第7幕 第2場 職員室にて

 職員室には冷房が入っており、他の教室とは別の世界のようだった。木造の校舎は、夏は暑くて冬は寒い。気温はまだまだ例年通り初夏のそれではあったが、梅雨の時期のせいか、すでに蒸し暑い日がある。用事もないのに職員室に入り浸る生徒が出てくるのも頷ける涼しさだ。

 熊野先生は机にノートパソコンを広げ、キーボードを叩いていた。僕の顔を見るなり手を止めると、

「葉山。ついて来い」

 ノートパソコンを閉じながら椅子から立ち上がった。どうやら僕が熊野先生に会いに来た理由に勘づいているらしい。

「はい」

 僕は素直に頷いて、熊野先生の後をついていった。

 熊野先生が僕を連れ出した場所は、職員室の中にある生徒指導室だった。存在は知っていたが、中に入るのは初めてだ。

「本当はアルコールを入れたいところなんだが……」

 部屋に入るなり、熊野先生が僕に缶コーヒーを手渡した。保護者用に用意されているものだろう。

「熊野先生。オレ、コーヒーは苦手なんですけど……」

「葉山はおこちゃまだな。まあ、そう言わずに飲んでみろ」

 熊野先生が奥側のソファに腰掛けると、すぐに缶のプルタブを開けた。僕は手の中で缶を転がしながら、飲むか飲まないか迷っていた。

「神室は喜んで飲んでいたけどな」

「神室さん、そんなに指導されてたんですか?」

 神室さんは頭髪や服装を始め、校則違反をするような性格ではなかったはずだが、と思いながら訊ねた。

「ははっ。葉山、何か勘違いをしているな。『生徒指導室』って、何も悪さした生徒の反省部屋ってわけじゃないんだぞ。進路相談とか、他の生徒に聞かれたくない話をするときにも使用されるんだ。ちなみに神室は、よく進路相談に通っていたんだ」

 神室さんとのメッセージのやり取りを思い出す。熊野先生から受験対策のアドバイスをしてもらっていたと。

「神室さんから随分と信頼されていたんですね」

「そんな大それたもんじゃねえよ。ただ俺が、神室の志望校のOBだっただけだ」

 熊野先生が、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。

「それで、葉山は何から知りたいんだ?」

 奥二重の右目が僕の心を惹き付け、一重の左目が僕の心を拒絶していた。熊野先生が体を崩して、机に肘を付いた。

「……俺のこと、ある程度は調べてきたんだろう」

 その言葉に、僕は誤魔化すことなくしっかり頷いた。

「熊野先生はいつから演劇を始めたんですか? やっぱり高校からですか?」

 まずは手始めにジャブとばかりに、挨拶程度の質問を投げかけた。

「いや、俺は大学生になってからだ」

 熊野先生が顔を横に振った。

「そうなんですね。演劇を始めたきっかけは何だったんですか?」

 続けてストレート。僕がさらに訊ねると熊野先生は黙り込んだ。

「もしかして、女ですか……」

 空白の時間に耐えかねて助け舟を出すと、

「大学生が未経験のサークルに入る理由なんて、だいたいそんなもんだろう」

 熊野先生が椅子に踏ん反り返って腕を組んだ。

「俗な理由なのに、偉そうに開き直らないでくださいよ」

「そういう葉山はどうなんだ?」

「オレは当時の部長からのスカウトです」

 僕は胸を張って答えた。

「部長って、高館のことだろう? お前も女性じゃないか」

「オレは違いますよ! 下心しかない熊野先生と一緒にしないでください。それにオレ、年上の女には恋愛感情を抱かないタイプですから」

 吾妻とは違って、と心の中で付け足す。

「一丁前の恋愛観だな。だがな、恋愛観ほどシナリオ通りにならないものはこの世にないぞ」

 熊野先生が鼻で笑った。意味ありげな台詞に興味を唆られるが、ここはグッと堪えてまたの機会を伺うことにする。僕は唇を舐めてから口を開き直した。

「話を変えますけど、熊野先生はいつ頃、教師になろうって決めたんですか?」

 ここで不意打ちのフック。僕の質問に、熊野先生が腕の力を緩めた。急に話が変わって戸惑っているのだろう。

「なろうと思ったことは一度もないが、なれたらいいなくらいの気持ちなら、大学一年生のときには既にあったな。だがそれも、あくまでも就職先の一つとして、教員という道もあったというだけの話だ。教員免許を取得するための講義は一年生のときから受講しないといけなかったから、絶対に教師になるみたいな綺麗な志を持っているヤツらはもちろんいるが、俺みたいにとりあえず将来の選択肢を増やすためとか、奨学金を返済したくないからとか、その程度の半端な気持ちのヤツもたくさんいたと思うぞ」

「それでも結果的に、熊野先生は教師になったわけですよね。少しは教師になりたいという気持ちがあったからですよね? どうして教師になりたいと思ったんですか……?」

 僕はなぞなぞの答えを教えてもらえるのを待ちきれずに腕を揺さぶる子どものように、しつこく食い下がった。アッパーの機会は窺いつつも、焦らずジャブを打ち続け、タイミングを図る作戦だ。

「なりたいというよりは、なるんだろうなという感じだな。俺の両親は二人とも教師で、会社員がどういうものかを知らずに育ったんだ。だから企業説明会に足を運んでも、会社員として働く自分の姿を上手に想像することができなかった。俺にとっては、会社員よりも教師の方が身近な職業だった。大半の人間が就職活動をして会社員になるように、俺は教員試験を受けて合格したから教師になった。それだけのことだ」

 僕の父親は自動車メーカーで営業をしていて、母親は商業施設の婦人服売り場で販売員をしている。どちらも接客業だから、デスクに座って書類やパソコンに向かうような仕事は想像がつかない。だからといって、将来両親がしているような仕事に就きたいとも思わないが。

「ちなみに、企業勤めの経験をせず、大卒ストレートで教員になることを『ストレート教員』って呼ぶらしいぞ」

 熊野先生が自虐的に笑った。

「でももし教員試験に落ちていたら、教師になる道はすぐに諦めて、どこかの企業に就職していたと思う。就職浪人をしてまで教師になりたいと思う気持ちはこれっぽっちもなかったな」

 熊野先生が思い出したように缶コーヒーに口を付けた。

「教師になりたいと思うようなエピソードはなかったってことですか?」

「残念ながら。俺は元ヤンではなかったし、憧れた先生もいなかったし、特別学校が好きだったわけでもないからなあ……。葉山はまだ志望校が決まっていないって話を聞いたが、進路に悩んでいるのか?」

「まあ、確かに志望大学はまだ決まっていませんが……」

 僕は缶コーヒーのプルタブに人差し指を引っ掛けたまま、手前に押し倒すことができずにいた。

「こんな極端なことを言うのは教師失格かもしれないが、坂田市民の大人として言っておく。もし東京にいけるチャンスがあるのなら、絶対にいっておけ」

 熊野先生が低い声で言った。

「同じようなこと、神室さんからも言われました」

「そうか。この町はさ、当たり前のことだが、町から出たことのあるヤツと出たことのないヤツで二分化されているんだ。出たことのあるヤツと出たことのないヤツは絶対にわかりあえない。そういうものだから覚えておけよ」

「そういうもの、ですか……」

 坂田市はド田舎ということもあり、小学校から中学校にかけて代わり映えのない人間関係のまま進学していく。高校も大して変わらない。そのため転校生、とくに東京のような大都会からきた人間は、それだけの理由で一目置かれる。

「俺、長男なんだよ。俺の意思とか未来とか全部無視して、生まれたときからこの町に根っこが生えてんの。根っこっていっても、引っこ抜こうとしても抜けねぇんだ。土に根がびっしり張り付いてんの。もちろん同じ長男でも、そんなことを一切気にしないヤツもいる。そういうヤツらのことを薄情とか罰当たりだとか言う連中もいる。俺は正直どっちでもいいと思うし、そういう選択をするヤツのことを羨ましく思うこともある。でも俺は、この町に生まれたからには、そういうふうに何かに縛られて生きていくのは宿命だと思ってる。墓をさ、守らないといけねえんだ。俺には妹がいるんだけど、妹は東京の大学に進学して、そのまま東京の会社に就職した。今年で三年目だったかな。仕事が忙しいらしくて、大学を卒業してから一度も帰省してない。この呪いは俺で最後にしたいと思ってるし、妹にはその責務を負わせたくないと思ってる」

 ド田舎の高校生にとって、志望校の選択は将来の選択と直結している。家から通える大学の数が、星の数ほどある関東住みの高校生を羨ましく思う。

「確か葉山も長男だったよな。この町で生まれたこと、今から覚悟しておけよ」

 両親から弟の昌二よりも将来について、うるさく言われているような気がするのは気のせいではないだろう。昌二も僕に似て勉強が嫌いだ。今はサッカーに夢中で、毎日泥まみれで帰って来る。今日の朝も母は、やっぱりスポーツは室内競技の方がいいわね、なんて泣き言を漏らしながら洗濯をしていた。

「大学生の四年間なんて、あっという間だからな」

 あっという間。大人が好きな言葉だ。僕たち未成年の数年間は、大人に流れている時間よりもずっと速度が早くて、貴重なものらしい。

「俺は自分が話したいことは全て話したぞ。葉山も話したいことを話したか? 俺も暇じゃねえんだ。そろそろ職員室に戻るぞ」

 熊野先生が息を吐いた。

 ようやく覚悟が決まり、缶コーヒーのプルタブを弾く。

「熊野先生の過去を教えてください」

 僕の腹の底から通した声は、狭い箱の中で意味を持って響いた。正面から届く声と、壁から反射して遅れて届く声。どちらにも意味をのせて声を震わせる。

「俺の過去なんて、チェバの定理の解説を聞くよりもつまらねぇぞ」

 熊野先生が顎に手を当てて呟いた。

「チェバの定理って何ですか?」

「そういや葉山は文系か」

 壁の向こう側は職員室ということもあり、微かに雑音が聞こえてくる。さすがに会話の内容までは聞き取れないが少し落ち着かない。

 僕は缶に唇を押し当て、一気に缶を傾けた。苦い。喉が絞まるよりも先にぎゅっと目をつむった。その様子を伺うように見ていた熊野先生が、ふっと口元を緩めた。

「さっきも言ったが、俺は教員採用試験に一発で合格したんだ」

 熊野先生が軽い調子で言った。

「大学は現役で合格したし、サークル活動にのめり込んでいたにも関わらずストレートで卒業できたし、それまでは順風満帆な人生だったんだ」

 きっと熊野先生は、勉強で挫折したことがないのだろう。僕なら三浪してもM大には合格できない。

「教師になって三年目のことだ。初めて担任を任せられて俺は張り切っていた。自分のクラスを受け持てたことが嬉しくて、プライベートの時間を削ってまで仕事に打ち込むようになった。他のクラスには負けない、一番のクラスにさせようと躍起になってた」

 熊野先生が人差し指で机を叩き出した。

「『若いだけあって教育熱心ですね』なんて褒める先輩がいる中で、そんな俺の働き方をよく思っていない先輩もいて、その人から忠告されていたんだ。『あまり生徒と距離を詰めすぎるなよ』って。でも俺はその先輩の言葉に耳を傾けなかった。俺が若くて生徒たちと仲がいいから嫉妬しているんだなとさえ思っていた。今振り返ってみると、張り切っていたというよりは調子に乗っていたんだな」

 熊野先生が自虐的に鼻で笑った。僕はつられて笑う真似はしなかった。

 熊野先生が話を続けた。

「受け持ったクラスは、学年が三年生ということもあって、俺は週に一度、放課後に勉強会を実施するようになった。その勉強会には、主に運動部に所属してる生徒や塾に通っていない生徒が参加していた。その延長で、夏休みに勉強合宿を計画したんだ」

 熊野先生の指の動きがぴたりと止まった。

「中学生のときの同級生に、旅館を経営しているヤツがいて、お盆を過ぎた時期なら格安で大部屋を貸してくれるということもあって、参加者はクラスの半分ぐらいに増えていた」

 そこで熊野先生の口が止まった。しばらく無言の時間が続いたが、僕は口を挟まなかった。

 然るべきタイミングがきたとばかりに、何のきっかけもなく、熊野先生が再び口を開いた。

「勉強合宿は二泊三日だった。途中、息抜きに花火やスイカ割りなどはしたが、授業形式で朝から晩まで勉強した。経済的な理由で塾に通えない生徒や親たちからは感謝されたよ。俺は誇らしい気持ちだった。教職を天職だと思った」

 熊野先生の目が僅かに揺れた。

「事件が発覚したのは、勉強合宿を終えてから数日後、二学期の始業式を迎えてからだった」

 熊野先生の溜め息が、物語の結末を暗示していた。

「参加者の中に酒屋の息子がいて、そいつが親に無断で店から缶ビールを持ってきていたんだ。売上金額と品数が合わないことに気づいた親が万引きだと思い、警察に相談するって話になったところで、息子が白状して判明した。勉強合宿に持ってきた缶ビールは、夜中に一部、いや四人の男子生徒の間で回して飲んだそうだ。そのことを俺は知らなかった。缶はラベルが見えなくなるほど小さく足で踏み潰して、近くの自販機のゴミ箱に捨てていて証拠が隠滅されていたし、飲んだと言っても一人数口程度しか口をつけていなかったから、二日酔いになったヤツもいなかった。だから本当に何も知らなかったんだが、それでは済まされなかった。だって俺が主催した会だからな。それが原因で、俺は担任を外されて、研修センターにいくことになった」

 熊野先生が缶コーヒーから手を離し、机の上で手を組んだ。

「あいつら泣きながら俺に謝ってきたよ。こんなことになるとは思っていなかった、ってさ」

 熊野先生が鼻で笑った。

「そりゃ、そうだろうな。ヤツらにとっては、大人の目を盗んで酒を飲むなんて日常茶飯事だったんだろう。きっとそのときも、どうせバレやしないと思ってたんだろうな。いや、バレても少し怒られてそれで終わりぐらいに思っていたのかもしれない」

 熊野先生がまた自虐的に笑った。

「飲酒した生徒は、何かしらの処分は受けたんですか?」

 熊野先生が目だけで僕を見た。

「十日間の停学だ」

「短いですね」

 熊野先生のキャリアに傷をつけたというのに、たった十日間学校を休んだら許されるのか。自分も同じ高校生だが、未成年ってつくづく無敵だな、と思う。人間誰しも間違いを起こすし、やり直しが利く年齢といえば聞こえはいいが、高校生にもなれば善悪の区別はつく。その場のノリの悪ふざけが限度を超えてしまったのだろうが、そんなヤツらに手を差し伸べる必要はあるのだろうか。

「葉山も受験生だからわかると思うが、受験生にとって、担任が途中で変わるっていうのはかなりのストレスだ。そのクラスはただでさえ三年生に進学するタイミングで担任が変わっているというのに、二学期でまた変わったんだ。学校にはかなりの数のクレームの電話が掛かってきた。中には、全く無関係の人間が電話を掛けてくることもあった。県外のヤツもいたし、高校生の子どもがいるわけでもない年配のヤツもいたし、日本語で喋れないヤツもいた。自分に不利益を与える相手でなくても、叩けるものがあれば叩く。世の中には、そういうヤツらが一定数いるんだ」

 熊野先生が僕を見た。

「わかるか? 教え子に裏切られた教師の気持ちが……。想像できるか? できねぇよな? できないんだよ。むしろできてたまるかっ」

 熊野先生は缶コーヒーを握る手に力を込めたようだったが、缶がへこむことはなかった。

 僕は周囲を見渡した。

 ああ、そうか。この部屋には空がないのだ。だからこんなにも息苦しいのか。指導する、という意味では、正しいのかもしれないが。きっとこの場所は、迷わせないために空が見えない。

 校舎の南側には建物に沿って桜の木が植えられている。そのせいで一階にある職員室の窓は桜の木が空を遮っている。

 いつの日だったか、牛渡先生が悪意を込めて言った台詞を思い出す。

『それと、わざわざ言わなくてもわかっているかとは思いますが、前回のような過ちは勘弁してくださいね』

 あのときは演劇部の下剤騒動のことを言っているのかと思っていたが、どうやら僕の勘違いだったらしい。牛渡先生は、熊野先生の過去を知っていて牽制したのだろう。

「……熊野先生。オレたちに演技指導をしてください」

 僕は椅子から立ち上がると、腰を曲げて頭を下げた。

「俺の話を聞いてたか? 俺はもう、生徒のことが信じられねえんだ。生徒とは必要以上に関わりたくないんだ」

 顔を上げると、熊野先生の顔は歪んでいなかった。

「生徒を信じられない人間が教師を続けてもいいのかって思う気持ちはわかる。俺自身、教師を辞めることは何百回も考えた。狂いそうになるほど考えた。毎日、毎日、目が開いてるときは数分に一回考えるんだ。俺、教師に向いてないって。何が天職だ。間違ってる場所にいるって。本当は今も思ってる。でも教師以外の道を選べなくて、ずるずるした結果、おれは今もここにいるんだ。俺はさ、情けない大人なんだよ。そんな俺に、お前たちに教えられることなんて本当は一つもねえの」

 歪んでくれていれば、付け入る隙があっただろうに。

「俺はもう誰も信じられねえんだよ……。生徒だけじゃねえ。友人も家族も彼女も、誰も信じられねえの……。いや、違う。俺が信じられないのは生徒でも友人でも家族でも彼女でもねえ。人間だ。人間が信じられねえの。自分さえも信じられねえんだ……」

 熊野先生の声が掠れる。

「ごめんな。そういう訳だから無理なんだよ。俺はな、そういう人間なんだよ」

 缶コーヒーの底が机を強く叩いた。

「なあ、葉山。どうしても指導者が欲しいっていうのなら、他に誰か引き受けてくれる人がいないか探してやる」

 熊野先生。その台詞、何回練習したんですか。その澄ました顔で言えるようになるまで、何回口に出したんですか。

「探してやるって、ここは東京じゃないんですよ! 演劇経験があって、高校生を指導してくれる都合のいい大人が、この狭い町のどこにいるって言うんですか!」

 僕は思わず机を叩いた。その音が想像した音よりも五月蠅くて、慌てて手を引っ込めた。

「当てがあるって言うのなら、話は別ですが……」

 僕は立ったまま缶コーヒーを垂直に傾け、残りを全て飲み干した。

 熊野先生は窓のついていない壁を、まるで外の景色を望むように見つめていた。



「熊野先生に断られた……」

 僕は部室に来るなり、千歳に泣きついた。

「思ったより根は深そうだね」

 千歳は歩用の衣装を縫っていた手を休め、机に伏せている僕の頭を撫でた。

「ヤス、あまりケータのことを甘やかすなよ」

 吾妻がぴしゃりと言った。

「そうですよ。後輩の前で、情けない姿を見せないでくださいよ」

 白鷹が不満げに呟いた。

「タカ、よく言った!」

 吾妻が手を叩いた。僕は顔を横にしたまま、向きを変えて吾妻を睨んだ。反論しようと口を開き掛けたところで、

「スマホの通知音が鳴ってる。ケイタじゃない?」

 千歳が僕の頭を撫でる手を止めた。

 僕は頭を持ち上げると、スラックスのポケットに手を突っ込んでスマートフォンを取り出した。

「神室さんからだ」

 スマートフォンのロックを解除してメッセージアプリを立ち上げる。メッセージだけかと思っていたが動画も送られてきていた。すぐに動画の再生ボタンを押した。

 何だこれ、と思ったのも束の間だった。舞台の上に、金髪の男が立っていた。

「神室さん何だって?」

 千歳が体を前に倒し、僕のスマートフォンを覗き込んできた。

「これって……」

 千歳もすぐに勘づいたらしい。

「クマちゃんの舞台か」

 いつの間にか椅子から立ち上がっていた吾妻が、僕と千歳の間から顔を突っ込んできた。

 僕はスマートフォンを机の中央に置いた。笹野と白鷹も画面を覗き込んだ。

 僕たちはしばらくの間、黙ったまま動画を見続けた。動画が終わるまで、誰も途中で口を挟まなかった。

 学生の舞台といえば、不自然なほどに大きい身振り手振りや台詞の強弱が気になる役者もいるが、熊野先生の演技は自然だった。

「普通に上手いじゃん」

 若干上から目線だが、吾妻が褒め言葉を口にした。

「引き込まれる演技だね」

 千歳が相槌を打ちながら吾妻に続いた。

「熊野先生、どうしても指導者が欲しいなら、他に誰か引き受けてくれる人を探してみるって言ったんだ」

 僕はスマートフォンを机に伏せて置いた。

「下手だったら、僕たちに演劇部の経験があったことを隠していた気持ちも理解できるのにね」

 千歳が針を手にして衣装を縫い始めた。

「下手だったら、笑ってやるつもりだったのにな」

 吾妻が体を上に伸ばした。

「下手だったら、諦めがつくのにね」

 笹野が英単語帳を開いた。

「下手だったら……」

 白鷹が言葉を詰まらせた。何も思いつかなかったのだろう。口を閉じると、何事も無かったかのようにノートパソコンを開いた。

「……それで、これからどうするんだ?」

 手持ちぶさたの吾妻が、ちらりと僕の顔を見た。

「即興劇の練習が足りてねえみたいだな。白鷹に至っては、台詞が出てこなかったし……」

 僕は首をぐるりと回し、四人の顔を見渡した。

「それならなおさら答えは決まってるな」

 吾妻が得意げに口端を持ち上げた。千歳と笹野が無言で頷いた。

「ちょっと電話を掛けてくる」

 僕は机に手をつきながら椅子から立ち上がった。

「いってらっしゃい」

 千歳が手を振って送り出してくれた。

 僕は廊下に出ると、すぐに神室さんに電話を掛けた。窓際に立って、意味もなく外を眺める。

 北側には一般教室棟が建っていることもあり、廊下の窓からは、特別教室棟から一般教室棟を結ぶ渡り廊下が見える。

 耳に押し当てているスマートフォンからはコール音が鳴り続けている。神室さんからのメッセージが届いてから三十分は経っていない。てっきり電話にすぐ出てくれるものかと思っていたが当てが外れた。まだ講義中だろうか。それともサークルやアルバイトの休憩中にメッセージを送ってきたのだろうか。

 同じ場所に突っ立っているのが苦痛で、教室一室分の短い距離を往復する。

 そういえば先日神室さんと会ったときに、何のアルバイトをしているのか聞きそびれたなと思うと同時に、あと五コール鳴っても電話がつながらなければ、時間を置いて掛け直そうと思い、頭の中でカウントダウンを始めた。

 一、二……。

 かれこれ三往復している。四往復目に入ったところで、薄汚れた窓から、渡り廊下を牛渡先生が通っていくのが見えた。

 思わず足を止める。相変わらず大きな体を揺らしているなと思って眺めていると、突然コール音が途切れて、

「もしもし……葉山です」

 思わず、かぶりつくように早口で名のった。

「おう、どうした?」

 神室さんの声の後ろで、誰か他の人の声が聞こえてくる。大学にいるのか、それとも町中にいるのか判別がつかなかった。

「今忙しいですか?」

「いや、部室でダラダラしてた」

 人のいない場所に移動したのだろう、雑音が小さくなり、神室さんの声が聞き取りやすくなった。

「そうですか……。神室さんにお願いしたいことがあるんですけど……」

 相手の言葉を待っていると、返事の代わりに笑い声が聞こえてきた。

「え? どうしたんですか?」

 今神室さんがどういう状況なのか、見えないことがもどかしい。神室さんがどうして突然笑いだしたのか思い当たる節がない。

 笑い声が止まると、

「予想通りだったからさ。葉山から電話が掛かってくると思ってたぞ」

 ようやく神室さんの言葉が返ってきた。

「……どうしてですか?」

 自分が置かれている状況がわからない僕は、少しだけ気分を害していた。

「さっき熊野先生の舞台の動画を送っただろう。あれを見たらさ、葉山だったら大人しくしていないだろうと思ってな」

 電話の向こう側にいる神室さんの満面の笑みがありありと想像できた。

「それなら電話にすぐ出てくださいよ」

「悪い、悪い。みんなでこの間の公演の動画を観ていて、電話のコール音が聞こえなかったんだ。それで、俺にお願いって?」

 神室さんが僕に話を振った。

 僕は窓に背を向け、部室の壁を見ながら言った。

「熊野先生の同期と話がしたいんですけど、どなたかと連絡を取れたりしませんか?」

 山形と東京で時差は無いはずだったが、変な間が空いてから、

「取れるぞ。それも対面で」

「対面? どういうことですか?」

「いるんだよ。坂田に」

「坂田に!?」

 思わず声がひっくり返った。誰もいない廊下に声が響いた。

 部室から誰か出てくるかと思ったが、戸が開くことはなかった。

 僕は電話口を手で押さえて話を続けた。

「どこにいるんですか!?」

「まあまあ、落ち着け」

 神室さんは、僕を宥めてから断片的だった話の詳細を説明し始めた。

 熊野先生と同じ大学で同じサークルだった人が、まさかこのド田舎にいるなんて奇跡みたいな話かと思ったが、蓋を開けてみれば何のこともなかった。

 その人物は、この町で生まれ育った生粋の坂田市民だという。熊野先生とは小学校からの知り合いで、高校は別だったものの大学で再会し、顔見知り同士で連んだ結果、同じサークルに所属したとのことだ。

 その人は大学卒業後、実家の会社を継ぐために坂田に戻ってきているという。また本職の傍ら、趣味で町おこしのイベントを活発的に開催しているそうで、インターネットで名前を検索すると色んな情報が出てくるとのことだ。

「店名がわかれば、場所は自分で調べられるよな?」

 神室さんが訊いた。

「……はい」

 最後にお礼を言って電話を切ると、誰に見せるわけでもないのに、天井に向かって息を吐き出していた。

 だが、これで合点がいった。

 熊野先生に指導者の当てがあるのかと訊いたとき、返事こそなかったが、否定もされなかった。その人こそ、自分の代わりに差し出そうとしていた人物だろう。

 僕は地図アプリを立ち上げると、今聞いたばかりの会社名を検索バーに入力した。

 店は自転車で行ける距離にあった。

 僕は自分の頬を二回叩くと、部室の戸に手を掛けた。

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