第3幕 第4場 灯台にて

 ビデオ鑑賞が終わると、歩が部室から出ていった。彼は茫然自失している様子で、ついに最後まで口を開かなかった。僕を始め、彼を引き止める人は誰もいなかった。

 僕は部活が終わると、自転車を置いてくるために一度家に帰り、ついでにスクールバッグを自室のベッドの上に放り投げてから、走って歩の家に向かった。

 時刻は十九時を過ぎていたが、歩は晩ご飯を食べるとすぐに外へ出て行った、と玄関で応じてくれた歩の母が答えた。

 中学校卒業ぶりに訪れた歩の家は、昔より少しだけ玄関が片付いていた。遊びに行くといつも家族の人数分以上に三和土に並んでいた靴は靴箱に片付けられており、靴箱の上に乱雑に飾られていた形も色も異なる幾つもの写真立てが全てなくなっていた。その代わりにずっしりとしたガラス製の花瓶が鎮座し、オレンジ色のガーベラが存在感を主張していた。

 歩の母は、笑顔で僕を歓迎すると、歩はコンビニに行ってるだけだろうから家に上がって待っていなさい、としつこく勧めてきた。さらに僕がまだ夕飯を食べていないことを知ると、僕の腕を掴むふくよかな手の力が強くなった。歩が戻ってくるまでの間、歩の母から質問攻めに合い、箸でおかずを掴んだまま苦笑いを浮かべる自分の姿がありありと想像でき、それだけは絶対に回避しなければならないと頭の中で警告音が響いた。

 鼻息が荒くなる歩の母に、勉強しなければならないから日を改めると話すと、エプロンの裾で何度も手を拭きながら渋々リビングへ戻っていった。受験生の口から出てくる「勉強」は唯一無二の最強ワードだ。

「勉強なら仕方ないわね。それなら、せめてこれだけでも持って帰って!」

 歩の母はリビングから踵を返すように戻ってくると、

「はい! ケーくんの大好物!」

 とびきりの笑顔を浮かべながら、僕にビニール袋を握らせた。歩の母の言葉から、中身を確かめなくとも袋の中に何が入っているのかがわかったが、念のため確認してみる。湯気を掻き分けて袋の中を覗くと、予想的中、想像した通りのコロッケがフードパックに敷き詰められていた。

 コロッケが僕の大好物だと思っているのは、歩の母の勘違いである。いや、自分を守るための設定だった。コロッケはあまり料理が得意ではない歩の母の手料理の中で、美味しいと思える数少ない一品なのである。そのため僕は、歩の母にコロッケが好きだと公言することで、歩の家で食事をご馳走になるときにコロッケが出てくる確率を高めていたのだ。

「いや、突然押しかけてきたのに悪いですよ……」

 僕はビニール袋を歩の母に押し返した。

「いいの! いいの! 気にしないで! 恵と歩の明日のお弁当にも入れてあげようと思ってたくさん揚げたから、まだまだいっぱいあるのよ!」

 歩の母が手を激しく左右に振る。自身の手を団扇と勘違いしているかのようだ。僕の方にも風がくる始末である。

「実はコロッケを作るのは久しぶりなのよ。そんな日にケーくんが家に来てくれるなんて、まるで奇跡みたいだわ。宝くじを買ったら当たるかしら?」

 歩の母が声高に笑った。

「いや、むしろ運を使い切ったと思った方が……」

「そんなことより! 恵を呼んで来るわ! あの子、今日は珍しくこの時間に家に帰ってきてるのよ! 急に体育館が使えなくなったとかで! これも奇跡みたいだわ!」

 僕の話を聞いているのかいないのか、歩の母が一人で喋りだし勝手に盛り上がっている。

「い、いえ! 大丈夫ですから! これ、いただきますね! おばさんのコロッケ嬉しいなあ! それじゃあ、また!」

 僕はコロッケを胸元にがっしり抱えると、歩の母の口がもう一度開く前に、脱兎の如く家から飛び出した。玄関の戸が閉まるのと同時に全身を使って息を吐き出す。

 自分のことを見知った人の前で演技をするのは難しい。深呼吸を繰り返していると、玄関の前に停めてある歩の自転車が目に入った。これのせいで、てっきり家にいるものだと勘違いしてしまったのが運の尽きであった。

 尽きといえば、と思い、ふと空を見上げる。今夜は月が綺麗だ。少し雲はあるが、切れ間から月が覗いている。

 伸ばした首を戻すと、疲れがどっと押し寄せてきた。家に帰るか、と一歩踏み出すと、

「……本当にいるわ」

 突然、背後から声がして、驚いて振り返った。玄関の扉の前に、Tシャツに短パン姿の恵が立っていた。扉の隙間から漏れ出す橙色の光が逆境となり、表情はよく見えない。

「元気そうじゃん」

 僕が挨拶の一つも返さないでいると、恵が言葉を続けた。

「……太ったか?」

 恵を前にすると、こんな言葉ばかりが真っ先に口から飛び出す。

「相変わらず失礼なヤツね。アンタはその制服、ちっとも似合っていないわよ」

 恵の方も慣れたもので、僕の軽口にいちいち腹を立てたりしない。仕返しとばかりに嫌味が返ってくる。

「ほっとけ」と言葉を吐き捨てる。

「……で、いまさら何しに家に来たわけ?」

 恵の棘のある言い方に、喉元を掴まれた錯覚に陥る。別にお前に会いに来たわけじゃねえよ、と思いながら黙り込んでいると、

「まあ、歩の態度を見ていれば、大体のことは察しがつくけどね。絵に描いたような単純ぶりだから」

 恵がため息混じりに言った。肩の位置よりも短く切り揃えられた髪の毛が僅かに揺れる。

「狭い家の中でさ、溜息ばっかりつかれるとうんざりするんだよね。いい加減、アイツに引導渡してやってよ」

 恵は言いたいことだけ言うと、僕の返事も聞かないうちに家の中に入って行った。

 僕はもう一度、歩の自転車を見つめた。歩の母はコンビニと行っていたが、おそらくそこにはいないだろう。自転車を置いていったとなると、徒歩で行ける場所はかなり限られてくる。そうとわかれば、歩の行き場所は自ずと一つに絞られた。

 奇跡、か……。

 コロッケの匂いが鼻先をくすぐる。僕は、歩の母の言葉を思い出しながら再び歩き始めた。



 百五十メートルほど続く急な勾配の坂を上り、日和山公園に向かう。僕が歩いている反対側の歩道では、中学生と思わしき少年が自転車を立ち乗りで漕いでいる。ペダルが重たいのか、車体がふらついていて危なげだ。

 日和山公園は僕らにとって小さい頃からの遊び場であり、庭のような場所である。幼い頃、休日は一日中外にいる時間のほうが長かった。今思い返してみると、よく飽きもせず、毎日同じ公園の中を駆け回っていたものだと感心するくらいだ。

 坂を上りきると、右手側に海向寺の入口、左手側に三軒立ち並んでいる売店が見えてきた。手前の二軒はシャッターが下りていたが、一番奥の店はシャッターが半分開いていた。ちょうど片付けに取り掛かるところで、営業時間は過ぎていたが顔見知りの好みでおでんを買わせていただくと、それを持ったまま公園の中へと突き進んだ。

 互いの両親が不在のときは、よくここのおでんを昼飯代わりに食べていた。子どものくせに、からしを少しだけ付けて食べる玉こんにゃくが大好きだった。歩は僕の真似をして、玉こんにゃくにからしを付けては、辛さが我慢できずに泣き出すという行為を何度も繰り返していた。

 砂利道の坂は下らずに常夜灯の前を通りすぎ、さらにそのまま真っ直ぐ突き進む。短い林道の通路を抜けると、六角灯台を照らす紫色のぼんやりとしたライトを浴びている歩の姿があった。

 歩は方角石の石像に手を付き、遠くを眺めていた。闇が深いせいで、灯台が放つ光は鮮明だ。歩の目は旅人のように迷っていた。遠くに投げたその目で、今は見えるはずのない風車の羽を眺めているようだった。

 自分の方に近づいてくる足音に気づいた歩が、緊張した顔付きで振り返った。歩は足音の正体が僕だとわかると、安堵したように口元を緩めた。自分のことを棚に上げるが、こんな遅い時間帯に公園を訪れる人は多くない。見知った顔で安心したのだろう。

 僕は歩に声を掛けないまま、彼の傍にあるベンチに深く腰を掛けた。この場所からは日本海と市街地が見渡せる。今はただ真っ暗な景色が広がっているが、夕日が水平線に向かって落下すると、月山の頂がいちご味のかき氷のように彩られ、建物が赤く染まり、出羽大橋は夕焼けを反射する。

「まさか、ケイちゃんの方からおれに会いに来てくれるとは思わなかった……」

 歩は僕の隣に腰を掛けるのを躊躇ったのか、方角石の石造に腰を預けてもたれかかった。

「まあな」

「何を持ってるの?」

 歩が僕の手元を指差しながら訊いた。

「おばさん特製のコロッケ。いらないって言ってるのに、持っていけってきかなくてさ。押しが強いところは昔から全然変わらねえなあ……」

「いや、十キロくらい太っただろう」

「確かに」

 僕は遠慮なく口を大きく開いて笑った。それに釣られたように歩も笑う。おばさんだけではない。僕も歩も間違いなく変わった。背丈が伸びただけでなく、関係性も変わった。かつて僕と歩は、幼馴染みで先輩後輩でチームメイトだった。

「……それから、おでん」

 僕はおでんの方の袋を掲げて見せた。

「おでん!」

 歩の体が跳ね上がった。

「冷めないうちに食べようぜ」

 僕と歩は昔と同じように、一つのトレイに入っているおでんをつつきあった。僕はまずはんぺんを口の中に放り込んだ。おでんの汁が染み込んでいるはんぺんは、奥歯で噛む度に口内に美味しさが広がった。歩は真っ先に玉こんにゃくに箸をつけた。その玉こんにゃくに、トレイの端に塗ってもらった真っ黄色の辛子を塗りたくっている。僕は好きなものは後から、歩は好きなものは先に食べるところは変わっていない。

「ここの玉こんにゃく、久しぶりに食べるけどやっぱり美味いなあ……」

 歩が咀嚼しながら呟いた。あの頃と同じように辛さを我慢できずに泣き出すのではないかと、つい歩の顔を凝視してしまったが、さすがにそんなことはなかった。歩はすました顔で、玉こんにゃくの次に好物である玉子にも辛子を塗ると、それを美味しそうに頬張った。

「ほら、コロッケも食えよ」

 期待が外れた僕は、腹いせとばかりにコロッケのトレイを歩に押し付けた。

「やだよ。それはケイちゃんがおれのかあちゃんから貰ったものだろう。それにおれ、ここに来る前に食べてきたし」

 歩が口先を尖らせる。

「一人でこんなにたくさん食えるか」

「……ったく、しょうがないなあ」

 そう言うと歩は、おでんの汁にコロッケを漬けた。

「何してんだ?」

「え? そばのトッピングでコロッケがあるじゃん。そばつゆがいいなら、おでんのつゆも別によくない?」

「いや、全然違うだろう」

 おでんコロッケ、普通にいけるよ、と歩が口を動かすが、どうにも気が進まない。僕はようやくコロッケに手を伸ばすと、おでんの汁に漬ける真似はせず、そのまま口に運んだ。揚げてから時間が経っているせいか、衣がしっとりしている。おばさん特性のコロッケは思い出補正が強かったようで、記憶していた以上に美味しくなかった。美味しくないが、懐かしい。

「ごめん。ケイちゃん……」

 歩が箸を動かす手を止めると、ぼそっと呟いた。

「何が?」

 僕は意地悪に言葉を返した。

 港が近いため、耳を澄ませると波の音が微かに聞こえてくる。僕は、歩がもう一度口を開くのを静かに待った。冷気を含んだ風が吹いているが、おでんを食べているおかげで体は温かい。

「おれの気持ちを一方的に押し付けてごめん……。バスケが上手くならなかったのは自分の問題なのに、ケイちゃんに期待を寄せて、ケイちゃんがバスケを辞めたら裏切られたって騒いで……。それに本当は、演劇部で頑張っているケイちゃんの姿を見て、全然変わっていなかったってほっとしていたんだ。だけどケイちゃんには、どうしてもバスケを辞めて欲しくなかったから、ついあんなことを言った……」

 歩がおでんを見つめながら言葉を漏らした。おでんのつゆに、歩のくしゃっと歪んだ顔が映っている。

「オレも歩に何も説明しないまま、逃げ続けて悪かったと思っているから、ここには謝りに来たんだ。歩にバスケを教えたのは、オレだからなあ……」

 僕は小学二年生のときに、学校が運営しているバスケットボールの少年団に入った。すぐにバスケに夢中になった僕は、都合の良い練習相手が欲しくて、歩に無理やりバスケを教えた。当時まだ幼稚園児だった歩はボールを上手く扱えず、僕が覚えたばかりの技を自己満足に披露することの方が圧倒的に多かった。それでも歩は、嫌がることなく僕に付き合ってくれていた。今思い返すと、歩からしてみれば、練習相手ではなく遊び相手だったのだろうが。

 歩は小学校に入学すると、僕の後を追いかけるように少年団に入った。歳が二つ離れていることもあり、僕と歩が同じ試合に出場する機会は少なかったが、小学校、中学校と通して、チームメイトとして一緒にバスケをした期間は長い。

 歩はくるりと踵を回転させ、僕に背中を見せたかと思うと、

「ケイちゃんは、やっぱり今でもオレのヒーローだ!」

 港に向かって大声で叫んだ。その声は暗闇の中に吸収され返ってこなかった。

「恥ずかしいヤツめ……」

 歩は振り返ると、嬉しそうに口元を緩ませた。灯台を照らしている青色と紫色の光が、彼の笑顔を不気味に浮かばせていた。

「そういえば、歩はこんなところで何をしているんだ? おばさんが、最近歩が夜に家を抜け出すようになったって心配してたぞ?」

 僕は冷めてきたコロッケを膝の上からベンチの方へと移した。

「ギターを弾いてるんだ。そこに立て掛けてあるだろう」

 歩が指差した方向にギターが置いてあった。黒いケースに入っているため、闇に紛れ込んでいて全く気づかなかった。

「ギターが弾けるのか?」

 歩が楽器を弾けるとは知らなかった。歩も歩の姉の恵も、いや飯豊家は音楽とは無縁な一族とばかり思い込んでいた。

「簡単な譜面なら」

 歩は腕前に自信がないのか、遠慮がちに答えた。

「弾いてみせろよ」

「ええ?」

 歩が目を丸くして驚く。

「どうして驚くんだ? ここにはギターを弾きに来たんだろう」

「そうだけどさ……」

 言いながらも歩は、ギターのケースを手に取った。僕はベンチから立ち上がり、歩に席を譲った。歩は僕のそれよりも長くなった足を組むと、慣れた手付きでギターを構えた。悔しいが、思いの外様になっていた。

「ケイちゃんが知ってる曲がいいかな?」

「いつも弾いてる曲でいいぞ。どうせ流行りの曲は疎くてわからないだろうし……」

「これといった曲は弾いてないんだ。そのときの気分に合わせて、何となくで弦を弾いてる」

「作曲ができるのか?」

「作曲とまではいかないけど、色々なコードを組み合わせて、それっぽいことをしてる」

「すごいじゃないか! 早く聞かせろよ」

 気分が上がり、早口になった。

「別に、特別なことじゃないよ」

 興奮している僕とは裏腹に、歩は冷めていた。

「やっぱりリクエストしてもいいか?」

 僕はなかなかギターの弦を弾かない歩に問いかけた。

「いいけど、弾けるかどうかはわからないよ」

 歩が抱きしめるようにギターのネックを握った。その姿は、夜眠れずにぬいぐるみを胸元に抱える子どものようだった。

「弾けるさ」

 僕は意識的に、声に力を込めて言った。歩が顔を持ち上げ、不思議そうな目で僕を見つめた。歩の目は、あの頃と全く変わっていない。

「ロミオがジュリエットに愛を囁くときに流れる曲」

 僕の申し出に、歩は喉を引くつかせた。

「弾けないか?」

 僕は念を押した。

 僕と歩の間で、波の音が流れ始める。

「弾けるだろう?」

 彼の目の中に、海の波が映る。

 歩がギターのネックを握り直した。それから人差し指を折り曲げ、第二関節と第三関節の山で、コツ、コツとボディをノックし、リズムを取り出した。その後、いくつかのコードを確認するように弦を弾き、やがてそれがメロディへと変化した。

 僕の前に、ロミオとジュリエットが現れる。ロミオがジュリエットの前に跪き、歌うように愛を語りだす。ジュリエットはその愛に戸惑いながらも、彼から差し出された手に自身の手を重ねた。

 そこには、確かに物語があった。歩が奏でる音楽は、言葉や台詞がないのに何かを伝えていた。その何かに意味を与えたい。与えるのは自分の役目だと思った。

 歩の指がピタリと止まった。再び静寂が僕と歩の包み込む。すると不意にコロッケの匂いがして、瞬時に現実へと引き戻された。僕はコロッケと歩の母の顔を頭から追い出し、

「歩が作った曲、他にも聞かせてくれないか?」

 と、言った。

「曲になっているかどうかはわからないよ」

 歩の声が上擦った。

「オレになら聞かせてくれてもいいだろう」

 僕の言葉に、歩が言葉を詰まらせた。

「ケイちゃんには適わないや」

 そう言うと歩は、再びギターを弾き始めた。

 星明かりが眩しい暗闇の中、僕は歩のギターに身を委ねた。アコースティックギターが織りなす音の伝播が、僕の脳を痺れさせる。

「詞はつけないのか?」

 音が鳴り止んだところで、僕は訊ねた。歩は特段歌が上手いわけではなかったが、かといって音痴というわけではなかったはずだ。

「ケイちゃん。おれが毎年夏休みの最終日に、読書感想文の宿題を泣きながらしていたことを忘れたわけじゃないだろう」

「当たり前だ。おばさんから怒られては、オレの家に逃げ込んできていたんだから忘れるわけがないだろう。挙句の果てに、歩のは読書感想文じゃなくて、あらすじを書き写しただけの文章だったし……」

「そんなおれに作詞は無理だよ」

 歩が嘆くように言った。

「国語が得意な友達に、作詞を頼もうと思ったことはないのか?」

「ないよ。そもそもギターが弾けることを誰にも話したことがないし、自分では弾けるとは思ってないし……」

「それなら、どうして歩はギターを弾くんだ?」

「ただの趣味だよ」

「ただの趣味でも普通にすごいだろう」

「すごくないよ。全然すごくないんだ……」

 歩が頭を横に振りながら言った。

「いや、十分すごいだろう!」

 僕の言葉は、歩には響いていなかった。歩の目つきが鋭くなる。

「ケイちゃん。ギターを弾ける高校生って、世の中にたくさんいるんだよ。バンド活動をしている人たちは、自分たちで曲を作って詞をあてて演奏するんだ。そして誰かに感動を与えてる。おれがやっているのは、自己満足の消費。そこには天と地ほどの差があるんだ」

 歩が僕を諭すように言った。

「おれもさ、最初は自分で自分のことをすごいんじゃないかって思ったんだよ。おれがギターを始めたのは中学三年生のときなんだ。おれたちの代は、ケイちゃんたちの代と違って、地区大会の予選で負けたから、夏休みが始まる前に部活を引退していて暇だったんだよ。暇なら受験勉強をしろって話なんだけどさ、すぐに気持ちの切り替えができなくて、そんなときに叔父さんからギターを貰ったのをきっかけに、見様見真似で弾き始めたんだ。今はインターネットで調べれば、何でも情報が出てくるじゃん。ギターの弾き方は全部インターネットで学んだ。すぐに弾けるようになって、おれもしかしてバスケじゃなくて音楽の才能があったんじゃないかって自惚れた。でもさ、動画共有サイトを見るとね、自分よりも年下の子がオリジナルの楽曲を作って投稿しているんだ。おれは音楽の道でも全然特別でも何でもないんだって、すぐにわかった」

 歩がギターをケースの中に片付け始める。

「でもおばさんが心配するくらいには、ここにギターを弾きに来ているんだろう?」

 歩は僕の質問に何も答えなかった。ギターケースのファスナーを閉める手が止まった。彼はその答えを恥じているようであった。

 今は星明かりだけが頼りだ。

「歩はさ、オレに夢をみてるようだけど、オレのバスケの才能だって、歩のギターの才能と何も変わらないだろう。所詮そんなもんだって……」

「そんなことない! ケーちゃんは本当にすごかったじゃん! すごかったのにさ……」

 歩が黙り込む。

「オレも歩も変わらねぇんだよ」

 僕は歩に背を向けて展望広場を囲っている木の手すりの方に歩くと、それに手をつき、暗闇で見えない海を見下ろした。

「オレたちって、他人に期待しすぎなのかもしれないな」

 この町は暗い。だから僕たちは明るいものに手を伸ばしたくなるのかもしれない。僕が顎を持ち上げて空を見上げたり、歩がテレビやインターネットの中の世界に憧れたりするのは、とても自然なことなのだろう。

「なあ。エンニオ・モリコーネって知ってるか?」

 僕は後ろを振り返って歩を見た。

「どこかで聞いたことがあるような……」

 歩が眉を寄せて眉間にしわを浮かべた。

「『ニュー・シネマ・パラダイス』は知ってるだろう? 小学生のときに、オレの家で一緒に観たのを覚えてるか?」

「うん、覚えてる。上演時間がすっごい長くて、ケイちゃん途中で寝てたのに、寝てないって見栄を張ってた映画だ」

 歩がくすくすと笑った。

「寝てねぇよ」

「いや、絶対に寝てたよ。だって寝息まで立ててたもん」

 歩が口先を尖らせる。頑固な目つきは昔と何も変わっていない。

「それより、そのアントニオが何なのさ?」

 歩が思い出したように言った。

「アントニオじゃなくて、エンニオ・モリコーネ。『ニュー・シネマ・パラダイス』の音楽を担当している人だ」

 へえ、と歩が呟いた。

「それじゃあ、久石譲なら知ってるよな?」

「当たり前じゃん。おれたちの母校の校歌を作った人でしょう?」

 歩が自信満々に答えた。

「正解。オレは音楽には全然詳しくないんだが、そのオレでさえすごいとわかる音楽を作る人たちだ。音楽の持つ力って、すげえんだよ」

 僕はそう言ってから、スマートフォンでエンニオ・モリコーネの曲を流し始めた。歩も黙ってその音色に耳を傾けた。しばらく音楽だけが流れていた。

「悔しいけどさ、本物の音楽には台詞以上に感情を揺さぶる何かがあったりするんだよな。まあ、それはオレがまだまだ脚本家として未熟なだけなんだけど」

 僕が脚本の執筆をするようになったのは、いわば強制的に追い込まれたからだ。最初のうちは好きでやっていたわけではない。だけどいつの間にか、いつか自分の言葉を誰かの感情に刺したい、と思う。

 ねえ、ケイちゃん。

 歩が僕の名前を呼んでから告げた。

「おれ、演劇部に入部するよ。部員がいなくて困ってるんでしょう?」

 歩の言葉に、僕の心臓が跳ね上がった。

「入部するって、バスケ部はどうするんだよ?」

 言葉とは裏腹に、歩の身体にしがみつくように言葉を発した。

「バスケ部は辞める。元々入部するかどうかすごい悩んでいたんだ。バスケは中学校でやり切った感があったし、ケイちゃんと一緒にできないのなら続ける理由もないし。だけどおれが演劇部に入部するのは、ケイちゃんの後ろを追いかけるためじゃない」

 歩はそこで一度、言葉を切った。

「自分の可能性を、自分で信じるためだ」

 目の前に立っているのは、僕の後ろを泣きながら追いかけてくる少年ではなかった。僕の知らない歩だった。いつの間に歩は、こんなに大きくなったのだろうかと不思議に思う。追い抜かされた身長に嫉妬さえ覚える。

「今のケイちゃんにとって、あの場所も、バスケのコートと同じくらい大切な場所なんだよね。バスケをしているケイちゃんも好きだけど、今のケイちゃんも最高に恰好いいよ」

 僕は歩の隣に腰を下ろした。ベンチの背もたれに寄りかかると、深い溜め息を吐いた。

「歩が女だったらよかったのになあ……。幼馴染みで年下っていうところまでは完璧なんだが、そんな台詞、男に言われてもちっとも嬉しくないぞ。むしろ気持ち悪いくらいだ」

「失礼だなあ。それに幼馴染で年下なら、おれの姉貴がいるじゃん」

「恵はオレと同学年だろうが」

「でもケイちゃんは四月生まれで、姉貴は三月生まれ。ほとんど一歳差だし一応年下だよ」

「アイツだけは勘弁してくれ。第一アイツには、年下特有の慎ましさが全くないじゃないか」

 恵とは、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。小学校低学年の頃まではよく三人で遊んでいたが、小学三年生になった頃から恵は急に大人ぶり、女友達としか遊ばなくなった。だが恵もバスケをしていたこともあり、中学生になっても腐れ縁が切れることはなかった。

「姉貴とはまだ仲直りしてないの?」

 歩からの質問に僕は黙った。歩はそれが答えだと受け取ったようだった。

 僕が亀工に進学しないと知り、一番怒ったのはバスケットボール部のチームメイトではなく恵だった。「根性なし」、「意気地なし」、「負け犬」、「弱虫」。大抵の罵りは一通り浴びた。それでも僕は、恵に反論一つしなかった。その態度が恵をさらに苛立たせ、決定的に不仲にした。先ほど恵とは中学校を卒業して以来、初めて会話を交わしたが、あれを仲直りとは言わないだろう。

「ケイちゃんも姉貴も、本当にバカだなあ……」

 歩が夜空を見上げながら言った。

「うっせ」

 僕は悪態をついた。

「ケイちゃんはさ、追いかける側の気持ちが全くわかっていないんだよ。おれがどんなに必死に勉強したと思ってるのさ。せめて坂商だったらスポーツ推薦が使えたのに、よりによって進学校の湊高校なんて選んじゃって……。ケイちゃんのせいで、勉強なんて大嫌いなのに塾通いの日々を送る羽目になったんだからね」

 歩が僕を恨めしそうに見つめた。

「そんなの知るかよ。勝手に後ろをついてきたくせに文句を言うな」

「でも一つだけ、すごく感謝していることがあるんだ」

 急に歩の声色が変わった。

「何だ?」

 僕は思わず食いついた。歩は意味ありげに満面の笑みを浮かべて言った。

「ケイちゃんのおかげで、かわいい彼女ができたこと」

「はあ?」

 本日一番大きな声が出た。

「どういうことなのか、きちんと説明しろ!」

 僕は無意識に歩の胸ぐらを掴んでいた。

「さすがにケイちゃんと同じ高校に行きたいっていう理由だけじゃ、勉強尽くしの日々に耐えられなかったんだ。彼女には一度振られていたんだけど、彼女も湊高校を受験するって知って、もし湊高校に合格したら付き合って欲しいってもう一度告白して、それでまあ、ねえ……」

 あとは察してくれと言わんばかりの緩みきった表情に、僕は怒りをコントロールすることができなかった。

「三日で振られろっ!」

「彼女とは付き合い始めてからもう二ヶ月経ってるし、三日で振られたのはケイちゃんじゃん!」

「その話は二度とするな!」

「理不尽! 自分から言い出したくせに……」

 歩が口先を尖らせた。

 僕は歩の首に腕を巻きつけた。自分よりも背の高くなった弟分に寂しさと悔しさを同時に味わう。

 歩がギブアップの声を上げるまで、腕の力を緩めなかった。

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