第6幕 第2場 キャットウォークにて
夜の体育館は久しぶりだった。
床に踵を叩きつけると、音は何からも邪魔されず、どこまでも遠くへと走っていった。その感覚が懐かしく、心地よい。懐かしいと感じるから自分の中で心地よく響くのか、それとも感傷がそうさせるのか。その答えがわからないまま、もう一度意味もなく足を踏み鳴らす。
賑やかな声が響いていた日中とはかけ離れた物静かな体育館の姿に、ガキくさいが静かな興奮を覚える。運動部から離れた自分にとっては、すっかり日常ではなくなった時間。身近にある非日常にさえ飢えていることに気付かされる。それが焦燥感だということは、今は気づかないふりをする。
助走をつけて踏み切り、ステージに飛び乗る。体を回転させてから、ぐるりと体育館を見渡した。観客の姿を想像して、もう一度見渡す。それから体を回転させてステージを見渡した。ここをイタリアのヴェローナに見立てる必要があった。
大道具担当だった神室さんが卒業した今、『ロミオとジュリエット』の象徴ともいえるバルコニーをどうやって用意するかが問題だった。僕と歩で作った試作品のバルコニーは、陳腐だった。そのうえ吾妻の身長が高いせいで、バルコニーに立つ笹野との高低差が出せず、臨場感にも欠けていた。
この難題に頭を悩ませていると、舞鶴さんがキャットウォークをバルコニーに見立てればいいのではと提案し、その意見を採用することにした。ステージとキャットウォークの高低差は、恋の障害を上手く表現できている。既にあるものを利用することは全く考えていなかっただけに、僕は目から鱗が落ちた気分だった。
動画の撮影日が急に決まったこともあり、今回撮影するシーンの台詞は、英語ではなく日本語にすることにした。そのことに笹野は不満そうだったが、本番でいきなり英語の台詞を披露した方がインパクトがあるだろうと、自分でも心苦しいと思う言い訳をすると、渋々だが納得した様子だった。
白鷹がビデオカメラの設定をしている間、僕が三脚を組み立てていると、
「準備は順調か?」
突然、熊野先生が現れた。
「来てくれたんですね」
素直に口に出すと、
「さすがに夜の体育館に、生徒だけというわけにはいかないからな」
熊野先生が肩を交互に回しながら言った。鈍い音が鳴っている。肩が随分と凝っているようだ。
熊野先生は、歩が倉庫から運んできたパイプ椅子を受け取ると、ビデオカメラの後ろに腰を下ろした。顧問としては当たり前のことなのだが、先日渡しておいた台本を持ってきてくれていた。暇つぶしなのか、中を開いてペラペラとページを捲っている。数学教師の熊野先生にとって、果たして読書が暇つぶしになるかどうかは不明だが。
「先生、お疲れですね」
歩が熊野先生の肩を揉み始めた。熊野先生が台本を閉じ、それを膝の上にのせた。
「おっ! 上手いじゃないか」
「小さいときからじいちゃん、ばあちゃんの肩を揉んできたので得意なんすよ」
歩が誇らしげに口の端を上げた。えくぼの窪みがいっそう深くなる。
「飯豊。週に一回でいいから、職員室に俺の肩を揉みに来てくれないか?」
「残念ながら、出張サービスはやってません。熊野先生が部室に来てくれたら、週に一回とは言わず、毎日でも揉んであげますよ」
歩が胸の高さに手を上げると、何かを掴むように指を動かした。歩の年上の懐にするりと入り込む器用さは、年の離れた大人相手でも有効だ。
二人から離れて、キャットウォークを見上げた。いい高さだ、と思っていると、ジュリエットの衣装を着た笹野が現れた。
「笹野! 天使みたいに可憐だぞ!」
下から声を掛けると、
「バカ!」
笹野が叫んだ。
「良い発声練習になっただろう!」
「葉山先輩! 笹野先輩を口説かないでくださいよ!」
後ろから白鷹が叫ぶ声が聞こえてくるが、それを無視して目を閉じた。鼻から息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
人の心を動かすことは難しい。だけど、それができる人間がいることを知っている。行動や言葉で、動かしてしまう人間がいる。大人だったら、金の力を借りて他人を自由自在に動かす人もいるのかもしれないが、それも一種の才能であろう。
自分には欠けているものだ。将来、何かの奇跡で大金持ちになったとしても、僕には誰かの心を動かすことはできないだろう。
そういう気持ちは全部、一旦夜に預ける。
「照明、消しまーす!」
歩が体育館の照明を落とすと、予感していたスポットライトの眩しさに、それでも目を細めた。
動画の撮影は、トラブル一つ起こらずに予定通り終了した。いや、見栄を張った。小さいトラブルは少しあった。だがどれもあっさり解決できてしまったため、数にいれるほどのものではなくなっただけだ。その小さなトラブルは、意外なことに熊野先生が解決してくれた。そのおかげで、バッファのないタイトなスケジュールだったが、なんとかこなすことができた。
僕はスタンド式のスポットライトを片付けるために、舞鶴さんを連れてキャットウォークに上った。歩にはビデオカメラと三脚の片付けを頼んだ。吾妻たち役者陣は、更衣室で衣装から制服に着替えている。
「初めて自分が関わる演劇はどうだった?」
スポットライトの電源を入れ、対岸に向かって光を飛ばす。体育館の照明を全て付けていることもあり、光は目を凝らさないと見えないほどに弱々しい線を描いている。
「吾妻さんはもちろんですが、笹野さんの演技にも感動しました」
舞鶴さんは手すりに掴まり、体育館を見下ろしながら言った。
心配していた笹野の演技は及第点を優に越えていた。今回の場合、やり直しがきく撮影だったものの、笹野が練習以外の場面で演技するのが初めての経験だということを考えると、文句のつけようがなかった。それ以前に、彼女がトラウマだと語っていた、人前で話せなくなる症状が現れることもなかった。それに対する対策として、僕は一つ仕込みをしていた。それが功を成したのかどうかはわからないが、各シーンの出だしを笹野の台詞から始まらないよう、意図的に仕組んだ。動画の編集作業をする白鷹の荷を少しでも楽にする目的もあったが、編集点を意識しながら撮影を進めた。
動画の撮影は、ステージの使用時間が変更されたことによる苦肉の策だったが、結果的には様々なメリットをもたらしてくれた。笹野の場数を踏めたうえに、本番前に彼女の実力が測れたことはかなり大きな収穫だ。
誰しもが本番で自身の持っている力を百パーセント発揮できるとは限らない。演劇に限らず、練習でできていたことが本番になるとできなくなる人間が一定数いる。プレッシャーが伴う場面で、自身の力をいつも通りに引き出すことができるかは、精神的な影響が大きい。自身のメンタルの弱さに、悔し涙を浮かべるヤツを何人も見てきた。
笹野は中学時代に吹奏楽部でフルートを演奏していたという。コンクールではソロパートを担当したこともあるという。その経験が、少なからず良い方向に作用しているのだろう。
「舞鶴さんの描いた背景もすごくよかったよ」
舞鶴さんには、背景パネルとして、ベニヤ板にヴェローナの街並みが伝わるような建物を描いてもらった。最初こそペンキや刷毛の扱いに戸惑っている様子だったが、少し目を離している間にコツを掴んだのか、次に見たときには、まるで自分の指先のように自由自在に扱っていた。器用な人間なのだろう。
僕はスポットライトの向きを変えた。舞鶴さんは返答に困ったのか、しばらく無言だった。
「葉山さんはどうして役者じゃなくて、舞台監督をしているんですか?」
舞鶴さんはようやく口を開いたかと思えば、手すりに載せた腕に顔を埋めるよう、俯きながら小声で訊ねてきた。
「オレは役者も経験したうえで、舞台監督を選んだ。役者も楽しいけど、オレは人を動かすことの方が楽しいと感じているんだ」
「そうなんですね」
「というのは、恰好付けた建前だな」
「え?」
舞鶴さんが思わずといった調子で振り返った。その日初めて舞鶴さんと目が合った。僕はスポットライトの電源を落として目を閉じた。
演劇部に入部した頃は、下級生ながらも、吾妻とどちらがより台詞の多い役を貰えるか競っていた。僕が役者として舞台に上がった経験は三回しかないが、吾妻は僕よりも常に台詞量の多い役を演じた。僕が役者から舞台監督に転向したのは、高館さんたち三年生が引退してからのことだ。
部で唯一の先輩となった一学年上の神室さんは、大道具や小道具作りを専門とする裏方志望で演劇部に入部していた。そのため舞台監督のような誰かに指示を出す役職は自分にはできないと言い、話し合いの結果、一年生ながらも僕が引き受けることになった。が、演劇部の伝統を守るため、脚本は部長である神室さんが書くという形で落ち着いた。
当時、役者を辞めることに迷いがなかったといえば嘘になる。吾妻を敵対視していたこともあり、次こそは吾妻よりも目立つ役を演じたいと思っていた矢先でもあったため、舞台監督を引き受けることは吾妻から逃げ出すことになるのではないかと思い悩んだ。それでも僕が舞台監督を引き受けたのは。
「オレが舞台監督の面白さに気付いたのは、実は最近なんだ。本当は、オレの他に舞台監督ができるヤツがいなかったから引き受けただけなんだ」
僕は素直に白状した。
「そんなことよりも、舞鶴さんに頼みたいことがあるんだ」
「……改まって何ですか?」
舞鶴さんが首を傾ける。
「舞鶴さんに、舞台の宣伝用のポスターを描いて欲しいんだ」
「え……?」
「教室棟の一階と二階、昇降口、体育館、職員室前の掲示板、全部で五枚張りたいと考えている。全て手描きで、見た人が絶対に忘れないような最高にインパクトのあるポスターを頼みたい。引き受けてくれないか?」
舞鶴さんは分かりやすく迷っていた。いや戸惑っていた。僕の言葉に力が足りないせいか、舞鶴さんは引き受けていいのか判断できずに目を震わせていた。
「舞鶴さんにしかできないことなんだ」
舞鶴さんには駆け引きは通じないと思った。相手が吾妻ならば煽って対抗意識を刺激するし、千歳ならば情に訴えかけるし、白鷹ならば笹野の名前を出して誘導するし、歩ならば褒めたり煽てたりしてやる気を引き出す。男は単純だ。手のひらの上で転がすことができる。笹野なら弱みに付け込んで脅すが、さすがに下級生の舞鶴さん相手にそれはできない。
「葉山さん……」
キャットウォークには自分たちの他には誰もいないというのに、舞鶴さんは小声で声を掛けてきた。
「どうかした?」
僕が返事してから、しばらく無言の間が続いた。舞鶴さんはなかなか話を切り出そうとしなかった。視線を泳がせ、落ちつきなく指先を擦り合わせている。
「言い出しにくいことなのか?」
僕が促すと、舞鶴さんはようやく口を開いた。
「突然すみません……。満衣香、演劇部を辞めます」
小声だったはずの舞鶴さんの声が、僕の耳朶にはっきりと響いた。
一瞬、思考が停止した。
「え……?」
驚きのあまり声が震えた。
辞める? 本当に辞めるって言ったのか?
僕は舞鶴さんを凝視した。舞鶴さんは自分の指先を見つめるのに必死で、僕の視線には気付いていない様子だった。
「どうして……!?」
「みなさんを騙してるみたいで申し訳ないからです」
舞鶴さんが肩を震わせながら言った。
「騙してるって、どういうこと?」
僕は祈るような気持ちで訊ねた。舞鶴さんは眉を下げたまま顔を動かさない。僕は唇を噛み、舞鶴さんが何か言い出すのを辛抱強く待った。
「ごめんなさい」
舞鶴さんは頭を下げたかと思うと、キャットウォークを駆けていった。
僕は笹野のときのように舞鶴さんを追いかけなかった。手どころか神経すら動かすことができなかった。
スポットライトを一人で片付けると、先に部室に戻ることにした。
「俺は一度職員室に戻るから、部室でダラダラせずにさっさと帰ろよ」
熊野先生はそう告げると、足早に体育館から去っていった。
時刻は二十時を過ぎており、校舎は体育館の使用だけが許されていることもあって不気味なほどに静かだった。昇降口の照明は点いているが、教室棟の廊下は消灯されていた。
部室に着くと、僕は席について役者陣を待つことにした。机に顔を突っ伏して時間を潰す。
少しすると、千歳と笹野が揃って部室に戻ってきた。
「昇降口でマイちゃんが走って帰っていくところを見かけたんだけど、何かあったの?」
声を掛けようと思ったんだけど間に合わなくて、と千歳が椅子に腰を下ろしながら訊ねてきた。
撮影をしている間、荷物は体育館には持っていかず、部室に置いていた。そういえば部室に戻るまでの道のりで、荷物を取りに行ったはずの舞鶴さんとすれ違わなかったことに気がついた。おそらくわざわざ遠回りをして、職員室側の廊下を使って移動したのだろう。そう考えれば、僕とはすれ違わなかったのに、千歳と笹野が彼女の後ろ姿を見かけたこととの辻褄が合う。
「ああ。親から連絡がきたらしい……」
咄嗟に嘘をついた。本番前のこの時期に、笹野を動揺させるようなことは言えなかった。
「そうなんだ。夜も遅いから、家まで送っていこうかと思ってたんだけどな。マイちゃんの家なら通り道だし……」
千歳が肩を竦めながら残念そうに言った。
「笹野はロミオ様に家まで送ってもらえよ」
現実逃避からなのか、軽口が溢れた。
「何バカなことを言ってるのよ!」
笹野が口を大きく開けて怒った。皮肉なことに、体育館で演技していたときよりもずっと通った声だった。
「茶化した言い方だけど、ケイタなりに梅ちゃんを心配してるんだよ。僕も心配だから、今日は梅ちゃんも一緒に帰ろう」
千歳の言葉に、笹野が掴んでいたスクールバッグの取っ手から手を離した。
いつからだ? 舞鶴さんは一体いつから部活を辞めたいと思っていたのだろうか。そしてどうして僕は、そのことに全く気づかないでいたのだろうか。
千歳と笹野が戻ってきてから五分もしないうちに、吾妻と白鷹、それから歩も部室に戻ってきた。それでも僕は、舞鶴さんから聞いた言葉をみんなに伝えられなかった。
部室に鍵をかけると、僕は吾妻と千歳を引き連れ、ラーメン屋の花鳥風月に向かった。
家まで送っていく予定だった笹野は、白鷹と歩が送っていくことになった。話を聞いた白鷹が、自分が引き受けると言い出し、彼に任せることにした。白鷹の家は学校から数分だが、本人が笹野を家まで送りたいと強く志望している以上、反対する必要もないだろう。結果的には、そのおかげで、自然な形で三人になることができた。
学校を出ると、しばらくは外灯が少ない田んぼ道が続く。千歳や白鷹が笹野を心配するのも無理はない。自転車のライトを頼りに走る必要があるのだが、その光をめがけて虫が体当たりをしてくる。おまけに、この時期は蛙の合奏、いや騒音がひどい。道幅が狭いこともあり、僕たちは会話を諦め、行儀よく一列に並んで自転車のペダルを漕いだ。
田んぼ道を抜けると、今度は無駄に広い歩道のある道が続く。車の通りも急に増え、蛙も逃げ出すようなエンジンの音が夜の空に響く。
「おい吾妻! 信号、青になってるぞ」
僕は、信号機の色が変わっても動き出さない吾妻に声を掛けた。
「悪い。ぼーっとしてた」
吾妻は珍しく素直に謝ると、自転車のペダルを漕ぎ出した。
「シズオ、疲れてるんじゃない? 大丈夫?」
僕の後ろから千歳が声を掛けた。
「平気だ」
吾妻が片手を上げて答えた。
花鳥風月に着くと、平日の夜だというのに店内は込み合っていた。僕らは店の前に形成されている列の最後尾に並んで順番を待った。
少ししてカウンター席に通され、三人並んで腰を掛けた。この並びはいつからだったか、左から僕、千歳、吾妻と決まっていた。四人席に通されたときは、僕の向かいに千歳、斜め前に吾妻が座るのが常だ。
僕は海老ワンタンメンの醤油、千歳はゆず塩花鳥風月ラーメン、吾妻はワンタンメンの醤油をそれぞれ注文した。この店に通い始めるようになってから早三年、注文するメニューも今ではすっかりお決まりになっていた。
本当はチャーシュー丼も食べたいところだが、高校生のお小遣いで一食千円を超えるのは気が引けるので我慢だ。今度家族で来たときの楽しみに取っておこう。
カウンター席で顔を見合わせずに済むのをいいことに、僕は話をすぐには切り出さず、厨房で機敏に動き回る従業員の動きを黙って眺めた。彼らは背中に店名の入った黒シャツを着ている。
次の演目は、ラーメン屋のカウンター席で起こるドラマでも面白いかもしれないと思いながら、いやもう演劇は今回で最後だろうと、すぐさま頭の中で執筆を始めようとした筆を放り投げた。目に映るもので創作を始めようとするのは、最近新しくできた悪い癖だ。
「……それで、一体何があったんだ?」
ラーメンが運ばれてきたのをきっかけに、吾妻が割箸を割りながら僕に訊ねてきた。
スープから沸き立つ湯気が頬にあたり、ざわついていた心がゆっくりと緩んでいく。鼻孔に届く、旨味をたっぷり凝縮した湯気が疲れている脳を籾み解す。すっかり空っぽになっている胃が期待で準備運動のごとく少しずつ動き始める。
吾妻は、僕の返答を待たずにラーメンを啜り始めた。隣に座っている千歳は箸に手を付けようとしない。僕は割り箸を縦に持って割った。勢いよく割ったせいか、右側が太くなってしまった。
「舞鶴さんが、演劇部を退部すると言ってきた」
それだけ言うと、僕も吾妻の後に続いて麺を啜り始めた。歪な形をした割り箸は麺を口に運ぶのを邪魔していた。
「……え?」
猫舌ゆえにレンゲを使ってちびちびとスープを吸っていた千歳が、丸めていた背中を弓なりに持ち上げた。店内が賑わっていることもあり、千歳の張り上げた声は大して響かなかった。
「そんなこと、いつ言われたの!?」
千歳が僕の器の上に覆い被さる勢いで顔を近づけてきた。器を倒されることを心配した僕は咄嗟にそれを両手で支えた。
「動画の撮影が終わった後、オレと舞鶴さんがキャットウォークで二人きりになっただろう。そのときに言われたんだ」
僕は千歳の顔を見ないまま答えると、蓮華でスープを口に運んだ。
「だけどさっき、マイちゃんは親御さんから連絡がきたから先に帰ったって……」
千歳が首を引っ込めないまま言葉を続けた。
「それが嘘なんだろう」
吾妻は全てお見通しとばかりに、麺を口に含んでいる僕の代わりに答えた。
「それにしても、どうして急に退部なんて言い出したんだろう……」
千歳が手に持っていた蓮華を器に引っ掛けた。割箸に至っては、まだ袋に入っている状態だ。
千歳は舞鶴さんと同じ衣裳係として部の誰よりも彼女と一緒にいた時間が長い。もしかしたら多少なりとも責任を感じているのかもしれない。
「そうなると、あと二人か……」
舞鶴さんが演劇部を辞めることをすんなり受け入れている様子の吾妻が、豪快に音を立てながら麺を啜り、辺りにスープが飛び散った。吾妻は悪びれる様子を一切見せず黙々と麺を啜り続ける。一方千歳は思いつめた表情のまま、呆然とラーメンを眺めている。
「ヤス。早く食べ始めないと麺が伸びるぞ」
吾妻に促され、千歳はようやく割箸を手に持った。
壁に掛かっている薄型のテレビから大歓声が聞こえてきた。ついそちらを振り返ると、プロ野球の中継が流れており、逆転ホームランが出たところだった。
「今ここでその話をするってことは、梅ちゃんやコウジたちにはまだ伝えていないってことだよね?」
箸で麺を掴んだまま宙に浮かせている千歳が思い出したように言った。
「笹野には本番前に不要な心配をかけたくないからな。白鷹も部員が減ることを知ったら辛いかと思って……」
僕は器の端に寄せていたチャーシューを口に運んだ。この店のチャーシューは炙ってあり鉄板の網目が刻印されている。このチャーシューを食べる瞬間が何よりも至福だった。それなのに、今は味がよく分からない。
すっかり冷めてしまっている僕らの感情とは裏腹に、テレビの向こう側の世界はなんてドラマチックなのだろうか。
「そんなことを言っても、マイマイが演劇部を辞める事実は変わらないんだから、いつまでも黙っているわけにはいかないだろう」
吾妻が二つ並んでいるワンタンの一つを口の中へ放り込んだ。今日も、もう一つは最後まで取っておくのだろう。吾妻は、好物は最後まで取っておくタイプだ。
「それはわかってるさ! だけど伝えるタイミングは慎重に考えたいだろう」
思わず語気が強くなった。
「そんなこと言ったって、いつまでも突き通せる嘘じゃないだろう」
吾妻が溜息混じりに言った。
話が一段落したところで、千歳がようやく麺に手を付け始めた。しばらくの間、僕たちは無言でラーメンを食べた。一番に食べ終えた吾妻がテーブルに箸を置いた。それからグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。
「……やっぱり、舞鶴さんを諦められない」
僕の言葉に、千歳が目を丸くしながら麺を啜っていた口の動きを止めた。それから、ハッとしたように急に動き出して麺を口の中に掻き込むと、
「諦められないって……」
困惑した表情を浮かべた。が、その奥には謙虚な期待が透けて見えていた。彼の器の中にはまだ麺が三分の一ほど残っている。完食するまで、軽く見積もっても五分はかかりそうだ。
「なにか良策でも思いついたのか?」
吾妻が奥歯で氷を砕きながら言った。
「策はない」
僕は正直に答えた。
「それならどうするって言うんだ?」
吾妻は呆れているのか語尾を強めた。僕は空になったグラスを吾妻に差し出した。吾妻はぶつくさ文句を言いながらも僕のグラスに水を注いだ。僕は、口の中をすっきりさせてから言った。
「まずは舞鶴さんに、部活には参加しなくていいから退部届を提出するのは一週間待って欲しいと伝える。一週間じっくり考え直してもらって、それでも退部したいと思ったら、そのときは彼女の意見を尊重する。笹野たちには、舞鶴さんは家庭の都合で数日間部活を休むことになったと伝える」
僕は舞鶴さんが演劇部を辞めることに納得できていなかった。吾妻のように「はい、そうですか」とすんなり受け止めることができない。
僕の意見を聞いた吾妻と千歳は、どちらが先に口を開くか、互いに譲り合うように視線で会話をしてから、吾妻が代表して言った。
「マイマイが演劇部に入ったのは、演劇に興味があったんじゃなくて、絵が描きたかったからなんじゃないのか?」
吾妻の考えに、そうだと言わんばかりに千歳が頬を膨らませたまま顔を大きく縦に振った。
「絵が描きたいだって? だいたい舞鶴さんは、吾妻に気があって演劇部に入ったわけで……」
予想外の意見に思わず訊き返すと、口の中を空にした千歳が選手交代とばかりに応じた。
「多分マイちゃんがシズオに憧れて演劇部に入部したっていうのは嘘だと思う。シズオに好意は持っているとは思うけど、そのわりには積極的な姿勢が見受けられないし……。だから本当は、裏方の仕事に興味があって入部したんじゃないのかな。例えば舞台装置の背景を描くようなことがしたかったんじゃないのかなって……」
今度は吾妻が深々と頷く番だった。
「今はまだしも、俺たちが部を引退したら、人数的にも裏方専門としてやっていけるかどうかわからないもんな」
そう言うと吾妻は、蓮華を手に持ったかと思うと、千歳の器からスープを掬って飲み始めた。千歳は吾妻に怒るどころか、飲みやすくなるよう律儀に彼の方に器を寄せた。僕と吾妻のスープは醤油味だが、千歳はゆず塩味だ。
「僕は、マイちゃんがもし演劇部を辞めて美術部に転部するっていうのなら、演劇部に引き止めることはできないよ」
千歳が箸をトレーに置くと、膝の上に拳を置いた。
「でも舞鶴さんから退部の話を聞かされる直前、オレは彼女に宣伝用のポスターを描いて欲しいって頼んでいたんだ。それならなおさら、どうして急に退部したいなんて言い出したんだ? 絵が描きたいのが本当なら、喜んで引き受けると思わないか?」
僕の問いかけに、吾妻と千歳は眉をひそめた。
「そりゃあ、退部を考えているのに、喜んで仕事を引き受けるヤツがいるかよ」
「演劇部で絵を描いても多くの人に評価してもらえるわけではないし、コンクールに出展できるわけでもないからね」
僕は喉に言葉を詰まらせてから、
「とにかくオレは、一人でも舞鶴さんを説得してみせる!」
自分を鼓舞するために宣言した。
「僕だって、マイちゃんに演劇部を辞めてほしくないよ……」
千歳がポツリと言い放った。背後から大歓声が湧き上がった。思わず振り返ると、先程逆転したチームがスリーランホームランで追加点をあげていた。回は八回裏。駄目押しだ。
僕は器に残っているスープを眺めた。意味もなく脂の輪を数え始める。途中で数が分からなくなり、器を持ち上げて全て飲み干した。
「来年の演劇部は一体どうなるんだろうな」
吾妻の呟きに、僕も千歳も何も応えなかった。
店から出ると、体内から温まった身体を初夏の風が優しく撫でた。
自転車に乗る前に、親から連絡がきていないかを確認するため、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。スマートフォンのロックを解除すると、メッセージアプリの新着メッセージが二件届いていた。なんとなしにアプリを開く。一件は案の定、母親からだ。まだ帰ってこないのかという内容だった。もう一件は……。
懐かしい名前に、心臓の鼓動が早くなった。
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