第3幕 第2場 灯台にて
「ケイちゃんはいますか?」
男の声が聞こえてきたのと同時に、部室の戸が遠慮がちに開かれた。と思ったのも束の間、その隙間から歩がひょっこり顔を突き出した。まるで亀が甲羅から顔を覗かせるような姿も、すっかり見慣れた光景になっていた。
はあ、と思わず溜め息が溢れる。
「飽きもせずにまた遊びに来たのか。バスケ部の方はどうしたんだ?」
僕はすぐに歩の顔から部誌へと視線を戻して、続きを読み返し始めた。歩は部室に僕がいることがわかると、遠慮の欠片も見せずに戸を全開にした。それから軽い足取りで部屋の中に入ってきた。
「体育館の使用権の関係で火曜日は休み。あと水曜日と金曜日は、開始時刻が十九時からなんだ」
入部して間のない歩は、まだ部活の練習日をしっかり覚えきれていないのだろう、空を見ながら答えた。
体育館を使用する部活はバスケットボール部の他に、バレーボール部と卓球部、それからバドミントン部である。そのため各部が体育館を使用できる時間は限られている。部活によっては、練習時間を補うために市営体育館を借りることもあるという。
練習場所に恵まれていないことは、我が校の運動部が弱小チームである理由にも繋がっていると自信を持って断言できる。
「おい、一年坊主!」
僕の右斜め前の席に座っている白鷹が、ノートパソコンを閉じて律儀に立ち上がると、
「葉山先輩の幼馴染みだか子分だか知らないが、葉山先輩が迷惑しているだろうが! 部外者は今すぐこの場を立ち去れ!」
言葉を最後まで言い切らないうちから、歩に向かって人差し指を突き付けた。演出家としては、彼の締まらない演技を見過ごすのもどうかと思いながらも、二人の間に割って入るのも面倒なので、この場は黙っておくことにする。
「タカさんには関係ないです」
歩はきっぱりと言い切ると、くるりと身体を回転させて白鷹に背中を向けた。
「先輩相手に生意気な……!」
白鷹が声をわなわなと震わせる。ついでに天然パーマの髪の毛も揺らしている。
「今年の一年は、どいつもこいつも生意気だな」
白鷹がぼそっと呟いた。おそらく、こいつは舞鶴さんのことだろう。
歩とハンバーガー屋で再会して以来、彼は暇さえあれば演劇部の部室に顔を出すようになっていた。僕以外の部員ともすっかり顔馴染みだ。とはいえ白鷹とは反りが合わないようで、反抗的な態度を見せている。
「それでケイちゃんはさ、今度の試合は応援に行くの?」
白鷹の存在を無視することに決めたのであろう歩が僕のすぐ隣まで来ると、机に手をつき体を屈めた。高身長な彼が窮屈そうに背中を丸める姿はどこか不格好で可笑しい。机の上に広げていた部誌に歩の細長い影が映り、途端に文字が読みづらくなる。
「行くわけねえだろう」
僕は舌打ちを鳴らすのを我慢しながら、一方で言葉の節々に苛立ちを染み込ませて言った。
「どうして? 三瀬さんたちの最後の大会じゃん! 応援してあげないの?」
歩が机に手を置き直し、僕と部誌の間に顔を割り込ませてきた。
「もう何年も連絡取ってねぇし……」
僕は部誌を顔の高さまで持ち上げ、歩の顔よりも手前に持ってくると、意味もなく文章を目で追った。綴られている文章がまるで記号のように目に映り、内容が頭に全く入ってこない。この状況においてもなお部誌を読む姿勢をとっているのは、歩に拒絶を伝えるためのパフォーマンスというよりは間違った意地であった。
「何年も? どうしてさっ!?」
歩の長い影が僕を襲ってきた。鼓膜ではなく脳を直接刺激する裏返った声。彼の大げさな演技が鼻につき、それが僕をさらに苛立たせた。
「オレが暇でも、向こうは忙しいだろうが」
返す言葉が雑になる。
「亀工は練習量が多いことで有名だけどさ、メッセージをやり取りする時間くらいはあると思うよ」
そう言うと歩は、わざとらしく笑顔を浮かべた。そのぎこちなさは、まるで普段あまり接しない子どものご機嫌を取ろうと努力している父親のようだ。
「とにかく、オレは応援には行かないからな」
僕はついに部誌を読むことを諦め、ノートをバタンと音を立てて閉じた。
「どうして? 三瀬さんだけじゃない。早田さんたちも試合に出るんでしょう?」
歩がグイっと顔を近づけ、慌てて言葉を付け加えた。先程まで貼り付けていた笑顔は引きつり、怪訝な顔つきになっている。
「オレはバスケを辞めたんだ。今はもう全く興味がない。それに、オレはこれでも受験生だ。他人の応援をしていられるほど暇でもお人好しでもないんだ」
「だけど最後になるかもしれないよ。三瀬さんがバスケをしている姿を見られるのも……」
歩が背中をさらに丸め、声を萎ませた。
「最後って、一体どういう意味だ?」
訊ねてから後悔した。僕はもうバスケになんて興味を持っていないのに。
「亀工は進学校じゃないから、高校を卒業したら就職する可能性が高いでしょう。オレの姉ちゃんは亀商だけど、やっぱりそのつもりでいる。プロにならない限り、社会人になったら今みたいにバスケは続けられないだろうから、今度の大会が最後になるかもしれないってこと! だから絶対に観に行くべきだよ!」
歩の体がさらに前のめりになった。いよいよ唾が飛んできそうで、僕は顔を背けた。
「行かない。それより、もう部活を始めるから今日は帰れ」
そう言うと僕は椅子から立ち上がり、部室から出るために廊下の方へ足を向けた。白鷹以外の部員はまだ誰も来ていなかったが、部活の開始時刻まであと五分もなく、決して嘘ではない。
「ケイちゃん!」
歩が叫ぶ。
「トイレだ」
僕は部室から出ると、後ろ手に戸を閉めた。戸を背に、息を一つ吐き出す。
やはり歩とは再会すべきではなかった。とはいえ、同じ高校に通っている以上、いつまでも避けられることでもないだろう。遅かれ早かれ、こういう状態になっていたはずだ。
廊下を歩き出すと、前から千歳がこちらに向かって歩いて来る姿が見えた。僕が重たい右手を上げると、千歳も僕に気がついたようで、花が咲くように笑顔を浮かべた。
僕は申告通りにトイレで用を済ませると、五分も掛からずに部室へ戻った。さすがの歩も懲りただろうと思っていたが、僕の目論見は甘かった。
彼はまだ部室にいた。どこで僕を待っていたらよいのかがわからなかったのだろう、何が面白いのか、教室の後方に置いてある大道具を意味もなく眺めていた。
一方、白鷹は歩を部室から追い出すことを諦めたようで、それでも彼を心から無視することはできていない様子だ。いつもより力を込めてキーボードを叩いている。
僕が席を外している数分の間に、吾妻以外の部員が揃っていた。誰も歩に関心を持っていないのか、それとも関わりたくないのか、相変わらず各々の世界に入り込んでいる。すっかりお馴染みの光景の中、新顔の舞鶴さんは机の天板ほどの大きさのスケッチブックを広げ、それに何かを描いていた。
歩は僕の顔を見るなり、ホッとした表情を見せたのも束の間、
「おれは諦めないよ。バスケに関わっていないケイちゃんなんて、ケイちゃんじゃない!」
突然叫んだ。
そこに高校生の彼の姿はなく、代わりに幼い彼が立っていた。それは演技のようにさえ見えた。ここが舞台の上だったなら、ピンライトが彼を捕らえていただろう。
僕以外の部員たちは、みんな丸くした目を歩に向けた。さすがの彼らも、ここまで存在感を主張されたら無視することはできないだろう。
「あのなあ、歩。オレは身長制限に引っかかってバスケを辞めたんだ。バスケを続ける資格がなかったんだ。世の中、身長制限のある職業だって沢山あるだろう。消防士、自衛官、宇宙飛行士……。自分がどんなになりたいと願ったって周りがそれを許してくれない。だから仕方ないことだったんだ。身長だけは努力ではどうにもできないんだから。亀工でバスケをやるためには身長が百七十五センチ以上必要で、オレは高校受験時にそれを満たしていなかった。何も難しい話じゃない。たった、それだけの話なんだ」
僕は長々と話しながらも、歩には言葉では伝わらないことの方がはるかに多かったことを思い出していた。歩は昔からそうだった。負けず嫌いで諦めが悪く、勝てないことに気づかない鈍感な少年だった。
僕と歩は歳が二つ離れていることもあり、スポーツもゲームも歩が僕に勝てるものはほとんどなかった。それでも歩は歯を食いしばって僕に立ち向かってきた。僕も子どもで、わざと負けてやるような大人の対応はしなかった。
「勝手に身長制限を作ったのはケイちゃんじゃん! 亀工の監督が作ったのは基準だよ! 確かに前例はないけど……。それにしたって、どうして演劇部なんかにいるのさっ! 他にも部活はたくさんあるじゃん! ケイちゃんの運動神経だったら、他の運動部でもすぐにレギュラーになれるのに!」
歩が叫び続けた。
最後の言葉に、今まで静観していた部員たちの耳がぴくりと反応した。
歩は頭に熱が溜まり、その拍子で口から思わず飛び出してしまったのだろうが、部長の僕がそれを許すわけにはいかなかった。
「歩、今から演劇部に出入り禁止な」
言うが早いか、僕は歩の腕を掴むと、その目障りなくらいにでかい図体を引きずった。驚いた歩が悲鳴のような声を上げたが、僕はそれに怯むことなく、腕の力を緩める真似はしなかった。
力任せに戸を開くと、歩の体を力一杯に押し出した。戸に嵌め込まれているガラスが音を鳴らしている。歩は力に抗わず、派手に転がった。静かな廊下に、歩の荒い呼吸の音が響く。
「ケイちゃん。一緒に応援に行こうよ……」
歩が床に横たわったまま声を漏らした。
「そのことならさっきも断っただろう。いい加減にしつこいぞ。それに、どうして部外者の歩がそんなにこだわるんだ?」
僕は歩を見下ろしながら言った。
「ケイちゃんには、バスケを続けて欲しいから……」
歩は床に視線を這わせたまま、僕とは目を合わせずに言った。
「歩。オレはもうバスケを辞めているんだ。オレがバスケを辞めてから何年経っていると思っているんだ。二年半だぞ、二年半。歩ならその二年半がどういう長さかわかるだろう。冗談も大概にしろ。それに県大会の応援に行ったところで、どうにもならないだろう」
歩が顔を持ち上げた。居心地悪そうに顔を顰めると、そのまま黙り込んだ。僕は腕を組み、歩が口を割るのを待った。
少しして、ようやく歩が口を開いた。
「昔の仲間がバスケをしている姿を見たら、ケイちゃんもまたバスケをやりたいって考え直してくれるかもしれないじゃないか……」
「いい加減にしろ。歩には関係のないことだ」
僕はわざとらしく溜め息をついた。それが悪かったらしい。歩は床に手を付いて立ち上がると、喉をかっと開いて叫んだ。
「ケイちゃんは、自分を応援してくれる人の気持ちを考えたことがないから、そんなことが言えるんだ!」
歩は肩を激しく上下させ、大きく息を吸った。
「それを言うなら歩だって同じだろう。オレの気持ちを全く考えていない。歩は今のオレのことは認めてくれないのか?」
歩の目を見る。歩の目はわなわなと震えていた。昔はその目尻に、よく涙が溜まっていた。
歩のことを悪意を持っていじめたことはないが、昔からよく泣かせていた。歩は僕のお菓子を欲しがっては泣き、僕が読んでいる漫画を先に読みたいとせがんでは泣き、ゲームで僕に負けては泣き、それから……。
バスケットボールの試合で負けては泣いていた。
ときどき思うことがあった。もしかしたら僕よりも歩の方がずっとバスケを好きなんじゃないかと。年齢の差だけではなく、たしかに僕の方がバスケの技術は上だったが、歩はチームメイトに恵まれず、試合に負けることの方が多かったが、それでもバスケットボールを続けていた。
「そういうことを言ってるんじゃない! おれはずっと楽しみにしていたんだ。高校生になったら、またケイちゃんと一緒にバスケができるんだって、ずっと、このときを待っていたんだ!」
歩が顔を真赤にして怒鳴る。
「オレが高校でバスケを続けていないことは、恵から話を聞いて知っていただろうが!」
「もちろん知ってたよ。だけど信じたくなかった! ケイちゃん、中学を卒業してからずっとおれのことを避けていただろう。そうでもなければこの二年間、一度もケイちゃんに会わないわけがない!」
歩の言葉を受け、僕は黙った。図星だった。歩の家の前を通らぬよう、わざわざ遠回りをして高校に通っていた。だが、それは歩だけではなく、歩の姉である恵にも会いたくなかったからだ。
「だけど、それはおれも同じ。おれもケイちゃんに会いたくなかった。会ったら、バスケを辞めたケイちゃんのことを認めないといけなくなるから、だから、オレもケイちゃんを避けてた」
歩が俯く。
「でも同じ高校に入学したら、もう向き合うしかなかった……」
歩が拳を床に叩きつけた。
「ケイちゃんは、オレのヒーローだった。オレは、ずっとケイちゃんになりたいと思ってた。小さかったときは、ケイちゃんの後ろを一生懸命追いかけたら、オレもケイちゃんみたいになれると信じてた。だからオレは、ケイちゃんの後ろをどこでもついていった。だけど途中で気づいたんだ。オレがどんなに一生懸命頑張っても、ケイちゃん以上に頑張っても、ケイちゃんにはなれないし、ケイちゃんを超えることはできないんだって。ケイちゃんにはバスケの才能がある。それに仲間にも恵まれていた。それなのに……バスケを辞めるなんて、ケイちゃんはずるい!」
長々と喋り続けたせいか、歩の声はすっかり掠れていた。
「オレがもしケイちゃんだったら、絶対にバスケを辞めなかった。亀工に入らなくっても、ここでだってバスケはできる。それなのにケイちゃんは、どうしてバスケを辞めたの……?」
歩が初めて僕の目を見た。
「……からだ」
「え?」
歩が瞬時に訊き返してきた。
「本気でできないバスケなんかに価値を感じないからだ」
湊高校のバスケットボール部の練習量が少ないことは、受験をする前から知っていた。もちろん環境に恵まれていないことも知っていた。
「一度きりしかない人生、ましてやたった三年間しかない高校生活なのに、部活にだけ打ち込むなんてもったいないだろう。緩い部活に入って部室でだらだら過ごしたり、放課後に友達とゲームセンターで遊んだり、彼女と公園でデートしたり……。閉鎖的な体育館の中でひたすら汗を流し続けるよりも、そういう時間を過ごした方がよっぽど楽しいし有意義だろう。どこにでもあるような、ありふれた理由で絶望したか?」
歩の目を捕らえる。彼の瞳の中に自分の姿が映っている。どこかまだ制服に着られている歩と違って、湊高校の制服がすっかり馴染んでいる。当たり前だ。もう三年目なのだから。
「嘘だ!」
歩が叫んだ。その声はまるで光のように、真っ直ぐ続いている廊下をどこまでも駆け抜けていった。
「歩が信じたくないなら信じなくていい」
僕は歩に背を向け、戸に手を掛けた。
「嘘だったとしても、そんな言葉、ケイちゃんの口から聞きたくなかった!」
僕は歩の声を打ち消すように後ろ手で部室の戸を閉めた。
まるでバスケットボールをした後のように鼓動が早くなっていた。
僕は歩の口からこの言葉を聞きたくなくて、毎朝十分も早く起きていたんだ。
戸に寄りかかって息を吐く。鼻から少しだけ空気を吸って、それからもう一度息を吐き出した。
「部活を始めるぞ」
まだ吾妻の姿がなかったが、僕は手を叩いて、呆然としている部員たちの正気を取り戻した。
部活を終えると、顧問の熊野先生に部誌を届けるために、千歳を伴って職員室に立ち寄った。いつもは一緒に帰ることの多い白鷹は珍しく先に部室を後にしていた。何か用事でもあるのだろう。
演劇部の部室から職員室に向かうと、昇降口とは反対方向に進むことになる。わざわざ遠回りをしたこともあり、手ぶらで帰るのも癪で、熊野先生からオランダせんべいを二袋強奪して職員から出る。熊野先生が机の引き出しの中に、非常食としてお菓子を常備していることは、湊高校の生徒なら誰でも知っている。
「千歳は柚子こしょう味の方でいいか? もう一つは桜えび味なんだが……」
廊下で待っていてくれた千歳に、せんべいが入っている小袋を手渡す。渋る熊野先生から無理やり強請ったため、味までは好きに選べなかった。
「僕はどっちでもいいよ。柚子こしょう好きだし」
千歳がありがとう、と言いながら、背負っていたリュックを回転させて胸の前に抱えると、チャックを開けてせんべいを突っ込んだ。熊野先生からもらったせんべいを横流ししただけなのに、僕にお礼を言うのは違うよなと思いながら、昇降口に向かうべく歩き出す。
「オレ、桜えび味はまだ一度も食べたことがなくてな。チーズ味と梅こんぶ味は食べたことがあるんだが……」
早速包装を破いて一枚手に取ると、それに歯を立てた。舌に乗った塩辛さよりも先に、海老の香りが鼻腔を伝っていた。予測したとおりの味に、安堵しながら咀嚼する。
「焼きとうもろこし味があるの、知ってる?」
千歳からの質問に、
「いや」
口を動かしながら顔を横に振る。
「美味しかったよ」
「へえ。今度食べてみるわ」
もう一枚口の中に放り込むと、空袋をスラックスのポケットに突っ込んだ。千歳が、そういえばさ、と遠慮がちに前置きをしてから、
「飯豊くん、あのまま帰してよかったの?」
と心配そうな顔で訊ねてきた。
「……ああ。いいんだ」
僕は唇に乗った塩を舌先で舐め取った。
「それにしても、ずいぶんと入れ込まれているみたいだね。あんなに熱心で、かわいいじゃないか」
僕のそっけない態度を気にすることなく千歳が話を続けた。
「かわいいもんか。鬱陶しいの間違いだろう」
思わず反発すると、千歳がふふっと息を吐き出しながら笑った。
「大型犬みたいで可愛いと思うけどね。それに僕は、後輩からあんな風に慕われたことがないから少し羨ましいな」
「そんなことないだろう。千歳みたいに先輩なのに偉ぶらず、誰に対しても平等で優しいヤツは、後輩からしたらありがたい存在だろう」
たった一、二年早く生まれたという理由だけで、後輩に対して横暴な態度で接したり、理不尽なルールを一方的に押し付けて支配しようとしてくるヤツらがいる。おまけに僕の通っていた中学校のバスケ部には、先輩の教室がある階の廊下は歩いてはいけないという謎のルールがあった。先輩に用事があるときは、階段の踊り場で誰かが通りかかるのを待ち、その人に伝言を頼んで呼んできてもらわなければいけなかった。互いに不幸だとしか思えない、面倒極まりないこのルールは、自分たちも下級生だったときに通ってきた道だからという理由だけで、代々引き継がれていた。他の部の生徒にも迷惑が被る、この理解しがたい謎のルールは、僕が三年生になったときに撤廃した。
「ケイタって、本当にわかってないなあ」
千歳が苦笑した。
「男って優しいだけの人間に憧れたり、尊敬したりしないよ。せいぜい無害で接しやすい人っていう印象を持つぐらいでさ」
千歳がリュックのショルダーストラップを握っている手に力を込めている。
中学時代の先輩たちを思い返す。僕には歩のように、自分から関わっていくような関係性の先輩は一人もいなかった。用事がなければ話しかけることもなかった。バスケットボールは、野球やサッカーよりもコートに立てる人数が少ない。先輩を差し置いてコートに立っていたこともあり、良好な関係は築けていなかった。
僕は千歳に何も言い返せなくなり、黙ってやり過ごすことにした。前から女子生徒が歩いてきてすれ違う。
「飯豊くんは、ケイタとバスケがしたくてわざわざ高校まで追いかけてきたんでしょう。話ぐらい聞いてあげたら?」
千歳が前を向いたまま言った。
「まさか。偶然同じ志望校だっただけだろう」
確かに千歳の言うとおり、歩が湊高校に入学できるほど勉強ができたとは知らなかった、というよりは、僕が知っていた歩は勉強が苦手だったはずだが、空白の二年の間に、身長がぐんと伸びたように偏差値の方もぐんと上がったのだろう。かくいう僕も部活に打ち込んでいたときは、とても湊高校の試験を通過できる成績ではなかった。部活を引退してから勉強に打ち込んだのだろう。
千歳は表情を引き締めると、息を長々と吐き出した。
「多分だけど、ケイタってさ、自分が好意を抱かれていることに気づかないタイプだよね」
「なんだよ、いきなり」
「いや、別に。ケイタ、自分ではモテない、モテないって言ってるけど、本当は自分に向けられている好意に気づいていないだけなんじゃないかなって思って」
「お前らと同じ基準にされたら、たまったもんじゃねえよ」
「お前らって、まさか僕とシズオのこと? ケイタこそ、僕とシズオを一緒くたにしないでよ。シズオは異次元なんだからさ」
千歳が口先を尖らせる。
廊下の角を曲がると、急に男たちの言い争っている声が聞こえてきた。異常を察した僕と千歳は同時に足を止めていた。千歳の顔を見ると、千歳の方も僕を見ていた。僕たちは無言のまま頷き合い、息を潜めて耳を澄ませた。
「こんなところで何をしているんだ? まさか葉山先輩のことを待ってるんじゃねえだろうな」
白鷹の声だ。
「タカさんには関係ないです」
こちらは歩だ。
「関係おおありだ。お前、ちょっとこっちに来い」
「何ですか? ケイちゃんとすれ違ったら困りますから、手短に済ませてくださいよ」
歩が渋るような声を出した。
二人の声が僅かに小さくなる。どうやら壁際に移動したらしい。僕はさらに神経を研ぎ澄まし、二人の会話に耳を傾けた。
「お前は、どうしてそんなに葉山先輩にこだわるんだ?」
白鷹が訊いた。彼にしては声が低い。ずいぶんと苛立っているようだ。
「タカさんには関係ないです」
歩がいつもの決まり文句を口にした。
「お前は、憧れだったヒーローがライバルに倒されて幻滅している子どもか?」
白鷹がさらに声を低くして言った。
ヒーロー。
確かに歩は、僕のことをそう呼んだ。その呼び名に一体どんな価値があるのかはわからない。ヒーローとは憧れる存在のことを差すのだろうか。
「タカさんは、ケイちゃんのことを何も知らないからそんなことが言えるんです。中学生のケイちゃんを知っていれば、あのときのケイちゃんを知っていれば、タカさんだって、オレと同じことをすると思います」
白鷹の態度に怯む様子を見せない歩が、きっぱり言い切った。
「ケイちゃんは、県の選抜メンバーに選ばれるほどの選手だった。相方の三瀬先輩とのプレイは本当にすごかった。観客を魅了するっていうのは、ああいうことを言うんだなって思いながら、おれはいつもスタンドからケイちゃんのプレイを観ていた」
歩はそこで一度息を吐くと、怒らないでくださいね、と念を押してから言葉を続けた。
「ケイちゃんには悪いけど、ケイちゃんのバスケは演劇よりもずっと人を魅了して感動させる。ケイちゃんは、バスケでそれができる人間なんだ!」
演劇よりも、ずっと……。
うまく飲み込めなかった息が喉元で熱を持つ。隣に立っている千歳が、身じろぎを誤魔化そうと体を揺らした。
長い間があった。僕と千歳はその間も身動き一つせず、状況が進展するのを静かに待った。それをやり過ごして、先に口を開いたのは白鷹の方だった。
「お前の言い分はわかった。わかったが、どうしてお前が葉山先輩の過去にそんなにこだわるのか、ちっとも理解できない」
「タカさん、おれの話をちゃんと聞いてましたか? ケイちゃんは演劇部にいるべき人間じゃないって言ってるんです!」
「それは、お前が葉山先輩とバスケがしたいだけだろうが。バスケがしたいのなら、一人で勝手にしてればいいだろう!」
「バスケは一人ではできません!」
「そう言う意味で言ったんじゃない。いい加減、お兄ちゃん離れをしろって言っているんだ!」
ついに白鷹が声を荒げた。
「さっきから人のことを子ども扱いしないでくださいよ! あんな薄暗い部屋に引きこもっているタカさんには、おれの気持ちなんて絶対にわからないですよ!」
負けじと歩も怒鳴り返す。二人の荒い呼吸の音が、心をざわつかせる。
「お前こそ、葉山先輩の何を知っているつもりなんだ? 幼馴染みっていう関係に甘えて、葉山先輩の気持ちを置き去りにして一体何をわかっているつもりでいるんだ? 俺は葉山先輩がバスケを辞めた理由は知らない。だけど、今ここにいるのは演劇部の葉山先輩だ。その葉山先輩のことなら、お前よりも知ってる自信がある。それに葉山先輩は、演劇もバスケと同じくらい好きでいてくれているはずだ。そうでなければ、目の下に隈を作るほど必死になれるはずがないんだ」
畳み掛けるように白鷹が続ける。
「お前、知らないだろう。部室のごみ箱、丸めた原稿用紙の屑でいっぱいなんだ。葉山先輩がどんな思いで脚本を書いているのか何も知らないだろう。葉山先輩は本気だ。本気で演劇部を残そうとしている。これ以上、葉山先輩の邪魔をするっていうのなら黙ってないからな」
歩の声がめっきり聞こえなくなる。
白鷹が、それと、と言葉を区切ってから、再び口を開いた。
「その距離からじゃ、大事なことは何も見えないぜ」
それきり白鷹と歩の声は聞こえなくなった。二人とも昇降口から離れたのか、それとも片方だけが離れたのか、気配だけでは感じ取れない。
「……そろそろ行こうか?」
千歳が小声で訊ねてきた。
「オレ、部室に忘れ物してきた。千歳、悪いが先に帰っててくれ」
「え? ケイタ?」
すぐに千歳の驚いた声が聞こえてきたが、僕はそれを振り切って廊下を駆け出した。
部室に戻ると、窓際前方の隅に駆け寄った。壁により掛かるように置いてあるごみ箱を見下ろす。ごみ箱の八割ほどが紙くずで埋まっている。中にはお菓子の紙包みなどもあるが、ほとんど僕が出したごみだ。
部室のごみ箱は週に一度、金曜日に捨てることになっている。ごみ捨て場に捨てに行く係は輪番制だ。
僕はごみ箱を手に取ると、再び廊下を駆け出した。
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