第4幕 第4場 公園にて
五日間に渡って実施される中間試験がようやく終わりを迎えた。教室のあちらこちらでは、達成感から溢れた溜め息と、後悔から溢れた溜め息と、悔しさから溢れた溜め息が、寄せ鍋のように混ざり合っていた。
三年生に進級して初めての試験ということもあり、いくら大学受験に後ろ向きであろうと、今までの試験とは一味も二味も違っているということが、同級生たちが放っている空気から感じとれた。
一週間ぶりの部室は、いつもよりも埃っぽい。室内に入るなり、全ての窓を全開にして部屋の中に風を通していく。
穏やかな風が頬を撫で、徹夜続きで腫れぼったくなっている目を冷ましていく。しばらく窓辺に立って風にあたっていると、部員たちが次々にやってきた。
「ようやく中間テストが終わり、中には徹夜組もいるだろうし、今日はゆっくり休んでくれと言いたいところなんだが……」
僕はそこまで言ったところで一度唇を休め、教室をぐるりと見渡した。クラスや学年が違う部員たちとは久しぶりに顔を合わせる。さすがにこの短期間で人相が変わったヤツはいないが、
「文化祭まで残すこと、あと五十日。そういうわけにもいかないよな」
僕の言葉に、
「自分は、頭が瀕死状態です……」
机に顔を突っ伏していた白鷹が掠れた声を漏らした。彼はすっかりやつれていた。今日はノートパソコンを開く元気もないらしい。部室に来ただけ褒めてやるかと思いながら、天然パーマの後頭部を見つめた。
「この学校、試験範囲が広すぎだよ……」
今度は歩が肩から机に倒れ込んだ。新入生が最初の定期テストで疲労困憊する姿は我が校の風物詩であり、通過儀礼でもある。二年前の自分も口にした歩の台詞に懐かしさを感じながら、屍と化した歩を見つめた。
「マイちゃんは平気そうだね」
千歳が舞鶴さんに話を振った。
「いやいや、くたくたですよ。ここ数日間、何粒ラムネを食べたかわからないです」
太ってないといいですけど、と舞鶴さんが顔の前で手を振った。
「タカさんは二年生なのに、まだ試験に慣れていないんですかあ……?」
歩が顔を横にしたまま白鷹に問いかけた。
「うっせえ。二年生になったら、さらに試験範囲が広くなるんだよ」
白鷹が顔を机に突っ伏したまま答えた。
「嘘ですよね?」
歩が千歳と吾妻の方に顔を向けた。
「嘘じゃないよ。学年が上がるにつれて、試験範囲は広くなっていくよ」
千歳が涼しい顔で答えた。
「計画的に勉強すればいいだけの話だ。それに大学受験になったら、試験範囲がどうのこうのなんて甘ったるいことは言っていられねえぞ」
続いて吾妻も容赦なくビシッと言い切った。
「おれ、絶対に入る高校を間違えた……」
高校に入学してまだ一ヶ月だというのに、早くも後悔している歩は、捨てられた子犬のように目を震わせた。
「雑談はそこまで。休み明けの部活ということで、今日は鈍った体を動かすために、立ち稽古に集中するぞ」
男女で交代しながら部室でジャージに着替えると、特別教室棟の二階から三階にかけて走り、体を温める。その後部室に戻り、軽めのストレッチをしてから立ち稽古へと入っていく。
「遅くなったが、何とか脚本が書き上がった。それを今から配る」
僕は昼休みに職員室で印刷して貰った台本を取り出した。五十五分の劇ということもあり、なかなかの厚さになった。顧問の熊野先生が苦笑いしたのは言うまでもない。
「本当か!」
吾妻が逸早く反応した。定期試験があろうと徹夜をしない主義の彼は体調が万全のようだ。
葉山先輩の鬼ー、という白鷹の叫びを無視して、僕は一人、一人に台本を手渡した。全員に配り終えたところで再び口を開いた。
「今日は、ひとまず日本語で練習するぞ」
台本を開いた千歳の目が大きく見開かれた。千歳の隣に座る吾妻が、僕に何か言いたげな視線を寄越した。遅れて笹野も僕を一瞥した。僕は部員たちの好奇な視線を無視して、
「まずは、ピンクの付箋が貼ってあるマキューシオとティボルトの決闘シーンから」
始まりの合図に手を打った。
白鷹が不安そうな眼差しを僕に向ける。僕はそのことに気づかないふりをして、演技が始まるのを静かに待った。
『ああ、なんて恥っかきな、みっともないご機嫌取りだ!』
笹野が声を張り上げた。
『貴様は、また俺にどうしようっていうんだ?』
絶妙なタイミングで吾妻が続く。
「あの……これは、一体どういうことですか?」
僕の隣に立っている舞鶴さんが、演技の邪魔をしないようにと配慮してか、小声で訊ねてきた。
「脚本にメモを挟んでおいたんだ」
僕は二人の演技から目を逸らさないまま言葉を返した。
「……メモですか?」
舞鶴さんがさらに小声で囁いた。
「笹野にはマキューシオ、吾妻にはティボルト、白鷹にはジュリエット。そして千歳にはロミオと書いておいた」
「それって、つまり……」
僕の意図に勘付いたのか、目をかっと見開いた舞鶴さんが声を漏らす。
「今日の配役だ」
そこで、ようやく舞鶴さんは口を閉じた。
吾妻と笹野の掛け合いのシーンが終わった。
「それじゃあ、次はロミオとジュリエットが出会うシーン」
バルコニーに立つジュリエットが密かに愛を歌う場面である。
ジュリエットを演じる白鷹の声が、ところどころ裏返る。彼なりに頑張っているようだが、高い声がすんなり出てこないらしい。息苦しそうに言葉を紡ぐ。
舞鶴さんは笑いを堪えるのに必死な様子で、鼻の穴と頬が交互に膨らんでいる。一方辛抱できなくなったのか、吾妻が遠慮なく笑い出した。悲鳴にも近い声を上げ、腹を抱えて笑う。吾妻の隣に立つ笹野が、彼の背中を叩いて何とか黙らせようと努力している。意外なことに歩は、笑うことなく驚いた表情で白鷹を見ていた。
白鷹の顔がみるみる真っ赤になっていく。それでも真面目に台詞を口にする。おそらく彼は、僕が配役をシャッフルした意図を理解している。そうでもなければ、大人しく演技を続けていないだろう。
さあ、いよいよ、ロミオの登場だ。
みんなが無意識のうちに唾を呑み込み、静かに喉を鳴らした。
千歳が顔を上げ、台詞を読み上げる。あの夜の日と同じように口を縦に開き、芯の通った声でジュリエットへの愛を囁く。
部員たちの目が、まるで花が開くように広がった。
そうだ、それでいい。
僕は、心の中で深々と頷いた。
誰かに魅了されたとき、人は目を見開く。目は言葉以上に真実を語る。そこに嘘はない。
千歳はのびのびと演技をしていた。誰の目も気にせず、誰の存在も気にせず、役になりきっていた。
なあ、千歳。
僕は口を閉じたまま、彼に語りかけた。
不安を感じないヤツなんて誰もいない。みんな心のどこかで静かに願っている。本当の自分を受け入れてくれる人を望んでいる。だから僕たちは、ときどき相手の距離を測るように接する。どこまでが許されて、どこからが許されないのか迷いながら接する。だけど勇気を出して本当の自分を曝け出したら、その自分を許してくれる誰かに出会える可能性が生まれる。今千歳の周りにいる人たちは、みんな千歳のことを許してくれるヤツらばかりだ。千歳が不安に思うことは何一つない。だから演じてみせろ。ノンフィックションの千歳を。僕たちが受け入れてやるから。
白鷹と千歳の掛け合いが終わった。一瞬、静まり返ってから、
「どうしたんだよ、ヤス! 完璧じゃないか!」
吾妻が満面の笑みを浮かべ、千歳の背中を平手で叩いた。吾妻はすっかり興奮しているのか、力の加減がわかっていないようで、千歳が痛みに顔を歪めている。一方、笹野は胸の前で小さく拍手した。はっとした表情を浮かべた舞鶴さんも、彼女を見習うように後に続いた。
千歳はさり気なく自身の肩から吾妻の手を外し、苦笑してから、
「ケイタと秘密の特訓をしたからね」
僕に左目を閉じて見せた。よく見ると口元が緩んでいる。おそらくあの日、僕が演じたジュリエットを思い出しているに違いない。
「秘密の特訓って、一体何だよ?」
吾妻が千歳から離れ、僕の方に近づいてきた。
「吾妻に教えるわけがないだろう」
ぶっきらぼうに言葉を投げても、吾妻が素直に引くわけがない。すかさず僕の首に腕を絡めてきた。
誰が言うものか。役者を辞めた僕が、事もあろうか、初々しい恋に焦がれるジュリエットを演じたなんて。
僕は何とか吾妻の腕から抜け出すと、身代りに白鷹の体を押しつけた。驚いた白鷹が、ぎゃっと短い悲鳴を上げた。吾妻にぶつかるすんでのところで、何とかその場で踏ん張った白鷹は、僕の真似をするように、歩の体を吾妻へと押しつけた。
「あのさ……」
吾妻たちの喧騒を気にせず、千歳が声を出した。動画の一時停止のように、彼らは瞬時に静かになった。
千歳は笹野の前に移動すると、
「今日から笹野さんのこと、ウメちゃんって呼んでもいいかな?」
「えっ……」
笹野が驚いた声を漏らした。
「実はさ、ずっと前から笹野さんのことを名前で呼びたいと思ってたんだよね。でもすっかりタイミングを逃しちゃって……。気づいたら、もう三年生になっちゃった」
千歳が困ったように頭の後ろに手を当てた。それから気持ちを入れ替えるように顔を引き締めると、
「ケイタにシズオ、コウジにアユ、それからマイちゃん」
部員たちの名前を順に呼んだ。
「だから笹野さんはウメちゃん。どうかな?」
千歳が顔を傾げた。笹野は突然のことにまだ気持ちの整理がついていないのか、困惑した表情を浮かべている。
「ウメちゃんって、ババアみたいだな」
吾妻が鼻で笑った。笹野が肘で吾妻の腹を刺した後、
「いいわよ。千歳なら……」
笹野は気恥ずかしいのか、目を伏せながら言った。すぐに肩越しの髪で表情が隠れてしまったが、強張っている肩が、彼女の不器用な心情を不器用に伝えていた。
「本当に? 嬉しいなあ。改めてよろしくね、ウメちゃん」
千歳が白い歯を出して笑った。
「オレたちもよろしくな、ウメちゃん」
「頼むぜ、ウメちゃん」
僕と吾妻が後に続くと、
「許したのは千歳だけよ! 葉山と吾妻は、絶対に許可しないからねっ!」
笹野が両手に作った拳を振り下ろしながら叫んだ。
活動を始めてから一時間が過ぎたところで小休憩を挟んだ。
僕は自販機で飲み物を買うために、体育館の方へ足を運んだ。五時限目の体育で思い切り体を動かしすぎたせいで、昼休みに買ったペットボトルは空になっていた。
自販機の前に着くと、先に部室を出ていた千歳が立っていた。
「お疲れさま」
そう言うと千歳は、僕にペットボトルのお茶を手渡した。僕がよく飲むメーカーのものだった。
「千歳の奢りか?」
「頑張り屋の部長に、せめてもの感謝の気持ちを込めてね。安くて悪いけど」
千歳が苦笑した。
「ありがたく頂戴するぞ」
僕は遠慮せず受け取ることにして、ペットボトルを縦に二、三度振ってから蓋を開けた。
僕と千歳は、自販機の傍にあるシャッターが開いているのをいいことに、内履きのまま校舎の外に出た。
湊高校のグラウンドは二面ある。校舎に対して手前にある第一グラウンドでは野球部がノックの練習をしており、絶え間なく掛け声が続いている。一方、奥側にある第二グラウンドでは、西側ではサッカー部が、東側ではラグビー部がそれぞれ活動している姿が小さく見える。
この高校の野球部は、運動部の中で唯一あらゆることが優遇されている。その一例として、第一グラウンドは野球部専用になっている。
どちらが言い出したというわけでもなく、自然と第一グラウンドの脇道を歩いた。
「さっきの笹野の件、正直びっくりしたぞ」
僕は笹野の驚いた表情を思い出しながら言った。普段、無愛想な顔をしていることが多い彼女にしては、滅多に見られない顔だった。
「そうかな? 苗字呼びだとさ、どうしても距離を感じるでしょう。笹野さんにだけ壁を作っているみたいで嫌だったんだ。それに、ケイタが言ってたことを信じてみようかなって思ってさ」
千歳はそこで一度言葉を区切ると、
「おれのこと、もっと知りたくなった?」
腰を曲げて僕の顔を覗き込んできた。目も口も曲線を描いており、からかわれているのだと気づいた。
「お前なあ……。いい性格してるぜ」
思わず顔を反らすと、
「それはどうも」
千歳がふふっと笑い声を漏らした。
野球部がノックの練習を始め、掛け声が空に響く。
「僕は家だと普通に我儘を言うし、気に入らないことがあれば文句も言う。弟たちとは年が離れているから一人っ子だった期間が長いし、欲しいものは大抵何でも買ってもらえて、両親から甘やかされて育てられた自覚もある。弟たちの前では威厳を保つために、わざと乱暴な言葉遣いをして格好つけるし、目の前で二人が喧嘩を始めようものなら、言葉で言っても止まらないときは手が出るときだってある。本当の僕は、大人たちから褒められるような優等生なんかじゃないんだ」
千歳がくるりと体を回転させた。腰の位置で手を組み、再び歩き始める。
「千歳って、何人兄妹だっけ?」
千歳の口からは、幼稚園に通っている妹の話ばかり聞かされることが多いため、弟が二人もいたことをすっかり忘れていた。
「僕を入れて四人だよ。弟が二人に、妹が一人。弟はどっちもまだ小学生だから、ゲームの取り合いで喧嘩して、お菓子の取り合いで喧嘩して、とにかく毎日喧嘩してるよ」
千歳が顔だけ振り返って答えた。
「男兄弟なんて、どこもそんなもんだろう。オレなんか三歳下の弟としょっちゅう掴み合いの喧嘩してるぜ。でも千歳がビシッと怒る姿、この目で見てみたいもんだな」
千歳の意外な一面を見ているとはいえ、上手く想像ができない。
「普通だよ、普通。ケイタがシズオを怒るときとそうかわらないって。見世物じゃないよ」
千歳が笑う。僕はこの顔が見たかったんだ、とようやく気づいた。
野球部の活動しているグラウンドの脇を通り過ぎ、テニスコートの方まで進んだところで、千歳が話を切り出した。
「ケイタ。一つ訊いてもいいかな?」
「何だ?」
僕はペットボトルの飲み口から唇を離して訊き返した。
「どうしてケイタは、ウメちゃんを舞台に上げることにあそこまで拘ったの? 今までのケイタだったら簡単に諦めてたはずだ」
千歳が珍しく、はっきりとした口調で言い切った。
「やっぱりその「ウメちゃん」呼び、やめないか? 聞かされている方が慣れねえや。笹野との距離を縮めたいんなら、千歳もオレたちみたいに『笹野』って呼び捨てにすればいいだろう?」
「女性を呼び捨てにするのは、僕のポリシーに反するよ」
「千歳は紳士だな。まあ、そんなことは今はどうでもいいか。副部長の千歳だからこそ話すが、他のヤツらには絶対に黙っていろよ」
僕はお茶をまた一口飲み、一度気持ちの波を沈めてから言葉を浮かせた。
「今回の演目は、どうしても『ロミオとジュリエット』にしたかった。理由は前にも言ったとおり、演劇を全く知らない人たちを相手に、一人でも多くの人に見てもらうことを考えたとき、身近で人気のある物語にすべきだと思ったからだ」
僕は千歳の目を見つめて言葉を続けた。
「そして何の奇跡か、ロミオに本気で恋をしている女の子が部員の中にいる」
僕が、笹野が吾妻に好意を寄せていることに気がつけたのは、演出家や脚本家を担うようになったからだろう。以前の自分だったら、他人の感情に興味を持てず、理解しようという考えにさえ至っていなかったはずだ。
『本気で演劇に関わりたいなら、人間を観察しなさい』
二年前、当時の部長だった高館さんのアドバイスを受けてから僕は変わった。指先や視線にも感情があることを知った。言葉や態度以外にも感情が宿ることを知った。
「最高の適役じゃないか、とオレは思った」
笹野の心に宿り始めた吾妻への恋心に気がついたとき、心の底から面白いと思った。これを演劇に利用したらどうなるんだろうと思った。
「それと同時に、オレは最低な演出で脚本家だと思った」
自身の性格の悪さは自覚している。自覚しているからいいというものでもないが、開き直るには十分だった。そして何よりも好奇心には抗えなかった。
「今のオレたちが何よりも優先すべきことは、演劇部を後世に残すことだ。オレが最低なクソ野郎に成り下がることでそれが達成できるなら、落ちるところまで落ちてやろうと覚悟した」
吾妻には、僕のつまらない思考は見抜かれているだろう。
理由までは知らないが、吾妻は彼女を作らない主義だ。そんな彼が、特定の女子と近い距離になることを拒むのは無理もない。警戒心が強い分、察し能力も高いとみえる。
「演劇部の部長であるこのオレが、演技が真実を超えられるわけがないって、演劇を全否定しているんだ」
グラウンドから怒声が飛んでくる。その後に、綺麗に揃った返事が追いかける。さすが野球部の統制力だ。
僕たち演劇部は、野球部のように胃の中のものを全て吐き出すような過酷なトレーニングを積み重ねてきたわけではないし、吹奏楽部のように他人と呼吸を合わせるための協調性を培ってきたわけでもない。僕たちを強く結びつけているのは、皮肉なことに因縁だ。演劇部を崩壊させたあの忌まわしき事件こそが、僕たち三年生を結託させている。
「素直に話してくれてありがとう」
千歳が白い歯を見せて言った。
「これでも散々悩んだ。千歳のことも考えたし、白鷹のこともあったし……」
ここ数か月間の葛藤を思い出し、やはり今でもこの決断に確信を持てない自分がいることに気づく。千歳をヒロイン役から下ろすことは苦渋の選択だった。
「大丈夫。ケイタの判断は間違ってないよ」
僕の心の中を見透かしたかのように、千歳がやさしい声色で言った。
「こんなことを言うと千歳は怒るかもしれないけど、千歳のジュリエット姿も観たかったなあって後悔してるんだ」
「何を言ってるんだよ! ウメちゃんの方がずっと適役だろう!」
千歳が僕の背中を叩いた。意外と痛い。体を上に伸ばすと背中に痺れが走った。
「女装した千歳は、正直そこらの女子よりも可愛いからな」
僕はもう一発叩かれる覚悟で言った。
「別に、僕は楽しんで女装をしていたわけではないからね!」
千歳の顔が真っ赤になる。よく見ると、耳の先まで赤く色づいている。彼の背景にある夕焼けの差し色と区別がつかない。
「わかってるって」
僕の言葉を信用していないのか、千歳の目が据わっている。
「千歳の存在には、いつも救われていたんだ。千歳が女役を引き受けてくれることで、書きたいと思う脚本を自由に書くことができたんだから。それと、オレは当て書きをすることが多いんだが、そのことで困ったことは一度もなかったからな」
「それは素直に喜んでもいいのかな」
千歳がいじけたように、口をへの字に曲げた。
「ああ、とびきりの褒め言葉だ。素直に受け取ってくれ」
僕も千歳も手に持っているペットボトルの中身が空になり、どちらもともなく校舎の方へ歩き始めた。
背負った夕焼けは、僕たちが前のめりに転ばないように、優しく背中を押していた。
後半の活動も終えると、演劇部の顧問である熊野先生に部誌を提出するため、特別教室棟の一階にある職員室を訪れた。
熊野先生は演劇部の顧問を担当して今年で二年目になる。着任時から部活に非協力的な姿勢は変わらず、責任者として名前を借りているだけの状態だ。
熊野先生に限らず、部活動に積極的な先生は少ない。仮にも進学校ということもあり、校風としても部活動に積極的な方ではない。だから何も自分たちだけが面白くない思いをしているわけではない。
職員室の戸を開くと、最後の授業から何時間も経っているというのに、多くの先生たちの姿があった。
「熊野先生。お疲れさまです」
机に覆いかぶさるような猫背に声を掛けると、
「おお、葉山か。文化祭の準備は順調か?」
テストの採点をしていたらしい熊野先生が手を止め、顔を上げた。
「気になるなら部活に顔を出して下さいよ。階段を二フロア上がるだけじゃないですか」
そう言って部誌を差し出す。
部誌は週に一度提出することになっており、そのこともあってか、熊野先生はなかなか部室まで足を運ばない。熊野先生が毎日部活に顔を出してくれていれば、部誌に書く内容ももう少し手を抜けるのだが。
「この歳になると、二フロア上がるだけでも気合が必要なんだ」
「この歳って、熊野先生はまだ二十代じゃないですか!」
熊野先生の正確な年齢は知らないが、童顔なこともあり、服装によっては大学生に見えることもある。たまに保護者からは、生徒と間違えられることもある。
「それよりも、本当に演目は『ロミオとジュリエット』でいくのか?」
熊野先生が赤色のペンを机に置き、椅子を回転させて僕の方に体を向けた。
「色々と考えた結果です」
「でもジュリエットは千歳が演じるんだろう? 千歳の演技力は申し分ないが、キャストの字面が強いよな。ジュリエットの隣に『千歳恭典』が並ぶと思うとさ……」
熊野先生は自分で言いながら噴き出した。熊野先生は、高校生とあまり変わらない表情で笑う。
「ところが、ジュリエット役は笹野です。千歳にはマキューシオを演じてもらいます」
僕は意識的に胸を張り、得意気な表情を作った。
「あの笹野がジュリエット……? よく承諾したなあ……」
熊野先生が目を丸め、驚きの声を漏らした。大人の間の抜けた表情を目の当たりにして少しだけ愉快になる。自分の筋書き通りに物事が進んでいくのが面白い。
「笹野を説得するのに苦労しましたよ」
「それで千歳は男役なのか。だけど、本当にこの配役で大丈夫か?」
熊野先生が怪訝そうに眉を歪ませた。
「大丈夫ですよ。笹野も千歳も変わろうとしていますから。熊野先生も生徒を見習って、いい加減変わってくださいよ。いつまでも職員室に籠っていないで、たまには部室に顔を出してください」
「無茶を言うな。俺は若手だからっていう理由で、周りから仕事を押しつけられて忙しいんだぞ」
熊野先生が頭の横で手を振った。熊野先生の机には資料が幾つも積み重なっており、確かに忙しそうではある。
「驚きますよ。今回のオレたちは、今までとは一味違いますから」
僕が力こぶを見せようとした瞬間、
「熊野先生」
いつの間にか、背後に牛渡先生が立っていた。身長は僕よりも低いが、横幅も僕の倍ほどある。学生時代は柔道に打ち込んでいたという経歴に嘘はなく、少し、いや多くの贅肉がついているとはいえ、がっしりとした体型をしている。
「次の会議までに、この資料に目を通しておいてもらえますか?」
牛渡先生は、僕が熊野先生と会話中であることを気にも留めず、話に割って入ってきた。
「はい」
熊野先生の方も僕に一歩下がっていろと目で訴えると、身を低くして牛渡先生に応じた。僕は体の後ろで手を組み、そのまま牛渡先生がいなくなるのを待つことにした。
「会議で使用するので、参加者の人数分のコピーもお願いしますね」
「わかりました」
熊野先生が無意味に頭を何度もペコペコと下げる。牛渡先生はその様子を冷静に眺めていた。
「それと、わざわざ言わなくてもわかっているかとは思いますが、前回のような過ちは勘弁してくださいね」
牛渡先生が声を低くして言った。背中でも撫でられたかのように、熊野先生の体がぶるりと震えた。
用件が一段落したかと思っていると、牛渡先生が肉の乗った瞼を持ち上げ、僕を一瞥した。
「葉山は受験生なのに、ずいぶんと余裕みたいだな」
どうやら熊野先生から僕に的が移ったらしい。牛渡先生の窪んだ目が、ねっとりと僕を撫で回し始める。
「まだ部活を引退していないものなので……」
僕は牛渡先生の目から反らしながら答えた。
「今年の文化祭も何かやるのか?」
僕は自分の置かれている状況を理解し、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「やりますよ。とはいっても、こちとら演劇部なので、何かと言われましても演劇しかできませんが」
頭の中で、筆がスラスラと動いた。
「演劇部も今年で最後みたいだし、ほどほどに頑張れよ」
牛渡先生が一言一句、力を込めて口にする。とても下手な芝居だった。
「応援ありがとうございます」
僕は爽やかな笑顔を顔に貼り付けて答えた。
牛渡先生は隠しもせずに不満気に目を尖らせると、再び熊野先生の方に体を向け、
「それでは熊野先生、お願いしますね」
肩を怒らせながら自分の席へと戻っていった。
牛渡先生が離れると、
「熊野先生。牛渡に言われっぱなしでいいんですか? 二年前の事件は、熊野先生は顧問じゃなかったんですから、全くの無関係じゃないですか!」
「牛渡じゃなくて、牛渡先生だ。部活に一生懸命なことは素直に褒めるが、牛渡先生の言う通り、絶対に羽目だけは外すなよ。ただでさえお前たちは、先生方から警戒されているんだから……」
熊野先生は周りの先生たちを気にしているのか、意識的に声を潜めた。
「わかってますよ。あんなことは二度と起こしませんから安心してください」
「それならいいが……」
そう言うと熊野先生は、テストの採点を再開した。
大丈夫。あの日は二度と繰り返されない。
僕は職員室を出て、駐輪場で待っている千歳の元へと急いだ。
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