第5幕 第3場 グラウンドにて

 球技大会は夕方を前にして全競技の試合が終わり、短い閉会式での表彰式をもって閉じられた。

 教室に戻ると、どんよりしていた教室の空気も今だけはさすがに浮足立っていた。一足先に教室へ戻っていたクラスメイトの女子たちが、総合優勝を祝うために、教室の中心に机を寄せ集め、菓子やジュースの用意を始めていた。

 立食形式の簡易な祝賀会を途中で抜け出して部室を訪れると、すでに一年生組が揃っていた。二人とも日焼けたのか、それとも興奮がまだ引いていないのか、頬が赤らんで見えた。

「ケーちゃん! エキシビジョン、すごい盛り上がったね!」

 椅子に座る間もなく、歩が話しかけてきた。僕の他に先輩がいないからだろう、久しぶりの幼馴染口調だ。

「まあな。劇の良い宣伝になったんじゃないか」

 僕は飲み切れずに持ってきたポカリスエットの缶に口をつけた。甘い。失敗したな、と思いながら飲み込んだ。

「ロミオの衣装で走る吾妻先輩、本当に格好よかったです! この写真、かなり上手く取れたと思いませんか?」

 舞鶴さんがスマートフォンを机の上に置いた。そこには、笹野を抱えて走る吾妻の姿が写っていた。素直に認めるのは悔しいが、両隣にいるバレーボール部と陸上部を消せば、舞鶴さんが自画自賛していることに納得がいく一枚だ。

 今回、リレーの走者ではない千歳と舞鶴さんには撮影係をお願いしていた。千歳がビデオカメラを回し、舞鶴さんがスマートフォンで撮影していた。

 走順は、予定通り、第一走者が僕、第二走者が白鷹、第三走者が歩、第四走者が吾妻で挑んだ。

 バトントスの練習をしただけのことはあり、僕が当て書きした脚本をなぞるように物事は進んだ。運動部と違い、たかがエキシビションマッチごときに、わざわざ練習時間を割けるのも演劇部ならではだろう。

 リレー競技の面白いところは、走者の合計タイムが速いからといって、必ずしも一着になれるわけではないところだろう。そしてこのエキシビジョンマッチは、バトンが部活毎に異なる点が味噌になっている。野球部はバット、サッカー部はサッカーボール、剣道部は竹刀、美術部は筆、放送部はマイクといった感じだ。唯一、陸上部のみが本物のバトンを使用できる。有利に思えるが、我が陸上部はトラック競技に弱く、そもそも部員が少ない。一番の強敵は野球部で、次点がサッカー部だ。

 我が演劇部のバトンは、毎年小道具の中から選ぶ。今年はもちろん、ロミオの短剣だ。昨年は日本刀で、一昨年は魔法の杖だった。

 僕から白鷹へのバトントスは百点満点だった。次の白鷹から歩へのバトントスは完璧とまでは言えないが、及第点は優に超えていただろう。相性の悪さゆえにどうなることかと心配していたが、やるときはやる男たちだ。

「今日は、吾妻さんよりもケーちゃんの方が格好よかったと思うけどなあ……」

 歩が舞鶴さんのスマートフォンを眺めていた視線を持ち上げた。

「吾妻さんが格好良くないときなんて一秒もないんですけど!」

 舞鶴さんがスマートフォンを手に取ると、画面をスライドさせて別の写真に切り替えた。

「ほら、これも素敵! こっちも! これも最高!」

 ついに舞鶴さんが、歩の顔にスマートフォンを押し付け始めた。

「舞鶴、吾妻さんの写真ばっかり撮ってるじゃん……。ケーちゃんの写真も見せてよ」

 仕方ないなあ、と呟きながら、舞鶴さんが再びスマートフォンを操作する。

「葉山さんはこれとかかな」

「なんかこの写真、ブレてない?」

 舞鶴さんからスマートフォンを受け取った歩が表情を歪めた。

「だって葉山さん、速かったんだもん……」

「そりゃそうだよ! 陸上部や野球部を差し置いて一位だったんだよ! 演劇部なのに一位! クラスのヤツらに、ケーちゃんって何者なんだって質問攻めにあったんだから!」

 歩が椅子から立ち上がり、座面に足を乗せた。

「タカさんも、まあまあ速かったですね」

 言いながら歩が椅子に座り直した。

「飯豊くん、素直じゃないわね。白鷹さんまでは一位をキープしてたのに……」

 舞鶴さんがまたスマートフォンを操作すると、証拠とばかりに歩に画面を突きつけた。

「おれだって、二位で吾妻さんにバトンを渡したよ! それに第三走者には野球部のエースがいたんだよ! それでも大して引き離されなかったし、十分健闘した方でしょう!」

 歩が不満げに声を張り上げた。

 歩は残り五十メートル付近で野球部に抜かれたものの、三位以降とは半周ほど差があった。僕の目論見としては十分であった。

「二百じゃなくて百メートルだったら、抜かれなかったのにー!」

 歩が泣き言を漏らした。

『あああ、恋の影だけでも、こんなに嬉しいものならば、真の恋の遂げられた喜び、それはもうどんなものだろうか!』

『この胸、これがお前の鞘なのよ。さあ、そのままにいて、私を死なせておくれ』

 舞鶴さんのスマートフォンから吾妻と笹野の声が聞こえてくる。写真だけではなく、動画も撮っていたようだ。

 演劇部はバトンがロミオの短剣ということもあり、吾妻が歩から受け取った後、台詞を言ってから笹野に渡し、笹野は台詞の最後に短剣を胸に刺すアクションをした。

 テイクオーバーゾーンに他の部がいなかったこともあり、かなり注目を浴びることができた。今回、演劇部がエキシビジョンマッチに参加した真の目的は、優勝して部費を頂戴することではなく、劇の宣伝のために目立つことである。この次点で目的は達成できていた。

「……すみません」

 いつの間にか部室の戸が開いており、やけに姿勢のいい男が立っていた。舞鶴さんと歩が黙っているところを見ると、二人の知り合いではないらしい。

「えっと、君は……」

 椅子から立ち上がり、不審感を抱きながら彼に近づいた。

「僕はコージの友人の大平克玄です。コージがパソコン室にスマホを忘れていったので届けに来ました」

 そう言うと大平は、僕にスマートフォンを見せてきた。

 男の正体がわかり警戒心を解く。一歩、彼に近づいて手の中を覗く。透明なケースの背面にステッカーが入っており、確かに白鷹のスマートフォンだった。

「白鷹、今日はまだ部室に来てないんだ」

「そうなんですか? それはおかしいですね……。十分くらい前に、部活に行くと言ってパソコン室から出ていったんですが……」

 それでここに来たんです、と大平が首を傾げた。十分前となると、大平が白鷹を追い抜いて先に部室に辿り着いたとは考えにくい。

 念のため自分のスマートフォンを確認してみるが、白鷹から部活を休む連絡はきていない。そもそも白鷹のスマートフォンはここにあるのだ。連絡をしようにもできない状況のはずだ。となれば、スマートフォンを忘れたことに気づいてパソコン室に引き返したか、それとも……。

 黙って思考する、というよりも推理していると、大平と目が合った。白鷹がどこにいるのか見当がついたのだろう、彼の目が泳いだ。

 敷地ばかり無駄に広いが生徒数は少ないため校舎は狭く、選択肢は少ない。僕の方も二箇所までは絞れていた。

「……僕、コージとは幼馴染なんです」

 大平がいつの間にか僕の目を捕らえていた。

「男の僕が言うのもなんですが、マウンドに立っているアイツは、最高に格好いいんですよ」

 僕は思わず唇を噛みそうになった歯を引っ込めた。

「すみませんが、スマホは先輩からコージに渡してもらってもいいですか? 僕がコージの家まで届けに行ってもいいんですが、部活が終わる時間が遅くなりそうなので……。パソコン部も文化祭の準備で追い込み中なんです」

 言いながら大平が、僕にスマートフォンを差し出してきた。

「わかった。もしこのまま白鷹が部活に来ないようであれば、オレが白鷹の家に届けに行くよ。どうせ通り道だし」

 僕はそれを手に取った。

 大平は最後にもう一度、すみません、と頭を下げてから部室を出ていった。

「お疲れー」

 千歳が挨拶をしながら部室に入ってきた。

「千歳。来たばかりで悪いが、少し外に出てくる。時間になったら部活を始めててくれ」

 僕は白鷹のスマートフォンをスラックスのポケットに突っ込むと、すれ違いざま千歳の肩をポンと叩いた。

「え? ちょっとケイタ? どこに行くの?」

 千歳の裏返った声が聞こえてきたが、僕は他の部員と鉢合わせないように廊下を駆け出した。

 昇降口で外靴に履き替えるのが面倒で、上履きのまま渡り廊下から外に出てグラウンドを目指す。

 校舎の影になっているグラウンドが見えてくるよりも先に、野球部の掛け声が聞こえてきた。僕はその声に急かされるように足の速度を上げた。

 障害物だった校舎がなくなり目の前の視界が開けると、探していたものはすぐに見つかった。僕は唾を飲み込んでから、グラウンドを見下ろしている影に近づいた。

「制服で野球をする気じゃないだろうな」

 白鷹が肩を震わせると同時に振り返った。

「なんつー顔してるんだよ」

 白鷹は迷子になって不安なくせに強がっている子どものような顔をしていた。弟の昌二の幼少期の姿が脳裏に思い浮かぶ。昌二はよく清水屋の食料品売場で迷子になるヤツだった。自分の興味のないことには関心が持てない性格ゆえに、母さんが魚や肉を選んでいる数分間さえ我慢ができず、お菓子売り場やジュース売り場に一人で勝手に行き、迷子になるのが毎度のパターンだった。迷子になった昌二を回収するのは僕の役目だった。

「大事なものを忘れていることに気づかないくらい、なんだろう?」

 僕はスラックスのポケットから白鷹のスマートフォンを取り出すと、それを彼の手に握らせた。その手は溶けかけの雪のように冷たかった。落としやしないかと不安に思ったが、白鷹は放心しているわりには握力はしっかりしていたようで、端末を強く握り締めた。

 僕は校舎とグラウンドの高低差を結ぶ石の階段に腰を下ろすと、

「……なあ。いつも誰と連絡を取り合っているんだ?」

 今までずっと疑問に思っていたものの、あえて触れてこなかった秘密を白鷹にぶつけた。訊ねようと思えばいつでも訊ねることができた。だけどそれを今までしてこなかったのは、彼と正面から向き合うことから逃げていたからだ。

「ノートパソコンといったって軽いわけじゃない。いくら高校から家が近くても、邪魔なものは邪魔だ。それなのにわざわざ学校に持ってきてまで、いったい誰と連絡を取り合っているんだ?」

 白鷹は唇を僅かに動かすだけで、何も言わなかった。頭の中で、上手い言い訳を考えているようだった。

「まさか、女じゃないよな?」

「……人聞きの悪いことを言わないでください。自分は笹野先輩一筋ですよ」

 今度は即座に答えた。

「それなら相手は誰なんだ?」

 これには黙ったままだ。

 白鷹の中の「線」を手で探り当てる。誰かの中に潜るとき、僕はいつも線を探す。線は何も一本ではない。細かい線が連なっていて、その中に一本、他のものとは比べ物にならないくらい太い線を探す。

「白鷹、別にそんなにゲーム好きじゃないだろう? オンラインゲームはおまけで、チャットすることが真の目的なんだろう?」

 白鷹の頭が揺れた。無造作に飛び跳ねている天然パーマの髪の毛が、戸惑うように震えていた。

「笹野に、実は白鷹には女がいるって吹き込むぞ」

「妹ですよ……」

 白鷹が苦虫を潰したような表情で白状した。

「ここで笹野先輩の名前を出すなんてずるいですよ」

 白鷹が恨めしそうに目を細めた。

「笹野は白鷹の弱点だからな。自分の弱点を簡単に晒しだしている自分を恨むんだな」

「本当に、葉山先輩には敵いませんね……」

 白鷹が諦めたように鼻で笑った。

「妹がいること、葉山先輩にはついこの間話したばかりでしたね。その妹、今も引きこもりなんです。それで、時間を見つけては妹のゲームの相手をしているんです」

 白鷹が僕の隣に腰を下ろした。

「自分のスマホ、かっちゃんから渡されたんですよね?」

 白鷹が手のひらでスマートフォンを転がした。

「かっちゃん?」

「えっと、自分と同じ背丈で、前髪を真ん中で分けていて、無駄に姿勢がいい男です」

 白鷹が自身の前髪を手で掻き分けて見せた。

「ああ! 克玄でかっちゃんか。幼馴染みって言ってたもんな」

 僕は思わず手を打った。

「かっちゃん、何か言ってましたか?」

「何かって、パソコン部の活動が忙しくて、白鷹の家に寄ろうにも遅くなりそうだから、スマホをオレに渡しておくってことくらいだな」

 僕は大平との会話を思い返しながら言った。

「そうですか……」

 白鷹が息を吐いた。

遠くに視線を飛ばす。第一グラウンドの向こう側に第二グラウンドが見える。野球部の白いユニフォームの軽やかな動きの背景に、青色のユニフォームが揺れていた。さらに奥の方では、橙色と黒色のボーダーのユニフォームが無造作に動き回っていた。

「野球部からスカウトされているんだろう?」

 白鷹の肩が震えた。見えない表情の代わりに、彼の感情を僕に伝えていた。

「スカウトなんて、そんな大げさなものじゃないですよ」

「この間のソフトボールの試合、埃っぽい薄暗い部室でキーボードをカタカタ叩いている男とは思えないくらい様になっていたもんな。せっかく笹野にアピールするチャンスだったのに、連れて行ってやれなくて悪かったな」

「え? 笹野先輩なら観に来てくれましたよ?」

 白鷹が僕の方を向いた。

「えっ!?」

 僕は思わず声を裏返した。

「てっきり葉山先輩が、笹野先輩を連れて来たのかと思っていたんですが……」

 白鷹が困惑した表情を浮かべた。

 話を聞くと、笹野は体育館裏の日陰エリアから観ていたらしい。

「……失敗した!」

 僕は衝動に任せて自分の髪の毛を掴んだ。

「余計なことを言った! 白鷹に恩を売っておけるチャンスだったのに……」

 僕が自分の太ももを叩いて悔しがっていると、

「恩なんかなくても、自分は演劇部を辞めたりしませんよ。それに笹野先輩が、葉山先輩から無理やり連れて来られたわけではなくて、自発的に応援に来てくれたことがわかって嬉しいくらいです」

 そう言って、白鷹がレンズの奥にある目を細めた。

「そうか……」

 確かにそれも一理あるなと思い、感情の波を鎮める。

「ここには、野球部からの誘いを断るために来たんです」

 白鷹が僕の顔を見た。

「もう断ってきたのか……?」

「これからです」

 白鷹が顎を引いた。

「そりゃあ、迷わなかったって言ったら嘘になりますよ。嘘になるんですけど……」

 白鷹が天然パーマの髪の毛を搔き揚げた。

「自分がバカだったんです。その場ではっきり断ればよかったのに、なんでですかね、迷っちゃったんですよね。こんな自分でも、誰かに必要とされていることがわかって、舞い上がっちゃったんですかね」

 頭に触れていた手が、ぶらりと垂れ下がった。

「いえ、そうじゃないんです。自分でちゃんとわかっているんです。ごめんなさい、って言葉が言えそうになくて、それで……」

 しばらくグラウンドを眺めていました、と呟いた。

 誰かの頼みを断るのは、意外とエネルギーがいるのは分かる。億劫な気持ちになってしまうのも分かる。でも僕たちは……。

「台詞だと思えば、いくらでも言えるだろう?」

 嘘を簡単に作り出せる。

 僕が訊ねると、白鷹は左手の中指を親指の腹で擦ってから口を開いた。

「妹の口癖が『ごめんなさい』なんです。そして……自分が最後に音で聞いた妹の言葉も『ごめんなさい』でした。だから自分がもう一度野球を始めれば、球場まで応援に来るために、妹が部屋から出てきてくれるんじゃないかって、一瞬思っちゃんですよね……。でもさすがにもうマウンドには上がれそうにないので、妹に格好いい姿を見せられないことに気づいて、思いとどまったわけですよ」

 白鷹が左肩に触れた。

「妹は自分がゲームの相手をしてくれているから今のままでいいって言ってるんですが、自分はやっぱり、あの部屋から妹を引っ張り出してやりたいんです。今の自分に、そんな力なんてないのに……」

 白鷹のレンズ越しの目が湿っぽい土の上を滑っていた。

「あと、実は笹野先輩と初めて会ったとき、笹野先輩の口から発せられた言葉が『ごめんなさい』だったんですよね……」

 白鷹が自虐的に笑った。

「笹野先輩とは、このグラウンドで出会ったんです」

 白鷹が首を回してグラウンドを見渡した。

「体育の授業の入れ替わりで、自分が前を見て歩いていなくて、笹野先輩とぶつかりそうになったんです。で、そのときに笹野先輩に一目惚れしたんです」

 白鷹は、演劇部の部室に入ってくるなり、

『笹野先輩に一目惚れしたので、入部させてください!』

 と言い放った。

 体験入部期間の最終日だった。かれこれ一週間、新入部員が部室を訪れる気配が全くなかったこともあり、すっかり油断していた僕たちは、黒縁の眼鏡を掛けたパーマ頭の男の登場に度肝を抜かれた。

 僕はちょうど黒板に板書をしており、握っていたチョークを折り曲げた。吾妻は机に頬杖をついており、顎を支えていた腕を滑らせてバランスを崩し、千歳は食べていたマロニエを喉に詰まらせ、神室さんは飲んでいた缶コーヒーを盛大に吹き出した。当の本人である笹野は、目を白黒させて口をポカンと開いていた。開いていた英単語帳が、パラパラと音を立ててページが捲れていく姿がやけに脳裏に焼き付いている。まるで映画のワンシーンのようで、笹野の心の動きを表しているような動きだな、と思ったことを強く覚えている。

 新入生に向けた部活紹介は、どの部も持ち時間が五分と定められているため、ステージで演劇を行えない代わりに、舞台衣装を着用して一人一言決め台詞を披露するのが、演劇部の毎年恒例のパフォーマンスだった。その年も例外ではない。だが、絶対にステージに上がりたくないと駄々をこね、最後まで折れなかった笹野は、仕方なく照明係を担当することになった。そのため、新入生が笹野が演劇部の部員であることを知っている者はいないに等しかった。それなのに白鷹は、笹野に一目惚れをしたという理由で演劇部に入部したのだから当時の僕たちは大層驚いた。

 そんな白鷹の第一印象は「なんかヤバそうなヤツ」だったのは言うまでもない。

 僕は真っ二つに折ったチョークを粉受に置いて教壇から降りると、コーヒーで汚した机をティッシュで拭いている神室さんの額に自身の額を寄せて小声で言った。

『どうしますか……?』

 神室さんが目を泳がせ、無言で心の迷いを僕に見せた。

『大丈夫ですかね……?』

 千歳が机に手をつき、机から身を乗り出してその輪の中に入ってきた。神室さんがちらりと視線だけを動かし、笹野の様子を伺った。笹野は困っているというよりは、ただただ驚いているだけのように見えた。

『とにかく一旦話を聞かせてもらおうぜ』

 吾妻が、硬直していた場に言い放った。

『そ、そうだね』

 千歳が動き出した。

 悔しいが、吾妻の判断は正しかった。文化祭後に引退を控えている神室さんが抜けると部員数が四人になることが確定している。僕たちは新入部員を選り好みできる状況ではなかった。

『失礼します!』

 白鷹が頭を下げ、満面の笑みを浮かべて部室に入ってきた。千歳が教室の隅に置いていた椅子を運んできて、それを白鷹の前に置いた。白鷹は重たそうなスポーツバッグを床に置くと、椅子に深く腰を掛けた。

『それじゃあ、まずは自己紹介でもしてもらおうか』

 神室さんが白鷹に話を振った。

『一年三組の白鷹光司です。中学では野球部でピッチャーをしていました。なので演劇は未経験ですが、人から注目されることには慣れていますし、プレッシャーにも強いです』

 僕たち全員の目が、瞬時に査定の目つきに変わった。体つきはがっしりしているのが学生服の上からでもわかった。

『一目惚れって、都市伝説じゃないのか?』

 吾妻が言った。

『そんなこと、今はどうでもいいよ。笹野さんが迷惑するかどうかが大事だよ』

 千歳が口先を尖らせた。

『笹野なら、男から言い寄られ慣れているんだから、心配することじゃないだろう』

 吾妻がズバッと言い切った。

『慣れていないわよ』

 笹野が吾妻を睨んだ。

 話し合った結果、白鷹には部活中は笹野を口説かないということを約束させ、彼の入部を許可することになった。

「……出会ったときは、笹野先輩の名前も知らなかったんですけど、たまたまその場に笹野先輩と同じ中学校だったヤツがいて、そいつから名前を教えてもらって、それでまあ、所属している部活を調べたわけです」

 白鷹が都合悪そうに言葉を濁した。

「ストーカーの素質がありそうだな」

「違いますよ! 純真な好奇心です!」

 白鷹が声を荒らげた。

「こちらとしては、どんな理由であれ、入部を拒める状況ではなかったからな」

 僕は細い息を吐いた。

「実は自分、たった一日だけ野球部に所属していたんです。肩を壊して投手はできなかったんですが、他のポジションで、無理さえしなければ野球は続けられたので。でも肩を庇いながらとなると、みんなの士気を下げることになりそうですぐに辞めたんです。だから昨年の球技大会は、ソフトボールに出られなかったんです」

 白鷹に、野球部に在籍していた期間があったとは、初めて知った。

「野球には未練がない、つもりだったんですけどね」

 白鷹が頭を掻いた。当時は坊主頭だったであろう頭が、今は天然パーマの髪の毛が揺れていた。

「自分は未練タラタラの情けない男ですよ……」

 白鷹が自虐的に笑った。

「葉山先輩。自分は、自分と同じ境遇である葉山先輩のことを、自分の都合で崇拝していたのかもしれません。先輩のことは尊敬していますが、どうもその言葉はしっくりこないんですよね。自分が演劇部に入部したのは、笹野先輩に一目惚れしたから、という理由に嘘はないです。だけど自分が演劇部に留まり続けたのは、それだけではないんです。演劇部に、葉山先輩がいたからなんです」

 僕は、黙って白鷹の言葉に耳を傾けた。

「葉山先輩の過去の話を、中学生のときにバスケ部に所属していたという友人から聞きました。彼は葉山先輩のことを『地区でナンバーワンの中学校のスターティングメンバーで、司令塔としてのチームの統率力は圧巻だった』と言っていました。でもその話を初めて聞いたとき、どうしてそんなすごい人がバスケ部が大して強くもないこの高校にいて、バスケ部に所属していないどころか、演劇部にいるんだろうって不思議で仕方がなかったんです。あのときの自分には、栄光を経験したことのある人間が、自分の意思でバスケを辞めるという選択をするとは到底考えられなかったんです。なので勝手に、体のどこかを故障したのかと思っていました。だから葉山先輩が、体の故障でバスケを辞めたわけではないと知ったときは心底驚きました。でもその事実に、自分は許された気がしたんです。どんなに実力があったとしても選ばない道があるんだっていうことを、葉山先輩は自分に教えてくれたんです。葉山先輩からすれば、もしかしたら皮肉に聞こえるかもしれませんが、自分の中にそんな気持ちはこれっぽっちもありません。ただ自分は、葉山先輩に救われたんです。葉山先輩が一番じゃないことに真剣で一生懸命だったから、だから自分もこんな自分を許せたんです。肩を故障したときは絶望しかありませんでした。どうして、あんなに努力をしたんだろうって何度思ったかはわかりません。どうして自分の努力は報われていないんだろうって何度思ったかはわかりません。後悔する日々の中で、努力をしてきた自分を否定し始めて、何が正しくて何が悪いのかがわからなくなって、神様はこの世にいないんだって気づいて、それでも自分はここにいて、日常生活に支障はなくても一生懸命、精一杯の野球は二度とできなくて、自分の居場所も価値も存在意義も全て見失って、そんなときに、自分は葉山先輩と出会ったんです」

 白鷹が笑った。

「ここにいるのが、葉山先輩でよかった……」

 僕は渇いていた唇を舌の先で舐めた。

 白鷹には勘づかれていたのだ。僕がいつまでも演劇を一番にできずにいたことに。

 もう口を割るしかなかった。

 今日は風がいつもより少しだけ優しい。だから汗もすぐには引いていかないし乾かない。白鷹の頬を滑り落ちる汗の先を追いかけながら、僕は口を開いた。

「ほらよ」

 僕はスラックスのポケットに入れていた白球を白鷹に向かって放った。突然のことだったが、白鷹は白球をしっかりと掴んだ。

「決別するために、必要な小道具だろう」

 白鷹が目を瞬かせた。

「ついでにこれも」

 僕はもう一度スラックスのポケットに手を突っ込むと、今度はサインペンを白鷹に向かって放った。

「一球くらいなら、最高の球を投げられるだろう?」

 白鷹はサインペンのキャップを口で外すと、白球に何かを書き始めた。書き終えると、石段を駆け上り、平らな地に足をつけた。

「すみませーん!」

 白鷹がグラウンドに向かって叫ぶと、野球部員たちが「一体何事か」という台詞が聞こえてきそうなほど一斉にこちらを振り向いた。

「キャッチャーの人、受け取って下さい!」

 白鷹が送球フォームに入った。腕を上げ、足を掲げる。腕を鞭のように叩きつけると、指先から白球が飛び出した。

「練習の邪魔をして、すみませんでした!」

 白鷹が深くお辞儀をした。なかなか頭が上がらない。

「先に部室に戻ってるからな」

 僕はそう言うと、まだ頭を下げている白鷹に背中を向けた。

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