第7幕 第1場 職員室にて
四時間目の体育が終わり、スマートフォンを開くと、メッセージアプリに新着メッセージが1件入っていた。いや、正しくは写真が1枚送られてきていた。僕はその写真の意味を理解するなり、体育館を飛び出し、購買で一番手前に置いてあったパンを買うと、教室に戻らず、ジャージ姿のまま部室を目指した。
いつもであれば、そのまま体育館に残り、不完全燃焼になりがちな体育の延長線としてクラスメイトとバスケットボールかバレーボールをしてから教室に戻るのだが、今日ばかりはその誘惑を振り切って部室へ急いだ。
人とぶつからないように気をつけながら廊下を走り部室に駆け込むと、指定の位置に並んで座っている吾妻と千歳が菓子を食べていた。
「笹野はまだ来ていないのか……?」
戸の縦枠を手で掴み、呼吸を整える。階段を駆け上ったのが地味に効いている。
「うん。まだみたい」
ポッキーに手を伸ばしていた千歳が答えた。
「二人とも、もう弁当を食べ終わったのか?」
どちらの弁当箱もすでにナプキンに包まれている。
「四時間目の数学が自習だったんだ。次の授業までに課題のプリントを提出すれば問題ないから、シズオと部室に移動して勉強していたんだよ」
千歳が先に答えると、
「三十分も掛からずに全部終わったから、早弁しただけだ」
吾妻があくびをこぼしながら続いた。それから机に腕を乗せ、眠る体制に入った。
「吾妻はどうなろうがどうてもいいが、優等生の千歳を巻き込むなよ」
吾妻は僕の叱咤を気にせず、頭の位置が気に食わないのか、体をもぞもぞと動かしている。
「僕がシズオに教えてもらいところがあったんだよ。今シズオと席が離れていて、教室で教えてもらうにはちょっと不便だったから……」
千歳がポッキーをまた一本口に運ぶ。
「それで優雅に、食後のデザートタイムか」
「……で、ケータこそ、そんなに慌ててどうしたんだ? 一丁前に真面目な顔して」
吾妻が顔を横にしたまま、訝しげに眉を潜めた。
「何かあったの?」
千歳がまた一本、ポッキーを掴もうとした手を止めた。予想外のシーンが流れていたせいで、すっかり頭から飛んでいた。スラックスのポケットに手を突っ込み、スマートフォンを握る。
「またトラブルか?」
吾妻が気だるそうに体を起こした。千歳が無言で吾妻にポッキーの袋を差し出すと、彼もポッキーを食べ始めた。
「いや、そうじゃないけど……」
顔を横に振る。
「それなら何だって言うんだ?」
言いながら吾妻がポッキーに歯を立てて折った。
「ケイタ、体調でも悪いの?」
千歳が僕の顔を覗き込んでくる。吾妻とは大違いだ。
「体調なら万全だ」
「ケータが風邪を引くような玉かよ? うざったいから、さっさと話せ!」
吾妻が鼻を鳴らしながら、憎ったらしい長い足で、僕の机の足を軽く蹴った。相変わらず短気なヤツだ。
笹野がいても仕方ないとは思っていたが、彼女がいないのなら今の方が都合がいい。僕は早速口を開いた。
「熊野先生が、大学の演劇サークル出身者だった」
無意識に声を小さくしていたようで、千歳と吾妻が僕の方に身を乗り出してきた。
「クマちゃんが演劇経験者……?」
吾妻が首を傾げた。
「そんな話、今まで一度も聞いたことがないよ」
千歳も訝しげに眉を潜めた。
「オレだってまだ信じられないけど、神室さんが……」
数分前に、神室さんから送られてきた写真を二人に見せる。
「この顔はクマちゃんに間違いない」
吾妻が僕のスマートフォンを手に取ると、色んな角度からまじまじと見つめた。
「女性ならまだしも、大学生にもなればあまり見た目は変わらないし、金髪ではあるけれど、人違いではなさそうだね」
千歳が吾妻にぴたりと体を寄せ、スマートフォンの画面を覗き込んだ。
「でも、なんだって俺たちに隠しているんだ? 最初の自己紹介のときに、演劇は未経験だから名ばかりの顧問だって言ってたよな?」
吾妻が、僕と千歳の顔を交互に見ながら訊いた。
「確かにそうだったね。僕たちに知られたくない事情があるとか?」
吾妻から体を離した千歳が自信なさそうに答えた。
「その事情ってなんだよ?」
「そんなのわからないよ!」
吾妻に詰め寄られた千歳が、お手上げとばかりに視線で僕に助けを求めてきた。
僕は買ってきたフィッシュカツパンの包を開けて、早速かぶり付いた。急いでいたのでろくに見ないで手に取った商品だったが、僕が好きなパンの一つだ。商品名にカツと付いているが、いわゆるフィッシュバーガーである。
吾妻と千歳の雑談を他所に、夢中で食べ進めると、あっという間に食べ終えてしまった。包を小さく丸め、ごみ箱に向かってシュートを打つ。この距離なら、滅多なことがない限り外すことはない。もう一つ買っておけばよかったな、と後悔しながら、
「そういえば、新しい顧問が熊野先生になったって報告を受けたときに、牛渡先生から 『あんなことがあった部活の顧問を引き受けてくれただけ、ありがたく思え』って言われたな。それって、他の先生たちにも演劇経験者だってことを隠してるってことだよな」
思い出したことを口に出した。
「経験者となれば、顧問を押し付けられるのは目に見えているから、引き受けたくなかったら隠したくなる気持ちもわからんでもないが……」
吾妻が顎に手を当てて唸り声を漏らす。
「演劇部となれば、野球部やサッカー部と違って経験者も少なそうだしね……。そういえば、実はコンちゃん先生も吹奏楽経験者らしいよ」
千歳が言った。今野先生は新卒の男性教員だ。
「へえ。コンちゃん、楽器ができるのか」
吾妻が口を挟んだ。
「クラリネットを吹いていたらしいよ」
「担当楽器までバレてるのかよ。それにしても、なんだって隠していたんだ?」
何か疚しいことでもあるのか、と零しながら千歳に訊ねた。
「吹奏楽部って人間関係のトラブルが多いから顧問をやりたくなかったらしいよ。でも生徒の兄弟に、コンちゃん先生と同級生だった人がいたらしくて、それでバレちゃったって話を聞いたよ」
「田舎あるあるだよなあ。こんな狭い町じゃ、消したい過去を隠すこともできねえな」
吾妻が頭の後ろで腕を組んだ。
「吹部って、女子が多いからな。笹野たち英会話部ですら、部員四、五人しかいないのに揉めごとが発生したくらいだし……」
言いながら考える。熊野先生が僕たち生徒に嘘を付く理由は何だろうか。今野先生のように、部活の顧問を引き受けたくなかったからだというのだろうか。確かに不祥事を起こした翌年のタイミングだ。前任の顧問だった教師が異動になり、真実はわからないが、多くの先生方が演劇部を敬遠したという噂を聞いた。
「オレ、本人に直接訊いて確かめてみようと思う。だから二人は、まだ何も知らないふりをしていてくれ」
僕が提案すると、
「どうしてそんな回りくどい真似をする必要があるんだ? 今から三人で職員室に行って、クマちゃんを問い詰めた方が早いだろう?」
吾妻が不満そうに言った。
「演劇部の顧問でありながら演劇経験者だったことを隠しているくらいだ。よほどの事情があるに違いない。少し慎重に事を運んだ方がいい。それに吾妻と千歳は、余計なことには首を突っ込まず、演技の練習に集中した方がいいだろう。だからこの件は、一先ずオレに預からせてくれ」
言いながら僕は、スマートフォンをスラックスのポケットにしまった。
「そういうことならわかったよ。クマちゃん先生のことはケイタに任せるね」
千歳が頷くと、
「どうして身を寄せ合ってるのよ……?」
笹野がスクールバッグの持ち手を握りしめながら部室に入ってきた。
「密談をしていたんだ」
僕たちは体を引いて、椅子に深く座り直した。
「気持ち悪い」
笹野が切り捨てるように言った。
熊野先生に会いに行く口実ならいくらでも作れる。
僕は七時間目の授業中に内職して作成した資料を手に、職員室へと向かった。
職員室に着くと、熊野先生は自席で何か書き物をしていた。
「熊野先生。コピーして欲しい資料があるんですけど……」
僕が声を掛けると、熊野先生は動かしていた手を止めた。どうやら小テストの採点をしていたらしい。熊野先生は僕から紙を受け取ると、すぐに目を通し始めた。
「楽曲の一覧か……」
「はい。今回は歩に生演奏をしてもらうつもりです」
「生演奏って、そんなことができるのか?」
熊野先生が目を丸くした。
「人は見かけによらぬものっていうのは、歩のための言葉ですね。アコギで、雰囲気を出してもらおうと思います」
熊野先生がほー、と声を漏らす。
「印刷する枚数は七枚でお願いします」
僕は身軽になった手を体の後ろで組んだ。
「今印刷してくるから、ちょっと待ってろ」
熊野先生は机に手をついて椅子から立ち上がると、職員室の隅に置いてあるプリンタ複合機のところまで移動した。
僕は熊野先生が戻ってくるまでの間、頭の中で台詞を復唱していた。
「ほら。印刷してきたぞ」
熊野先生が僕に紙の束を渡してきた。僕はそれを受け取り、印刷されたものを確認するふりをしながら息を整えた。
「熊野先生に、一つ聞きたいことがあるんですけど……」
するり、と言葉が出てきた。
僕は熊野先生の返事を待たずにスマートフォンを机の上に置いた。
「この写真に写っている男の人、熊野先生ですよね?」
僕からの質問に、熊野先生が唇に歯を立てた。のを、僕は見逃さなかった。
それからは、じっと我慢した。熊野先生が口を開くまで、体を小さく左右に揺らしながら待った。
職員室には、他に先生が十人ほどいて、生徒が代わる代わる出入りしており、自然な生活音が流れているはずだったが、僕の耳はとても静かだった。
スマートフォンの画面が沈黙した後、
「あと数ヶ月だったのになあ……」
ようやく熊野先生が口を開いた。
「……この写真は、神室から送られてきたものか?」
熊野先生が、画面が消灯したスマートフォンを見つめたまま言った。
それが、答えだった。
「はい」
僕が素直に答えると、熊野先生は鼻先を天井に向けて目を閉じた。血管が浮かび上がっている喉仏がふつふつと動いている。
「予定よりも少し早かったなあ……。葉山たちが部活を引退してからバレるはずだったんだが……」
熊野先生の睫毛が、風もないのに揺れていた。空調が入っているわけでもない。
熊野先生の態度は、時効まで残り数時間を切ったところで取り押さえられた凶悪犯のように見えた。
熊野先生が顎を下げ、目を開けた。
「オレたちにバレる予定はあったんですね……」
僕は驚きながらも静かに訊ねた。
「神室がM大に行くと知ったときから、いつこんな日が来てもおかしくないと覚悟していたからな」
熊野先生が息を吐き、マグカップに入っているコーヒーを口にした。
「俺が大学を卒業してから数年経っているとはいえ、M大はOBと現役生の繋がりが強いし、山形というか東北地方の人間は珍しいからなあ。人の印象に残りやすいんだよ。俺が学生のときも、地方出身の人間は、地元同士で人脈を作っておくと就職活動が有利になるとかで山形出身の先輩を何人か紹介されたし」
何も面白くないだろうに、熊野先生は突然ははは、と笑い出した。
「僕たちに隠していた理由を教えてくれませんか?」
僕が訊くと、マグカップがコトンと音を立てた。
「葉山たちには、指導者なんて必要なかっただろう」
熊野先生がスマートフォンを僕に手渡した。
「それ、どういう意味ですか?」
熊野先生からすれば、僕たちの演劇は指導者が不要なほどレベルが低かったというのか。
僕の声色には、露骨な不満が表れていた。が、それを隠す気にもなれなかった。
「悪い意味じゃねえよ。全部、自分たちで考えてやっていただろう。俺なんかが必要ないくらい」
無意識に表情を怖らばせていたのだろう、僕は体から力を抜くために意識して息を吐いた。
「そうですか。熊野先生の目には、そういう風に映っていたんですね……」
僕たちの代は、一学年上の先輩は、大道具専門の神室さん一人だけだったこともあり、先輩から演技指導してもらった期間は一年も満たない。だから僕たちは、正解と不正解がわからないまま、手探りでここまでやってきた。
「……熊野先生に、お願いがあるんですけど」
「断る」
「まだ何も言ってないじゃないですか!」
思わず腹から声が出た。
「お前らに隠していた理由だが、本当に深い意味はない。余計な仕事が増えるのが嫌だっただけだ。だから、お願いを引き受けるつもりはない」
大声を張り上げた僕とは対称的に、熊野先生は静かな声で言った。
「若手教師はさ、ただでさえ職員室内の雑用も押し付けられるんだ。その上、部活の顧問なんてまともにやっていたら体がもたねぇんだよ。部活の時間で発生する賃金だって、アルバイト以下だ。ガソリン代を考えたら、ボランティアどころか赤字だってあり得る」
熊野先生が山積みになっているテスト用紙を叩いた。
まるでこの日のためにあらかじめ用意していた小道具のようだった。
「熊野先生! 午前中に頼んでいた会議資料の印刷は終わりましたか?」
職員室の入り口から男性教師が叫んだ。
「ここにあります!」
言いながら熊野先生がプリントの束を持って椅子から立ち上がり、すぐさま駆け出した。
その姿を横目に、僕は職員室を後にした。
熊野先生が厳重に篭を囲っているのならば、こちらもそれなりに作戦を立ててからでないと武が悪い。
熊野先生は、僕たちに一体何を隠しているのだろうか。
僕は違和感を拭えないまま、部室へと足を進めた。
部室に着くと、みんな揃っていた。
僕はプリントの束を机の上に置いてから、熊野先生がM大の演劇サークルのOBだったこと、僕たちに知られるのは時間の問題だと思っていたことなどをみんなに話して聞かせた。
「クマちゃんは、俺たちに隠す気があるのかないのかわからねえなあー」
吾妻が長い体を上に伸ばしながら言った。
「オレたちの中に、M大を志望するヤツが出てきたら、さすがに黙っているわけにはいかないだろうし、隠すのにも限界があると思っていたんじゃないか?」
僕が答えると、
「でもM大に進学した神室さんにも隠していたんだよね……?」
千歳がふと思い出したように呟いた。
「その話なんだが、実は神室さん、熊野先生がM大の卒業生だったことは、高校生のときから知ってたんだとさ。熊野先生から受験対策のアドバイスをしてもらっていたとのことだ。ただ、神室さんが熊野先生にどこのサークルに在籍していたのかを訊いたときに、サークルには所属していなかったと言われたもんで、その言葉を信じ込んでいたって悔しがってた」
僕は神室さんから聞いた話を丁寧に伝えた。
「もっと早く知りたかったな」
千歳が残念そうに眉を下げた。
「クマちゃんって、うちの学校にいつ赴任してきたんだっけ?」
吾妻がファッション雑誌のページを捲りながら言った。
「確か四年前じゃなかったか?」
「うん。僕たちが入学した前年に赴任してきたはずだよ」
僕の朧気な記憶に、千歳が賛同した。
「うちの前は、どこの高校にいたんだ?」
吾妻が質問を重ねた。
「さあ……?」
今度は、僕と千歳が揃って首を傾げた。
「クマちゃんって、そもそも何歳なんだ?」
吾妻の質問攻撃が止まらない。
「二十七歳くらいじゃなかったかしら? 小見先生と同い年のはずよ」
笹野が言った。
「大学受験で浪人。大学入学後に留年。はたまた教員採用試験に何度か不合格していたとしたら、年齢的には、うちの学校が初赴任の可能性もあるな……」
吾妻が顎に手を当てて考え込んだ。
「大学生って留年していたとしても珍しくないイメージだし、そういう可能性は十分ありえるよね」
千歳も吾妻の推理に異議がないようだ。
「高校の教員採用試験に現役合格するのは難儀ですしね」
合格率は教科によっても異なりますが二十五パーセントぐらいらしいですよ、と白鷹がインターネットで調べた情報をつらつらと付け加える。
「非常勤講師だったっていう線もあり得るな」
吾妻が顎に手を当てた。
ここにいる誰もが探偵気分になっているに違いない。
熊野先生が演劇部の顧問に就任したのは、僕たち三年生が二年生になったときだ。一年生だったときに顧問だった先生は他校へ異動になり、その後任だった。前任の顧問は、下剤騒動が原因で他校に異動になったのではないかと噂されていた。
熊野先生は、部活にほとんど顔を出さない。担当科目が数学ということもあり、理系クラスの吾妻や千歳と比べると、文系クラスの僕と笹野は授業を通しての関わりが薄い。それにしても僕たちは、あまりにも熊野先生のことを知らなすぎる。
「オレたちの中に、自分よりも歳上の兄弟がいるのは……吾妻と歩だけか?」
僕がぐるりと部室を時計回りで見渡し、千歳、吾妻、歩、舞鶴さん、笹野、白鷹の順に顔を見た。
舞鶴さんが頷いた後に、
「兄がいるわ」と、笹野が顔を横に振った。
「どこの高校だ?」
吾妻がすかさず訊いた。
「東高よ」
「頭がいいんだな。大学は?」
今度は僕が訊いた。
「R大よ」
「へえ。お兄さんは理系なんだね」
千歳が頷いた。
「吾妻の姉さんは、どこの高校だっけ?」
僕は吾妻に視線を移した。
「坂中央だ」
「女の園ですか……」
白鷹がしみじみと呟いた。
「タカ、それは幻想だな。姉さん曰く、坂中央は学校じゃなくて動物園だって言ってたぞ」
「どういう意味だよ……?」
白鷹と一緒に、僕も首を傾げると、
「そのままの意味だろう。無法地帯ってことだ。男がいないと、女は動物になるんだとさ」
吾妻の言葉にピンときていない僕と白鷹は、互いに目配せをした。
「確かにそうですね。姉貴を見てると、女の子のイメージが崩れますよ」
吾妻に共感している様子の歩が大袈裟に頷いた。
「自分の妹は、物静かで女の子らしいですけど……」
白鷹が複雑そうに表情を歪ませて呟いた。
「俺の姉さんも上品だぞ。あくまでも一部の女子の話だが、その一部の女子の奇声や悲鳴が校内を飛び交ったり、身だしなみがいい加減だったりするんだとさ。それから女子生徒にからかわれて逃げ出す男性教師もいたって話だ。少なくとも、坂中央はお嬢様学校ではないってことだけは事実だな」
吾妻がまるで見てきたように話した。
「知りたくなかったですね……」
白鷹が苦虫を潰したような表情になった。
「それよりも、アユアユには姉さんがいるのか。アユアユはどっからどう見ても年下気質だもんなあ……」
吾妻がしみじみと言った。
「そうですか? 自分ではわかりませんけど……」
歩が首を傾げた。
「こいつは根っからの犬体質ですよ」
白鷹が同意した。
「タカさん、言い方に悪意を感じるんですけど……。でもまあ、兄貴もいますからね。ちなみに、姉貴の方は吾妻さんたちと同い年です」
「へえ。写真ないのか?」
吾妻が話に食いつき、隣に座っている歩の方に身体を寄せた。
「そんなもの持ってないですよ! 姉貴が笹野さんみたいに綺麗だったら、一緒に写真を撮って友達に自慢しまくりたいところですけど、どちらかといえばゴリラだし……。ね、ケイちゃん?」
歩が同意を求めてきた。
「殺されるぞ」
僕は、恵のがっしりとした肉付きのいい腕を思い出しながら言った。
「ちょっとケイちゃん! どうしておれの味方をしてくれないの? 姉貴にチクらないでよ!」
歩が悲鳴に似た甲高い声を出した。
「飯豊! どさくさに紛れて笹野先輩を口説くんじゃねえ!」
白鷹がまた歩に突っかかり始めた。
「笹野さんが綺麗なのは事実じゃないですか。それにおれ、彼女持ちなんですから、いちいち怒らないでくださいよー」
歩が頬を膨らませた。
「後輩のくせにマウント取るんじゃねえ!」
白鷹が歯を剥き出した。
「そんなことよりも、三人は自分の兄ちゃん姉ちゃんに、熊野先生のことを知らないか訊いてみてくれ」
白鷹と歩の喧嘩に割って入る。僕の頼みごとに、
「了解!」
歩が元気よく答えた。
「吾妻、笹野。お前らも頼むぞ」
僕が念を押すと、
「仕方ないな」
「仕方ないわね」
今度は二人の声が綺麗に揃った。そのことに笹野が不服そうに吾妻を睨んだ。
歩が弾いているギターの音が、糸を紡いでマフラーでも編んでいるかのごとく、少しずつはっきりとした形になっていく。それでもまだまだ模索中のようで、少し進んではまた戻り、急に転調したかと思えば、退屈なメロディが続いたりしている。
熊野先生に指導してもらうための打開策が思いつかないまま一週間が過ぎていた。たかが一週間かもしれないが、公演日までのカウントダウンを意識すると、そんなことはとても言えない。
「あー、歩。悪いが、作曲するなら隣の空き教室に行ってくれないか」
同じメロディの繰り返しや躓きが気にかかり、それが苛立ちに変わり始めていた。
「ええー! 一人は寂しいよ!」
歩がギターの弦を弾く手を止めてから叫んだ。
「末っ子は甘えん坊か」
吾妻が鼻で笑った。
「こんな図体のでかい末っ子、嫌ですね」
白鷹が言い放った。
「飯豊家はみんな体が大きいんです」
歩が白鷹に舌を出して見せた。
「澄さんの方がさらにでかかったな」
言いながら、歩の母ちゃんもでかいしなと心の中で呟く。そう、あくまでも心の中でだ。
「澄さんって、アユのお兄さん?」
千歳の質問に、歩が顔を縦に頷いて答えた。
「そういえば、兄貴が熊野先生が関わっているかもしれない事件のことを知ってたよ」
歩がさらりと言った。あまりにも自然過ぎて、みんなの口から驚きの声が飛び出すまでに一瞬の間が生まれた。
「歩! そういうことは、もっと早く報告しろよ!」
叱責するつもりは滅法なかったが、思わず大きな声が出た。
「しょうがないじゃん! 全教科の小テストの追試を受けさせられて、すっかり忘れてたんだよー」
歩が情けない声を漏らした。
入学早々すでに授業についていけていないとは、先が思いやられるヤツだ。吾妻が呆れた様子で額に手を当てている。
「受けさせられてって、被害者面するんじぇねえよ。相変わらず、期待を裏切らないヤツだな」
白鷹が自分のことを棚に上げて言った。昨年のこの時期、主演・白鷹で同じ場面が公演されていた。ここはあえて再演ではなく蘇演という言葉を使わせていただきたい。白鷹版では、追試の対象は全教科ではなく文系科目だけだったが、歩版では全教科とは大胆な改変だ。さすがの僕でも全教科追試になったことはない。一年生からこの調子となると、さすがに留年の文字が頭の隅にチラついてくる。
「本来こういうヤツが出てこないために、受験ってものがあるはずなんだがな。なぜかそういうヤツに限って、悪運が強くてすり抜けるから……」
吾妻がなぜか僕を見ながら言った。僕は吾妻の視線を手で払った。
「普通は中学校の担任の先生が生徒の学力を見極めて、入学しても授業についていけなさそうな生徒の受験は引き止めるんだけどね……」
千歳の顔も三度まで、とは冗談だが、彼にしては辛口節だ。
「そうなんですよ! 担任を説得するのは、そりゃもう大変でしたよ! お前じゃ天地が引っくり返っても湊高は無理だと言われ続け、最後はもうお前の勝手にしろ! ですからね……」
歩が苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「でも内申点はどうにかなってたんだよね?」
「いや、それがですね、全教科の先生に土下座しまくって、次のテストで八十五点以上取ることを条件に、各教科の内申点を少しずつ上げてもらいました」
歩がさらに髪を掻き上げた。
「土下座スタンプラリーって呼ばれている、我が中学校の恥ずべき伝統だ」
僕で最後かと思っていたが、まさかこんな身近に後継者がいたとは。
「そんなことよりも、熊野先生の話を聞こうぜ」
僕は少し強引に話を変えた。
そうだった、と歩が手を打ってから、
「ケイちゃんは、おれの兄貴が亀工に通っていたことは覚えているでしょう? 兄貴が高校三年生だったときに、隣の亀北高校で生徒の飲酒事件があったらしいよ。兄貴の学校の話ではないから、その事件に熊野先生が関わっているかどうかまではわからないし、事件の詳しい話までは覚えていないらしいけど、友達の元同級生がその一人だったらしくて、噂で流れてきたことがあったって言ってたよ」
いざ話を聞いてみると、歩の話はどうにも信憑性に欠けている。
「この記事ですかね?」
白鷹がノートパソコンの向きを変え、僕たちに画面を見せた。
「検索エンジンに飯豊の口から出てきた数少ないキーワードを打ち込んでみたらヒットしました」
白鷹が得意げに胸を反らした。
「名前は公表されていないけど、記事の内容を見る限り、これで間違いなさそうだね」
千歳が唸った。
「こういうのって、名前が出るわけじゃねえんだな」
僕が呟くと、
「警察に捕まるわけじゃないからだろう」
吾妻が答えた。
白鷹がノートパソコンの向きを戻すと、再び操作を始めた。
「年数が経っているからなのか、それとも事件性が低いからなのか、さっき見せた県内の新聞社の記事くらいしかヒットしないですね」
名前が公表されていないとなると、人の口から口で広まる程度だ。ド田舎の噂話は、都会のそれとはレベルが違うが、インターネットで拡散されるよりは広がる範囲は狭いだろう。これなら熊野先生が赴任してきたときに、校内で噂になっていないのも頷ける。
「ねえ。そもそもどうして熊野先生の秘密を調査しているわけ?」
笹野が首を傾げた。
そういえば、頭の中の脚本を誰にも見せていなかったことに気づいた。
「オレは、熊野先生を演劇部の顧問にしたいと思ってる」
みんなの目が点になった。
「顧問にしたいって、熊野先生は演劇部の顧問なんだよね?」
歩が顰めた眉の顔を乗せた首を、首振り人形の如く、右に左にと交互に傾げた。
「熊野先生に、部活に参加してもらいたいと思ってるんだ。演技指導はもちろん、脚本の添削や舞台演出のアドバイスなんかもしてもらいたいと思ってる」
僕の言葉に、吾妻は顎に手を当て、深く俯いたままだ。
「それは、来年の自分たちのことを思ってですか……?」
白鷹が口を開いた。
「それは違う。熊野先生には、来年ではなく、すぐにでも部活に参加してほしいと考えている。最後の舞台まで、残りの日数が少ないことはわかってる。だけど、少しでも熊野先生に指南をしてもらいたいんだ」
「俺は、来年でも構わないと思う。ケータとクマちゃんの相性が良いとは限らないだろう。このタイミングでの口出しが、必ずしも良い方向に転がるとは限らない」
吾妻がはっきりと言い切った。
僕としては、絶対にこの意見を曲げるつもりはない。となれば、吾妻を説得できない限り、意見の対立は平行線になりそうだ。長期戦を見込んで、今は受け流すことにする。
「よし、部活を始めるぞ」
僕は気持ちを入れ替えて、椅子から立ち上がった。
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