第5幕 第1場 グラウンドにて
五月も下旬ともなると、雲の切れ間から漏れる陽射しに熱が含まれるようになっていた。群青の空は雲のコントラストを強調させるために色を強め、積雲は風の強さを伝えるために形を変えていく。まるで幼い子がいたずらをした食卓のような空だ。空はジュースをこぼした跡のように見えるし、雲は綿飴を手で千切って散らかしたように見える。
何の変哲もない、窓越しに見上げた空に対して、こんな風に言葉が溢れてくるようになったのは、ここ最近になってからだ。
誰かに伝えるわけでもないのに、瞬きの速度で変わりゆく風景を額縁に閉じ込めるように装飾している。
教壇に立つ教師には申し訳ないが、中学時代は授業中によく居眠りをしていた。部活が生活の中心で、その時間が自分の全てだった。その代わり、座っていられる授業は体力温存の時間に充て睡眠を取ることが多かった。だから、たまにぼんやりと窓の外を見ることはあれ、真面目に授業を受けている画は、誰か他の人の夢を見ているのではないかと思うことがある。夢なのだから、自分が見ている夢だと感じてもいいはずなのに、なぜか自分事には感じられない。
学校の授業は相変わらずのつまらなさだったが、教師が黒板に打ち付けるチョークの動きは日に日に速度を増していて、大学受験の影は確かに僕の足元にも忍び寄ってきていた。クラスの雰囲気は今までのものと同じとはいかなくなっていて、梅雨入りを前に、妙に湿っぽい雰囲気が漂っていた。授業中に誰かがペンケースを床に落とすことがあれば、誰もの視線がハイエナも顔負けの速度で音の方向へと動くのだ。
休み時間になっても机から離れずにシャープペンシルを必死に走らせたり、参考書に目を通したりしているクラスメイトたちの姿は、お前も早くこっちに来いとせっつかれているようで、まだ部活に打ち込んでいる身としてはどうにも居心地が悪い。
僕はそんな彼らの姿を目にしていられず、息苦しい教室からこそこそと抜け出した。あの空間にいたら、どんなに鈍感なヤツだろうと、焦りを感じずにはいられないはずだ。あんなにもジリジリと神経を刺激してくるのだ。目を反らしたところで時間が待ってくれるわけでもないが、今はまだ部活に集中していたい。迷いは足枷になる。迷いがあると十分な力を発揮できないことは、中学時代の経験から知っている。
時間を持て余した僕は、目的もなく校舎を歩き始めた。
今日の昼休みは、笹野と千歳がそれぞれ委員会の打ち合わせがあるということで、部室には集まらないことになっていた。僕と吾妻が顔を突き合わせて弁当を食べるのは想像しなくとも不毛な空間であるとわかる。
体を少し動かしただけで上半身にはうっすらと汗が滲み、ワイシャツが素肌に張り付いてきた。それが少し鬱陶しい。重苦しい学生服の上着を脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンをいつもより一つ多く外せばいいだけなのに、気怠さが勝って手が動かない。
渡り廊下に出ると、グラウンドの隅で一人バットを振っている白鷹の姿を見つけた。
白鷹はいつものように彼のトレードマークである黒縁の眼鏡をかけていなかった。一瞬人違いかと思ったが、もう一つのトレードマークの天然パーマがその迷いを打ち消した。
「頑張ってるな、キャプテン!」
僕は口元に手をあてて即席でスピーカーを作ると、周囲に誰も人がいないのをいいことに声を張り上げた。
突然、声を掛けられた白鷹は集中力が途切れたようで、バットが宙を泳ぎ、間の抜けた音が空を切った。彼はそのまま素振りを止めると、声の出所を突き止めようと顔を振った。僕は意地悪にもう一度声を掛ける真似はせず、その姿を黙って眺めていた。
白鷹はようやく渡り廊下の柱に寄り掛かる僕に気がつくと、飼い主を見つけた犬のように顔を綻ばせて駆け寄ってきた。
「キャプテンはやめてくださいよ」
手の甲で額の汗を拭いながら白鷹が言った。照れているというよりは本当に嫌がっているように見えた。
「なんで素振りなんかしてるんだ? ポジションは投手って言ってなかったか?」
僕は数日前に、白鷹本人から聞いた話を思い出しながら訊ねた。
「打席が四番なんです。味方の援護は期待できないので、少しでもバットを振っておこうかと思いまして」
鉄棒にぶら下げていたタオルを手に取りながら白鷹が答えた。
「たかが球技大会なのに、えらく大変そうだな。わざわざコンタクトまで入れちゃって」
僕はタオルで頻りに汗を拭う白鷹に感心しながら言った。
「コンタクトは入れてませんよ。裸眼です」
白鷹が自身の目を指差した。
「軽い近視だったのか」
「近視じゃないです。眼鏡は伊達ですから」
「はあ?」
予想外の返答に、僕は思わず間抜けな声を出した。
「あれ? 言ってませんでしたっけ? 視力を落としたくないので、普段は予防のために度の入っていないブルーライトをカットしてくれるレンズの眼鏡を掛けているんです。眼鏡を掛け外しするのが面倒なので、パソコンをしていないときも掛けっぱなしにしているだけで……」
白鷹はスラックスのポケットから眼鏡ケースを取り出すと、中に入っていた黒縁の眼鏡を僕に手渡した。
僕は眼鏡のつるを掴んでレンズを覗いた。レンズの向こう側の景色はクリアなままで、確かに度は入っていなかった。
「まさか伊達だったとはなあ……」
高校で出会った白鷹とは約一年の付き合いだが、彼のトレードマークが創作されたものであったとは驚きだ。嘘をつかれていたわけではないが、すぐには飲み込めそうにない事実である。
白鷹に眼鏡を返すと、彼はそれをまたメガネケースの中に片付けた。それからタオルを鉄棒にかけると、僕から距離を取り、再びバットを振り始めた。
「ソフトボールに選抜された他のメンバーが野球未経験者ばかりだから、初戦負けが確定してるって言ってなかったか?」
僕は渡り廊下の柱に寄り掛かり、白鷹のスイングを眺めた。
さすが元野球部と手を叩いて賞賛したいくらいに白鷹のスイングは安定した重低音を鳴らしていた。これで体格にも恵まれていれば、白鷹は演劇部には入部していなかったのではないかと頭の片隅で思った。平均身長は優に越えているし決して小柄ではないが、上を目指すのであれば物足りないだろう。だが、文化部の人間にしては、仕上がっている体であることは、制服の上からでも見て取れる。
「自分もそのつもりだったんですけどね。一回戦の対戦相手の中に、絶対に負けたくないヤツがいるんです」
白鷹はスイングのタイミングに合わせ、言葉を区切りながら言った。
「もしかして因縁のライバルか?」
暇つぶしのつもりで眺めていたが、急に興味が湧いてきた。
「ライバルなんて、そんな綺麗な関係ではないですよ。そいつとは中学生のときに色々ありまして……」
風を切る鋭いスイングとは裏腹に、白鷹は語尾を萎ませ歯切れ悪く言った。
「そんな話よりも、葉山先輩の方は今年も余裕で優勝できそうですか?」
白鷹は僕の顔を見ないまま話題をすり替えた。
「さあな」
「今年も優勝したら三年連続なんですよね。そしたら葉山先輩、いよいよ伝説になっちゃいますよ」
白鷹がスイングを止めて豪快に笑った。その顔には、先程一瞬見えた気がした影は微塵も感じられない。白鷹も役者の端くれだ。これぐらいの表情なら難なく演じるだろうが……。
「たかが球技大会で、伝説も何もないだろうが……」
渡り廊下の屋根の下にいる僕には、きっと白鷹の胸に宿っている熱の温度はわからない。その熱に触れてみたいような気もするが、戸惑いが勝って僕の手は動かない。
「そんなことないですよ! そもそも一年生の時点で種目優勝しちゃったことが既にすごいんですから!」
白鷹が強い調子で言った。
「素人集団の相手に勝ったって仕方がないだろう」
一歩前に出ると、頭に光の熱がのしかかってきた。僕はすぐにまた後ろに下り日陰へ逃げた。
「わかってますよ。葉山先輩も自分も、本当はここにいるべき人間じゃないってことは……」
白鷹がスイングを止めバットを握り直した。
「肩はもう完治しているのか?」
僕の質問に、白鷹は一瞬迷ったように唇を舐めてから、
「草野球を楽しめるくらいには治ってますよ。日常生活も全く不自由ないです。肩を痛めたときにスパッと辞めましたからね」と答えた。
白鷹の言葉を掻き消すように、頭上から轟音が聞こえてきた。
音につられて空を見上げると、渡り廊下の屋根越しに飛行機が見えた。僕は目を細めながら飛行機が通過していく跡を静かに追った。
「でも寝起きはダメですね……」
白鷹が呟きながら腰に手をあて、空を見上げた。
「朝目が覚めると、自分の肩が壊れているのか壊れていないのかがわからなくなるときがあるんです。完治してから二年も経つのに……」
学生服のスラックスだと体のラインがわかりづらいため気づきにくいが、白鷹の太ももは僕のそれよりも太い。太ももで引っかかってしまうという理由でスキニーパンツが履けないらしい。
「葉山先輩って、確か弟がいますよね?」
「ああ。すっげぇー生意気な弟が一人いる。今朝もオレが少し目を離したすきにソーセージを食べやがって、取っ組み合いの喧嘩をしてきたばかりだ」
「食い意地が張っているのは葉山先輩も同じじゃないですか。似ている兄弟なんですね」
「全然似てねぇーよ。昌二はサッカー馬鹿でバスケなんて一ミリもできねぇし。何なら歩の方がよっぽどオレの弟みたいだぜ」
中学一年生の昌二よりも高校一年生の歩の方が僕と歳が近いということもあるが、歩の人懐っこい性格が幼なじみの枠を越え、家族の領域にまで踏み込んでくるのだろう。
「飯豊のヤツ、だから葉山先輩にあんなに図々しいんですね」
白鷹が顔をしかめた。
「あれはアイツの天性だ」
そのうえ笹野先輩にも馴れ馴れしいじゃないですか、と悪態を続ける。
小鳥の囀りが落ちてくる。地上の穏やかさとは裏腹に、風は少し強い。
「自分には妹がいるんですが、物静かで大人しい子なんです。人の頼みを断れなかったり何か言われても言い返せない性格をしているので、ときには友達にいいように扱われたり、いじめにあっていたり、そんな時期もありまして……」
白鷹が言いながら僕の隣に並んだ。
「そのいじめの主犯格が、絶対に負けたくないヤツの妹なんです。そいつとは野球部で一緒だったんですが、自分がエースで、そいつが控え投手だったこともあり、自分たちも良好な関係というわけではなくて……」
そこで白鷹は一度口を閉じた。このまま話を続けるかどうか迷っているようだったが、重たそうな前髪を掻き分け、額に浮かんでいる汗を拭うと口を開いた。
「あるとき自分はそいつの妹を捕まえて言ってやったんです。これからも妹をいじめるつもりなら、こっちはお前の兄ちゃんをいじめるぞって。すると、その子が泣きながら言ったんです。お兄ちゃんが試合に出られなくて可哀想だって……。妹がいじめられていたのは、自分がエースだったからなんです」
白鷹の通っていた中学校の野球部は、僕たちが住んでいる地区では強豪校で、県大会の常連だ。控え投手だった彼の実力はわからないが、もしかしたら白鷹がいなければ、陽の目を見る機会があったのかもしれない。
「自分の脅しが効いたのか、妹への嫌がらせはそこで一度おさまりました」
僕と白鷹の後ろを二人組の女子生徒が通過していく。彼女たちの笑い声が遠ざかると、白鷹は話を再開した。
どちらのものかはわからないが、バニラの甘ったるい香りが残っていた。
「肩の調子が悪くなったのは中学三年生の春でした。自分がマウンドに上がれなくなると、間もなく妹への嫌がらせが再開しました。だけど妹は、嫌がらせが再開したことを自分に黙っていました。なので自分がそのことを知ったのは、妹が不登校になり、自室に引きこもるようになってからなんです」
僕は立ったまま白鷹の話を聞いていた。澄み切った青空の下で話すには相応しいとはいえない話題だったが彼の話に耳を傾けた。
「妹は自分たち家族にずっと嘘をついていました。学校に行かないのは、誰かにいじめられているというわけではなくて、少し疲れちゃったからだと笑って話していたんです。両親も最初のうちは学校に連絡を取り、何とか原因を探ろうとしていましたが、なかなか真相には辿り着けませんでした。だから妹の言葉を信じるしかなかったんですよね。妹は学校で嫌がらせにあっていることを、家族の誰にも打ち明けてくれませんでした」
白鷹が長い息を吐いた。飛行機雲のように、長く、尾を引いた息だった。
「自分なんかよりも、妹の方がよっぽど立派な役者ですよ」
白鷹が大きく開いた口元から八重歯を見せた。くせ気味に丸まった前髪の毛先からは、まだ大量の汗が流れていた。
「妹からは真実を引き出せそうにないと悟った自分は、妹の友達に会いに行くことにしました。それで、その子から妹がいじめられていることと、いじめているヤツの名前を教えてもらい、ようやく全てを知りました。自分が、自分の立場を利用して妹を救ったつもりになっていたせいで、妹がまたいじめられたんだってことに……」
白鷹が靴の爪先で地面を掘り出した。
「妹は優しい子だから言えなかったんですよね。自分が本当のことを知ったら傷つくとでも思ったんでしょうね……」
白鷹は足の動きを止めない。地面の穴が少しずつ深くなっていく。
「自分はマウンドに立てなくなった運命を呪いました。自分のため以上に、妹のために、エースという存在でありたかったんです」
ようやく白鷹が顎先を持ち上げ、空高く、遠くを見つめた。
「誰に対しても平等で優しい妹の前で、尊敬できるお兄ちゃんを、ずっとずっと演じていたかったんです」
僕も同じように遠くを見つめた。今日は一段と空気が澄んでいるため、山の形を作っている木々の一本一本の輪郭まではっきりと見える。
白鷹の強く握り締められている手に、血管の筋が浮き上がっていた。その手は埃っぽい部屋の中で、パソコンのキーボードを打つにはなんとも不釣り合いだ。
「自分は情けない兄です……」
その言葉を邪魔するように、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
今の僕には学生服は少し重すぎた。僕も白鷹のように上着を脱いでワイシャツ姿になりたくなった。
「今日から歩が部活に参加することになっているんだ。よろしく頼むな、先輩」
僕は白鷹の返事を聞かないうちに、自分の教室へと向かって歩き出した。
初夏の足音が聞こえ始めてきた日の、ずいぶんと長い昼休みだった。
「赤点回避しました!」
最後に答案用紙が返却された教科が鬼門の英語だったという白鷹が、決して自慢できない点数だというのに、恥ずかしげもなく堂々と答案用紙を掲げて見せた。答案用紙の右上にデカデカと書かれている「42点」が踊っている。「2」の横棒なんて勢いのあまり斜め上に跳ね上がっている。白鷹のクラスを担当している英語教師は僕や笹野と同じ小見先生だったはずだ。
「頑張ったねー」
答案用紙を手に取った千歳が褒めると、
「せっかく俺が教えたんだから、もう少し点数取れよな」
ここのニアミスもったいねえーなー、と吾妻が溜め息を吐いた。
「笹野先輩が教えてくれていたら、もっといい点数が取れたとおも、って冗談ですよ! 冗談!」
白鷹が言葉を途中で飲み込んだ理由は、言わずもながら吾妻が睨みを効かせたからだ。過去に本人の知らないところで、笹野を教師役にしようかと検討したこともあるが、白鷹が笹野の顔ばかり見て勉強にならないだろうという意見になり採用を見送っていた。
「おれも赤点ゼロだった!」
満面の笑みを浮かべた飯豊が、机の上に答案用紙の束を並べた。
「うわ! 全教科赤点ギリギリ回避じゃねえか!」
吾妻が大声を張り上げた。
「これはある意味天才だね」
千歳も興味津々で覗き込んでいる。僕も気になり見下ろした。見事に赤点の一点、もしくは二点を上回っている。彼の勝負強さが垣間見えているようだ。
「採点ミスがあったら赤点になる可能性があるが、これだけ点数が低いと、採点ミスも起こらないか……」
吾妻が唸った。
「頭の良い友達に山を張ってもらって、そこだけ丸暗記しました!」
「普通は自分で山を張るんだけどな。その友達、一生大事にしろよ」
「はい!」
歩が深く頷いた。
「アユは文系と理系、どっちに進むつもりなの?」
千歳が訊ねた。おそらくどの教科もどっこいだったからだろう。同じ成績がいまいち振るわない組でも、僕は文系科目、白鷹は理系科目がまだ得意ということもあり、文理の選択には迷いがなかった。
「数学が大嫌いなので文系に進むつもりです!」
歩が堂々と答えた。
「理由がゴミみたいだな」
吾妻の眉間のシワが深くなった。それからチラリと僕を見た。僕はその視線を無視した。二年前、僕が歩と同じ台詞を口にしたことを覚えているのだろう。相変わらず記憶力が機械みたいな野郎だ。
「タカさんは理系なんですよね。意外です」
歩が口を縦にした。白鷹は機械に強いこともあり、彼が理系であることに疑問を感じたことがなかったが、おそらく歩は勉強が苦手な人は文系に進む人が多いと思い込んでいるのだろう。
「自分も葉山先輩も確かに勉強はできない方ですけど、さすがに飯豊と同じグループにはしてほしくないですね。それに、数学はできる方ですし。とはいえ、笹野先輩と同じクラスになれる可能性があるのなら、何が何でも文系に進みましたけどね」
白鷹が腕を組みながら言った。
「だったら英語、もう少し頑張れよ」
吾妻がすかさず言った。
「マイちゃんは文理の選択、決まってるの?」
千歳が今度は舞鶴さんに話を振った。
「満衣香も文系に進む予定です」
舞鶴さんは、苦手だという物理以外はすべて平均点を上回っているそうだ。
「そうか。二人とも文系なら、来年は同じクラスになる可能性があるわけだ」
僕が言うと、
「同じクラスの方が色々便利だし、そうなると助かるな。俺らの代も、ケータが同じクラスだったらもっと楽だったんだけどな」
吾妻が頭の後ろで腕を組んだ。おそらく文系よりも理系の方が上だと思っての発言だろう。
「いや。一日中、顔を突き合わせるのは嫌だろう」
僕が息を吐くと、
「確かにそうだな」
吾妻が黙った。
一年生のときは、僕と吾妻が同じクラスだったが、互いに違う友人と行動していたし恩恵を感じたことはない。そのことを思い出したのだろう。
僕はスマートフォンで予定を確認してから立ち上がった。
「これからオレは、生徒会室でステージの使用順番を決める抽選会に行ってくるから、部活の進行は千歳に任せる。オレが戻ってくるまで、いつもどおり立ち稽古をしていてくれ」
千歳の肩をぽん、と叩いた。
「もう、そんな時期かあ。頑張ってきてね」
千歳が笑顔で言った。
「くじ引きに頑張るも何もないだろう……」
「トップバッターを引いてこいよ」
吾妻が命令口調で言った。
「自分はトリがいいです!」
白鷹が吾妻に対抗した。
「見事に意見が分かれたね。梅ちゃんはどっちがいい?」
千歳が面白がって、笹野に話を振った。
「そんなのどっちでもいいわよ。舞台に立っている時間は変わらないわけだし……」
笹野が涼しい顔で答えた。
「何を言ってるんですか! 先輩たちは舞台が終わったら引退してしまうわけじゃないですか。笹野先輩と一緒にいられる時間は一分でも長い方がいいです!」
「俺はやらなくちゃいけないことは、さっさと終わらせたい性分なんだ」
吾妻が白鷹の声の上から被せて言った。
「それに主役は、ラストを飾る方が相応しいですよ」と白鷹が口先を尖らせた。
「おれもそう思います!」
歩が手を挙げ、白鷹に加勢した。
「好き勝手に言いやがって……」
僕は無責任な部員たちのやり取りに、堪らず呆れ声を漏らした。
「だから、順番はくじ引きで決まるって言ってるだろう。ここで揉めても全く意味がないぞ。喋っていないで、しっかり練習して待ってろよ」
論争を続ける部員たちを尻目に、これ以上は付き合いきれないと割り切り、僕はようやく部室を後にした。
生徒会主催のステージ発表の順番を決める抽選会は一時間もかからずに終わった。
部室に戻ると、部員たちは僕の言いつけ通りに立ち稽古をしていた。くじ引きの結果がよほど気になるのか、部室に入るなり稽古を中断して僕を取り囲んだ。
「おかえりって、どうかしたの? ケイタ、顔が真っ青だよ?」
千歳が心配そうに眉を下げ、僕の顔を覗き込んできた。
「大変なことになった……」
自分が思っている以上に動揺しているようだ。足元がふらつき、
「大丈夫ですか!」
白鷹が驚いた声を上げながら、僕の肩を掴んだ。
生徒会室は特別教室棟の一階にある。同じ棟の三階にある演劇部の部室まで大した距離もないのに、戻ってくるまでに三回ほど躓きかけている。
「今年からステージの使用時間が、一団体に付き最長三十分に変更になった」
「それだと二十五分も足りないじゃないかっ!」
千歳が悲鳴に似た声を出した。
「一体どういうことなんだ?」
一方、吾妻は冷静な口調で訊ねてきた。
「なぜか今年はバンド演奏をしたい生徒が例年よりも多くて出場団体数が激増したそうだ。希望者全員をステージに上げるには、一団体の持ち時間を短縮するしかないそうだ」
僕は先ほど生徒会の役員から告げられた内容を、できるだけ一言一句違わないよう記憶を手繰り寄せながら口に出した。
「バンド演奏って、どうせコピーバンドだろう。こっちは部活なんだぞ。モテたいヤツらのお遊びに付き合う必要があるかよ」
吾妻が盛大な舌打ちを鳴らした。
「うちの文化祭、ステージ発表は毎年あまり盛り上がらないのに……」
千歳が残念そうに呟いた。
千歳の言うとおり、ステージ発表が行われる体育館は教室棟で催される出店エリアから離れていることもあり、例年あまり盛り上がらない。エントリーするのは文化部と、お笑い芸人を目指して漫才を披露する変わり者ぐらいのものだった。
「満衣香が去年、文化祭に遊びに来たときは、確かに体育館には行きませんでした」
舞鶴さんが顎に手を当てながら答えた。
「へえ。マイマイ、文化祭に来てたんのか」
吾妻が口を挟んだ。
「はい。三年生の春には志望校が決まっていたので」
「アユアユは来なかったのか?」
吾妻が今度は歩の方に顔を向けた。
「おれはその時期は、受験勉強でそれどころじゃなかったんで……」
歩が自身の肩を抱くと、苦虫を潰したような顔をした。
「勉強、頑張ったんだね」
千歳が褒めると、
「塾の先生から、受験日まで一日でも遊んだら落ちると思えって脅されていたもんで……」
歩は、高校に受かった今でさえも落ちる夢を見ることがあるよ、と体を震わせた。
「発表時間が短縮になるのは、吹奏楽部も同じなの?」
千歳が話を本題に戻した。
「ああ。例に漏れずってところだ」
僕はプリントを千歳に渡した。千歳はそれを受け取ると、すぐに目を通し始めた。
「文化部の顧問の先生たちで、生徒会を説得してくれないかな?」
千歳がプリントから目を上げた。
「無理だろう。少なくともうちの顧問は、クマちゃんなんだぜ」
隣に座っている吾妻が首を横に振った。
「熊野先生って、本当に顧問なんですか? 部活に全然顔出さないじゃないですか?」
歩が口先を尖らせた。
「クマちゃん先生は雑務で忙しいからね」
僕たち三年生は、熊野先生とは二年の付き合いだ。千歳がすかさずフォローした。
「それにしても、せめて週に一度ぐらいは部活に出てくれてもよくないですか? 副顧問もいないのに……」
歩が今度は頬を膨らませた。それは不満があるときにする仕草で、彼の幼い頃からの悪癖だ。
「こんな部活に副顧問が着くわけないだろう」
吾妻が呆れたように溜め息を吐いた。
「あんな状態だった演劇部の顧問を引き受けてくれただけでもありがたく思わないと」
千歳が諭した。
「そうだぞ。部活の顧問なんて所詮ボランティアだ。いや、遠征の多い運動部なんて車のガソリン代でむしろ赤字だという話も聞く。部活が趣味でもない限り、よほどの暇人か変わり者でないとまともにやっていられないだろう。むしろクマちゃんくらい無責任で非協力的な方が人としてよっぽど信用できる」
なるほど、と歩が頷いた。さすが吾妻さん、と舞鶴さんも蕩けている。
「今から脚本を書き変えるのか……」
僕は事態の深刻さに頭を抱えた。
「それよりも発表の順番はどうなったのよ?」
笹野が思い出したように訊ねてきた。そうでしたね、と白鷹が続いた。
「ラストの一つ前だ」
「これまた中途半端だな。どうせならトリにしろよ」
随分と勝手なことを言う吾妻が眉を中央に寄せた。
「くじ引きなんだから仕方ないだろう。ど真ん中よりはマシだと思ってもらいたいね!」
堪らず言い返す。
「それで、輝かしきトリを務めるのはどこのグループになったんだ?」
吾妻が厭味ったらしい言い方で訊ねた。
「吹奏楽部だ」
これまた入れ替え時間が掛かりそうだね、と千歳が困惑気味に呟いた。
「さすが葉山先輩! 精一杯盛り上げましょうね!」
トリを希望していた白鷹はこの結果でも満足しているらしい。一人嬉々とした表情を浮かべている。
「ああ……」
僕は新たに発生した問題を前に、力のない言葉を返すのが精一杯だった。
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