第4幕 第3場 公園にて

 坂田まつりは、毎年五月十九日から二十一日の三日間に渡って開催される、市内で一番大きい祭りである。

 大手スーパーの登場により、今はすっかり廃れてしまっている通称「シャッター商店街」を中心に、周辺の道路が通行止めになり、獅子頭や山車の行列が練り歩く。もちろん露店も立ち並び、その数は三百五十を優に超えるという。

 本祭りにあたる二十日の今日は、市内の小学校から高校まで、全ての学校が午前中で授業が終わる。進学校である我が湊高校も例外ではない。それは、この祭りがいかに市民にとって大事なものであるかを証明している。

 笹野と一緒に露店を回りたいという下心が見え見えな白鷹の提案により、僕たち演劇部は学校帰りに祭りへ繰り出すことになった。

 千歳が役者を下りると宣言した翌日から中間試験期間に入ったこともあり、クラスや学年が違う部員たちと顔を合わせるのは数日ぶりだった。彼女持ちの歩は、既にデートの約束をしてしまっているとのことで、後から合流したいと喚いていたが、おそらくそれは叶わないだろう。

 千歳の家が商店街の一角にあるため、彼の家の駐車場に自転車を停めさせてもらい、歩いて露店を見て回った。

 吾妻は好物の焼きそばを食べるとそれで満足したようで、その後は興味なさそうに歩いた。千歳は最初に買ったりんご飴が食べ終われず、始終ずっと舐めていた。笹野と舞鶴さんは迷うことなくクレープを買っていた。笹野はイチゴ&ブルーベリー、舞鶴さんはバナナ&ブラウニーを選び、仲良く交換しながら食べた。白鷹は気になるものを見つけるたびに立ち止まり、財布の中身を睨みながらも買ってしまうという意志の弱さを露呈していた。僕は作り置きされていた少し冷めたたこ焼きを食べたら食欲が落ち着いてしまった。

 露店の端から端まで一通り見て回り、祭りのムードを満喫したところで、中間試験の勉強をするために再び千歳の家に戻った。勉強会に参加しない笹野と舞鶴さんとは駐車場で別れた。

「腹が膨れたら眠くなってきました」

 千歳の部屋に入るなり、白鷹がカーペットの上に横になった。

「たこ焼きに焼きそば、玉こんにゃくに唐揚げ。それだけ食べれば、腹が膨れるのは当たり前だろう」

 僕は白鷹の行動を最初から思い返しながら、先輩の部屋に遠慮なく横たわる彼に呆れた眼差しを向けた。

「見事なまでに炭水化物ばかりだし、よく全部食べ切ったね」

 部屋の主である千歳は、後輩の無遠慮な振る舞いを気にしていないようで、白鷹の食欲にも呆れを通り越して感嘆している様子だ。

「屋台の食べ物って、なぜか普通のお店で食べるよりもずっと美味しく感じるじゃないですか。いくらでも食べられますよ」

 白鷹が得意気に微笑んだ。言いながらも膨れた腹を摩る手を止めない。

「それにしたって、限度ってもんがあるだろう」

 吾妻が叱咤するような口調で言った。

「勉強の前に、少し休憩しましょうよ。千歳先輩、中学校のアルバムとかないんですか?」

 白鷹が山なりになった腹の向こう側から顔だけを持ち上げ、千歳に訊ねた。

「アルバムは東京の家に置いてあるんだ」

 ごめんねと、千歳が謝る。

「そういえば千歳先輩って、東京から引っ越してきたんでしたっけ?」

 白鷹が思い出したように訊いた。

「高校に進学するときにね」

「だから、葉山先輩と出身中学校が違うって言っていたんですね」

 白鷹が膨れた腹の上で手を打った。

 僕と千歳の家は、本来ならば小学校も中学校も同じ学区内に位置している。千歳が白鷹に説明したとおり、彼は高校生になる年に、祖母の介護をするために、母親の実家であるこの家に家族で引っ越してきたという。家族といっても、会社を経営している父親は東京から離れるわけにいかず、一人残ったとのことだ。

「今日は勉強するために集まったんだろう。遊んでる時間がもったいないぞ」

 吾妻が不機嫌そうに低い声を出した。いつの間にか、ローテーブルの上に参考書を広げている。

 僕は本来の目的を思い出し、白鷹の首根っこを掴むと、テーブルに肘をついている吾妻に差し出した。ワイシャツの襟で首元が締まった白鷹が、うっ、と短い悲鳴を上げた。

「白鷹は吾妻に勉強をみてもらえ。吾妻は全教科得意だから何でも教えてくれるぞ」

「俺に勉強をみてもらうなら、それなりの覚悟はしろよ」

 吾妻が不敵に笑った。不気味な笑顔を見せつけられた白鷹は、再び悲鳴を上げた。

 逃げ出そうとした白鷹を吾妻の前に座らせ、ようやく勉強会が始まった。笹野との露店巡りは、勉強嫌いな白鷹を勉強会に連れ込むための餌である。彼自身の提案ではあるが、笹野に頭を下げて実現させたのは僕の功績だ。

 湊高校では、定期試験で一教科でも赤点を取ると、補習を理由に部活の参加が一週間停止になる。そのため文系科目が危ういと自己申告している白鷹の赤点を阻止するため、急遽勉強会を開くことになった。

「勉強をみてもらえるのはすごくありがたいことなのですが、吾妻先輩は自分の勉強をしなくても大丈夫なんですか?」

 参考書の問題に取り組みながら、白鷹が恐る恐るといった調子で訊ねた。

「俺は試験前日に軽く復習をすれば余裕で点数が取れる。そもそも試験のために勉強しないとわからないってことは、身についていないってことだろう。授業中に理解しておけば、後から時間を掛ける必要はないんだぞ」

 吾妻がさらりと言ってのけた。こういう台詞が許されてしまうのは、吾妻のキャラクターとしての役得だろう。

「吾妻先輩って、本当に格好いいですよね」

 白鷹が詰まった息を吐くように言った。

「ほら。喋りながら解いているから、ここの綴り間違ってるぞ」

 吾妻が爪先でノートを突いた。

「前から疑問に思っていたんですけど、吾妻先輩って、どうして湊高校にいるんですか?」

 白鷹がシャープペンシルを動かしながら、ぽつりと呟いた。

「どういう意味だ?」

 吾妻が机に手のひらを打ちつけた。

「ちっ、違いますよ! 全然悪い意味じゃないですから睨まないでください! 学年で一番の学力がありながら、どうして坂東に進学しなかったのかと思いまして!」

 吾妻に誤解を与えたことに気づいた白鷹が、声を上擦らせながら早口で言葉を付け加えた。

「どの高校にも必ず首席になるヤツはいるんだから、そんなことを言い出したらきりがないだろう。とは言っても、確かに俺は余裕で坂東を狙える成績だが、坂東はバイトが禁止されているから湊高校にしたんだ」

 吾妻が鼻を鳴らしながら答えた。

「吾妻先輩は、本当にアルバイトが好きですね」

「それよりもここ、まだ間違ってるぞ」

 白鷹が吾妻に指差された箇所を消しゴムで消す。

「そういうタカこそ、どうしてうちに入れたんだ?」

「吾妻先輩、ずいぶんとひどい言い草ですね! せめて、どうしてうちに入ったんだって訊いてくださいよ。自分は正々堂々、表から入学してるんですから!」

 白鷹が唾を飛ばす勢いで言った。

「むしろ、よくこの学力で入れたなって感心してんだ。まあ、それは何もタカだけじゃねーけどな」

 吾妻がちらりと僕の方に目を留めた。

「高校なんて入ったもん勝ちだ。それに、運も実力のうちって言うだろう」

「さすが葉山先輩! いいこと言いますね」

 白鷹がパッと目を輝かせた。

「揃いも揃って……。受験はギャンブルじゃねえんだぞ。改めて聞くが、なんでわざわざギャンブルをしてまでうちを選んだんだ?」

 吾妻が前髪を搔きあげた。

「湊高校が、自分の家から徒歩五分のところに建っているからです」

「はあ?」

 吾妻が口の端を曲げた。

「朝八時に起きても遅刻しないんですよ。最高じゃないですか!」

 白鷹が声を張り上げる。はあ、と吾妻がもう一度溜め息を吐いた。

「自分、中学校がすごい遠かったんです。三キロあるんですよ、三キロ! しかも自転車通学が禁止だったので徒歩で通っていたんです。それと自分が所属していた野球部は毎日朝練があったので五時半起きでした。遅刻するとペナルティーで試合に出させてもらえないので、寝坊したら三キロ必死に走りましたよ。そのおかげで、嫌でも体力はつきましたが……」

 白鷹が苦笑いを浮かべた。

「僕は小学校も中学校も徒歩五分だったから、家の遠い子たちが寄り道して帰っているのに憧れたけどね」

 千歳が言った。

「さすが東京。贅沢な憧れだな。オレは白鷹には負けるが、片道二キロだぜ。田舎じゃ寄り道といっても神社ぐらいだし、憧れるようなもんじぇねよ」

 僕が答えると、

「いや、おかしいだろう。ふつう八時まで寝ていたいっていう理由だけで、高校を選ぶかよ……」

 吾妻が自身の頭を抱えた。

「オレからしてみれば、アルバイトをするために偏差値を下げるヤツの方がどうかと思うけどな」

 自分のことを棚に上げている吾妻に言ってやる。吾妻が無言のまま僕を睨みつけてきた。

「葉山先輩は、どうして湊高校を選んだんですか?」

 白鷹が僕に話を振った。

「そんなことよりも勉強をしろ! 勉強を!」

 教えてくださいよー、と白鷹が口先を尖らせているが無視をする。

「コウジは、吾妻に任せておけば何とかなりそうだね」

 千歳が僕の耳に手を添え、小声で言った。

「何とかなってくれないと困るぞ」

「そういうケイタはどうなの? 最近ずっと脚本の執筆に取り掛かってるみたいだけど、勉強に支障は出てないんだよね?」

「心配ご無用。中学のときは部活と勉強を両立させてたくらいだから、これくらいどうってことないさ」

 僕は息を吐くように嘘をついた。赤点をギリギリで回避できることを決して両立とは言わないだろう。

「それならいいけど……」

 どこか納得していなさそうな千歳は、それでも口を閉じると、プリントの問題を解き始めた。



 白鷹の試験対策が一通り終わり、十九時を過ぎたところで勉強会はお開きになった。

 外に出ると、祭りの喧騒と初夏を期待させる熱気のこもった空気が一気に体を包み込んだ。昼間も十分人が多かったが、夜になっても減っていないようだった。あちらこちらから賑やかな笑い声が絶え間なく聞こえてくる。

 人混みの中、自転車を走らせるわけにはいかず、僕は自分の家まで自転車を押して歩いた。僕と千歳の家は歩いても十分ほどだ。我慢できない距離ではない。

 昼間は制服姿の学生や幼い子どもたちの姿が目立っていたが、今は仕事帰りに立ち寄ったと思われる大人たちの姿が多い。日頃の鬱憤を晴らすように、ビールを片手にときおり大きな声を張り上げている。

 坂道を上っている途中で、脚本を入れていた鞄を持っていないことに気がついた。来た道を戻るのは面倒だったが、家に帰ってから作業をするつもりでいたため、仕方なく千歳の家に引き返すことにした。

 千歳の家は店舗兼住宅になっており、住居側の玄関がある裏口に回ろうと思ったが、店にまだ明かりが灯っていたため、忘れ物を受け取ったらすぐに帰るのだからと僕は店先に自転車を停めた。

 ガラスの戸口に手を掛けると、

「ちょっと恭典! 店番はもういいから、八百屋に醤油を買いに行ってきて。買い置きしてあると思ったら無かったのよ」

 千歳の母親の声が外まで聞こえてきた。僕は思わず身構えるように静止した。気配を消しながらゆっくりと店の中を覗くと、レジの前に千歳の姿が見えた。

「またオレが行くの? 明典に行かせればいいだろう」

 店の中に千歳の母の姿はなく、店と続いている自宅の方にいるのか、千歳も負けじと叫び返している。

「あっくんに頼むと、余計なものまで買ってきちゃうのよ」

「これでもオレ、受験生なんだけど……」

 千歳が面倒そうに言った。

 僕は会話が途切れたタイミングを見計らって戸を横に滑らせた。頭上に取り付けられていた呼び鈴が盛大に鳴り響く。

「ケイタ! どうしてここに……」

 千歳は、呼び鈴ではなく僕の方に驚いている様子だ。

「忘れ物を取りにきたんだ」

 僕は店の中に体を滑り込ませると、後手で戸を閉めた。

「忘れ物?」

「中に脚本が入っている鞄なんだが、部屋に置いてなかったか? 確か千歳の学習机に立て掛けておいたと思うんだけど……」

「ちょっと見てくるね」

 そう言うと千歳は足をもつれさせながら立ち上がり、建物の奥へと入っていった。

 千歳の部屋は二階にある。僕は千歳が戻ってくるまで店の中を見て待つことにした。普段手芸屋に入る機会は滅多にないため、僕にとっては馴染みのない物珍しいものが並んでいる。あれこれと見ているうちに自然と布に目が止まった。

 演劇部の部費の管理は吾妻に任せきりにしているため、会計簿にはあまり目を通したことがない。想像以上の値段の高さに思わず喉が鳴った。千歳のことだから、もしかしたら定価よりも安く申請しているかもしれないと思った。

「これだよね?」

 少しして、千歳が鞄を手に戻ってきた。

「悪いな」

「途中で気づいてよかったね。家に帰ってからも作業するつもりだったんでしょう」

「まあな」

「これでも僕たち受験生なんだから、ほどほどにね」

 千歳が微笑んだ。

 僕は手に持っていた布を棚に戻してから、

「千歳は、家だとずいぶん雰囲気が違うんだな」

 口に出さないでおこうかとも思ったが、この違和感が今後ふとした瞬間に頭を掠めるかと思うと、今ここで誤魔化してはいけないと直感的に悟った。

 次の瞬間、千歳の笑顔が引きつった。

「ケイタ。ちょっと外に出ようか」

 千歳が小声で囁いたかと思うと、

「母さん! 友達が遊びに来たから、ちょっと公園に行ってくる」

 今度は奥の部屋に向かって叫んだ。

「え? ちょっと恭典! 買い物は?」

 千歳の母が慌てて廊下を駆け、その勢いのまま暖簾を掻き分けた。布から覗いた顔に、僕は軽く会釈した。自分の母親と比べると、とても小柄な女性だった。身長は舞鶴さんと同じくらいだ。

「悪いけど、明典に頼んで。余計なものを買ってきたら、オレの小遣いから差し引いていいから!」

 言うが早いか千歳は僕の腕を取り、逃げるように店を飛び出した。

「……千歳! 千歳ってば!」

 空の暗さに反比例して、祭りの喧騒は日中よりも高まっていた。露店からぶら下がっている豆電球の弾ける明るさに刺激されているようだった。

 千歳は僕に何も説明しないまま人波を掻き分け、近場の公園まで連れて来た。その公園は「中央公園」と名前はついているものの遊具は何もなく、奥に野外ステージが設置されているだけで、ただだだっ広いスペースがあるだけのほぼ空き地だ。

 今日の昼間は、このステージで、数年前まではテレビで見かけない日はないというくらいに活躍していたはずなのに、いつの間にかお茶の間から消えたお笑い芸人が漫才をしたり、市内の小学生や幼稚園児が合唱や踊りを披露したりしていた。今はステージ上では何も行われておらず、人気もない。

 一方手前のスペースでは、町内会が主催している飲食販売のテナントが立ち並んでいる。焼き鳥やポップコーン、焼きそばやビールが販売されており、買い物客の列ができていた。

 千歳は静かな場所で話がしたいのか、公園の中に入っても立ち止まらず、人だかりができているテナントの前を通り過ぎ、ステージの方へとさらに足を進めた。人の声が遠ざかっていく。

「千歳、一体どうしたんだ? 母さんにおつかいを頼まれてたんじゃないのか? 外に出てきてよかったのか?」

 千歳の強引な行動に驚きながら、前を歩く千歳に質問を重ねた。千歳は僕の声が聞こえていないはずがないのに何も答えなかった。ステージの前まで来たところでようやく足を止めた。

「みんなには秘密にして!」

 千歳が急に僕の方に体を向けたかと思うと、僕の肩をがっしりと掴んだ。

「は……?」

「本当は一人称がオレだっていうこと、誰にも言わないで。もちろん、シズオにも……」

 そう言うと千歳は息苦しそうに眉を潜め、僕をじっと見つめてきた。いつもは少し下げ気味の視線が、このときばかりはしっかりと僕の目を捉えていた。ヘーゼルナッツ色のビー玉が雪洞の淡い光を弾いている。

「わざわざ頼まれなくても、誰にも言うつもりはなかったぞ」

 吾妻なら尚更だ、と僕は千歳の力強い眼差しに気圧されながら声を漏らした。千歳はその言葉に安堵したのか、肩から力が抜けたのだろう、上半身を崩して頭を垂らした。遅れて、僕の肩から手が下ろされる。そのまま僕の胸に倒れ込んでくるかと思ったが、その心配はなかった。

「知られた相手がケイタでよかったよ」

 千歳は深々と息を吐き出しながら、地面とステージを結んでいる五段程度の階段を上り、ステージの端に腰を下ろした。

 公園の前方に位置する大通りからは、相変わらず賑やかな声が絶え間なく聞こえてくる。

「興味本位で訊くが、千歳はどうして一人称を使い分けてるんだ?」

 僕は千歳の隣に腰を下ろした。

「他人からしたら、どうでもいい話だよ」

「オレに話してくれないか?」

 僕の頼みに、千歳はすぐに口を割らなかった。膝を抱え込み、起き上がりこぼしのように前後に小さく揺れ出した。しばらくそうしていて、口にするか迷っていたようだったが、

「似合わないって言われたんだ。僕が『オレ』っていうのは……」

 ゆっくりと話し始めた。

「それを言われたのは小学生のときなんだけど、それ以来、何だか恐くなって……。だから家の中と外で一人称を使い分けることにしたんだ」

 千歳は真っ直ぐ前を見つめながら言った。視線の先には通りを歩く人たちの姿があった。みんな楽しそうだ。まるでエキストラを演じているかのように同じ笑顔を貼り付けている。誰か一人くらい悲しそうな顔をしている人がいたっていいのに。そんな風に考えていると、千歳が再び口を開いた。

「なあ、ケイタ……」

 千歳は膝に抱えていた足を伸ばした。

 明かりの灯っていないステージは真っ暗で、月を隔てている屋根がまた暗闇を一層深くしていた。

「僕は女装が好きなんだ。いや、好きっていう言い方は間違ってるな。女装をしていると安心するんだ。女の子を演じているときの僕は本当の僕ではないから、他人からどんな評価を与えられても気にする必要がないだろう」

 舞台に立つ千歳はどこからどう見ても女だった。地声が低くないこともあり、声を出しても可愛らしい見た目とのギャップがなかった。観客の中には千歳を本物の女と勘違いしている人もいたことだろう。

「ずっと、そんなことを考えていたのか?」

 僕が訊くと、千歳はやはりすぐには口を開かず、少し考えてから答えた。

「僕はずるい人間なんだ。自分が傷つきたくないから偽物の自分を演じて、そいつを身代りにしている。他人から本当の自分を否定されるのは辛いんだ。似合わないとか、らしくないとか、そういう言葉に、僕は他人よりも敏感みたいなんだ。昔からずっと、自分らしいって何だろうって考えて、他人の目に映る自分の姿を想像して演じてきた。だけど僕は、女の子に生まれてくればよかったなと思うことはあっても、女の子になりたいと思ったことは一度もないよ。ケイタみたいになりたい、シズオみたいになりたい、もっと男らしくなりたいって心の底では思ってる」

 千歳は丁寧に呼吸を挟みながら言葉を続けた。千歳のときどき目にかかる前髪が、今も彼の左目を覆い隠している。

「高館さんは、そんな僕を『すごいね』って言ってくれたんだ。高館さんは、偽りの自分を評価されることの方がずっと恐いって言ってた」

 急に千歳の口から高館さんの名前が出てきて、どきりとした。千歳が自分の知らないところで、高館さんとそんな会話を交わしていたとは。

 高館さんは気づいていたのだ。千歳が嘘を演じていることに。そしてその嘘が、真実よりもずっともっともらしい真実であることに気づいていた。

 いつからだ? 一体いつから……。

 冷や汗がぶわっと背中から頭へ、それから手足の指先へと向かって広がっていった。指先が痺れる。

 やはり高館さんには適わないと思う。過去も、今も。そして、おそらく未来も。

 それが悔しい。奥歯を噛み砕きたいほどに悔しいが、今は自分のことを考えている場合ではないことぐらいわかっている。

「本当の自分と他人が期待している自分は別物だ。だから僕はときどき戸惑う。どっちを信じたらいいのかがわからなくなる」

 千歳の声が掠れていた。震えた先に、本当の千歳の姿を見つけた。

「ケイタなら、この気持ちをわかってくれるよね?」

 自分は、本当の千歳をどうしてあげたらいいのだろうか。高館さんが千歳に逃げ場所を与えたように、自分も同じことをすればいいのだろうか。

 それでいいのか。本当にそれでいいのか。

 止まりそうになる思考とそれに反抗する焦り。何も返事ができないままでいると、

「ケイタはさ、バスケを辞めた今でも、他人からバスケをすることを押しつけられてきたんだろう? アユみたいなヤツがさ、他にもたくさんいたんだろう?」

 無言の僕を気にしないまま、千歳は言葉を続ける。

「でも僕は、他人が望んでいる自分を演じることも別に悪くないのかなって思ってるんだ。だって、その役割を全うできさえすれば、自分の居場所を守れるから。もし僕がケイタだったら、多分バスケを続けていると思うよ。正直あれほど周囲から強く求められているのに、何をそこまで意固地になってるんだろうってさえ思ってる。でもそれこそが僕の弱さだってことに、最近ようやく気づけたんだ。それもケイタのおかげだよ。笹野さんが今いる場所は、前は僕だけの場所だった。男である自分が、ヒロインというポジションを割り当てられることに劣等感を感じながらも、心のどこかでは安心していたんだ。ここが自分の居場所なんだって、他人から決めつけられることに安心していたんだ。他の誰からも奪われることはないって思い込んで安心していたんだ。今回ヒロイン役を降りて他の役を与えられたことで、僕にもそういう可能性があったんだっていうことに初めて気づけた。あの場所にいなくても、僕はここにいてもいいんだって思えた」

 千歳が口元を緩めた。薄い唇の隙間から白い歯が覗いている。

 自分は知らぬ間に、ずいぶんと千歳を追い込んでしまっていたらしい。千歳がこんなにも自分の気持ちに饒舌になるなんて、饒舌にならざるおえなくしていたなんて。そして自分は、黙って千歳の言葉を聞くことしかできないなんて。

 なんて情けないんだろう。

 自然と拳を握り込んでいた。この手のひらに集まる苛立ちや焦り、不甲斐なさをどこにぶつけたらいいのかがわからない。

「それに僕は、少しだけ笹野さんに憧れている」

 千歳がようやく僕の顔を見つめた。

 太ももに貼り付けておくことが精一杯の拳を開いて、片目を隠しているその前髪を掻き分けたいと願った。

「ケイタは知らないよね。憧れは、諦めに似ているんだよ」

 千歳が自虐的に苦笑した。

 そんな風に笑うなよ。って、声に出せたら。

「僕は物心がついた頃から、ずっと自分の容姿がコンプレックスだった。男なのに女の子に間違われる顔や、筋肉がつかないみすぼらしい身体に不満を持っていた」

 千歳の繊維の細い髪の毛は触れると柔らかく、確かに自分のそれとは全然異なっている。

「僕、中学生のときはサッカー部だったんだ。小柄で足が速いわけでもなかったから、三年生になっても補欠でレギュラーになったことは一度もなかった。いつもコートの外側からチームメイトたちの活躍を他人事のように見ていた。自分はこの線から出られないんだ、そういう力がないんだって思いながらも、退部する勇気もなくて部活には最後まで参加した。高校に入学して、廊下ですれ違った高館さんから声を掛けられたときはすごく嬉しかった。こんな自分でも必要としてくれている人がいるんだって、素直に嬉しかった。だから演劇のことは全く知らなかったのに、気づいたら二つ返事で入部を承諾してた。例え、高館さんが言う僕の魅力が、中世的な顔立ちだったとしても……」

 千歳の声は、まるで物語の冒頭を読み上げるナレーションのようで、そこに感情の起伏はなかった。これは誰の物語なのだろうか。

「本当は、僕はこの町には来ない予定だったんだ。お父さんと東京に残るはずだったんだ。東京の方が高校の数が多いし、どうせ大学進学のときには東京に戻ることになるから。だけどお母さんが、おばあちゃんの介護をしながら弟二人と妹の面倒を見るのは大変だろうってことで、僕も一緒にここに来ることになったんだ。でも本当は、お母さんのためじゃないんだ。誰も自分を知らない場所で、もう一度新しい人生を始めてみたかっただけなんだ。自分のことを知らない人たちの前だったら、演技をしないで、本当の自分でやり直せるんじゃないかって思ったんだ。それも失敗しちゃったわけなんだけど……」

 千歳が頭を掻いた。

「情けないことに、僕は自分のコンプレックスに救われている」

 喧騒の中に、相応しくない声だった。今誰もが楽しんでいるこの祭りの中で、彼以上に落ち込んでいる人がいるだろうか。

 僕を置き去りにしたまま千歳が続ける。

「もし本当の自分を曝け出して、その自分を否定されたら、そのとき僕はどうしたらいいの……?」

 僕はこの場に及んでもなお、千歳の目を見つめ返すことしかできない。こんなにも震えている目を、ぼんやりと眺めることしかできない。

 高館さんならどうする? 神室さんならどうする? 吾妻なら、笹野なら、白鷹なら……。いや、インターネットのブラウザに単語を書き連ねてキーワード検索をしたら、彼の心を救う方法が掲載されている記事が見つかるかもしれない。そんなつまらない考えが、僕から言葉を奪っていく。

 本当の自分。

 それが千歳にとっては、男役を演じる自分なのだろうか。

 千歳は恐れている。男役を演じることで、今まで隠してきた本当の自分が明るみになることを懸念している。

「……オレなら否定しない」

 僕は、すっかり乾いた唇を引き離した。

 お前、脚本家なんだろう!

 考えろ。逃げるな。考えろ。

 誰かの言葉を借りようとするな。自分の中から生み出させ。

 お前、脚本家なんだろう!

 彼の元に、彼が求めている言葉を渡してやれ。

「ケイタはいいヤツだからそんな風に言えるんだ。僕は、もう戻れないよ。高館さんが僕にヒロイン役を演じてみないかと提案してくれたあの日から、戻ることは許されていないんだ。僕が、みんなから求められていることは女役を演じることだから」

 千歳は手をついて立ち上がると、そのまま階段を降りた。

「夕食の手伝いをしないといけないから、そろそろ帰るね。勉強も部活も忙しいのに、僕のつまらない話に付き合わせてごめん。気をつけて帰って」

 千歳は小さく手を振ると、すぐに歩き始めた。その後ろ姿は、自分の知っている千歳だった。

 これでいいのか。このままでいいのか。

 ……いいわけないじゃないか!

「千歳!」

 僕は自分の問いかけに答えるよりも早く叫んだ。足をめいいっぱい伸ばして階段の一番下まで飛び下り、千歳が振り向くのを待った。

 千歳が足を止めて振り返った。

「オレはそうは思わない! 意外だなって感じる一面を見せてくれたら嬉しいと思う! 新しい一面が見えたら、お前のことをもっと知りたいって思う! もしオレにだけ見せてくれる姿があったら、優越感さえ覚えると思う! だから自分のことを『オレ』って言う千歳のこと、もっと教えてくれよ!」

 人は他人の痛みに鈍感だ。

「それにオレは、千歳が自分で言ってる容姿のコンプレックスだって、千歳の武器だと思ってる!」

 いや、僕が鈍感なんだ。ここまできて、この期に及んで、誤魔化すんじゃない。僕が、他人の痛みに鈍感なんだ。

「憧れは諦めじゃない! 憧れは希望だ!」

 僕は、もっと他人と真剣に向き合う必要がある。自分のことばかりわかってもらおうと必死で、だから笹野の本心にも千歳の本心にも気づかない。気づかないくせに、偉そうにわかっているふりをして表面ばかりを見繕って、上手く立ち回っている振りを続けてきた。自分の決めた枠の中に彼らを捕らえ、無理やり押し込もうとしていた。

「今からオレがジュリエットで、千歳がロミオだ」

 僕は千歳を指差すと、地面を思い切り蹴り上がり、階段に足をかけずにステージに上った。すぐに移動して暗闇の中心に立った。

 スポットライトの当たらない舞台。観客がいない寂しい場所。それでも自分の気持ちを伝えたい相手が目の前にいる。たった一つの感情を伝えたい相手が目の前にいる。

 それなら、演じるしかないだろう。

 僕は脚本家だけど、脚本家の前は役者だった。僕も一年間は吾妻と張り合ったくらいに、本気で役者をやっていたんだ。

 演じられないとは言わせない。

 肩を高く引き上げ、大きく息を吸った。

 二年ぶりの舞台だ。

 目を閉じると、闇がゆっくりと降り注ぎ、世界の底が見えなくなった。自分と世界の境界線が曖昧になって、初めて僕は役者になれる。

『……ああ、ロミオ様。なぜ、あなたはロミオ様でいらっしゃいますの?』

 足の裏に力を込めると腹が自然と凹み、滑るように声が這い上がってきた。それでも繊細に、優しく、迷いと祈りを込めて。糸のように細く、筋の通った声を出した。周囲の賑やかな音に助けられながら、自分の中にある全力の声を張り上げた。

 千歳を見つめる。千歳も黙って、僕を見つめ返していた。

 僕は何も恐れないまま言葉を続けた。

『あなたのお父様をお父様ではないといい、あなたの家名をお捨てになって! それが嫌なら、せめて私を愛すると誓言していただきたいの。さすれば、私もキャピュレットの名を捨ててみせますわ』

 さあ、捨てろ。

 千歳も捨てろ。

 恥もプライドもコンプレックスも、自分を守っているもの、自分を救っているもの、全部捨てて、ここに飛び込んでこい。

 僕だって捨ててやる。

 くだらないプライドも、上辺だけの優しさも、取ってつけたような愛情も。全部惜しみなく捨てるから、こんな我儘な僕に付き合ってくれ。

 僕は意図的に喉を震わせ、

『仇はあなたの、そのお名前だけ。モンタギュー家の人でいらっしゃらなくとも、あなたにはお変りはないはずだわ』

 台詞という言葉を一つ一つ丁寧に思い返しながら、糸で縫い合わせるように紡ぐ。

『ロミオ様、そのお名前をお捨てになって。そして、あなたの血肉でもなんでもない、そのお名前の代わりに、この私のすべてをお取りになっていただきたいの』

 長文の台詞を噛まずに言い切り、誰にも気づかれないようにそっと息を吐く。もう声は出していないというのに、余韻のように腹の底がまだ震えていた。

 千歳が腕を振りながら、ステージの方に走ってくる。その勢いのまま足を大きく開き、ステージに飛び上った。

 僕と千歳の目線が揃った。

『お言葉通り、頂戴しましょう』

 千歳が叫ぶ。

『ただ一言、僕を恋人と呼んで下さい。今日からはもう、たえてロミオではなくなります』

 千歳の低音の声は高くない天井に跳ね返され、鼓膜にゆっくりと落ちて届いた。まるで雪が降り注いだように、やさしく、だけど冷たさを持って。

 千歳から自由を奪っていたものは、全部舞台には必要のないものばかりだ。だから全部、置いてこい。そして、ここでは自由になれ。

『誰なの、あなたは? 夜の暗闇に隠れて、人の秘密を立ち聞くなんて?』

 僕は一度千歳の脇を通りすぎ、翻すように腰を回転させた。

『名前と言われても、なんと名乗っていいものか困るのですが……。ああ、尊いあなた。僕の名前が腹立たしい。それというのが、あなたに仇敵の名前だからです』

 千歳が叫ぶ。その声はジュリエットの心を振り向かせるために意味を持って響く。まるで耳元で囁いているように甘く溶ける。

『そのお言葉の響き、私の耳はまだそのお言葉を百とは味わっていませんが、声にはっきり聞き覚えがあるわ。ロミオ様、あのモンタギューの家のロミオ様じゃございません?』

『いいえ。あなたがお嫌いなら、そのどちらでもありません』

 千歳が胸に手をあて、顔を横に振った。

『どうして、ここへいらしたの? 塀は高くて登るのは大変。それに、あなたの身分柄を考えれば、もし家の者にでも見つかれば、死も当然の、この場所へ』

 気管が震える。夏にはまだ遠い、夜の冷たい風が喉を引くつかせた。

『こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました』

 千歳が両手を大きく広げた。

 それは確かに翼だった。彼の足を軽やかにし、自分の周りを取り囲んでいたつまらない壁を飛び越えるために必要な翼だった。

 そのとき拍手が鳴った。

 はっとして音の方に視線を走らせると、いつの間にか三人の大人たちが僕たちの小芝居を見物していた。

「兄ちゃんたち、ずいぶんと面白いことをしているなあ」

 頭にタオルを巻いているおじさんが大きく口を開き、がはがはと笑いながら言った。どこかで見たことのある顔だと思ったら商店街のお茶屋の店主である。

「邪魔をしちゃったかね。俺たちに構わず、続きを見せてくれないか?」

 麦わら帽子を頭に乗せているおじさんが缶ビールを持っていることを忘れて手を振った。中身が零れてお茶屋の店主の服にかかる。こちらも馴染みのある顔だと思ったら自転車屋の店主だった。

「焼き鳥を買ってあげるからさ」と野球帽のひさしを後ろにして被っているおじさんが言うと、隣の二人から文字にするのもうるさい笑い声が続いた。こちらの顔は……見覚えがない。

 全員完全にできあがっている。どうやら自分たちの小芝居は、酔っ払いの摘まみに丁度いいらしい。

 僕と千歳は顔を見合わせて笑った。

 僕たちはもうロミオでもジュリエットでもなかった。蛙が合唱する田圃の脇道を自転車で走る、ただのド田舎の高校生だった。

 狭い舞台に笑い声が反響する。ついに千歳は腰を折り曲げて笑い出した。

 一頻り笑った後、僕はおじさんたちに向かって言った。

「すみません。まだここまでしか台詞を覚えていないんです」

 何が面白かったのか、おじさんたちは腹を抱えて笑っていた。

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