第5幕 第2場 グラウンドにて
脚本の修正に難航していた。ストップウォッチを片手に、場面ごとに時間配分を計算してはいるものの、どの場面も重要である。優先度の低い台詞を少しずつ削っていくにしては修正に時間がかかりすぎる。それならいっそのこと一から考え直した方が早いかもしれないとさえ思い始めていた。
時間削減で何より心配な点は、千歳と白鷹の唯一の見せ場ともいえるマキューシオとティボルトの決闘シーンが物語上では優先度が低いということだった。前者のシーンはナレーションで繋いでしまえば、ロミオとジュリエットのラブシーンだけで十分に盛り上がるからである。
『ロミオとジュリエット』といえば、何といっても二人の恋の掛け合い台詞が魅力だ。その魅力を削ってまで二人の決闘シーンを物語の中に食い込ませる価値はおそらくない。しかしマキューシオとティボルトの決闘シーンをカットしてしまったら二人の出番はなくなるに等しくなる。
僕は握っていたシャープペンシルを投げ出すと机に突っ伏して目を閉じた。
焦る気持ちと投げやりな気持ちが入り混じる。頭が煮詰まっているせいか不思議と眠気は訪れない。昨晩も遅くまで机に向かっていた。
自分の気持ちに整理をつけるように原稿用紙に言葉を書き連ねた。言葉をどんなに吐き出しても、重ねても、束ねても、終着点は見えやしない。
脚本の修正が思いどおりに進まないまま球技大会の日を迎えた。
湊高校は学業に支障が出ないよう、他校と比べるとイベントごとは多い方ではない。数少ない年間行事の一つである球技大会は、運動会がない我が校にとって、運動が得意な生徒が唯一活躍ができるイベントでもある。
種目は、屋外競技はソフトボールとフットサルの二種目。室内競技はバスケットボールとバレーボールの二種目で構成されている。自分が所属する部活と同じ競技には参加できないというルールがあり、どのクラスも中学生時代、もしくは小学生時代の経験者でチームを編成するのが定番となっている。
対戦相手の組み合わせは学年の枠を越え、全クラスによる抽選で決まる。そのため対戦カードが決まった時点で勝敗が見えてしまう試合もちらほらと出てくる。一年生は数ヶ月前まで中学生だったこともあり三年生との体格差が歴然で、よほどのことがない限り番狂わせは起こらない。
各競技上位三位までに入賞すると点数が与えられ、総合得点が一番高いクラスが優勝となる。優勝したクラスには生徒会から購買で利用できる食券が景品として授与される。お小遣いが少なく育ち盛りな高校生にとっては、たかが食券でもありがたい援助だ。
僕のクラスは、この日のためだけにクラス全員の名前が入ったオリジナルデザインのTシャツまで用意する力の入れようだ。しかし女子が一方的に決めたというビビットピンクは男子からの評判は宜しくない。吾妻や千歳ならサラリと着こなしてしまうのかもしれないが、僕は救いようがないほどに似合っていない男子の一人だ。
校長からの激励の言葉程度の簡素な開会式が終わると、僕はビビットピンクの集団からすぐに抜け出した。ぞろぞろと動き出す他の集団に混ざり、昇降口で外靴に履き替えると第一グラウンドを目指した。
頭上には青々とした空が広がっているが、昨晩雨が降ったせいでグラウンドの土は見るからに湿っていた。ヘッドスライディングでもしようものなら服が泥だらけになり、母親を泣かせることになるだろう。
「白鷹! 約束どおり応援に来てやったぞ!」
僕は一足先にグラウンドに来ていた白鷹の姿を見つけると、応援席から声を掛けた。
どうやら白鷹のクラスは黒色のTシャツで揃えることにしたらしい。よく見るとデザインは一人一人異なっているが、しっかりチームカラーになっている。なんとも賢いアイデアだ。クラスTシャツを作成するのは思い出作りといってしまえば聞こえはいいが、たった一日のためだけに購入するのは賢明とは言えないだろう。ましてや僕が着ているこのビビットピンクな一枚は、これほどまでに似合わないとなると部屋着にするのも憚れる。洗濯した後はタンスの奥で永眠する姿が容易に目に浮かぶ。
「葉山先輩! 観に来なくていいって言ったじゃないですか……。次の対戦相手の偵察をしなくて大丈夫なんですか?」
白鷹が文句を言いながら僕に近づいて来る。
審判を務める野球部員たちがグラウンドを走り回っているところを見ると、どうやらまだ試合を始める準備ができていないようだ。
「たかが球技大会だぞ。偵察も何もないだろうが。そんなことよりも肩の調子はどうなんだ?」
準備の指示を出す声が飛び交っている。ホームに位置する場所にはベースが置かれ、次々と白線が引かれていく。きびきびとした動きは眺めていて心地がよい。
「まあまあです……」
そう言うと白鷹は左肩を回して見せた。
「笹野も連れてこようと思ったんだが、アイツも第一試合に参加するから無理だった」
「連れてこなくていいですよ。格好いい姿なんて見せられないんですから」
「そんなことを言わずに頑張れよ。この試合に勝ったら、次は笹野を連れてきてやるからさ」
白鷹が答える前に、グラウンドにホイッスルの音が鳴り響いた。いつの間にかホームベースの周辺に審判陣が集まっている。どうやら準備が整ったようだ。
「もう行きますね」
「笹野はいないけど、オレにも格好いいところを見せろよ」
僕の言葉に、白鷹は返事をしなかった。
同学年同士の対戦カードということもあり顔馴染みが多いのであろう、向かい合っている選手たちだけではなく、
「佐藤! エラーしたら、中間テストの数学の点数を叫ぶからな!」
「斎藤! 彼女の美樹ちゃんが応援に来てるぞー!」
と、応援席からはユーモアのある野次や冷やかしが飛び交っていた。それらは僕らの教室の中にもかつてあったもののようで、少し懐かしさを感じた。
試合開始の挨拶が終わると、白鷹がそのままマウンドに上がった。じゃんけんの結果、後攻めになったようだ。
一般的な高校野球をイメージするユニフォームとは対象的な黒色をまとった白鷹は、マウンドに立つと屈伸をしてからロージンバックを掴み、指先に息を吹きかけた。粉が風に流れる。一切無駄のない自然な動きから、彼が過去に投手であったことは一目瞭然であった。
主審のプレイボールの声が響き、辺りが静寂に包まれると、白鷹は投球モーションに入った。息の詰まるような試合独特の緊張感に、僕は唾を飲み込んだ。
白鷹の腕から放たれた白球は、打者の膝元へ飛び込んでいった。打者が力一杯にバットを振り回す。瞬きをする間にバットのヘッドが空を切った。が、球はミットに収まらず、キャッチャーのみぞおちにぶつかり、ころりと地面に転がった。それをキャッチャーが防具よりも重たそうな身体を不格好に揺らしながら慌てて掴み一塁に送球した。
僕は思わず額に手を当てた。以前白鷹が言っていた言葉を思い出す。
ソフトボールは不人気な競技のため、どのクラスも余った生徒で編成されることが多い。そのため、まともな試合にならないこともある。
審判がキャッチャーに声を掛けている。会話の内容までは聞こえてこないが、おそらく体に球が当たったことを心配しての確認だろう。話が終わったかと思っていると、突然キャッチャーがTシャツをがばりと胸元の高さまで捲り上げた。
「何だよ、あれ!?」
「すっげー! 防弾チョッキを着込んでやがる!」
応援席から爆笑が沸き起こった。
「あれ、俺の父ちゃんがサバゲーのときに使ってる防弾チョッキ!」
一人の男性生徒が立ち上がり、声を張り上げた。
「ナイス! 白鷹対策!」
「味方に対策取るって、どういうことだよ!」
再び笑いの渦に包み込まれる中、試合が再開された。白鷹は見事に三者三振を取り、好調な滑り出しを見せた。
攻守が交代し、マウンドには白鷹が負けたくない相手と言っていた男が上がった。白鷹よりも長身だが、強風が吹いたら飛ばされてしまいそうなほど薄身だ。それでも彼は、白鷹に負けず劣らず野球経験者であることがわかる動きをしていた。
先頭バッターが豪快にフルスイングした。タイミングさえ合えばそこそこ前に飛びそうな一振りだったが、ミットが音を立てるのと同時に降り出しているほどに振り遅れていた。
「スリーアウト!」
白鷹チームの攻撃も一瞬で終わった。
両チームともバットにボールが当たらず、投手陣の三振ショーが続いた。最初こそは盛り上がっていた応援席も動きのない絵を見せられ続け、回が進むごとに声援は減っていった。唯一、白鷹がヒットを打っていたが、後が続かず残塁だった。スコアボードにゼロが並び、ついには目の前で汗を流しているクラスメイトなどそっちのけで私語の方が目立つようになっていた。
第一グラウンドは校舎の敷地よりも標高が低い。見物人たちは敷地とグラウンドの高低差を埋めるアスファルトの階段に座っているせいで尻はすっかり痺れていた。一度立ち上がって背筋を伸ばしていると、第二グラウンドの方から千歳が歩いてきた。
「ケイタ、本当に観に来ていたんだね」
千歳が僕の隣に腰を下ろした。千歳のクラスもオリジナルのTシャツを制作したらしく、胸元に『3-4』と書かれている。背面には担任の先生と思わしき似顔絵が描かれている。白色のため、太陽の陽射しを反射している。
「千歳の方こそ観に来たんだな」
「出番が二試合目だから、最後までは観れないと思うけどね。それで、試合はどんな感じなの?」
「見てのとおりだよ」
僕の言葉に素直に従い、千歳がグラウンドに目を移した。
白鷹がボールを放る。対するバッターは潔いほど綺麗な空振りだ。一か八かの賭けに出ているように見える。キャッチャーも端からミットに収めることを諦めているようで、怯むことなく腹で受け止めている。
「すごいね……」
僅か数分間のプレイを観ただけで、千歳は試合の状況を察したようだ。
「ソフトボールに限らず団体スポーツは、一人だけすごい選手がいても、決して強いチームにはなれないんだよね」
千歳が膝に肘を付き、手で顎を支えながら言った。
見たところ白鷹はコントロールも悪くない。ピッチングマシーンのように、テンポよくボールを放っている。
「演劇も一人だけすごいヤツがいたところで見世物にはならないだろう」
白球の行末を目で追いかけながら僕が答えると、
「確かにそうかもしれない。だけど絶対的な主役がいれば、それだけで舞台のオーラは変わる」
千歳が珍しくきっぱりと言い切った。
「それは吾妻のことか……?」
僕は思わず白球を追いかけるのを止めて千歳を見た。が、千歳は真っ直ぐグラウンドを見つめたままだった。
「わかってるじゃん」
やはり正面を見たまま千歳が笑った。僕が千歳を見ている間に、白鷹がまた一つアウトを取る。
「千歳は吾妻を過大評価しすぎじゃないか?」
「それはどうかな。僕は客観的に適切な評価をしているつもりだけど」
白い歯を見せる千歳に、僕は何も言葉を返せなかった。
試合は観戦者から欠伸が出るほど盛り上がりのないまま七回表となった。マウンドに立ち続けていた白鷹が、そこで初めて僕と千歳の方を見た。が、僕たちの後ろには体育館があり、壁に時計が備え付けられているため時間を確認しただけなのかもしれなかった。
「ケイタは、もう一度大会に出たかった?」
千歳が囁くように小声で呟いた。
「考えたことねえや」
僕はグラウンドを見つめたまま言葉を返した。
ソフトボールは七回までだ。同点の場合は延長せず、ヒット数が多い方が勝者となる。ヒット数も同じ場合は残塁数が多い方だという。この回を抑えることができれば、二本ヒットを打っている白鷹たちのクラスの勝ちだ。
ツーアウト、ランナー無し。最後の一人がバッターボックスに入った。
「千歳は出たかったのか?」
ストライク! と主審の声が空に響いた。豪快な空振りだ。
「僕は出たかったな」
鈍い音がした。白球が浮かび上がった。内野フライだ。
「シズオを、大きな舞台に立たせてあげたかった」
セカンドがグラブを出しながら、フラフラと体を揺らしている。酔っ払いの踊りのようだ。
「シズオを、みんなに知ってほしかったな」
ボールがセカンドの後方に落ちた。バンザイだ。
エラーだ! 応援席から久しぶりに歓声が上がった。
センターが前に走ってくるが、ランナーが一塁ベースを蹴った。セカンドとショートも転がっていくボールを追いかけるが、それがいけなかった。ようやくボールに追いついたセンターが拾い上げたが、セカンドもショートも内野ゾーンから離れてしまっており中継ができない。素人ならではのミスだろう。センターは迷った末に、自棄糞とばかりにホームをめがけてボールを投げたが全く届かない。ランナーが二塁ベースを蹴った。地面に落ちたボールを追いかけるために、セカンドとショートが今度は前方に向かって走り出す。ランナーが三塁ベースを蹴った。ボールを掴んだショートが、ホームに向かって投げるが、弓なりに浮いたボールは、キャッチャーが構えていたホームベースから明後日の方向へと転がっていく。
ランナーがホームベースを踏んだ。応援席から一際大きい歓声が上がった。間もなく、試合終了を告げるホイッスルが鳴った。
挨拶が終わると白鷹は、審判を努めていた野球部の生徒たちにあっという間に取り囲まれた。さすがに僕と千歳がいる観客エリアまでは会話の内容は聞こえてこないが、何を言われているのかは簡単に想像がついた。
「千歳! もうすぐ試合が始まるから、その前にアップも兼ねてみんなでパス練するって!」
千歳と同じTシャツを着た集団の一人が、背後から声を掛けてきた。
「ああ。すぐに行くよ!」
千歳がクラスメイトに向かって叫び返す。
「それじゃあ、僕はここで。いい先輩の役は、ケイタに譲るよ。現役を引退したとはいえ、昔はシズオと張り合ってたくらいなんだから、しっかり役をこなしてよね」
そう言うと千歳は、慌ただしく去っていった。
昔って、たった二年前だろう……。
一人になった僕は、溜め息を吐き出しながらグラウンドを見つめた。
ようやく白鷹が野球部員たちの群れから外れ、僕の方に真っ直ぐ歩いて来た。
「お疲れさま」
言うが早いか、僕は白鷹にタオルを差し出した。
「どうも」
白鷹は頭を軽く下げると、それを素直に受け取った。
ホイッスルが鳴る。予定よりも進行が早かったのか、二試合目の選手たちが慌ただしくグラウンドに集まってきた。
「久しぶりのマウンドはどんな気分だった?」
「……懐かしいの一言ですね」
白鷹は頻りに頭部から流れてくる汗をタオルで拭っている。汗のせいで前髪の毛先が所々固まっていた。
「さすがだったな」
「そうでもないですよ。そもそも野球とソフトは全然違いますし、それを抜きにしても、あの頃に比べると全然球が走っていませんから」
「言ってくれるなあ……」
白鷹の試合が始まる前よりも日は高くなっており日差しも強くなっていた。僕は日影に隠れるために、体育館の方に向かって歩き出した。
「葉山先輩……」
振り返ると、白鷹は頭からタオルを被り、その場に立ち止まったままだった。
僕は歩く足を止めた。体育館から伸びている長く、深い影まであと数メートルの距離だったが、そこにはなぜか永遠に辿り着けないような気がした。
「自分、どうしたらいいですか……?」
白鷹の声が震えていた。
僕たちを気にするヤツは誰もいなかった。ソフトボールの観戦をしている生徒たちは無論だが、ソフトボールよりもフットサルの方が人気なこともあり、外にいる生徒たちは足早に第二グラウンドの方へ流れている。
彼は今どんな顔をしているのだろうか。
僕は白鷹の顔を包み隠しているタオルを剥ぎ取ってやりたい衝動に駆られた。
「先輩命令だ。今思っていることを全部吐き出せ」
僕は白鷹へ手を伸ばす代わりに言葉を投げた。それが残酷なことであろうが、僕は彼の心を暴きたいと思った。
「葉山先輩……?」
白鷹が顎先を持ち上げた。タオルが少し持ち上がった。白鷹は太陽を背負っており、タオルが生み出す影の隙間から不安げに歪められた表情がちらりと見えた。彼の目は、彼の声と共鳴するように小さく震えていた。
「白鷹、目を閉じろ」
白鷹が僕の命令に素直に従った。
「人物は野球部のエース。場所は学校のグラウンド。場面は、甲子園予選の決勝戦で、エラーが起因でサヨナラ負けした後、一人残ったグラウンドで自問するところだ」
僕の強い物言いに、白鷹が息を吸い込む音が聞こえた。僕が手を打つと、白鷹の表情が切り替わった。
試合の声援と彼の叫びが混ざり合って消えていく。
白鷹の頭からタオルが落ちた。それを風が抜け目なくさらっていく。僕は白鷹の代わりにそれを拾いに行った。タオルは湿っているというよりは濡れていた。僕はそれを強く握り締めた。
「葉山先輩、すみません……」
白鷹は肩で息をしながら言葉を紡いだ。
「気にするな。オレが即興劇をしろって命令したんだ」
「はい」
白鷹が答えた。
僕たちの頭上で鷹が飛んでいた。雲ひとつない空はどこまでも自由だった。試合の観戦中、自分がプレイヤーだったわけでもないのに、空を見上げる余裕がなかったことに今になって気がついた。
「葉山先輩。自分は知ってる側の人間なんです」
白鷹が細めた眼差しでグラウンドを見つめた。
ソフトボールの第二試合はシーソーゲームになっているのか、応援席から奇声が響き、試合が盛り上がっている様子がひしひしと伝わってくる。
「視線、歓声、勝利。先輩も知ってる側の人間ですよね?」
白鷹がグラウンドから視線を反らして僕を見つめた。
「ああ……」
僕は素直に頷いた。
「葉山先輩は思い出したりしませんか? 自分は今でも思い出します。いや今だからこそ思い出すのかもしれません。自分がもう二度とあの場所に戻れないんだって気づいた今だからこそ、体は忘れまいと必死に記憶を引き止めているのかもしれません」
白鷹は息を吸ってから、
「恐いんです。もし自分が野球を辞めていなかったらって考えることが恐いのに、どうしてかそのことが頭から離れなくて、脳が何度も何度も反芻するんです。つまらないことだって、無意味なことだって頭ではわかっているんです。本当にわかっているんです。だけど心は全然納得していなくて……」
カキン、と金属音が響いた。その音を追いかけるように歓声が走った。
「葉山先輩……。自分これからどうしたらいいですか……?」
僕は、白鷹の嗚咽の交じる言葉を正面から受け止めた。白鷹の言うとおりだった。彼は自分と同じ側の人間だ。
「白鷹だけじゃない。立ち止まっている人間は、何も白鷹だけじゃない。オレも吾妻も千歳もそれから笹野も……。みんな立ち止まって、焦って、不安になる。だからオレたちは今こんなにも不安定で、意味もなく誰かにあたって、不安を誤魔化そうとしている」
白鷹を見つめた。
「こんな言葉では足りないか?」
僕が持っている言葉は、どうしてこうも軽いのだろうか。もっと伝えたいことがたくさんあるはずなのに、それを上手く言葉にできない。
だから僕には人の心を打つ脚本が書けないのだ。だから今回の舞台だって、既存脚本に頼らなければならなかったのだ。
代々部長を務めてきた先輩たちは、みんな自分の言葉を使って物語を綴っていた。おそらく部長であることに誇りや責任を感じ、その代を飾る最高の作品にしようと筆を握ったはずだ。
「いえ。それで十分です」
白鷹が小さく頷いた。
僕はタオルを白鷹に手渡した。
昇降口に立ち寄って靴を履き変えると、真っ直ぐ体育館に移動した。
キャットウォークに登ると、自分たちの試合に備えて待機していたクラスメイトたちが手すりに寄りかかり、他のクラスの試合を観戦していた。
「ケイタ、遅いぞ。どこに行ってたんだよ? あ、もしかして笹野さんの試合を観に行ってたんじゃねえよな?」
京田が僕の肩に腕を回してきた。
「行ってねえよ。それに、笹野が参加する競技はバレーだ」
体育館はネットで仕切られており、昇降口側ではバレーボール、グラウンド側ではバスケットボールの試合が行われている。
噂をすれば何とやら、バレーボールのコートに笹野の姿を見つけた。思わず、あ、と声を漏らすと、京田も笹野がいることに気が付いた。
「笹野さん、本当に可愛いよなあ」
京田が手すりから身を乗り出し、さらに首を伸ばした。僕が同意しないでいると、
「笹野さんと同じ部活とか羨ましいぜ」
僕は京田の腕を肩から外した。
「それなら京田も演劇部に入ればよかっただろう。帰宅部なんだから」
僕が言うと、
「バカ言うなよ。笹野さんが転部してから演劇部に入るとか露骨すぎるだろう」
そんな真似ができるか、となぜか偉そうに言った。
笹野は高身長を活かして、いや高身長に甘えて、軽い動作で飛んでいる。隣にいる低身長の子の髪はバサバサと動いているというのに、笹野の髪はふわりと優雅に舞っている。
「笹野さん、本当に彼氏いないのか?」
京田が笹野を視線で追いかけている。いや、笹野を観ているのは何も京田だけではない。体育館にいる多くの男が笹野を観ている。
「いねえよ」
答えながら、つい舌打ちを零した。下衆な視線で観てんじゃねえよという思いと、観てしまうのは仕方ないよな、という思いが複雑に入り混じる。カフェオレみたいに綺麗に混ざらず、互いに譲ることなく主張し合っている。
「吾妻とは付き合ってねえの?」
京田が僕の顔を見た。
「あの二人は不仲だ」
と言っておいた方が都合がよさそうだ。どちらにしろ、付き合っていないのは事実だ。笹野の片思いは黙っていた方が懸命だろう。舞台が終わるまでは、笹野のファンは一人でも多いに越したことはない。
「へえ。イケメンが好きなわけではないのか」
それなら俺にもチャンスがあると思わねえ、と京田が顔を傾げた。
「ないな」
僕ははっきりと告げた。笹野は、吾妻の顔に惚れたわけではないだろう。
下からホイッスルの音が聞こえてくる。バスケットボールの方で、また一試合終了した。コートの中をカラフルな人たちが慌ただしく交差している。まるでフルーツポンチのようだ。
「そういえば、吾妻にも彼女いないんだよな?」
京田が疑わしそうに眉をひそめた。
「そうだな」
笹野がサーブボールをレシーブする。素直に腕に当てただけのボールが、ふわりと天井に向かって浮き上がる。おそらくバレーボールの経験があると見受けられる女子が軽快にボール下に移動すると、これまた綺麗な弧を描いたトスを上げた。
「さっさと彼女を作ってほしいよな」
京田が溜め息を吐いた。手すりに腕をのせると、そのうえに顎をのせた。
助走をして高く飛び上がった女子が、相手のコートの角を狙ってアタックを打ち込んだ。まるで鞭のような、しなやかな腕の動きだ。
「どうしてだよ?」
京田の考えていることが理解できず、聞き返した。
コート上でハイタッチが繰り広げられている。ナイスコンビネーションだ。笹野に釘付けになっていた野郎共も、さすがにこのお手本のような軽やかな一連のプレーは無視できなかったことだろう。
「吾妻が女子からあんなにモテるのは、特定の彼女がいないからだろう」
京田が人差し指を天井に向かって突きつけた。その考察によほど自信があるらしい。
「吾妻に彼女がいたら諦める女子が、いつまでも諦められないんだから、罪な野郎だよな。それに、俺たち他の男の機会損失を生んでいるだろう」
京田が唇の先を尖らせた。そんなこと考えたこともなかったな、と思ってから、
「オレを一緒にするんじゃねえよ」
吾妻を好きだった女子が、吾妻を諦める代わりに僕のことを好きになったとしたても、それを素直に受け入れられる気はしない。
「それにしても、吾妻ってどうして彼女を作らないんだ?」
京田がまた僕の顔を見た。
「そんなこと、オレが知るわけねえだろう」
つい口調が乱暴になる。
笹野は相変わらず省エネと思われる動きで、最低限ミスのないプレーを続けている。
「彼女をころころ変えるわけでもないだろう。もしかしたら好きなヤツがいるのかもしれないな」
僕の反応を全く気にしていない様子の京田がさらりと言った。
そんなこと考えたこともなかった。つい数十秒前に思った感情が簡単に上書きされた。
「一緒にいるのに、気になったことねえの?」
気になったことではなく、気にしたことがなかった。つい先日、吾妻が、彼女は作らないだけだと豪語していたことを思い出す。もしそれが演技で、本当は片思いをしている相手がいるとしたら?
今まで気にしたことがなかったというのに、そうに違いない、と直感が訴えかけている。僕はすっかり、それ以外考えられなくなっていた。
吾妻が好きになる女か。
吾妻の交友関係はあまり広い方ではない。吾妻は女子からモテることはモテるが、社交的な性格ではない。湊高校の生徒か、小学校もしくは中学校時代の同級生か、はたまたアルバイト先の同僚か。一通り考えてみるが、どれもいまいちピンとこない。
僕が黙っていることが気になったのか、
「本人に訊いてみたら?」
京田が声を掛けてきた。
「いや……興味ないな。そもそも吾妻とは、そんなに一緒にいねえよ」
口にした言葉とは裏腹に、真実を突き止めてやる、と心の中で啖呵を切る。
「演劇部って、部員数が少ないのに殺伐としてるんだな」
京田が困ったように顔を傾けた。
京田と雑談をしている間に、壁に張り出されているトーナメント表に赤色の線が増えていき、ようやく自分たちの出番がきた。一試合目はシードだったため、この試合が初戦となる僕たちのクラスに対し、対戦相手はすでに一戦を終えて勝ち上がってきたクラスだ。選手も応援団も最初からかなりの盛り上がりようだった。
「大丈夫だ。練習どおり、京田を中心に点数を取っていくぞ」
円陣を組み、顔を突き合わせている中、僕はチームメイトたちに声を掛けた。
京田は今でこそ帰宅部だが、中学時代はバスケットボール部だったうえに長身だ。リリースポイントが高い彼にボールを集める作戦だ。体育の授業でしか練習をしていない即席のチームだが、二年間同じ教室で授業を受けてきた仲である。互いの性格や運動能力は十分知り尽くしている。このチームでも絶対に負けないという自信があった。
試合が始まると、すぐに頭の中が空っぽになった。迷いも不安も疾しさも綺麗に消えていった。吾妻の下世話も白鷹の苦悩も遠ざかっていく。
京田にパスを出す。フリーだった彼は、長い腕を空高く突き上げ、難なくスリーポイントを決めた。
「よっしゃああああ!」
リングネットを通過するよりも早く、惜しみなく雄叫びを上げた。応援しているクラスメイトたちから「うるせえぞ!」「調子にのんな!」と野次のような言葉が飛び交った。
「京田、上がれ! まだまだ攻めるぞ!」
あのときより通っている声が、喉から発せられた。
京田は調子がよかった。僕が想定していたよりも高いシュート率だった。他のメンバーの動きも悪くない。どうやらリスクを高く見積もっていたようだ。
僕は額から流れてくる汗を乱暴に振り落としながらコートの中を駆け回った。
コートの中がよく見える。視界の外にいるプレイヤーの位置まで把握できる。体も軽い。自分で自分が好調であることが分かった。
スポーツは明快だ。
内容がどれほど良くても、逆にどれほど悪くても結果が全てだ。向上心が強ければ強いほど、勝ち方にもこだわり反省もするだろう。だが、いくら内容がよくても、重箱の隅をつついてもなお反省点がなくとも、落ち度がなくとも、勝てなければ全て無意味だ。
ドラマの筋書きが意味を持たない。舞台とは違う。それなのに、それでも他人はスポーツにも物語を求める。他人の人生にエンターテイメントを求めて、無関係のくせに自分の中に取り込んで甘い蜜を吸おうとする。自分は努力や鍛錬とは無関係の生活を送っているくせに、他人の失敗には厳しく、せせこましい。
だけど僕は、自分が主役になりたいとは望まない。自分の思いどおりに誰かを操ることの方がずっと楽しいことを知っている。そのことに優越感を覚える。
残酷なブザービートが鳴ったとき、僕はゆっくり目を閉じた。
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