だけのポスターに集客力はなく、制作するだけ時間の無駄だと割り切っていた。そのため劇の告知は、文化祭のパンフレット頼みであった。
「それにしても、この笹野はえらい美人だなあ……」
ポスターに描かれているジュリエットは、どこからどう見ても笹野がモデルだった。端正な顔立ちは特徴を掴みにくそうだが的確にデフォルメに落とし込んでいた。
「実物の方がずっと美人ですよ」
舞鶴さんがくすぐったそうに目を細めながら小さく笑った。
「笹野が聞いたら喜ぶぞ。アイツ、舞鶴さんのことを気に入っているから」
「そうだったら嬉しいです」
「本当だぜ。舞鶴さんが入部してから心なしか表情が柔らかくなったし、口調も以前ほどきつくなくなったし。ただ笹野はいいんだけどさ、吾妻はちょっとイケメン過ぎないか?」
「似てないと言われてしまえばそれまでですが、吾妻さんってそもそも実物がイケメン過ぎるんで、イケメン過ぎることはないと思います」
「いやいや、舞鶴さんの強い主観が入り過ぎてると思うよ。確かに吾妻の顔は平均よりは上かもしれないけれど、過ぎるってことはなくない?」
「そんなことないですよ。吾妻さん、うちの高校だけではなく、中央高校にもファンクラブがあるくらいなんですから。前から気になっていたのですが、葉山さんと吾妻さんって、どうしてそんなに不仲なんですか?」
「不仲っていうか、そりが合わないだけだ」
「それを不仲って言うんですよ」
舞鶴がクスッと笑い声を零した。
「舞鶴さんは、やっぱり役者には興味ない?」
「そうですね……興味ないというよりは、満衣香には役者不足ですね。あ、今のは冗談を言うつもりではなくてですね!」
舞鶴さんが顔の前で手を激しく振った。
「はは、分かってるよ。演劇部って、やっぱり特殊な部活だと思う。スポーツにはポジションや役割があるけど、演劇部の役割ってまた違うだろう。歩には本当に文才がないから、舞鶴さんがいてくれて心強いよ。歩の絵日記なんてひどいからな。今日はラーメンを食べました。美味しかったです。今日はプールに行きました。楽しかったです。このレベルなんだ。単細胞だから、感情が、嬉しい、楽しい、悲しい、で完結してるんだよ。見せてやりたいな」
「それって、もしかして満衣香に部長を引き継げって言ってます?」
「ああ。白鷹からバトンを受け取ってくれよ」
「ええ……」
舞鶴さんが困惑の表情を見せた。
「でも、よかったです」
「何が?」
「葉山さんがまだ、演劇部を残してくれるつもりでいてくれて」
驚いた声が自分の身体に吸収されていった。
「満衣香にできることなら何でもしますよ。最後まで抗いましょうね」
演劇部を残すことにこだわっているのは自分たち三年生だけだと思っていた。一年付き合いのある白鷹はまだしも、まだ三か月しか共にしていない舞鶴さんに預けるには重たすぎる荷物かと思っていた。
話が一段落したところで、
「それじゃあ、早速みんなの度肝を抜いてやろうぜ」
僕はポスターに皺がつかないよう丁寧に丸めながら言った。
それから僕と舞鶴さんは校舎にポスターを掲示して歩いた。職員室の前の掲示板から始まり、教室棟の掲示板、昇降口の掲示板に貼ると、残るは舞鶴さんのお気に入りだというラストシーンの一枚になった。
「最後の一枚は、やっぱりあそこしかないよな?」
僕の問いかけに、
「はい!」
長年の垢を拭い落としたように、舞鶴さんが軽い笑顔で頷いた。
僕と舞鶴さんは自動販売機で飲み物を買ってから、再びキャットウォークに上った。僕はペットボトルのお茶、舞鶴さんはやはり紙パックのいちごミルクだった。
ポスターは階段を上がって右手側の壁に貼ることにした。体育職員室のすぐ傍ということもあり、人目に付きやすいだろう。
舞鶴さんにペットボトルを持っててもらい、僕がポスターを貼った。ポスターが斜めになっていないかを確かめていると、
「満衣香!」
見覚えのある顔の少女が、いつの間にか背後に立っていた。舞鶴さんのクラスメイトで演劇部の部室に来たこともある。確か名前は村上といったはずだ。
舞鶴さんとの会話に夢中で、彼女が近くにいたことに全く気が付かなかった。舞鶴さんの方もたった今彼女の存在に気付いたのであろう、はっとした表情を浮かべた。
「村上……」
舞鶴さんが僕の影に隠れた。小柄な彼女は、僕の身体で綺麗に見えなくなった。
「それ、満衣香が描いたんでしょう?」
言うが早いか、村上さんが僕たちへさらに近づいてきた。舞鶴さんは声を出さず、僕の肩越しから小さく頷いた。
「美術部の友達から、職員室前の掲示板にすごい絵のポスターが貼られてあるって話を聞いて見に行ってきたんだ。そしたら今度は教室棟の掲示板にも貼られているのを見つけて、他にもどこかに貼られていないか探していたらここに辿り着いたの……。一目見て、すぐに満衣香の絵だってわかったよ」
そう言うと村上さんは、遠慮なく舞鶴さんの隣に並んだ。舞鶴さんは村上さんから逃げ出すかと思ったが、彼女は村上さんに対する緊張は解かないものの、その場から動かなかった。
「悔しいけど、やっぱり私は満衣香の絵が好きだ。自分の絵よりもずっと満衣香の絵の方が好きだ」
村上さんは視線を舞鶴さんからポスターへと移した。好きだと語るその顔に笑顔はなく、悔しさが滲んでいるように見えた。
「村上……」
「中学生の私には、満衣香の絵を素直に褒めることができなかった。同年代で、自分よりも能力のある人を認めるのってやっぱり辛いよ。だって自分を否定しないといけないわけだから……。自分に絵を描く価値はあるのかって、時間の無駄なんじゃないのかって、その問いかけに答えを出さないといけないわけだからさ」
舞鶴さんの絵を見つめる村上さんの目が自然と細くなっていく。
「今更あのときのことを謝って許してもらおうなんて都合のいいことは考えていないし、私が言うのもなんだけど……」
村上さんは一瞬言い淀んでから、
「満衣香、美術部に戻ってくれば? あんたの才能なら今からでも全然遅くないよ」
舞鶴さんに視線を合わせて言った。
僕は舞鶴さんの腕を掴みそうになる手をなんとかスラックスの縫い目に抑え付けた。僕の気持ちを知っていてか、舞鶴さんは静かに顔を横に振った。
「村上。今の満衣香の場所は美術部じゃない。それに自分のためではなくて、誰かのために何かをするのってとても気分がいいんだよ。満衣香はね、満衣香の絵を認めてくれた人たちのために、その人たちに喜んでもらうために絵を描いていこうと思ってる」
「でも先輩たちが引退したら演劇部は廃部になるんでしょう?」
村上さんが居心地悪そうに目を伏せ、明らかに僕の存在を気にしながら口に出した。
「廃部にはならないよ」
舞鶴さんが低い声で言った。
「演劇部はこれからも続いていくから」
下の方でホイッスルが鳴った。
「そう。そこまで言うんなら、私はもう誘わないよ。頑固者な満衣香には何を言っても無駄だってことは分かっているからね。それよりもこの絵、写真に撮ってもいいよね?」
そう言うと村上さんは、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「別に構わないけど……」
村上さんの意図が分からない様子の舞鶴さんが訝しげに答える。
「私から美智子に送っておくよ。あの子だって、最初は本気で怒っていたのかもしれないけど、途中からは変な意地みたいなもんでしょう。いい加減、仲直りしなさいよ」
そう言うと村上さんは、僕に向かって軽い会釈をしてから去っていった。
「葉山さん。そういうわけなので、この間の言葉、取り消してもいいですか?」
舞鶴さんが訊ねてきた。
「もちろん!」
僕は笑顔で答えた。その裏側で、一瞬でも舞鶴さんの気持ちを疑ってしまった自分を恥ずかしく思った。
「でも満衣香、絵を描くことは続けていきます。部活のない日にデッサン教室に通ってみようと思っているんです」
「それはいい考えだね」
確かに絵を描ける場所は何も高校の美術室だけではない。舞鶴さんなら演劇部の活動をおざなりにせず両立できるだろう。
舞鶴さんは自分の居場所を変え、改めて頑張ろうとしている。それなら、自分は? 自分はこのままでいいのか?
僕は舞鶴さんの笑顔を見つめながら思った。
するとポスターが剥がれ、それが桜の花びらのようにゆらゆらと落下し始めた。とっさに手すりを掴み、体を支えながらポスターに手を伸ばしたが、指先が掠めることもなく、空しくも空気を切った。
「ごめん! すぐに取ってくる!」
不幸中の幸いとはこのことか、卓球部は休憩していた。壁に寄りかかって腰を下ろし、ドリンクを飲んだり会話をしたりしている。僕はリラックスしている彼らを横目に、階段を全力疾走で駆け下りた。体育館に降りると、ポスターに向かってさらに足の速度を速めた。
ポスターは厚紙ということもあり、皺になっていなかった。僕は安堵して息を吐いた。
「無事だった!」
キャットウォークに向かってポスターを広げて見せる。舞鶴さんが手すりを掴み、身を乗り出して見下ろした。
「葉山さんに一つお願いがあります」
舞鶴さんが叫んだ。
卓球部はまだ休憩中だが、隣のバドミントン部の方は練習が続いていた。ラケットのガットにシャトルが当たる瞬間に、掛け声が飛び交っている。
「オレにお願い?」
僕もバドミントン部の声に抵抗するように叫び返した。僕は舞鶴さんの考えていることに見当がつかず、何だろうかと思いながら首を傾げた。
「今度、葉山さんがバスケをしているところを絵に描かせてください。球技大会のとき、恰好よかったですよ」
そう言うと舞鶴さんは満面の笑みで微笑んだ。
僕は手に持っていたポスターを握り潰しそうになって慌てて手を広げた。その手のひらは汗で湿っていた。
「休憩終了!」
「おっす!」
卓球部の部員たちがぞろぞろと立ち上がり、僕は慌ててキャットウォークに続く階段を駆け上がった。
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