第6幕 第1場 キャットウォークにて
放課後になると、バスケットボール部主将の新井田と話をするために、三年三組の教室を訪れた。
残念ながら吾妻と千歳、それから笹野は三年三組ではない。そのうえ、三組には特別仲の良い友人もいない。仕方ないので、教室から出てきた名前も知らない男子生徒をつかまえ、新井田を呼んでくれるように頼んだ。新井田は、打診もなく突然訪問してきた僕を見るなり、不思議そうに眉尻を持ち上げたが、廊下に出ようと提案すると、大人しく後ろをついてきた。
どのクラスもSHRが終わったばかりで、廊下は一日の中で最も人の往来が多い時間帯だ。通行の邪魔にならないように廊下の壁に張り付くと、新井田も僕に倣うように隣に並んだ。彼は長い脚をくの字に折り曲げて壁に寄りかかった。
「……それで、俺に話って、一体何だ?」
新井田が顎先をくいっと持ち上げ、早く話を始めるように促した。受験生にとって、放課後の時間さえ惜しいことは理解している。社交辞令や前置きは省くことにした。
「単刀直入に言う。一日でいいから、体育館を貸して欲しい」
僕は新井田の目を見てお願いすることができず、教室を出入りする人たちを眺めながら言った。
「いきなり何を言い出すんだ? 話が全く見えないんだが……」
言葉通り、新井田が困惑した表情を僕に向けた。
「オレが演劇部だということは、新井田も知っているだろう。今度の文化祭でステージ発表をするんだが、その宣伝用の動画を体育館で撮影したいんだ」
僕が口を閉じてから少しして、
「そういうことか……」
頭の中で整理がついたらしい様子の新井田が、溜め息交じりに呟いた。
「残念だけど、葉山の期待には応えられない。俺は昨日で部を引退したから、もう部長じゃないんだ。飯豊から何も話を聞いていないか?」
言われてみれば、確かにそんな時期だった。
「そうか……」
「今の部長は、二年生の日向だ。飯豊なら彼の連絡先を知っているはずだ」
新井田はそこで言葉を区切ると、一息吐いてから再び口を開いた。
「この際だから、葉山に一つ訊いておきたいことがある」
人の声が雑音から劇伴に変わる。人の姿が線からモザイクに変わる。
こういうときに、言葉に重さがあることを思い知らされる。
僕の身構えとは裏腹に、せっかちな心臓がソワソワと音を立て始めていた。
「葉山は、俺たちとは一緒にバスケをできないと思っていたのか?」
新井田の言葉が、ずっしりと腹の底に響いた。僕は何も答えなかった。それをいいことに、新井田は言葉を続けた。
「葉山は、うちのバスケ部のレベルが低いから入部しなかったんだろう。だけど俺は、この高校のバスケ部だったから入部したんだ。下手は下手なりにバスケを楽しめるんだ」
責めるような、きつい口調で言った。それは、自分は今まで新井田からの頼みを断り続けてきたというのに、今こうして新井田に頼みごとをしている罰なのかもしれなかった。
「……オレは、この高校だからバスケ部に入らなかったわけじゃない。高校でバスケをやらないことは中学生のときから決めていたことだ。例え進学先のバスケ部がそこそこ強かったとしても、バスケ部には入っていない」
中学生だった自分を思い出しそうになり、僕は目を反らして床を見た。
意を決して新井田と対面したというのに成果を得られず、挙句の果てには傷口に塩を塗られることになり、正に踏んだり蹴ったりだ。
「そうか。それを知らずに、しつこく誘って悪かったな」
新井田は窓を開けると、窓枠に腕を乗せてもたれかかった。澄んだ風が、僕の髪を靡かせる。
「俺はこの高校に入学して初めて葉山の姿を見つけたとき、自分のことを漫画かドラマの主人公だと思った。信じられなかった。だってあの葉山圭太が、大して強くもないバスケ部の高校にいるんだぞ。信じられないだろう……。本当に信じられなかった」
新井田が空に向かって細い息を吐く。
「だから俺、舞い上がって、葉山に話しかけに言ったよな。 『バスケ部に入るんだろう?』って……。それなのに葉山は、そもそも俺のことなんか覚えていなくて、突然声を掛けられたことに驚いた後、はあって顔をしたよな。まあ、俺のことを覚えていないのは無理もないんだけどさ。俺は弱小校の主将で、葉山は地区ナンバーワンのスタメンだったからな。あのとき俺は、いつか葉山に名前を覚えてもらえるように、この高校でバスケを頑張っていこうって思った。まさか、葉山がバスケ部に入らないなんて思わなくてさ……」
僕は新井田の言葉を聞いて、当時のことをゆっくりと思い出した。確か入学式が終わった直後だった。新井田が周りにいた人たちを掻き分け、突然目の前に現れたかと思うと、僕の腕を掴んで訊いたのだ。「バスケ部に入るんだろう?」と。
新井田の話だと、僕ははあという顔をしたとのことだが、実際のところは他意はなく、驚きしかなかった。僕はただただ心底驚いたのだ。僕を求める人がいたことに。
「だから俺は、うちのバスケ部がさ、葉山が認めてくれるくらいに強くなったら、葉山も気が変わって入部してくれるんじゃないかって思って、必死に練習を頑張った。結局、最後の大会も地区の二回戦で負けだったけど……。それでも俺は、後悔しないくらいには頑張ったんだ」
新井田はくるりと体を回転させ、窓枠に背中を乗せたかと思うと、思い切り体を反らして空を見上げた。
「三年間悔いはないはずだったけど、やっぱりときどき考えるんだ。葉山とバスケをやれていたら、もっと楽しかっただろうなあって……」
新井田は空が眩しいのか目を細めていた。その細めた視線の先には何が見えているのだろうか。
「俺は何も協力してやれないが、影ながら応援はしてる。頑張れよ」
新井田は上半身を起こしてから僕の肩を軽く叩くと、教室の中に戻っていった。
新井田からの誘いに最初は何と言って断ったのか、その言葉はすっかり忘れてしまった。
新井田は事ある毎に僕をバスケ部に勧誘してきた。一年生のときは彼と同じクラスだったこともあり、たまにうんざりすることもあったが、体育のときは唯一競える相手で、それなりに距離を保って接していた。
新井田の表情を思い出す。バスケの話をするときはいつも興奮に頬が赤らみ、形のよい目は光を煌めかせるように反射していた。
それは、僕には二度とできない表情だった。
例え、それが演技でも。
僕は教室に荷物を取りに戻ってから、部室へと向かった。
「ケイタ、お疲れさま。体育館の件はどうなった?」
部室に入るなり、千歳が声を掛けてきた。
僕が首を横に振ると、千歳は残念そうに肩を寄せた。
部室には、すでに全員が集まっていた。
僕は歩の姿を視界に捕らえるなり、
「歩! バスケ部の日向の連絡先を知ってるか?」
歩は弦を弾いていたギターから顔を持ち上げ、
「知ってることは知ってるけど……」
ばつが悪そうに口を篭らせた。
「体育館を借りる件だが、歩の方から彼に話をつけられるか?」
「おれから? それは難しいと思うなあ……」
歩がギターからさえ目を逸らし宙を見上げた。
「どうしてだ?」
「日向先輩とは入部当初から気が合わなかったし、おれが退部したことに気を悪くしてるらしいっていう話も聞いたし……」
歩は親に叱られている子供が言い訳をするように、ぼそぼそと呟いた。
歩が入部して間も無く退部した過去を考えれば、日向の中で歩の印象が悪いとしても仕方がないだろう。歩の言うことは分からなくもなかった。
「そうなると、別の方法を考えないといけないね」
横で話を聞いていた千歳が、顎に手を当てて小さく唸り出した。
「他の部も検討するか」
バレー部に卓球部、それからバドミントン部……と、思い浮かべた頭を抱えると、
「生徒間での交渉がうまくいかないとなるよ、顧問に頼りたいところだけど、熊野先生だとそれも難しそうだよね」
ギブアップと言わんばかりに、千歳が三度目の唸り声を上げた。
僕は考えた末、新井田を介してバスケットボール部の新部長である二年生の日向に会うことにした。これで上手くいかなければ、そのときは他の部に頼むことを検討しようと決めた。
だが僕の不安は杞憂だった。
歩から聞いていた前情報のせいで、日向に対してあまりよくない印象を勝手に抱いていたが、彼はとてもフレンドリーな男だった。
戦闘モードで挑んだのがバカらしくなるくらいに、僕たち演劇部に協力的で、他のバスケ部員たちの意見を確認することもなく、その場で体育館の貸出を承諾してくれた。
そんなこんなで、話が友好的にまとまったかと思った矢先、突然日向が「ただ、一つだけ条件があります」と言い出した。
僕は一体どんな難題を投げかけられるのだろかと、思わず息を呑んだ。
「一度でいいので、僕とワンオーワンをして下さい」
たった一秒前までの柔らかな目尻はどこにもなく、鋭い視線が僕を貫いた。日向が新井田の後輩だということを痛感した。
彼の出してきた条件を、僕は大人しく飲むしかなかった。
日向とは、その約束を実現させるために連絡先を交換して別れた。これで簡単には契約を反故できなくなった。
「部活が落ち着いたら、すぐに連絡しますね!」
日向は爽やかな笑顔を浮かべて颯爽と立ち去った。彼が新体制を整える準備で忙しいのが、唯一の救いだった。
部室の戸を開くと、部員たちはそれぞれの作業に手を動かしながら雑談をしていた。
「自分のクラスは模擬店で芋煮を売るんですけど、みなさんのクラスは何を売るんですか?」
白鷹がノートパソコンのキーボードを打ちながら、みんなに話題を振った。
おそらくクラス単位で催す模擬店の内容が決まったのだろう。僕のクラスも今日のロングホームルームで決まったばかりだ。
「夏場に芋煮って、まだ暑いだろう」
吾妻が下敷きで顔を仰ぎながら呆れたように言った。
室内の窓は開いていたが、今日は風が滅法入ってこない。
「そういう僕たちのクラスはカレーだよ。カレーなら前日に仕込みができるから当日は楽になるでしょう」
千歳が針で糸を縫う手を動かしながら言った。笹野が着るジュリエットの衣装の裾上げをしているようだ。
「本当か?」
吾妻が怪訝な顔をした。
「どうして吾妻は、自分のクラスのことなのに知らないんだ?」
僕は椅子に腰を掛けながら、吾妻と同じクラスの千歳に訊いた。
「シズオは、HRの時間はいつも寝てるんだ」
なるほどな、と思っていると千歳が話を続けた。
「僕たちのクラスにカレー好きの男子がいるんだけど、ALBAの常連で、お店の味を完コピできるって豪語して、それなら出店をカレーにするから証明してよって話になって、それでカレーに決まったんだ」
「え? ALBAって、ゆたかにある、あのALBAですか?」
歩が椅子から腰を浮かせ、千歳の方に体を倒した。
「そう。そのALABAだよ」
「おれ、そこのとんかつカレー大好きです!」
歩が興奮した様子で声を張り上げた。
「そのお店なら、私も家族と何度も行ったことがあるわ。焼きカレーが美味しかったわね」
笹野が珍しく自分から会話に混ざってきた。
「オレは、絶対にクリームコロッケをトッピングする」
ALBAは、ラーメン屋がひしめいている坂田市には数少ないカレー店の一つだ。値段がお手頃なのにボリューミーで貧乏な学生にも人気だ。
「正解はカキフライだな」
吾妻が対抗してきた。
「いやーどっちも捨てがたいですね」
白鷹が深刻な顔で頭を揺らした。
「本当に有名なお店なんだね」
坂田に来てまだ三年目の千歳が、感心とばかりに何度も頷いた。
「笹野先輩のクラスは、何をする予定なんですか?」
タイミングを見計らっていたであろう白鷹が、ここぞとばかりに口を開いた。
「映像カフェよ」
笹野は顔を上げずに答えた。
「カフェ! 笹野先輩は、もちろんウェイトレスですよね!」
白鷹がもぐらよりも素早く、ノートパソコンから顔を覗かせた。その目はショーケースの中に閉じ込めたいほどに輝いている。
「私は、ウェイトレスはやらないわ。演劇部の準備が忙しいって言ったら、当日は何もしなくていいことになったから」
笹野が白鷹の気持ちを考えもせず、さらりと答えた。
「そんな……。笹野先輩のメイド姿を見たかったのに……」
白鷹ががっくりと肩を落とす。彼の中ではウェイトレスもメイドも大差がないらしい。同じ男子高校生として、好きな女の子の給仕姿に憧れる気持ちは分からないでもないが……。
「映像カフェねえ……。どうせならそこで、俺たちの予告編の動画も流してもらえばいいじゃないか」
吾妻が言うと、
「絶対に嫌よ!」
間髪入れずに笹野が叫んだ。
「笹野は、いい加減に腹括れよ」
「それとこれは全く別でしょう。クラスのみんなの前で動画を流すなんて、とても耐えられないわ」
笹野が寒さを堪えるように自身の肩を抱いた。
「すっかり言い忘れていたが、文化祭の二日目は、できるだけクラスの分担から外してもらって、いつでも動けるようにしておいてくれ」
二人が喧嘩に発展する前に、慌てて口を挟んだ。
「芋煮が忙しいのは最初の仕込みだけで、配給は女子がするっていう話なので問題ないと思います」
ショックを引きずっている様子の白鷹が力のない声で言った。
「一年生コンビは何をするんだ?」
今度は吾妻が訊いた。
「おれのクラスは、玉こんにゃくがメインのおでんです! ちなみに、おれのアイデアが採用されました!」と歩が嬉々と答えると、
「わたしのところは焼きそばです」と舞鶴さんが続いた。
「焼きそばとは分かってるな。絶対に買いに行くから、おまけしてくれ」
好物が焼きそばである吾妻が笑顔を浮かべた。
「本当ですか! 吾妻さんのためならいくらでもサービスしますよ」
語尾にハートマークをいくつも並べる調子で舞鶴さんが答えた。
「夏場に芋煮もなかなかなものだけど、おでんもまた夏っぽくない食べ物だね」
千歳が怪訝な顔つきになった。
「おでんはあくまでもおまけです。玉こんにゃくだけだとあまりにも地味すぎるって、女子から却下されたんですよ。それで色々ありまして、結果的におでんになりました」
「そもそも玉こんにゃくをやめるっていう選択肢はなかったのかよ?」
吾妻がさらに訊いた。
「こいつの好物が玉こんにゃくなんだよ」
歩の代わりに、僕が答えた。
「ケイちゃんだって、玉こんにゃく好きじゃんか!」
「歩のおばさんのコロッケよりは、なあ……」
「あー! 母ちゃんにチクるからね!」
歩が声を張り上げた。
「玉こんにゃくって、普通のこんにゃくと何か違うの?」
千歳が訊いた。
「何を言ってるんですか! 全然違いますよ! いえ、違うというか、玉こんにゃくとこんにゃくは別の食べ物ですから! まさか千歳さん、玉こんにゃくを食べたことがないんですか?」
「うん。一度もない」
千歳が顔を横に振ると、
「それでも山形県民ですか!」
すっかり興奮している歩が声を張り上げた。
「千歳はどちらかといえば都民だ、バカ」
僕が歩を嗜めると、彼はようやく椅子に腰を下ろした。
「千歳さん。最高の玉こんにゃくを用意しておきますから、絶対におれのクラスに食べに来てくださいよ。辛子をたっぷりつけた玉こんにゃくの美味しさを教えてあげますから!」
千歳は苦笑いを浮かべながら、ありがとう、と答えると、
「それで、ケイタのクラスは何をするの?」
僕に話を振った。
「オレのクラスはお化け屋敷だ」
「お化け屋敷って、準備も片付けも面倒くさそうだな」
吾妻がついにワイシャツの第三ボタンを外しながら言った。中に着ている真っ青なTシャツの襟口が見える。
「そうかもな。でもオレは球技大会のときにバスケ種目に出るっていう条件で、当日の担当はもちろん、事前準備も全て免除してもらったから関係ない」
僕は胸を張って言った。
「相変わらず、ちゃっかりしたヤツだな」
「部長のオレが身動き取れなかったら大変だろう。それに、他の文化部のヤツらもクラスより部活を優先しているからな」
「俺も部活を理由に外してもらおう」
吾妻が頭の後ろで腕を組み、今にも口笛を吹き出しそうな軽口で言った。
「それは無理だと思うよ。シズオはクラスの広告塔にするって、女子たちが張り切っていたから」
千歳が目にも留らぬ早さで針を動かしながら言った。
「広告塔って何だ?」
「さあ。詳しい話は知らないけど、客引きとかチラシ配りとかそんなところじゃないかな? 委員長が、外部の人間には性格までは分からないだろうから、騙せるだけ騙すって息巻いてたよ」
「何だ、それ。俺は絶対にやらないからな」
吾妻が顔を顰めた。
「とにかく、オレたちには時間がないんだ。クラスの準備もできるだけ抜けて、可能な限り部活に参加してくれ。当日の予定だが、発表時間は午後からだけど、午前中のうちに大道具と小道具の運搬をするから、そのことも覚えておいてくれよ。正式な集合時間は来週改めて伝えるが……」
僕が言葉を最後まで言い切ったかどうかのタイミングで、部室の戸がノックされた。
部員は全員揃っている。顧問の熊野先生ならば、ノックせずに入ってくるはずだ。
一体誰だろうかと顔を見合わせている間に、戸がゆっくりと開いた。
「部活中にすみません。満衣香はいますか?」
戸の隙間から、見知らぬ女子生徒が顔を出した。
「村上……」
舞鶴さんが椅子から立ち上がった。
「クラスの展示の件で満衣香に用事があるので、少し借りてもいいですか?」
村上と呼ばれた少女は、迷いなく僕の顔を見て言った。どうやら僕が演劇部の部長であることを知っているらしい。
「どうぞ」
僕は自分より年下でありながら、早口ではきはきとした物言いをする村上さんの勢いに気圧され、半ば放心状態でこくこくと首を動かして頷いた。
「満衣香! 早く!」
僕の返答を聞くや否や、村上さんは舞鶴さんに向かって大きく手を振り下ろした。
対して舞鶴さんは浮かない表情をしている。
「すみません。すぐに戻りますので……」
舞鶴さんは断りを入れてから歩き出した。村上さんは舞鶴さんの手首を掴むと、そのまま二人で廊下へ出ていった。
「マイちゃんは、クラスの方でも頼りにされているのかな?」
千歳が言った。
「学校行事は、センスのある人が頼りにされがちですからね」
白鷹が答えた。
「でも、何か喧嘩してないか?」
吾妻が神妙な顔付きで言った。吾妻の言葉にみんな口を閉じ、目配せをしてから耳を澄ませた。確かに、舞鶴さんの荒っぽい声が聞こえてくる。
「話している内容までは聞こえないけど、言い合いをしているような気がするね……。ちょっと様子を見てくれば?」
千歳が僕をちらりと見た。
「オレが?」
「部長の仕事だよ」
千歳が即座に返した。
最近「部長」っていう言葉を都合がいいときに乱用していないかと思いながらも、僕は椅子から立ち上がり戸の前に立った。そこで一度耳を澄ませる。
「だからそれは無理だって、わたし最初に言ったよね?」
舞鶴さんが威圧的な口調で言った。
「忙しいのはみんな一緒。私だって美術部の活動もあるけど、委員長だからそんな我儘を言える立場ではないし、何とか頑張って両立してるの。もちろん他のみんなも同じだよ。だから麻衣香だけを特別扱いすることはできないって言ってるの!」
対して村上さんも、これまた威圧的な口調で言葉を返している。
「美術部には部員が沢山いるでしょう。演劇部は七人しかいないんだから、一人でも抜けると大変なの。それくらいわかるでしょう」
「それはどの部活も一緒だって言ってるの! 人数の多い部活は、それなりの規模の催しをするんだから、一人当たりの仕事量はどの部もさほど変わらないってば!」
「そんなこと言って、本当はわたしの邪魔をしたいだけなんでしょう! どうせクラス展示なんて誰も見ないよ。適当に手を抜けばいいじゃない! 村上だって、本当はそう思ってるんでしょう! だから模擬店の方にばかり顔を出して、クラス展示の方はわたしに押し付けてくるんでしょう!」
「何が部活よ! 何が演劇よ! あんたらなんて、ただのコスプレ集団のくせに!」
一瞬、呼吸が止まった。
廊下に流れている時間も止まったようだった。
「謝りなさいよ!」
一呼吸挟んで、舞鶴さんが叫んだ。
「は?」
「今言った言葉を訂正しなさいって言ってるの! わたしのことを悪く言うのは構わないわ! あんた、いつもそうだったもの。影でわたしの悪口を言ってたこと、ちゃんと知ってるんだからね! だけど先輩たちを悪く言うことは許さないよ! 何も知らないくせに無責任な発言をしないで!」
舞鶴さんの口調がどんどんエスカレートしていく。
「舞鶴さん……大丈夫?」
僕はようやく戸を開き、廊下を覗いた。
村上さんがはっとした表情を浮かべたかと思うと、すぐに決まり悪そうに口の端を曲げた。自分の発言を聞かれた自覚があるようだ。
「もう勝手にしなさい! クラスのみんなに何を言われても、私は知らないからね!」
吐き捨てるように言うと村上さんは一本目の角を曲がり、すぐに姿が見えなくなった。
「舞鶴さん……?」
身動き一つしない舞鶴さんに、僕は再度声を掛けた。
「すみません。ちょっと頭を冷やしてきます」
舞鶴さんが誰もいない廊下の先を見つめながら言った。
「え? どこに行くの?」
「自販機で飲み物を買ってきます」
僕は一瞬迷ってから、すぐに舞鶴さんの後を追いかけた。追い返されるかと思ったが、後ろをついて歩く僕に舞鶴さんは何も言わなかった。
僕たちは黙ったまま昇降口まで歩いた。
「何が飲みたい? 奢るよ」
自動販売機の前に着くと、僕は尻ポケットから財布を取り出し、素早く小銭を投入した。
「いえ……あの……」
「早く選ばないとお金が戻ってくる」
「それじゃあ、いちごみるくで」
僕は自動販売機のボタンを押し、出てきた紙パックを舞鶴さんに手渡した。舞鶴さんは躊躇いながらも礼を言って素直に受け取った。
僕が自動販売機の脇の壁に寄りかかると、舞鶴さんはどこにいようか迷ったのか、ふらふらとした後、結果的に僕の隣に並んだ。
「それ美味しいの?」
僕はペットボトルの蓋を開けながら舞鶴さんに訊いた。
「甘くて美味しいですよ」
舞鶴さんがストローから口を離して答えた。
「オレ、甘いものが苦手なんだよね。市販のスポーツ飲料も飲めないくらい」
僕はそう言って、お茶を一口飲んだ。
「スポーツ飲料に甘いとかあるんですか?」
「水に溶かして味の調整ができる粉末タイプのものがあるだろう。オレの場合、部活で甘さ控えめのものが推奨されていて、基準値よりも多めの水で割って薄味にして飲んでいたんだ。だからすっかりその味に慣れちゃって、ペットボトルのスポーツ飲料を飲んだときは、あまりの甘さに驚いて思わずむせ返ったよ」
何が面白かったのか、舞鶴さんがくすくすと笑った。
舞鶴さんの笑い声が止むと風の音が聞こえた。
自動販売機の傍のシャッターが開いているため、廊下には心地よい風が流れていた。
舞鶴さんは紙パックを両手で持ち、躊躇うように口をぱくぱくと動かしてから、振り絞るように声を出した。
「葉山さんは、どうしてバスケを続けないで演劇部に入ったんですか?」
そう言うと舞鶴さんは、ストローを咥えずに唇を噛み締めた。
僕はお茶を飲んで間を置いた。
「どうしてだろうね」
予感していた。いつか舞鶴さんから訊ねられるときが来るのではないかと。
「高校ではバスケ部に入らないことは、中学生のときから決めていたんだ。演劇部を選んだのは気まぐれだけど」
「気まぐれ、ですか?」
舞鶴さんのオウム返しが狭い廊下に響いた。
「声を掛けられたんだ。当時の部長から」
「高館さん、でしたっけ?」
「よく覚えてるね。笹野以外の三年生は、みんな高館さんから声を掛けられて演劇部に入部してるんだ。まさかここまで演劇に一生懸命になるとは、その頃はちっとも思っていなかったんだけどなあ……」
僕は高館さんから声を掛けられるまで、バスケットボール部以外の運動部に入るつもりでいた。とくに高校から始める人が多い硬式テニス部か弓道部あたりを狙っていた。
そんな自分が文化部を選び、ましてや部長を務めていることがあまりにも不自然で、自分自身のことなのに未だに不思議に思うときがある。
今舞鶴さんといる廊下のすぐ先にある体育館からは、シューズが床を擦るキュッという甲高い音や床がボールを弾く音、運動部ならではの掛け声が絶え間なく聞こえてくる。懐かしい音だ。
防火扉のような重たく分厚い扉を開けば、一瞬で熱気が体を包み込むことだろう。
「そろそろ部室に戻りましょうか。あまり遅くなると、みなさんに心配されそうなので」
舞鶴さんが飲み終わった紙パックをごみ箱に捨てに歩く。
僕はお茶にほとんど口を付けていなかった。まだ半分以上残っている。
「ごちそうさまでした」
丁寧に頭を下げて言うと舞鶴さんは、先に廊下を歩き始めた。
「舞鶴さん!」
僕の声に舞鶴さんが立ち止まり、首だけを回して振り返った。
「何かあったら遠慮しないで言ってくれ。力になれるかどうかは自信がないけど」
僕は舞鶴さんに何も気の利いた言葉を掛けてやれなかったことに焦り、思わず叫んだ。突然のことに驚いたのか、舞鶴さんが瞬きを繰り返した。
おそらく舞鶴さんは、過去に村上さんとの間に何かあったのだろう。そしてその何かが舞鶴さんから絵を描くことを奪ったのではないだろうか。その何かが分かれば、どうして舞鶴さんが美術部に入部しなかったのかが分かるはずだ。
だけど僕は訊けなかった。
舞鶴さんからの質問をはぐらかしておいて、自分ばかりが舞鶴さんの心を暴くことはできなかった。
「覚えておきますね」
舞鶴さんが曖昧に、だけどどこか寂しそうに笑った。
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