第3幕 第3場 灯台にて

「ロミオ様は今日も部活に来ないのね。部室に来る途中、昇降口前の廊下ですれ違ったわよ」

 翌日の放課後。部室に入ってくるなり笹野が嫌味をたっぷり込め、不満げに口先を尖らせた。その仕草も彼女がすると可愛く見えてしまうのだから、ずるいというものである。

「今日はバイトの日だからな。昨日は臨時のバイトだったそうだ」

 僕が答えると、笹野は椅子を乱暴に引きながら席に着いた。

「葉山はそれでいいと思ってるの? 吾妻にももっと協力してもらった方がいいと思わないの? 最後の舞台、絶対に成功させたいんでしょう!」

 目をつり上げた笹野は、白鷹がまだ席に着いていないのをいいことに、机に手をつき、身を乗り出して僕に顔を近づけてきた。よほど吾妻のことが気に入らないらしい。

「そんなこと言ったって、吾妻は忙しいんだから仕方がないだろう。部活を休んで遊んでいるわけではないし、吾妻には吾妻の事情があるんだ。それに吾妻が動けない分は代わりにオレが動くから、今はそれでいいだろう」

 僕は読みかけていたプリントに視線を戻して答えた。昼休みに行われた部長会議で配布されたもので、球技大会で行われる、部活対抗のエキシビションマッチの参加要項だ。

「そういうことじゃなくて、演劇はみんなで作り上げるものでしょう。だからこそ負担は平等であるべきじゃないのかっていうことを私は言いたいの!」

 笹野が声をさらに強くした。僕はまた視線をプリントから笹野に移した。

「負担なんて言い方するなよ。だいたい演劇において、平等なんてありえないことは笹野も理解できるだろう」

 僕の言葉に、笹野がはっとした表情を浮かべ、顎をぐっと引いた。

「とくに今回は、吾妻と笹野の出番が一際多いだろう。おまけに台詞は英語だ。プレッシャーもある。平等を求めたら演劇なんて成り立たない。それにポジションの負担が平等じゃないのは何も演劇部だけじゃないだろう。運動部だってそうだ。とくに野球部なんて、どう考えても投手の負担が大きいが、そのことに対して文句を言うヤツは誰もいないだろう」

「そんなことはわかってるわよ。でもやる気があるのとないのとでは全く意味が違うじゃない!」

 気を取り戻した笹野が再び抗議をしてくる。興奮で華奢な肩が上がっている。

「笹野の言い分はわかった」

 僕は笹野に向かって手を突き出した。

「さすがに本番の一カ月前になってもこの状況が続くようなら、吾妻に文句を言うつもりだ。でも今はまだこのままでいいだろう」

「僕もフォローするから、ね?」

 今まで僕と笹野のやり取りを黙って見守っていた千歳が、ここにきて助け舟を出してくれる。千歳はまだ部活が始まっていないというのに、一足先に衣装を作り始めており、スカートの裾にパールのようなパーツを縫い付けていた。笹野は千歳の顔をちらりと一瞥すると、

「わかったわよ。葉山がそこまで言うのなら、私はもう何も言わないわ」

 溜め息を吐き出しながら肩を下げた。反論を続ける僕にこれ以上は何を言っても無駄だと判断したのか、それとも千歳の一言が効いたのか、笹野はそれきりすっかり大人しくなった。が、それでも不機嫌な表情を顔に貼り付けたままだ。笹野がスクールバッグの中から取り出した英単語帳を開くと、

「お疲れさまです」

 白鷹が挨拶をしながら部室に入ってきた。いつもどおり運動部でもないのに重たそうなスポーツバッグを右肩から斜めに下げている。これまたいつもどおり、笹野に「今日も可愛いですね」と一言声を掛けてから自分の席に着いた。つい彼の姿を目で追ってしまう。白鷹は自分に纏わりついてくる僕の視線に気づいておらず、やはりいつもと変わらない様子でスポーツバッグからノートパソコンを取り出して準備を始めた。ACアダプタを手に持ち、椅子から立ち上がる。

「白鷹、昨日は何か用事があったのか?」

 試しにこちらからジャブを打ってみる。白鷹は床にしゃがみ込み、黒板の下にあるコンセントに電源ケーブルを刺すと、

「母から、夕食を作っている途中で味噌がなくなったから、学校帰りに買ってきて欲しいと頼まれまして」

 顔だけ振り返って答えた。白鷹は僕に背中を向けていたこともあり、一瞬の間に表情を作ったのだろう。動揺を綺麗に隠した涼しげな表情を浮かべていた。

「そうか。母さんには逆らえねえな」

「そうなんですよ。肉じゃがだったんですけど、味噌を早く入れないとじゃがいもに味が染み込まないからって、一分でも早く買ってこいなんて脅されまして……」

 白鷹家の肉じゃがはじゃがいもがごろごろなんですよ、と白鷹が天然パーマの髪の毛を掻き上げた。

「その肉じゃが、今日の弁当にも入ってました。前日の夕食の余り物が弁当に入っているのはあるあるですけど、汁気のあるおかずは入れないでほしいですよね。バッグの中で弁当箱が横になったみたいで汁が溢れてたんですよ。スポーツタオルが入っていなかったらあわば大惨事でした」

 作ってもらっている身なのであまり強くは言えないですけど、と白鷹が苦笑いで付け加えた。話題をそらそうとしているところを見ると、昨日のできごとを話す気はさらさらなさそうだ。まさか僕と千歳が、白鷹と歩の会話を立ち聞きしていたとは夢にも思わないだろう。

「この間、ケイタのお弁当には芋煮が入ってたよ」

 千歳が針を針山に刺すと、口元に手を当ててくすくすと笑い出した。

「しかもお弁当箱がタッパーでね、汁もたっぷり入っていて、 朝学校についたら自転車のかごがびしょびしょになってて……。あれには本当に驚かされたなあ。汁を抜く気がないのなら、せめて笹野さんみたいにスープジャーを使えばよかったのに」

 一ヶ月くらい前のできごとだというのに、千歳はまるで昨日のことかのような口ぶりで話した。千歳とは家が近所なこともあり、毎日一緒に登下校しているため、一部始終を目撃されていた。

「スープジャーなんて洒落たものが、葉山家にあるわけないだろう」

「どうして偉そうなのよ」

 笹野が言葉を投げてきた。

 白鷹が自分の席に戻り、ノートパソコンの画面を開いて電源ボタンを押した。画面が発光して白鷹の顔が明るくなる。肌が浅黒いため気づかなかったが、よく見ると鼻根のあたりにそばかすが散っている。

「そもそも芋煮って、時期外れじゃないですか」

 白鷹が猫背を伸ばし、ノートパソコンの画面の上から顔を覗かせ、呆れた声で言った。

「葉山家は年中、芋煮を食べるんだよ。だいたい郷土料理に適切な時期なんか不要だろうが。確かに外で食べる芋煮は格別に美味いが、芋煮は秋の季語じゃねえからな」

「郷土料理といっても、芋煮は仙台でも有名だよね?」

 千歳が顔を傾げた。

「発祥は正真正銘、山形だ。それなのに仙台の芋煮が庄内の芋煮と同じ味噌、豚のせいで、醤油に牛の山形、味噌に豚の仙台という感じで、味噌豚の代表ヅラしているのが納得いかねえんだよな」

 説明しながらも苛立ちがフツフツと湧き上がってきて思わず語気が強くなる。

「芋煮って、場所によって味付けや具材が違うの? 僕は味噌に豚しか食べたことがないけど……」

 千歳が甲高い声を上げた。

「ああ、山形の中でも地方によって味と具材が異なるんだ。内陸、いわゆる村山地方と置賜地方が醤油に牛だ。日本一の芋煮会が村山で開催されていることもあって、芋煮といえば醤油に牛だと思い込んでいる人も多いだろう。それで、我らが庄内地方は味噌に豚で、最上地方は醤油に豚だ」

「県内でも派閥があるんですよ。なので葉山先輩の言う通り、県外の仙台に出てこられると、こっちとしては困るんですよね。仙台には牛タンやずんだ餅がありますし、ちょっと欲張りすぎですよ」

 白鷹が腕を組み、うん、うんと深く頷いた。

「奥が深いというか、根が深いというか……。それにしても、富士山の所有を主張する静岡と山梨みたいに、芋煮にも論争があるなんて知らなかったな」

 千歳が息を吐きながら呟いた。

「論争じゃねえ、戦争だ! 戦争! 芋煮戦争を軽んじたら痛い目を見るぞ。夫婦で派閥が分かれると、最悪離婚の原因にもなりかねないからな」

 僕がつい握り締めた拳を振ると、

「私の家はお母さんが内陸の人だから夫婦で派閥が違うけど、別に離婚危機になんてなっていないわよ。味付けは交互に作るようにしているし、どっちの味も楽しめて、むしろお得だわ」

 机に肘をつき、手のひらで顔を支えている笹野が口を挟んだ。僕とは対象的に冷めた眼差しをしている。

「笹野はハーフだったのか……」

 僕が衝撃の事実に少しショックを受けていると、

「自分は、笹野先輩が『芋煮は醤油に牛が至高よ』と言うのならば、それを受け入れる所存です!」

 白鷹が笹野の目を真っ直ぐに射抜いて言った。笹野は白鷹の熱量にたじろいでいる様子で、大きく見開いた目を咄嗟とばかりにそらした。いつもはクールを通り越して冷徹に受け流している笹野だが、珍しく動揺している。

「おい、白鷹! 簡単に魂を売ってんじゃねえよ!」

 白鷹の返事はなく、僕の声が届いていないようだ。エプロン姿の笹野を想像しているのか、口元をだらしなく緩めて空を見上げている。

「県民にとってはデリケートな問題なんだね。僕、芋煮会は経験したことがないから憧れるなあ……」

 千歳の言葉に、僕と白鷹は思わず顔を見合わせた。

「高校生にもなると、人数の多い部活とかに入らないと、あまりやらなくなりますからね」

 我を取り戻した様子の白鷹が先に答えた。

「人数が少ないと準備が大変だからな。とはいえ、千歳にも一度は経験してもらいたいもんだな。今年の秋に、演劇部で芋煮会をやるかあ……」

 僕は声を振り絞って言った。

「葉山先輩、受験生なのにずいぶん余裕ですね」

「余裕があるんじゃなくて、単に勉強したくないだけでしょう」

 笹野がピシャリと言った。悔しいが図星だ。もちろん勉強はしたくないが、さすがの僕でもこの時期に芋煮会をすることがいかに愚かな行いであるかの判別はつく。苦渋の選択に僕が頭を抱えていると、

「お疲れさまです」

 舞鶴さんが部室に入ってきた。真っ先に吾妻の席をちらりと見る。この時間に空席なことから今日も休みなことを察したのか、残念そうに眉を下げた。

 舞鶴さんの登場で話が途切れたのをきっかけに、僕は話題を変えた。

「白鷹。後ろの棚から部誌を何冊か取ってきてくれ。今日から少しずつ、部誌の書き方を始め、部長の雑務を引き継いでいくからな」

 突然のことに驚いたのか、白鷹が眼鏡のレンズの向こう側にある目を丸くすると、

「自分はアナログよりもデジタル派なんですが……」

 キーボードを打っていた手を止めて呟いた。

「部誌は代々手書きと決まっているんだ。データだと互換性がどうのこうのって面倒だろう。当時の技術でデータが保存されていたら最悪フロッピーだぞ。それに、部室にはパソコンが設備されていないのに、どうやって未来の後輩たちにデータを参照させるつもりなんだ?」

 僕は白鷹のノートパソコンを指差した。演劇部にノートパソコンは支給されていない。単に彼がパソコン部でもないのに毎日学校に私物のノートパソコンを持ってきている変わり者なだけだ。

「確かにそうですね……。フロッピーを持ち出されてしまったら、ぐうの音もでないです」

 白鷹は口ではそう言いつつも、あまり乗り気ではない様子だ。それでも棚から部誌を持ってきた。

「部誌は何年前のものから置いてあるんですか?」

 持ってきた数冊を机に置くと、早速一冊手に取った。

「初代から全部残ってるぞ」

「本当ですか?」

 白鷹の声が裏返った。

「ああ。暇だったときに確認したからな」

「それはすごいですね……」

 白鷹が手に持っている部誌の表紙をまじまじと見つめながら、感嘆の息を漏らした。

「アナログだって、まだまだ捨てたもんじゃないだろう」

 僕はにやりと笑って見せた。

 そういえば、と白鷹はふと思い出したかのように呟いてから口を開いた。

「葉山先輩が一年生のときは、地区大会に出場していたんですよね。そのときのことも書かれているんですか?」

「もちろん書いてあることには書いてあるが、読むことはおすすめできないな。参考になるようなことは何一つ書かれていないし……」

「下剤騒動、でしたっけ?」

 白鷹がどこか遠慮がちに口に出した。

「今まで白鷹に話したことがあったか?」

 千歳に目配せをすると、彼はわかりやすく首を横に振る代わりに、真っ直ぐな視線で、僕は知らないと無言で訴えていた。そうだよな、と思っていると、白鷹の方が首を横に振った。

「いえ。噂で聞いただけです。詳しいことは全く知りません」

 白鷹が部誌を開き、パラパラとページを捲り始める。白鷹は棚の端から部誌を取ってきたようで、彼が手に持っているのは一番新しいものだ。机の上に置いてあるのは昨年度のものだ。

「白鷹が高校に入学してくる前の話だからな」

 一昨年の部誌は捨てずに残してある。読もうと思えば読める状態だ。

「よかったら話してくれませんか? 今まであえて触れずにきましたが、そろそろ教えていただいてもよい頃合いかと思うのですが……」

 白鷹が話に食いついた。舞鶴さんもこちらの話が気になるのか、ちらちらと視線を向けてくる。

「聞いたって面白くないぞ」

 僕はわざと突っぱねるような言い方をしたが、白鷹の好奇心はそのくらいでは薄れなかった。

「それでも構いません。自分の所属している部に一体どんな過去があったのか、知っておきたいんです」

 やけに強い物言いだった。

「ケイタ。あのビデオ、まだ部室に残ってるんだよね?」

 千歳が横から口を出してきた。

「もちろんあるぞ」

「せっかくだからみんなで観よう。笹野さんも観たことがないし、みんなに知ってもらう丁度いい機会だと思うよ」

 千歳を援護するように、白鷹が、うん、うんと深く頷く。

「確かに気になるわね」

 まだ、むっとした態度を貫いている笹野も話に乗ってきた。ついに舞鶴さんまでもが、

「満衣香も気になります」

 と視線を僕に向けてきた。

「わかったよ」

 僕は早々に反論することを諦めて椅子から立ち上がると、教室の後ろにある棚の引き出しから一本のビデオテープを取り出した。DVDのようにパソコンでは再生できないため、ダンボール箱の中にしまっていたビデオデッキも取り出す。ダンボール箱はしっかり蓋をしていたこともあり埃は被っていないが、年季が入っているのは一目瞭然で、壊れていないことが奇跡のように感じられる。それから棚の隅に置いていたテレビを教壇に運んだ。これは数年前に所属していた部員が置いていったものだという。昔は自分たちの演劇をビデオカメラで撮影し、ビデオテープに残していたこともあり、再生するために必要な道具は部室に一式揃っている。

 僕が最後にこのビデオを観たのは確か一年前だ。神室さんから部長を引き継いだ日、一人で部室に残って観たのだ。

 ビデオが再生できる準備を終えると、部員たちは待ちわびたようにテレビ画面の前に並んだ。いざリモコンの再生ボタンを押そうと人差し指を乗せたそのとき、急に部室の戸が開かれた。

「飯豊は出禁だろう!」

 戸の前に立つ歩を見るなり、白鷹が叫んだ。白鷹の声が聞こえていないはずがなかったが、歩はその場に突っ立ったまま動かなかった。

「おれにも見せてよ。ケイちゃんが夢中になっている演劇ってやつを……」

 どうやら廊下で立ち聞きをしていたらしい。歩が僕の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「入れ」

 僕の言葉に、歩は唇を結んだまま部室に入ってきた。僕は後ろからパイプ椅子を持ってくると、そこに歩を座らせた。

「六年前の作品だ」

 手短にそれだけを言って、今度こそリモコンの再生ボタンを押した。



 幕が閉じた瞬間、爆発を想像させる拍手の音が鳴った。いつまでも降り注ぐその音は、まるで嵐のようだった。拍手の音が鳴り止まないままプツンと映像が途切れ、すぐに砂嵐に切り替わった。しばらく無言で、どこか懐かしい雑音に耳を傾けていた。

「自分たちの先輩って、すごい人たちだったんですね……」

 思わずといった調子で、白鷹が感嘆の声を漏らした。

「このときは部員が四十人もいたんだって。まるで夢のような話だよね。少子高齢化でそもそも生徒数が減っているから単純に比較できるものではないけど、今は部員不足で廃部寸前の危機だっていうのに……」

 千歳が興奮で上気した頬を持ち上げながら言った。

「これでわかっただろう。オレたちのやるべき使命が」

 僕は椅子から立ち上がってテレビの電源を消した。真っ黒になったテレビの画面に自分たちの歪んだ姿が映る。

「何が何でも演劇部を残さないといけないですね」

 白鷹が赤らんだ顔で頷いた。

「それで、この演劇部には一体どんな過去があるのかしら?」

 普段と同じ調子のままの笹野が、僕と千歳を交互に見た。僕たちは示し合わせたかのように目配せをした。それから千歳が、僕を後押しするように小さく頷いた。

「話すと長くなるから、覚悟して聞けよ」

 僕は脅すような前置きをしてから重たい口を開いた。

「この舞台で主役を演じていたのが、当時の部長である徳網さんだ。徳網さんには妹がいて、その妹こそが、オレたちが一年生だったときに部長を務めた高館さんだ。徳網さんと高館さんは実の兄妹なんだが、両親が離婚した関係で苗字が違っている。話を進めるが、徳網さんが高校を卒業して高館さんが入学するまでの二年の間に、まず演劇部の顧問が変わった。新しい顧問は演劇を全く知らない素人どころか新米教師だった。それまでの演劇部は、演劇経験のある顧問が指導していただけに、部はあっという間に衰退したそうだ。高館さんは、一、二年生のときは、やる気のない先輩たちに合わせて悶々とした日々を過ごしたと言っていた。『地区大会に出場しましょう』と何度か声を上げたこともあったそうだが『うちは楽しむがモットーの部活だから』と一蹴されてしまったそうだ。それでも高館さんは諦めなかった。自分が部長になったら、自分たちの代になったら、あのときの栄光を必ず取り戻してみせると決意したとのことだ。実際、部長になった高館さんは、部員たちにこのビデオを見せ、自分たちもこのレベルの演劇を目指そうと提案した。というわけで、このビデオは高館さんが家から持ってきたものなんだ」

 僕はビデオデッキからビデオテープを取り出した。高館さんは、自身が高校を卒業するときにこのビデオテープを持ち帰らずに置いていった。それは彼女が自分と同じ意志を持つ誰かに、自分が叶えられなかった夢を託したかったからなのではないかと思う。

「演劇部を復活させるために、高館さんが考えた練習メニューは、運動部顔負けとまではいかないが、運動部の経験がない部員たちにとっては根を上げるものだったらしい。日が経つにつれ、副部長の徳網さんを筆頭に、高館さんのやり方に反対する者が出てきた。やがて部内は、部長の高館派と副部長の徳網派で二分化されていった」

 そこまで話したところで、僕は一度唇を休めた。

「僕たち三年生が入部したときには、すでにそういう状況になっていたんだ。トップの二人が対立しているだけに、その頃の部の空気は常にギスギスしてたよ」

 千歳が肩をすくめた。

「高館派の『地区大会にもう一度出場する』という意見に対して、徳網派は『今まで通り文化祭で発表すれば十分』と頑なだった。三年生は今と同じく、文化祭でのステージ発表を最後に引退する予定だったんだ。それに徳網さんは国立大学狙いだったから、部活が受験勉強の邪魔になることを心底嫌がっていたんだ。徳網派の他の人たちも、部活は勉学にリスクを犯してまでやることじゃないという意見だった」

「そもそもうちの高校は受験勉強に専念できるように、文化祭が秋ではなくて夏に実施されているくらいだからね」

 千歳が補足した。運動部の大半が夏頃までには部活を引退することを考えると、文化部も秋ではなく夏に引退した方がよいことは理解できるし、学校の方針も間違ってはいないだろう。

「高館さんは、徳網さんたちを説得できないまま強硬手段を取った。地区大会には意志表明のある部員だけで出場すると宣言したんだ」

 全国大会の常連でもない限り、部員たちの最終目標が一致することはそうそうないだろう。部活には色んな考えの人が集まる。『全国大会出場』、『全国大会優勝』と掲げるだけなら簡単だ。目標がただの飾りになっている部も少なくないだろう。ましてや全員の気持ちを統一することはおろか、モチベーションや熱量の温度差を埋めることだって簡単ではない。

「地区大会に出場するとなると、引退の時期がどんなに早くても二カ月は伸びる。話し合いの結果、三年生がバラバラに引退するのは格好が悪いということになり、地区大会に出場しない三年生は部活には参加しないが、引退は地区大会後に統一するということに決まった。地区大会に出場すると表明したのは、高館さんを含めて三年生は六人、二年生は七人、一年生はオレ、吾妻、千歳の三人だった」

 僕が千歳を見ると、彼は小さく頷いた。

「オレたちは何が何でも上位に入賞して、徳網派のヤツらを見返してやろうっていう気持ちになっていた。その一方で、徳網派だった二年生の中から少しずつ退部者が出てきていたんだが、オレたちは演劇に夢中で、そのことをあまり気にしていなかった」

 それがよくなかった。よくなかったのだが、あの頃の僕たちは今しか見えていなかった。未来のことを考える想像力が足りていなかった。過ぎてしまった今だからこそ言えることだが、このことが演劇部が廃部に追い込まれる原因の根源だ。

「大会当日、主役を演じるはずだった三年生が突然体調不良を起こしたんだ。だけど、それだけでは終わらなかった。代役を務めるはずだった二年生まで体調を崩したんだ。脇役ならまだしも主役が舞台に立てなくなり、当然大会を辞退しようという話が持ち上がった。だが、高館さんはそれを受け入れなかった。自分が主役の代役を引き受けると申し出たんだ」

 その舞台で、僕の台詞は僅か三つだった。吾妻は二ページで、千歳は一ページほどだったはずだ。一年生だった僕たちの出番は多くなかったが、僕たちは舞台の上から高館さんを見守った。

「代役にも関わらず、高館さんは台詞を全て覚えていたし演技も申し分なかったんだが、さすがに掛け合いの練習まではしていなくて、相手役を始め、他の部員たちと息を合わせられず、舞台は散々なものだった」

 シーンとシーンを切り貼りして繋ぎ合わせたような舞台だった。テンポが悪いと言えば分かりやすく伝わるだろうか。物語の流れがプツン、プツンと途切れるため、頭に内容が入ってこない。

「あのときほど、演劇において、間というものがいかに大事なのかを痛感したことはないよね」

 千歳も僕と同意見のようだ。

「そうだな。演劇は生物とはよく言ったものだな」

 僕は白鷹と笹野、舞鶴さんからの視線を感じて本題を再開した。

「後日、二人の体調不良は徳網さんの仕業だったことが判明した。差し入れだと渡した飲み物の中に下剤を混ぜていたんだ。犯行の動機は、高館さんの成績が自分の成績よりも高かったことに対する腹いせだった。高館さんは本気で演劇を学ぶために、東京の大学を志望していたんだ。だから大会に向けて部活が忙しかっただろうに、受験勉強も手を抜いていなかった。一方徳網さんは部活を事実上引退して勉強漬けの毎日を送っていたにもかかわらず、満足な結果が得られずに相当焦っていたらしい」

 活発な高館さんと比べて、徳網さんには神経質なところがあった。徳網さんは、真面目で、慎重で、堅い性格だった。そんな人がこんなことをするなんて、誰が想像できただろうか。心理学者だったら違うのかもしれないが、表面的な部分しか見えていなかった僕たちには到底無理な話だ。

「その日の昼食は近くの弁当屋でまとめて購入したものだったから、真っ先に食中毒が疑われたんだ。保健所に相談しようという話が持ち上がり、思いの外話が大きくなってしまったことに恐縮したんだろう、徳網さんが自首したんだ。衝動的に行動を起こしてしまった、と僕たちに頭を下げた」

 そこまで話すと、僕はようやく自分から部員たちの顔を見た。千歳は当時のことを思い出しているのか、悔しそうに唇を噛んでいる。

「これが、我が演劇部が背負っている、他の生徒や先生たちから軽蔑されている疎ましい過去だ」

 口内に溜まっていた唾を喉を鳴らしながら呑み込んだ。あの日の舞台を、僕は今でもはっきりと覚えている。高館さんの歪んだ横顔をしっかりと思い出すことができた。目を閉じる。

 僕は代役でもない高館さんが、想定外の事態にもかかわらず、舞台に立ったことに驚いて訊いたのだ。

『高館さん、よく台詞を覚えていましたね……。もしかしたらこういう事態が起こるかもしれないって予測していたんですか?』

『まさか。超能力者じゃないんだから、未来予知なんてできないって』

 高館さんが手を大きく左右に振った。

『でもさ、これに私の三年間が全部詰まってるんだよ』

 そう言って台本をぽん、ぽんと叩いた。

『それに覚えた台詞なら主役だけじゃない。全員分の台詞を全て覚えているよ。もちろん、葉山の台詞もね。どんなことが起きても、例え一人になろうとも、私は舞台を最後までやり通すつもりだったからさ』

 そう言って高館さんは、胸元に抱えていた台本をさらに力強く抱きしめた。強い言葉とは裏腹に、その手が小刻みに震えていたのを、僕ははっきりと覚えている。

 僕は目を開け、もう一度千歳を見つめた。

 彼は項垂れるように顔を伏せていた。この場に吾妻がいたならば、彼はどんな反応を見せただろうか。それが気になって仕方がなかった。

「当時の二年生はどうしたんですか? 徳網派はまだしも、高舘派の二年生はどうしたんですか?」

 白鷹が訊ねてきた。

「神室さん以外の部員は、騒動後に全員退部した。先生たちからは、演劇部っていう一つの括りにされて色眼鏡で見られる可能性が高かったから、内申が悪くなることを気にして辞めていったんだ」

「そんな……」

 白鷹が絶句した。

「三年生が引退しても、高館派と徳網派の間に生じていた軋轢は修復されなくてね……。それどころか、旧徳網派の人たちからは責められたぐらいなんだ。『地区大会になんて出場しなかったらよかったのに』とか、『地区大会に出場したからこんなことになったんだ』って言われたよ。自分たちのリーダーがしたことを棚に置いて、高館さん個人を責める人もいたくらいで……」

 千歳が息苦しそうに表情を歪めた。

「辞めていく部員たちを引き止められる状況でも、責められる状況でもなかったんだ。むしろ、あの状況で残ってくれた神室さんの方がおかしかったぐらいだ」

「神室さんには感謝しかないよ。もし神室さんがいなかったら、僕たちも演劇部に残るという選択はしなかったかもしれないからね。僕が神室さんだったら、同期がみんな辞めてしまったら一緒に辞めると思うし……」

「そうだな。神室さんはああ見えて四中出身だし、肝が座っているからな」

「葉山。それ、四中の人に聞かれたら怒られるわよ」

 笹野が窘めた。

「でも、葉山先輩たちも残ったわけですよね?」

 白鷹が、僕と千歳を交互に見た。

「オレたちはまだ受験まで期間があったから、そこまで内申を気にしなくてよかったからな」

「でもまあ、これからどうするかを三人で話し合ったけどね」

 千歳が苦笑した。

「ケイタはシズオよりも先に部活を辞めないって言うし、シズオもケイタより先に辞めてたまるかって言うし、二人とも変な意地を張っちゃってね。僕はせっかく演劇の楽しさを知った頃だったから辞めたくなくて……。それで僕たちは部に残ることにしたんだ」

 僕が黙っているのを言いことに、千歳が語った。

「そんな過去があったんですね……」

 舞鶴さんが長い息を吐いた。

 最後まで口を開かなかった歩は、何も映していないテレビ画面をいつまでも見つめていた。

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