第4幕 第1場 公園にて
ゴールデンウィークが終わると、東北地方の片田舎の地とはいえ、さすがに気温が上がり、過ごしやすい天候が続いていた。頭上には柔らかそうな雲がところどころに浮かんでおり、澄み切った青空がどこまでも広がっていた。グラウンドに足を運べば、運動部の活発な声がさぞかし耳触りよく空に反響していることだろう。
特別教室棟から離れているグラウンドの様子を想像しながら、窓から乗り出していた身を引っこめ、空気を入れ替えるために開けていた窓をぴしゃりと閉めた。窓を開けっ放しにしておくには、それでもまだ少し肌寒い。
自分の席に座ろうと後ろを振り返ると、
「アユは今日から部活に参加するんだよね?」
千歳が自身の腕を抱きながら僕に訊ねてきた。東京育ちの千歳には、やはりまだ寒かったようだ。
「アユって、歩のことか? 千歳は、早速あだ名をつけているのか」
驚きが引いていく代わりに感嘆の息が漏れた。千歳からの質問を無視するわけではないが、言わずにはいられなかった。
「うん。だって『イイデ』って、言いづらくない?」
千歳が苦笑いを浮かべた。
「おいおい。演劇部のヒロインが、そんなことでどうするんだよ」
「いや、実際『イイデ』って、かなり言いづらいぞ」
千歳の隣に座っている吾妻が何度も深く頷いた。
「二人揃って何だよ。それにしても、そんな風に思ったこと、今まで一度もなかったな……」
歩の苗字を口にする機会が少なかったのは確かだが、耳にする機会は多かった。二人の意見に共感できず、顎に手を当てて唸っていると、
「存在自体が厄介なヤツですね」
白鷹がこれ見よがしに大げさな溜め息を吐いた。今までは歩があくまでも部外者だったため見逃してきたが、正式に演劇部に入部した今、白鷹の歩への敵対心を和らげてもらう必要がある。すぐにどうにかなるものではないだろうなと思いながら、
「それで歩だが、バスケ部の方の退部の手続きはゴールデンウィーク中に終わらせたそうなんだが、転部する場合は入部届に担任のサインが必要だとかで、その手続きが終わり次第、部室に来るそうだ」
ようやく千歳からの質問に答えた。
「バスケ部の方は、穏便に退部できたのか?」
吾妻が口を挟んできた。
「さあな。歩はとくに何も言ってなかったから問題なかったんじゃねえのか。入部してまだ一ヶ月弱、レギュラーメンバーだったわけでもないだろうし……」
僕が答えると、
「ゴールデンウィーク明けって、地味に退部者が出てくるタイミングよね」
笹野が単語帳から目を外さないまま言った。
「そうだな。ゴールデンウィークも休みなく練習がある部活だと、少しずつサボるヤツが出てきたり、初心者が理想と現実のギャックについていけなくなる時期だったりするからな」
僕は息を長く吐きながら言った。
「弓道部や硬式テニス部は、半年間で新入部員の半分はいなくなるって話を聞いたことがあるよ」
「うちの運動部なんて、どこも大した練習量ではないんですけどね」
千歳の言葉に、白鷹が返した。
「練習についていけないっていうよりは、レギュラーメンバーになれなくて、やる気をなくして部活に来なくなる人が多いらしいよ。大所帯には大所帯の悩みがあるってことだね」
「贅沢な悩みだな」
吾妻が言いながら頭の後ろで腕を組んだ。
「それがこっちに流れてくきてくれるんなら、文句なしなんですけど」
白鷹がキーボードを打ちながら言った。
「結局、うちって進学校なんだよね」
千歳が肩を竦めた。千歳の言う通り、本校の学生は、部活を辞めると他の部に転部するのではなく塾に通い出す者が多い。まるで部活に打ち込んでいた時間を取り戻すように。
会話が一段落すると、廊下から派手な足音が聞こえてきた。
「噂をすれば何とやらだな……」
吾妻が言い終わるのと同時に戸が勢いよく開き、
「今日からよろしくお願いしまーす!」
歩は、初日だというのに緊張している素振りを一切見せず、狭い部室には十分過ぎる声量で挨拶をしながら中に入ってきた。
「歩の席はそこな」
僕は吾妻の隣で、舞鶴さんの正面の席を指さした。はーい、と間延びした返事をしながら歩が席に着いた。
「ケータの舎弟なんだって?」
今まで歩と面識のなかった吾妻が、不機嫌そうに目つきを鋭くして歩を見た。その目は警戒しているというよりは値踏みをしているように見えた。
「吾妻さんですよね? 話に聞いていた通り、本当に格好いいですね! クラスメイトに演劇部に転部するって言ったら、女子たちから吾妻さんの連絡先を聞いてきてくれって頼まれていたんですよ!」
歩は吾妻の視線の意味に気づいていないようで、曇りのない眼差しを彼に向けた。吾妻は歩の予想外の反応にたじろいだ後、「何だ。わかってるじゃないか」とにやける口元を隠さずに言った。
「それよりも、転部の手続きは終わったのか?」
僕が訊ねると、
「うん、バッチリ!」
歩が僕に向かってピースサインを突きつけてきた。
「それじゃあ、吾妻と歩は初対面だし、自己紹介でもするか。オレはいいとして、千歳から時計回りで頼む」
はーい、と言ってから、千歳が背筋を伸ばして自己紹介を始めた。
「三年四組の千歳恭典です。役者をしつつ、衣装制作も担当しています。あと、一応副部長です。よろしくね」
「千歳さんって、新入生歓迎会のときに女装していた方ですよね? クラスですごい可愛いって評判になってました! ちなみにおれは、千歳さんのことを女子だと思ってました!」
「何か恥ずかしいな……」
千歳が人差し指で頬を掻いた。
「次、吾妻!」
話を切らないといつまでも続けそうだと判断して手を叩いた。
「三年四組の吾妻静央だ。役者と会計を担当している。よろしく」
「吾妻さんって、身長何センチですか?」
「百八十一だ」
「おれ百八十三センチなのに、吾妻さんの方が高く見えますね。顔が小さいからですかね……」
顔が小さいからではなく、態度がでかいからの間違いだろうと思いながら、
「次は……歩は一旦飛ばして、舞鶴さん」
歩の前の席に座っている舞鶴さんに話を振った。
「一年二組の舞鶴満衣香です。新入部員で、今は千歳さんと一緒に衣装を作ってます。他に一年生がいなくて心細かったので嬉しいです。これからよろしくね」
「おれも同じ一年がいて嬉しいっす!」
歩が気持ち程度に頭を下げた。
「次、笹野よろしく」
「三年二組の笹野梅子です。私はわけあって演劇部の手伝いをしているだけで、本当は英会話部なの。演劇部では照明のお手伝いをしているわ。よろしく」
笹野は執拗に「お手伝い」という言葉を使って自己紹介を終えた。顔を俯かせて必死に笑いを堪えている千歳の隣で、吾妻は隠す気がさらさらないのだろう、にやにやと口元を緩ませている。
「そうだったんですね……。てっきり演劇部の方だと思っていました。こんなに綺麗なのにもったいないですねー」
歩が不思議そうな顔で瞬きをした。事情は察したようだが、納得はしていない顔だ。
「おい! しれっと笹野先輩を口説くんじゃねえ!」
白鷹が歩に噛みついた。
「こら、次は白鷹の番だぞ。自己紹介をしろ」
白鷹は面白くなさそうに眉を寄せてから、
「二年五組の白鷹光司。役者だ。あとは音楽素材を探したり、小道具を作ったり、裏方の作業もしている。以上」
最後に鼻息を鳴らした。
「白鷹はパソコンとか機械製品に詳しいから、そういう面でとても頼りになる男だ」
白鷹の自己紹介があまりにも素っ気なかったため、本人に代わって補足してやる。
「タカさんは見た目通りですね」
白鷹の左眉がピクリと動いたのを見て、千歳がまあまあ、と真っ先に彼を宥めた。
「それじゃあ、最後に歩」
「ええ!? せっかくだから、ケイちゃんも自己紹介してよ!」
歩が大げさに声を張り上げた。
「わかったよ。三年一組の葉山圭太だ。演劇部の部長で、脚本、演出、舞台監督を担当してる」
おおー、と歩が拍手をした。名ばかりの部長だけどなー、と吾妻が軽口を叩いた。僕は彼らを無視して言葉を続けた。
「あと一人、紹介を忘れていたな。今日はいないというよりも、部室にはなかなか顔を出してくれないんだが、顧問は数学の熊野先生だ。熊野先生は一年生の数学も担当していたはずだが、知ってるか?」
「うん、おれのクラスの数学は別の先生だけど、さっき担任に教えてもらって、職員室で挨拶してきた!」
「そうか。顔合わせが済んでいるのなら手間が省けてよかった。それじゃあ、改めて歩、自己紹介を頼む」
「一年三組の飯豊歩です! バスケ部から転部してきました! 今日からよろしくお願いします! ケイちゃんとは生まれたときからの幼馴染みで、親同士が仲がよかったので、おれが幼稚園に入る前から一緒に遊んでいました! ケイちゃんはバスケがすごい上手くて、中学のときは三瀬さんっていう、これまたすごいバスケが上手い人とのコンビが本当にすごくて……」
「おい、途中からオレの話になってるじゃねえか。恥ずかしいからやめろ!」
僕は思わず椅子から尻を浮かした。
「ええー。まだ話し足りないよ」
歩が不満げに頬を膨らませる。
「歩には音響を始め、音楽関係のことを担当してもらうつもりだ」
「……次の舞台からですか?」
白鷹がノートパソコンの上から顔を覗かせて訊ねてきた。今まで舞台で使用する音楽は、白鷹がインターネットから著作権フリーのものを探してくれていた。白鷹が入部してくるまでは、部室に置いてあったBGMを集めたCDを使っていた。が、ワンパターンになりがちなうえに、ぴったりくるものがないときもあった。それゆえに、舞台に奥行きが生まれたといっても過言ではない。
「ああ。そのつもりだ。とにかく、目標の人数にはまだ足りないが、これで演劇部もついに七人だ!」
僕は声高々に言った。千歳、吾妻、それから白鷹の顔が気持ち引き締まって見えたのは、決して気のせいではないだろう。
「それじゃあ、早速……」
言いながら千歳が椅子から立ち上がり、黒板の前に立った。それから黒板の右下に書かれているピンク色の「3」を黒板消しで消すと、そこに今度は「2」と書いた。
おお、と小さな歓声が上がった。
たった「1」の違いだが、この「1」の違いが持つ意味はとても大きい。
吾妻の口角が上がり、千歳の目が光ったことを、僕は見逃さなかった。
小休憩を挟み、歩がロミオとジュリエットのあらすじがあやふやだったこともあり、今日は図書室から借りてきた「ロミオとジュリエット」の映画を鑑賞することした。
「今回観てもらう作品は、数あるロミジュリ映画の中でも、比較的年代の新しい一九六八年版だ」
僕はDVDのパッケージの裏側を見ながら詳細を読み上げた。
「オリビア・ハッセーが主演している作品だよね。ファンの間では、音楽も評価されているらしいよ。サウンド・トラックも人気があるんだ」
僕の大雑把な説明を補足するように、千歳が嬉々とした声で語った。
「やけに詳しいな」
気怠そうに体を崩して椅子に座っていた吾妻が、横目でちらりと千歳を見た。
「中学生のときに観たことがあってね。それに僕、映画は結構好きだから、ときどき映画雑誌もチェックしているんだ」
千歳の言葉に、僕は何度か訪れたことのある彼の部屋を思い出した。確か本棚には映画雑誌の他に、映画のパンフレットも並んでいた。千歳の演劇への入り口は、もしかしたら映画なのかもしれない。演劇も映画も伝え方が少し違うだけで、空想を真剣に表現するという意味では同じだ。
「そういうことらしいから、歩は音楽にも注目しながら観てくれ」
「はーい」
歩が長い手を挙げながら返事をした。
僕は白鷹の手を借り、DVDディスクをパソコンで再生する準備を整えた。
「映画の視聴が終わったら、みんなで意見交換をするからな。途中で居眠りするなよ。あと雰囲気を掴んでもらうために、今回は日本語吹き替えの設定にはしないから、しっかり字幕を目で追うように」
注意事項を伝え終わった僕は、天井に取り付けられているスクリーンの紐を引いた。教室の照明を落とすと、白鷹が再生ボタンを押した。
二時間近くに渡る映画が終わり、教室の照明をつけると、みんな眩しそうに目を細めた。映画に夢中になっている間に日は沈み、外はすっかり暗くなっていた。
映画は舞台とは違い、臨場感がないはずなのに、それでも名作と呼ばれるものは容赦なく心を握り潰し、呼吸を苦しくさせる。それは、きっと嫉妬だ。ただの高校生である自分が、プロと呼ばれる人たちと対等であろうと、同じステージに立とうとしていること自体が驕りかもしれないが、表現者として羨ましく、憎しみさえ生まれ、少し焦る。僕は脈打つ心臓の音を都合よく無視して、高揚している顔を持ち上げた。
「今から一人ずつ順番に意見を聞いていく。ずばり『ロミオとジュリエット』とは、どういう物語か。自分の感じたことを素直に言い表してみてくれ」
最初の議題を投げかけた。
副部長でありながら書記も務める千歳が黒板の前に立ち、チョークを手に取った。
「まずは吾妻から」
僕は、口を豪快に開いて欠伸を零した吾妻に人差し指を突き付けた。
「そうだなあ……。解釈は色々できそうだが、今の段階で答えるなら、運命の皮肉とでも言っておこうかな」
吾妻が手の甲で目を擦りながら答えた。口元によだれの跡はついていないが、映画の途中で寝ていたかどうか怪しいところだ。
「次は白鷹」
吾妻の居眠りには目をつぶることにして、早速ノートパソコンの画面に向かっている白鷹に話を振った。
「自分は……笹野先輩が、ジュリエットを演じるのかと思うと、今から楽しみで仕方ありません!」
「タカ、ちゃんと観てたのかよ……。それは感想じゃないだろう」
吾妻が全員を代表して呆れた声を漏らした。僕たちの視線の意味に全く気づいていない様子の白鷹は一人目を輝かせている。
「ところで、ジュリエットは何歳の設定なんですか? ずいぶん幼く見えましたが、十六歳くらいでしょうか?」
「映画の中で、もうすぐで十四歳になるという台詞が出てきただろう」
僕は声を強くして言った。
「そうでしたっけ?」
白鷹はけろりとした顔を右に傾けた。おそらくジュリエットを演じる笹野の妄想に夢中で、字幕を追い切れなかったのだろう。
「ちなみに、ロミオには正確な年齢の描写はないが、十七歳前後と推測されているらしい。当時の法律だと、女性は十二歳で婚約できたとのことだ。この辺りの情報はインターネットにいくらでも転がっているから、興味があったら自分で調べてみてくれ」
僕は演目を「ロミオとジュリエット」に決める前に、市立図書館に引き篭もり、置いてあるシェイクスピア関連の書籍に目を通した。その結果、わざわざ自分から知ろうとしなくても、自然と知る機会のある「ロミオとジュリエット」という物語を、いかに記号としてしか理解していなかった事実に驚いた。
「中学一年生で結婚ですか。これも時代ですかね。自分には全く想像がつきません」
白鷹が溜め息交じりに言った。
「昔は寿命も短かったからなあ……。そのくらいの年に結婚しておかないと、子孫をたくさん残せなかったんだろう」
吾妻が首を伸ばして横から答えた。
「笹野はどう思った?」
僕は吾妻が博識モードに入る前に話を切り上げるべく、今度は笹野を指差した。
「私は愚かな物語だと思ったわ」
笹野がきっぱり言い切った。
「これはまた笹野さんらしい意見だね」
千歳が黒板に書きつけながら言った。
「具体的にどこが?」
吾妻が口を挟んだ。
「いくら好きな相手が亡くなったからといって、後を追って命を絶つなんて愚かだわ。長年連れ添った相手ならまだしも一目惚れした男よ。私には到底理解できないわ」
「ジュリエットを演じる立場としては、理解してもらわないと困るんだけどなあ……」
僕は鼻息を荒くしている笹野を見つめた。
「僕は、二人にとってそれだけ運命的な出会いだったっていうことだと思うよ。特にジュリエットは年齢から考えても、初めての恋だったのかもしれない」
千歳が指先についたチョークの粉を手で払いながら言った。
「例えそうだったとしても、私にはそんな恋愛できないわ」
「それ以前に、笹野さんは男の趣味が悪そうだからなあ……」
千歳が惚けたように空を見ながら言った。
「書記は黙って!」
癇に障ったのか、笹野が歯を剥き出して言った。千歳が笹野をからかうのが珍しければ、笹野が千歳に声を荒げるのも珍しい。とはいえ笹野が吾妻に好意を寄せているのは明白で、おそらく当人の吾妻も気づいている。気づいていないのは、周囲が気づいていることに気づいていない笹野だけだ。
「ごめん」
千歳が慌てて頭を下げた。
「こら、喧嘩するな。舞鶴さんの意見は?」
僕は二人に注意してから、笹野の隣に座っている舞鶴さんを見た。舞鶴さんの目は微かに赤く滲んでいた。
「わたしは、ドラマチックな物語だと思いました」
「マイちゃんは、こういう恋愛に憧れるの?」
千歳が訊いた。
「死ぬのは怖いですけど、こういう恋愛ができるのも特別な人生なのかなと思います。地味な満衣香には一生縁のない世界だし、羨ましさがあると言えばそうかもしれないですね」
千歳がなるほど、と呟く。
「歩はどう感じた?」
「おれは難しいことはよくわからないけど、昔は大変だったんだなあって思った。おれたち戦争とかよく知らない世代でしょう。だから家柄とかピンとこないじゃん。自由に恋愛ができないなんて可哀想だなって思った」
「そういえば歩は、彼女持ちだったな」
僕がポロッと言葉を溢すと、
「うちの部、恋愛禁止じゃないんですか?」
白鷹がノートパソコンの画面を閉じて僕の方に身を乗り出してきた。
「どの口が言ってんだ」
僕は呆れを通り越して驚き、思わず白鷹の口を見た。その口で、毎日、毎日飽きもせず笹野を口説いているというのに。
「そりゃあ、そうかもしれないですけど! でも三年生は、みなさん恋人がいないじゃないですか!」
白鷹が声を震わせながらも高々に言った。
「僕はモテないだけだから……」
千歳が答えると、
「ヤスはモテないんじゃなくて、作らないだけだろう。俺もそうだけど。まあ、ケータは違うけどな」
吾妻が僕に視線を投げてきた。
「なにが偉そうに、作らないだけだ、よ。作れないの間違いだろう」
鼻で笑ってやると、
「そうか。そういう態度か。この間クラスの女子から、ケータの連絡先を教えて欲しいって頼まれたけど、断っておくな」
「おま、そういう大事なことを黙ってるんじゃねえよ!」
吾妻が人を小馬鹿にするように、にやにやと笑っている。
「なあ、千歳。その子、可愛かったか?」
僕は千歳の方に身を乗り出した。
「僕はそんな話、知らないよ」
千歳が胸の前で手を振った。
「それ、女子が吾妻先輩の連絡先を入手する鉄板の技じゃないですか?」
白鷹が据えた目を向けてきた。
「ふざけんなよ!」
僕は吾妻に詰め寄った。
「真意までは知らねえよ。俺はあくまでも事実を口にしたまでだ」
「葉山、後輩がいる前でみっともないわよ」
笹野が呆れた声を出す。
僕は喉仏まで競り上がっていた次の台詞を引っ込め、大袈裟に深呼吸をしてから、
「次は、千歳」
そう言うと僕は、首を回して後ろを振り返った。
千歳は黒板にチョークを打ち鳴らしながら答えた。
「僕は、運命の悪戯かな」
千歳のいやに落ちついた声に、室内は静かになった。千歳はそれを気にするわけでもなく言葉を続けた。
「この物語はフィックションだから、あくまでも人の手によって操作されたものだけど、全てのできごとが緻密に計算され、ドミノ倒しのように綺麗に機能して悲しい結末へと導かれている。ロミオとジュリエットが周囲から祝福される恋人同士になれなかったのは互いの親の不仲が原因だし、その元を辿れば、派閥があった時代のせいだ。ロミオがティボルトを殺してしまったのも事故で、彼の本心ではなかった。ロミオが、ジュリエットが死んだと勘違いして自殺したのも、彼の元に手紙が届かなかったからだ。そういうすれ違いの連続が、神様に嫌われていたとしか思えない悲劇を作り出している。お芝居として、完璧な物語だと僕は思うよ」
千歳の意見は他のみんなの感情的なものと違い、実に客観的なものだった。そこに彼の感情はなかった。
「それで、ケイタはどう思うの?」
千歳は自分の考えに意見が返ってくるのを拒むよう自身で話を区切ると、お返しとばかりに僕に訊ねてきた。
「オレは、存命のための物語だと思っている」
「存命?」
吾妻が首を捻った。
「ロミオもジュリエットも互いのためだけに生きようと必死だったと思うんだ。逆に、互いのため以外には生きようと考えていなかった。だからこの物語は、オレたちが演じるに相応しい物語だと思っている。彼らは自分たちの存在をかけた戦いをしていた」
演劇部は、昨年から廃部の危機に見舞われている。昨年は、同じく廃部の危機に陥っていた、笹野が所属する英会話部と合併することで何とか乗り切ったが、それも運がよかっただけで同じ手はそう何度も使えない。演劇部の活動を共存できそうな部で、部員数に不安を抱えている部は他にない。
この夏の文化祭が終わって僕たち三年生の四人が引退すると、残る部員は二年生の白鷹と、一年生の舞鶴さんと歩の三人になる。
湊高校の部活動は、部を名乗るためには部員が最低五人は必要である。それ以下の人数になると、部ではなく愛好会の扱いになる。部と愛好会の大きな違いは部室と部費の待遇である。愛好会は既定の活動場所となる部室を与えられず、空き教室での活動を強いられる。また部費も他の部活と比べて圧倒的に少なくなる。
部の見直しは、年に一度、年度初めに実施される。来年の春、新入生の入部届け提出期間の最終日までに部員が五人いればいいのだが、今年度のように数人しか入部しない可能性を考えると、在校生だけで五人は揃えておきたいところである。
「なるほどね。ケイタがロミジュリにこだわっていた理由が、少しだけわかった気がするよ」
そう言うと千歳は、手に持っていたチョークを静かに置いた。
戯曲「ロミオとジュリエット」は、イングランドの劇作家であるウィリアム・シェイクスピアの作品だ。四大悲劇には含まれないが、彼の代表作であることは間違いなく、おそらく今の日本でこの物語のあらすじを知らぬ者はいないだろう。そして物語の結末を知っているからこそ、観客は自分の好きなシーンに期待する。盛り上がる瞬間を今か、今かと待ってしまう。
僕は一息ついてから、新たな議題を投げかけた。
「次は、吾妻はロミオ、笹野はジュリエット、千歳はマキューシオ、白鷹はティボルトの最も記憶に残ったシーンを順番に上げていってくれ」
今度は考える時間をとった。
「俺はやっぱりクライマックスの毒を飲むシーンだな」と吾妻。
「私はバルコニーのシーンね」と口元に手を当てながら笹野が続いた。
「僕はティボルトと剣を合わせるシーンかな」と千歳。
白鷹は唸り声を上げてから、
「自分はロミオに討たれるシーンですね。というか、そこしか見せ場がないですから」と自虐的に笑った。
僕はそれぞれの意見に一々頷きながらノートに書きつけた。
「それじゃあ、今から自分が語ったシーンを再現してもらおうか」
突然の提案に、四人が一斉に驚きの声を上げた。
「さあ、早く!」
僕は手を二度打ち、瞬時に場をコントロールした。
不満を零しながらも吾妻は、一度しか見ていない映像だというのに、頭の中でしっかりイメージができているのか、見事にロミオの死を再現した。
対して笹野は、どこか気恥ずかしがっている様子ではあったが、何とかジュリエットの未熟な幼さを演じて見せた。そんな彼女を、白鷹が息を潜めて見つめていたのは言うまでもない。
一番危惧していた笹野の番が終わり、これでみんな順調かと思いきや、問題は千歳だった。舞台の上では女役しか演じたことのなかった千歳は、突然の男役に誰よりも戸惑っている様子だった。台詞を口にする声は裏返り、体の動きはロボットのように硬い。彼の男役の演技がここまで酷いものであったことを、僕はすっかり忘れていた。
「迫力が足りないんじゃないのか? もっとこう、喉をかっと開いて台詞を言ってみろよ」
黙っていられなくなったのか、吾妻が千歳にアドバイスを始めた。それを受け、千歳がもう一度演じる。が、緊迫感は全く伝わってこない。それどころか台詞が跳ねる、跳ねる。堪らずといった調子で、吾妻が渋い顔を横に振った。
千歳の大根演技は一朝一夕では解決できないと判断し、白鷹に交代した。白鷹はいつもの調子で、持ち前の運動神経のよさをさり気なく披露しながら、見えない敵との決闘を演じ切った。
白鷹といえば、パソコンオタクのイメージが強いが、短距離走も長距離走も得意で、スポーツテストでは大活躍しているほどである。ソフトボール投げでは、現役野球部のエースを打ち負かしたこともあったはずだ。
白鷹の演技が終わり、全員が席に着くなり、
「本当に、ヤスにマキューシオ役をやらせるのか?」
机に拳を打ちつけた吾妻が眉間にしわを寄せた。
他人に関心の低い吾妻が、千歳にジュリエット役をやらせたかった理由。いや、笹野にジュリエット役をやらせたくなかった理由。本当は全部、気づいている。気づいていて、いや気づいているからこそ利用した。
「まだ時間はあるんだ。これから練習すればどうにかなるだろう……」
僕は何でもないという風を装って、しっかりとした声で答えた。それは期待というよりは懇願だった。
僕の言葉を受けても、当人の千歳は黙ったままだった。
吾妻は口を開いたが、言葉に迷ったのか、それとも声に出すことを躊躇ったのか、ついに音にしないまま形のよい唇を結んだ。それが憎たらしくもある。
この日の部活は、新たな問題を残したまま終わりの時間を迎えた。
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