第三話
「コーヒーお好きなんですね」
真斗さんの第一印象は華やかな人、だった。白いシャツにギャルソンエプロンというよくあるカフェの制服姿で特に個性的な着こなしをしている訳でもないのに、オシャレな雰囲気が漂っている。映画を観た後にはカフェでコーヒーを飲むのを楽しみにしていたのでそろそろ顔を覚えられたらしい。咄嗟に頷くと、無言だったことで気分を害したと受け取ったのか慌てて、
「あ、すみません。何度も来て下さったのでつい話しかけてしまって」
失礼しましたと頭を下げる。緩く波打つ前髪が影を落とした。
「いえ、すみませんっ、ちょっと驚いただけで! 映画観た後に飲むのが好きなんです」
「……良かったぁ。ゆっくり内容を咀嚼する時間って楽しいですよね」
「そうなんですよ。今観てきたサスペンス映画も伏線とか、暗喩とかたくさんあった気がして……って急にこっちこそすみません」
考えることの多い映画だったのでつい言葉が増えてしまう。真斗さんは自分以上に慌てるおれへ微笑み、
「わかります。映画館で映画を観る醍醐味ですよね」
そんな時間のお供にこれもどうですか、と手のひらサイズの本格的なプレッツェルを勧めてくれたのだ。オレ、これ好きなんです。愉しそうに、美味しそうに笑った顔は映画館から遠のいていた間もおれの中から消えなかった。
ゼミの終了を告げるチャイムを聞いた時に席を立ち、鳴り終わる頃には教室を飛び出していた。真斗さんは今日も早番だと言っていたので、映画館へ行けば何とかなるに違いない。そう決めつけて地下鉄へ駆け込み、駅から徒歩十分の道を走る。
大学構内で純の姿を見た時にはまだ鋭い痛みを感じたものの、泣き出すことはしなかった。純はおれに気づかず、どことなく肩を落とし、話しかけるには絶妙に遠い距離を保ったまま遠ざかって行った。今からでも言葉を重ねれば何かが変わるのかもしれない、期待を完全に消すことは出来ない。それでもおれが今言葉を尽くしたいのは純じゃなかった。やっぱり薄情かな、息を吐いたところで映画館へ辿り着く。
飛び込んだロビーでは十人ほどが思い思いの場所で次の上映を待っていた。元々、大型のシネマコンプレックスでは上映しない、かと言って映画通と呼ばれる人々が好むミニシアター系とはまた違う、独自の上映ラインナップのため、土日でもそう混雑はしていないが常に一定の人数がロビーで待機している。
いつもの流れで上映スケジュールへ目を走らせると次の上映予定は、おれが昨日観たサイコホラー映画だった。結構グロいっすよ、これから見るであろう誰かに向けて胸中で呟き、広くはないロビーを見渡す。小さな身体は物販コーナーのガラスケースを隔てた向こう側にあった。真斗さん。
大学で講義がある時にはいつも背負っている黒のリュックからルーズリーフを抜き出し、ロビーの片隅にある小さなカウンターへ行く。お客様の意見を運営側へ届けるためのアンケートや、周辺施設の割引券などが置かれた乱雑な一角からボールペンを借りて、ルーズリーフの端におれのメッセージアプリIDと携帯電話番号を書き込んだ。
「これだとちょっと大きいかぁ」
折り畳むのは何となく不格好な気がする。あいにくハサミはなかったのでなるべく四角になるよう千切り、残りを捨ててから物販コーナーへ向かった。併設のカフェもこのロビーを通って行くので人の出入り自体は多く、真斗さんはまだこちらに気づいていない。他にスタッフの姿は見えなかった。
物販コーナーの前に立ち、いらっしゃいませの声よりも早く、
「絆創膏じゃなくて、まずは友達になってください。傷が治っても一緒に居たいんで!」
ルーズリーフの切れ端を突き出した。背中に視線がいくつか集まった気がしたがこっちは昨日、映画館でも居酒屋でも失態を晒しているのだ、この程度はもう気になるものか。真斗さんは口をいらっしゃいませの「い」の形にしたまま何度か密度のある睫毛を瞬かせた後、
「……覚えてたんだ」
一気に弛緩した笑みを浮かべた。今朝、出会いを思い返して気づいたのだ。昨日阿那田さんから真斗さんになった人はおれの何者でもないことに。同級生でも友人でも、ましてや恋人でもない人。深く大きな傷を塞ごうとしてくれた優しい人を傷が治れば縁の切れる、絆創膏になんかさせられない。したくない。
「勿論です。昨日のうちに答えなくてすみません」
「それは別にいいんだけど、というか覚えててくれたことが嬉しいから。絆創膏、我ながら微妙な例えだけどさ」
「ならなかったんでいいじゃないすか。おれは好きですけど」
「そうかなぁ。もっと格好いいコト言いたかった」
真斗さんは受け取ったルーズリーフの切れ端を見つめ、後で絶対連絡するからと制服のポケットへそれをしまい込んだ後、
「――今日も早番だから、もう少しで終わるんだけどね?」
にやり、林檎のように艶めく唇の片側を引き上げた表情は初めてで、これからもっと新しい表情を見られるだろう期待に胸が高鳴る。
「昨日のお礼させてください。何食べたいです? 肉でも魚でもそれ以外でも、甘いものとかもいいっすね。ほらほら、真斗さん」
「じゃあ今日は甘いもの食べたいな。オレ甘党なんだ。佑くんは?」
「お酒も甘いものもいけるんですか、羨ましいなぁ。おれも甘いもの好きです。……じゃあパフェ食べに行きましょ、美味しいとこ知ってるんですよ」
背後に人の気配が迫った。話し込んでしまった間に上映が終わったらしく、物販コーナー横のシアターの重い扉が開く。
「いいね、パフェ! じゃあまた十四時半ロビーで、あ、メッセージ送るから」
「待ってます!」
取りあえず背後の人へ場所を譲ると真斗さんは控え目にこちらへ手を振り、にこやかに接客を開始した。さぁ約束の時間まで何をしよう。パフェの店は予約出来ないが今日は平日なので大丈夫のはず。リュックからスマホを引っ張り出したところで、
「佑くん!」
真斗さんの声がロビーへ響く。他の人と一緒に振り向いた瞬間、
「これからよろしくね」
花咲き誇る表情で軽やかに場内へと入っていく。あまりの鮮烈さに頬を赤らめるおれの顔が手にしたスマホへ映り込む。今度はどんなものが見れるだろう、スマホは期待に笑っていた。
映画のようには 朝本箍 @asamototaga
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