第4幕 第2場 公園にて
部長なんて役職は、本当は柄ではない。
中学生のときはバスケットボール部で副部長をしていたが、それも名ばかりで、副部長として他の部員たちと何か区別のつくようなことをしていたかというと、何もしていない。もはや他の部員たちが、僕が副部長だったことを認知していたかどうかさえ怪しいものだ。ちなみに副部長はじゃんけんで決めた。つまり誰でもよかったのだ。
一方部長はというと、満場一致で三瀬匡喜に決まった。マサはチーム内で一番背が低かったが一番技術があった。その圧倒的な技術力で、チームメイトたちからは一目置かれていた。一年生でも上手ければ学年関係なくレギュラーの座につける、実力主義を徹していたチームとしては当然の選択でもあった。
マサにリーダーシップがあったかと問われれば、答えはノーだ。マサは知性ではなく、カリスマ性でチームを引っ張るタイプのリーダーだった。おそらく彼が役職を意識して取った行動は何一つなかっただろう。本能が赴くまま、自分がやりたいことをやっていただけだ。僕も含め、他の部員たちが自分の後ろをついてきているか振り返って確かめることもせず、ただただチームの先頭を走っていた。
演劇部の部長は、話し合いで決めた。話し合いといっても、消去法といった方が正しいだろう。アルバイトで部活を欠席することが多い吾妻は論外で、平和主義で自己主張が苦手な千歳は性格的に向いていないと拒否。そんなこんなで残った僕が、神室さんから部長を引き継いだ。ただ、それだけのことなのだ。
それだけのことなのだが、困ったことに我が演劇部には、少し変わった伝統がある。脚本は部長が執筆する。逆の視点から考えると、脚本を執筆できるものが部長を担うともいえるだろう。
吾妻と千歳は理系だ。僕は一応文系だが、文系だからといって作文が得意なわけでもない。それに作文と脚本は月とすっぽんくらい別物だ。
脚本の執筆にはいつも頭を抱えてきた。伝えたいことや表現したいことはそれなりにある気がするのだが、それがどうにも形にならない。結局は自分が得意なジャンルに逃げ、台座から崩れ落ちない程度だが、どうにかこうにか形のあるものを創ってきた。
これまでコメディ寄りの作品ばかり書いてきた。自分が舞台を通して観客たちに伝えたいこと。観てくれる人を笑顔にできればそれでいいと、自分の本音とは向き合わずに誤魔化してきた自覚はある。
高館さんの脚本には、熱いメッセージが込められている、と感じる作品が多かった。ああ、この一言を伝えるためだけに、この作品を書いたんだろうなと、頭が悪い僕でも察せる作品を創造していた。
そんなすごい先輩が身近にいたのならば、それをお手本にすればよい話なのだが、もちろん簡単なことではない。残念ながら僕には、自分が伝えたい想いを言葉にする技術を持ち合わせていなかった。
最後の舞台。既存脚本に頼らなければならなかった未熟さと、頼ったというのにそれでも脚本執筆に難航している愚かさに打ちのめされている。
執筆途中の脚本を隠すように、先日の部長会議で配られた書類を眺めながら、
「今日は部活を始める前に、エキシビジョンマッチのエントリーを決めたいと思う」
締切が迫っているんだ、と言葉を付け加える。硬くなったペンだこを親指の腹で擦っていると、
「エキシビジョンマッチって何ですか?」
「エキシビジョンマッチって何?」
舞鶴さんと歩の声が綺麗に重なった。二人は思わずとばかりに顔を見合わせてから僕を見た。
「そうか。一年はまだ知らなかったか。エキシビジョンマッチは、球技大会の最後に、クラス対抗ではなく部活動対抗で行われる競技で、八百メートルリレー、いわゆる八継のことだ」
僕が説明すると、
「一位になった部には、特別に部費が支給されるんだ」
「初戦で負けちゃうことが多い一年生は、球技大会よりも楽しめると思うよ」
吾妻が補足し、千歳も後に続いた。
「それは絶対に一位を狙いましょう!」
歩が両手の拳を握って立ち上がった。
「足の速い順に走者を選ぶなら、葉山先輩、自分、吾妻先輩、千歳先輩でしょうか?」
白鷹が僕たち三年生を見渡しながら言った。白鷹にとっては、歩は眼中にないらしい。
「ケイちゃんはともかく、タカさんよりもおれの方が速いと思いまーす」
歩が即座に反論した。
「何を寝ぼけたことを言ってんだ。自分の方が速いに決まってんだろうが」
白鷹がキッと目を鋭くして歩を見た。よく考えたら、敬語を使っていない白鷹は新鮮だ。
「タカさんこそ、どうしてそんなに自信があるんですか? おれの方が若いですし、絶対に速いと思うんですけど」
歩が不満げに口先を尖らせて僕を見つめてくる。すぐに白鷹も僕を見つめてきた。どうやらジャッジは僕に委ねられたようだ。
「……まあ、白鷹は見た目はこんなだけど、足は本当に速いからな」
「こんなって言い草、ひどいじゃないですか」
白鷹が情けない声を上げた。
「本当のことだろう。ボサボサで重たそうな頭に、これまた重たそうな黒縁の眼鏡。とてもスポーツマンには見えないだろう」
白鷹が悔しそうに唇を噛んだ。歩は僕が言っても尚、信じ難そうに細めた目で白鷹を見つめている。
「それなら勝負しましょうよ!」
歩が言い出した。
「ああ、望むところだ」
白鷹がすくっとその場に立ち上がった。
「勝手に盛り上がるな」
白鷹のワイシャツの袖を引いて椅子に座らせる。
「それに、実はもう走順は決めてある。すぐに喧嘩をするんじゃない」
僕が二人を嗜めると、千歳がくすくすと笑い出した。
「ケータが柄にもなく保護者してるな」
吾妻がにやにやと緩めた口元を向けてくる。うっせ、と吾妻に言い放ってから、僕は言葉を続けた。
「一つ言い忘れていたんだが、アンカーだけはただ二百メートルを走るのではなくて、部員を一人担いで走るんだ。担ぎ方は自由なんだが、もし途中で落として地面に足がついたら、その場で五秒間停止しないといけないペナルティがある。ラグビー部とか野球部は体格がいいヤツが揃っているだろう。だから少しだけだがハンデになるんだ」
僕が説明すると、
「男女混合の部や文化部にも、優勝のチャンスがあるってわけですね」
舞鶴さんが感心したように頷きながら言った。
「千歳さんと舞鶴さんは、どちらの方が体重が軽いんですかね?」
歩が千歳と舞鶴さんを交互に見比べた。
「ちょっと!」
舞鶴さんが驚いた声を上げた。
「アユ。女性に体重を訊ねるのは失礼だよ」
千歳が珍しくぴしゃりと言った。
「おい、飯豊! そこに笹野先輩を含めないとは、なんて失礼なヤツなんだ!」
白鷹が立ち上がった。
「別にいいわよ……」
笹野が呆れた顔で言った。
「笹野先輩は足が長いので、運びにくそうだなと思って候補から外しただけですよ。地面に足がついたらダメだって言うから……」
歩が口を尖らせながら言った。
「それは一理あるな……」
白鷹が顎に手を当てて呟いた。
「それって暗に、満衣香と千歳さんの足が短いって言っているようなものじゃない……」
今度は舞鶴さんが眉を寄せた。
「まあ、まあ」
千歳が苦笑い浮かべて舞鶴さんを宥めた。
「いや、そのことなんだが、今年はエンタメに全振りしようと思っているんだ」
僕はみんなの顔を見渡しながら言った。
「エンタメ?」
歩が顔を傾げた。
「ああ。最初から勝負を諦めている部は、思い出作りのために、お笑い路線に走る傾向がある。だから演劇部も優勝を狙うのではなく、この競技を舞台の宣伝に使わせてもらおうと考えているんだ」
「どうやってですか?」
白鷹が訊いた。
「まずアンカーは吾妻で、運ばれる役は笹野だ」
僕が宣言すると、吾妻と笹野が同時に声を張り上げた。
「はあ!?」
「笹野先輩が運ばれる役なら、自分がアンカーになりたいです!」
白鷹が背筋をめいいっぱい伸ばし、手を掲げながら叫んだ。
「却下。オレ、白鷹、歩の三人で稼げるだけ稼ぎ、できれば一位で吾妻にバトンを渡して、注目を浴びながら疾走していく作戦だ」
僕が頭の中にある脚本を鼻高々に語ると、
「そんなの嫌よ」
笹野が尖った声を張り上げた。
「俺だって嫌だ。そもそも走りたくねえのに、そのうえ笹野を担げだと? アンカーは言い出しっぺのケータがやれよ」
吾妻が椅子に深く腰を掛けながら言った。長い足が机の下の方にまで伸びてきた。
「自分が! 自分がアンカーを走ります!」
白鷹の声で吾妻の声が掻き消される。
「白鷹は静かにしてろ。いくら騒いでも、アンカーは吾妻で決定だ。ちなみに、各自走りながら台詞を叫んでもらう予定だ。来週までに脚本を書いてくるから、そのつもりで心づもりをしておいてくれ」
「わざわざ脚本まで書くなんて、今年はえらく気合いが入ってるね」
千歳が感心したように呟いた。
「舞台の宣伝をするってことは、まさかロミジュリの衣装で走れってことじゃないだろうな」
吾妻が眉間に皺を寄せた。
「そのまさかだ」
「無理に決まってんだろう!」
吾妻が言葉を吐き捨てた。
「衣装って何?」
歩が口を挟んだ。
「このエキシビジョンマッチだが、基本的には部のユニフォームで走るルールになっている。ただ、ユニフォームがない部活、おもに文化部は服装が自由なんだ」
「だから演劇部は、毎年舞台衣装を着るのが恒例になっているんだよ。ちなみに去年は、着物に下駄で走ったんだ」
「下駄って、これまた走りづらそうですね」
歩が表情を歪めた。
「去年も最初から優勝は諦めていたからな」
僕が吾妻を見ながら言うと、
「俺のせいにするなよ。神室さんだって、平均よりも遅い方だろうが」
吾妻が不服そうに眉を寄せた。
「去年もシズオがアンカーで、僕を担いで走ったんだ」
千歳が舞鶴さんと歩に言った。
「そのときの写真ならありますよ」
白鷹がノートパソコンの画面を舞鶴さんと歩の方に向けた。舞鶴さんと歩はノートパソコンに覆い被さるように画面を覗き込んだ。
そういえば白鷹は、昨年度の球技大会のときに、写真部の生徒からデジタルカメラを一台借りてきたと言って、それを首からぶら下げていた。さすがにエキシビジョンマッチのときは、自分が走者ということもあり、笹野にカメラを預け、彼女が代わりに写真を撮っていたが。
「着物姿の吾妻さん、格好いい!」
舞鶴さんが甲高い声を上げた。
「千歳さん、女子にしか見えないですね!」
歩が千歳をまじまじと見つめた。
「写真でよかったな」
僕が吾妻に向かって言うと、
「うるせっ」
吾妻が机の下から僕の足を蹴ってきた。
「他の写真も見せてください」
言いながら舞鶴さんが、ノートパソコンを自分の方に引き寄せた。
「あ! こら、待て、待て!」
白鷹が慌てた声を跳ね上げた。
「何ですか、その慌てようは……。まさか笹野さんの隠し撮り写真があるんですか?」
舞鶴さんがジトッとした目で白鷹を見た。
「隠し撮りじゃない! 笹野先輩の写真は正々堂々、正面から取ったものしかねえよ!」
白鷹が机に手をついて立ち上がった。確かに白鷹は、そのカメラを使って笹野のこともたくさん撮影していた。
「後で写真のデータをスマホに送ってやるから、自分の端末で見ろよな」
「本当ですか! 絶対ですよ、絶対!」
舞鶴さんが跳ねるように喜んだ。
「そうなると、球技大会までに、みんなの衣装を完成させないといけないわけだね」
千歳が僕に言った。
「いつもすまないな」
僕が謝ると、
「何言ってるの。いつものことでしょう」
千歳が何でもないといった態度で笑った。
「でもそれなら、なおさら役がない飯豊じゃなくて、千歳先輩が走った方がいいんじゃないですか?」
白鷹が僕を見た。
「それも悩んだんだが、上位に食い込むには歩の脚力が必要だろう。それと、歩にはナレーションをしてもらおうと思ってる」
「おれも劇に出られるの!? やったー!」
歩が手を上に突き上げて叫んだ。
「本気ですか?」
白鷹が怪訝な表情を僕に向けた。
「ああ。ギターの弾き語りもしてもらうつもりだ」
歩がはしゃいでいる。僕の話を最後まで聞いていたかどうか怪しいものだ。
「そうと決まれば、マイちゃんには、アユの衣装のデザインを考えてもらわなくちゃだね」
「わかりました。明日までに考えてきます」
舞鶴さんがさらりと答えた。急な頼みごとだというのに、嫌な顔一つしないとは、何とも頼もしい後輩だ。
「あと、千歳と舞鶴さんには、マネージャー枠で目立ってもらうつもりだから、心の準備をしておいてくれ」
僕は千歳と舞鶴さんを順に見ながら言った。
「今度は何を企んでるの?」
千歳が首を傾げた。
「それは脚本ができてからのお楽しみってことで」
「やり過ぎて、生徒会から目を付けられないようにしろよ」
吾妻が口を挟んだ。
「こういうイベントは目立ったもん勝ちだろう。それに、他の部に迷惑が掛かるような真似はしねえよ」
話しながらも、頭の中に次々とアイデアが流れ込んでくる。
「吾妻は今日から筋トレを始めてくれ。これも役作りの一環だからな。足が遅いロミオ様も、お姫様だっこが様になっていないロミオ様も格好がつかないからな」
吾妻がげんなりと口をへの字に曲げた。
「それなら笹野は、今日からダイエットを始めろよ」
吾妻が笹野に向かって言い放った。
まずい。僕は笹野が口を開く前に、
「よし、練習を始めるぞ」
音が高々と響くように意識して手を打った。
机と椅子を教室の隅に寄せ、中央に集まって輪になると、台本の読み合わせを始めた。とはいえ、まだ最後まで書き終わっていないので、前半部分のみを印刷した仮の台本を使う。
千歳が男役の演技を始めてから今日で五日目。練習の回数を重ねていけば改善されるだろうと期待していたが、事態はそれほど甘くなかった。
「なあ……。やっぱり配役を考え直さないか。今ならまだ間に合うだろう」
ついに辛抱できなくなったのか、吾妻が低い声で言った。千歳本人も周囲に迷惑をかけていると感じているのか、すっかり項垂れてしまっている。
「そもそもの話なんだが、男役と女役を演じる上で何か違いがあるのか?」
僕はうすうす疑問に感じていたことを口に出した。
千歳は少し考えてから、
「女役はフィックションだけど、男役はノンフィックションだから、頭の切り替えができないんだと思う」
と、自信なさげに答えた。的を得ているようで、その的自体が別の的であるような、もやもやした解答である。僕と吾妻は首を傾げた。
「自分は女役を演じろって言われたら、恥ずかしくてできませんね」
場を濁そうと思ったのか、白鷹が苦笑いで言った。
「ノンフィクションだと、上手に演じられないってこと?」
今度は笹野が訊ねる。演技経験の少ない彼女のことだから、純粋な気持ちで疑問をぶつけたのだろう。
一秒の沈黙の後、
「僕にとって、演劇は現実から切り離された世界なんだ。今こうしてみんなと話し合っている世界とは違う。千歳恭典って名前がついて回らない世界なんだ」
千歳は静かに答えた。
「演技って、奥深いんですね……」
歩が真面目な顔で呟いた。トンチンカンなことを言っているが、本人はいたって真面目なのだろう。
演技ができないのは千歳の気持ちの問題だ。僕たち外野があれこれ言ったところで解決しないだろう。
吾妻が黙っていることが気になっていると、不意に、なあ、と吾妻が声を大きくした。みんなの視線が吾妻に集まる。
「ヤスに男役を演じさせるのは、やっぱり無理があるんじゃないか」
疑問を投げかけるというよりは断定的な物言いだった。
「人には向き、不向きがあるんだ。笹野には悪いが、ヤスにはやっぱりジュリエット役の方が合っていると思う。俺たちは部員がたったの七人だが、それを理由に妥協しないで、限られた人数、限られた個性の中で、全体のバランスを考えながら配役を組み立てるべきだろう」
吾妻が僕の目を真っ直ぐに見ながら言った。暗にそれが僕の仕事だろう、と訴えかけているのだ。
「それはわかってるさ。それがわかっているうえで、今回はこの配役でやりたいってオレは言ってるんだ!」
吾妻の隣に立っている千歳は、申し訳なさそうに体を縮こまらせた。笹野は表情一つ変えず、黙って僕たちの言葉に耳を傾けている。
「俺だって、ヤスが女役の演技もこれくらい下手ならこんなことは言わない。だけど、そうじゃないだろう。女役ならここにいる誰よりも上手い。女である笹野よりもだ。それなら千歳はジュリエットを演じるべきなんじゃないのか?」
吾妻の言葉に、場が恐ろしいほど静かになった。僕を含め、全員が息を潜めているというよりは息を止めていた。
誰も反論しない。みんな吾妻の意見にどう反応したらいいのか考えあぐねているようだった。声を低くする吾妻に真正面から反論できるのは僕しかいない。僕が黙っている以上、沈黙は続く。
吾妻の言うとおりだった。女役に限れば、演技力は笹野よりも千歳の方が遥かに上だ。実力からいえば、千歳がジュリエットを演じるのが適当だろう。だからといって、笹野に他の役をやらせるのは違う。しかし、そう反論すれば、それなら演目を変えろと切り返されることだろう。
「……千歳の演技は、本物の女以上に女だ」
僕は、ふと頭に思い浮かんだ言葉を口の端から零した。
吾妻と千歳がはっとしたように目を見開いた。その仕草に効果音はついていないはずなのに、僕の頭の中では音楽が流れ始めていた。
『千歳の演技は、本物の女以上に女だね。私よりもずっと女性的だよ』
かつて演劇部の部長だった高館さんがよく口にしていた言葉だった。高館さんが言うには、千歳の演じる女は男が理想とする女の姿そのものらしい。当時、女である高館さんになぜ男の気持ちがわかるのかと問い詰めたことがあるが、『葉山も脚本を書くようになったら女の子の気持ちが少しはわかるようになるよ』とはぐらかされてしまった。ちなみに、脚本を書くようになっても女子の気持ちは全くわからない。
千歳の演技は、とても自然だ。自然なのに目を惹くのが魅力だ。羽のように軽やかな仕草、水のように透き通った声、春風のように揺らめく視線の動き。高館さんは千歳のよいところをいくつも挙げたが、中でも歌うように滑らかな指先の動きが綺麗だと絶賛していた。
千歳は高館さんの助言を受けて女役を演じるようになった。僕が記憶している限り、千歳が男役を演じていたのは入部してから最初の数ヶ月間だけだったはずだ。
僕と吾妻、それから千歳は、演劇部に入部するまで誰も演技の経験がなかった。演技のスタート地点が一緒だった。強いて言えば、小学校の学芸会で主役を演じることが多かったという、人前で何かをすることに慣れていた吾妻が一歩リードしているくらいであった。バスケットボール部で数々の強豪校と渡り合ってきた僕はプレッシャーには強かったが、台詞覚えなどの暗記が苦手で、逆に千歳は物覚えはよいが人前で声を張り上げることが苦手だった。
僕たちは互いに、いつ誰が演劇部を辞めても不思議ではないと思っていた。
『ケータは一ヶ月で辞めると思ってた』
『それはこっちの台詞だ。吾妻こそ二週間で辞めると思ってたぞ』
『僕は二人共一週間で辞めると思ってたな……』
僕と吾妻の間で、千歳がぼそりと呟いた。
『はあ!?』
僕と吾妻の声が綺麗に揃った。そんな僕たちを見上げて、千歳がくすっと笑った。
『だってケイタは運動部に転部すると思ったし、吾妻はアルバイトに専念するために辞めちゃうかなって』
僕と吾妻は見つめ合ってから、
『絶対にコイツよりは早く辞めないって決めていたからな』
僕が吾妻を人差し指で、吾妻が僕を親指で指差した。
『真似すんなよ。それは俺の台詞だ』
吾妻が口の端を歪めた。
『いいや、オレの台詞だ』
僕も負けじと言い返した。
演劇に打ち込むためには情熱と憧憬が足りていなかったし、愛着や思い入れも抱いていなかった。一方で、演劇から離れるためには刺激と顕示欲が足りていなかったし、野望やプライドを手放せなかった。
僕たちは適度にサボりながら部室に通った。互いにあまり干渉はせず、それでも牽制はしながら演劇を知っていった。
僕と吾妻は張り合いながら急速に演技が上達していったが、千歳だけはいつまでも背中を丸めている状態だった。
『千歳は今日から女の子になってみようか』
高館さんは急にそう言ったかと思えば、千歳の狭い肩に手を乗せた。気まぐれ、もしくはただの思いつきだと思われた高館さんの見立ては間違っていなかった。
千歳は殻を破ったかのように演技ができるようになった。それ以来、千歳は立ち稽古のときも常に女役を演じてきた。
僕は頭の中に流れている音楽を止めた。
「オレは……女役を完璧に演じられる千歳に、男役が演じられないとは思えない」
今まで不思議だった。なぜ千歳は男役を演じられないのかと。千歳の口から出てきた理由では納得がいかない。
僕は千歳を見た。千歳は誰とも目を合わせないよう、顔を俯かせて床を睨んでおり、僕の視線には気づいていなかった。
「理屈じゃないんだろう。現に演じられないんだから」
苛立っている様子の吾妻が鼻息を荒くした。
「ケータはどうしてそこまで笹野にこだわるんだ? 笹野を舞台に上げたいのなら、お手伝いのばあや役でもやらせればいいだろう!」
吾妻が声を強くして言った。
「そういう吾妻こそ、どうしてそこまで千歳にこだわるんだ? 笹野が相手だと何か困ることがあるのか?」
僕の反撃に、吾妻が息を呑んだ。僕はその隙をついて、畳みかけるように言葉を続けた。
「オレたちはやり方を変えなくちゃいけない。今までと同じことをしていたって何も変わらないんだ!」
去年の文化祭の舞台は三十分の創作脚本だった。観客は決して多いとはいえず、後方の席は空席が目立っていた。劇が始まってからも人の出入りがあり、途中で立ち上がる人も多くいた。
文化祭で演劇を観た中学生が演劇部に入部してくれる可能性は決してゼロではないはずだ。だからこそ来年のためにも、今年の文化祭は必ず成功させなければならない。
「ヤスがヒロイン役をやっている限り、舞台の成功は見込めないってことか?」
調子を取り戻した吾妻が食ってかかる。
「違う。今のオレたちにはインパクトが必要なんだ」
「インパクト、ですか?」
白鷹が猫背の姿勢を正して顔を傾げた。口を挟むならここしかないと思ったのだろう。
「そうだ。オレたちの舞台には、人の心、いや興味を惹きつけるものが必要なんだ。前にも言ったが、笹野梅子がジュリエット役を演じる。たったこれだけのことで、笹野のことを知っている湊高校の生徒なら誰もが驚き、ド素人が作る舞台に興味を持つだろう。笹野は美人という理由だけで、この学校では有名人だ。彼女の噂はあっという間に話は広がる。千歳には悪いが、今までヒロイン役を務めてきた千歳がジュリエット役だと発表したところで、こうはいかないだろう」
ついに吾妻が黙った。僕が自分の勝手だけで笹野をジュリエット役に推しているわけではないことがようやくわかってもらえたようだ。
舞台を成功させ、部員を増やす。僕たち演劇部の目的はそれだけだ。そして、それだけのことがどれほど難しく、自分たちの思い通りにできないかということも知っている。
僕は頭の中に流れてくる映像を打ち消してから口を開いた。
「オレが心に残ると思っている舞台は、興奮、感動、共感の三つの要素を兼ね揃えている」
その舞台を実現するためには、ジュリエット役は千歳よりも笹野の方が相応しい。吾妻も笹野もとにかく見た目が派手である。見た目だけで人の目を惹きつける才能を持っている。千歳も男性でありながら女性と見間違えられる、周りよりも特別な容姿をしているが何分背が低い。そのため、どうしても男性という意外性を活かせず、男性にしては可愛らしい顔立ちをしているという分類に埋もれてしまう。その点、笹野は女子にしては背が高く、つい上から下まで視線を往復させてしまうほどのスタイルのよさだ。吾妻と笹野が横に並んだ一枚の画は、何かを期待させる予感を鳴らす。
「いっそのこと、僕が役者から下りるっていうのはどうかな?」
千歳の声が沈黙の中に混ざろうとした。
「何を言ってるんだ!」
それを逸速く引き止めたのは、部長である僕ではなく、彼の長年の相方であった吾妻だった。千歳は僕の顔をちらりと見てから、弱々しい声で言葉を紡いだ。
「ロミオとジュリエットなら二人劇でも成立するし、それでもいいんじゃないかな。コウジには神父役をやらせて三人劇にするっていう手もあるけれど……」
「それ、本気で言ってるのか?」
吾妻が声を低くする。吾妻が千歳に対して攻撃的になるところを見るのは初めてだった。
一年生の秋に三年生だった先輩たちが引退してから、演劇の主役は吾妻、ヒロイン役は千歳が務めてきた。二人の立場は絶対的だった。そんな二人の距離は、おそらく僕が想像しているよりもずっと信頼で結ばれている。舞台に上がる二人だけの、二人だけが互いに知っている姿がある。だからこそ吾妻は、相方として千歳にこだわる。
「だって、そうだろう。僕が男役を演じられないからみんなが困っている。それなら僕が役者から下りれば解決する話だよ」
その声には、僅かに嗚咽が混じっていた。混じっていたというよりは潜っていた。おそらく僕と吾妻以外は気づかない程度のものだ。
「ヤスがそこまで言うのなら、俺は何が何でもヤスを変えてやる。だから役者を下りるなんて言うなよ!」
吾妻が千歳の肩を掴み、無理やり自分の方に体を向かせた。それでも千歳は頑なに顔を下げ、吾妻と目を合わせようとしなかった。
僕たちは確実に変わっていた。二年前のあの頃とは違う。他人を干渉するということは、自分を少しだけ不自由にさせる。互いに干渉せず、自由だった僕らの姿はどこにもない。吾妻は今、千歳の中に片足を突っ込んでしまっていて、彼が自分の意志とは違う行動を取ることに心が追いついていない。
「僕が役者を下りれば、衣裳係に専念できる。それとも僕は、衣裳係としては演劇部に必要とされていないのかな。僕は裏方の仕事も十分大事な役割を担っていると心から思ってる。三年間、一度も舞台に上がらず、大道具を作ってくれていた神室さんのように、衣装係として専念するのも悪くないかなって……」
吾妻は口を開いたまま何も言い返さなかった。いや言い返せなかったのだ。彼は懇願するような眼差しを僕に向けた。
千歳の言う通り、演劇には様々な役回りがある。照明の当て方、音楽や効果音を流すタイミング、世界観を作る舞台装置、観客の心をコントロールするナレーション。どれ一つとっても妥協のできない役である。
「ケイタ。脚本はまだ仕上がっていないんだよね? それなら二人劇にする方向性も視野に入れておいて」
珍しく断定的な物言いをする千歳に誰も何も言えなかった。
吾妻の震えている視線が、いつまでも執拗に僕を捉えていた。
僕が頭に描いていた脚本とはかけ離れた現実が、目の前で繰り広げられていた。笹野のときもそうだったが、どうして上手く事が運ばないのだろうか。そもそもこういう感情を抱くこと自体身勝手だが、苛立ちよりも失望の方が大きい。
『ケータ! 何とかしろよ!』
吾妻が鋭い目つきで僕を射抜く。僕の頭の中で、吾妻の音にならない声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます