第二話
「それじゃあ改めて。来てくれてありがとうございます、鍵井さん」
阿那田さんがビールジョッキを片手に、控え目な笑顔を見せた。
「いえ、急にこっちこそ……ありがとうございます、本当に」
乾杯はお祝い事の時にするものだからということで、おれもレモンサワーのジョッキを持ち上げ、軽く頭を下げてから口をつける。阿那田さんが予約してくれた海鮮居酒屋は店内のあちこちに大漁旗やガラス浮き玉が飾られた、いかにもな雰囲気で、早い時間からアルコールを提供していることもあってか、まだ夕方にもなっていないのに活気が満ちていた。オシャレな阿那田さんが予約してくれた店に身構えていたが、意外な気持ちと同時に親しみやすさがわいてくる。
そして届いた料理のどれもが目で食べられそうな位美味しそうで、特に刺身の盛り合わせは見るからに艶があり、魚を食べたい欲求をこれ以上なく満たしてくれそうだった。
「魚、オレも食べたかったんですよ。あと、オレ、
言葉通り、マグロを頬張りながら目尻を下げる阿那田さんはオーバーサイズのデニムジャケット、同じく大きめのチノパンという小柄な身体を引き立てるコーディネートがよく似合っている。私服姿もいい意味で予想を越えていた。
「真斗さん、おれ、
おれは勿論敬語で話しますけど。
歳上だろう人に丁寧さを強いるのは不本意で、何より形からでも砕けた姿勢を取ってもらわないと、見ないようにしている居心地の悪さが出てきてしまう。何度も会話をしてはいたが、今「佑くん」と「真斗さん」になったのだ。
不躾なお願いに真斗さんは、
「え、いいの? 嬉しいなぁ。オレにも普通に話してよ、佑くん」
サーモンをはくりと食べ、
「その方が色々話しやすいでしょ。オレは聞くことしか出来ないけど、人に話すだけでも少しは気が晴れるかもしれない」
静かな鳶色の瞳でおれと向き合った。周囲の人は自分達の会話に夢中で、またどこかで店員を呼ぶベルが鳴る。勿論言いたくないことは言わないでいいよ、真斗さんの言葉に映画館での失態、そしてどうしてそんなことになったかが鮮明に浮かび上がる。
「その節は本当に申し訳ない……です」
落ち着かなさに鯛か平目らしい白身魚を口へ入れる。さらりとした甘さはどうやら鯛で、こんな時でも美味しいものは美味しかった。
「謝ることじゃないよ、次の上映まで時間あったし。それに、」
ビールジョッキが空になる。真斗さんはペースが早い。緩く巻かれた前髪が顔へ落ちた。
「泣きたい時には泣かなきゃ。溜め込むのは良くないと思うから。でも、いきなり吐き出せってのも大変か……いくつか聞いてもいい?」
「あ、はいっ。まだごちゃごちゃしてるんで、そっちの方が助かります」
「敬語、敬語。佑くん、大学生だって言ってたけどオレそんなに変わんないよ。二十四。気にしないでよぉ」
呼びボタンを押し、ビールのおかわりを頼んだ真斗さんはわかりやすく困り顔をして椅子へ座り直した。二十四、落ち着いた雰囲気をもっと歳上のように感じていたが、表情は確かにおれとそう変わらない。
「まだ、相手のこと好き?」
真斗さんの質問は意外な角度からだった。勝手に、相手のことやどうして別れることになったのか、そんなことを聞かれるのだと思って、どこまで話していいかを考えていた頭は、
「わかんないっす」
素直な一言を返した。映画館で純を思い出し、どうして別れることになったのかと泣いたのは間違いない。それでも好きなのかはもうわからなかった。だって、純は「何となく」おれと別れたんだから。復縁したいような気もしたが、それなら映画館じゃなく昨日カフェで泣くべきだったのかもしれない。
投げやりに聞こえたらどうしよう、そんなことに気づいたのは言葉を発した後で、真斗さんは狼狽えるおれに対して、
「そっか。……そうかぁ」
少しだけ形を変えて同じことを二回言った。怒っているようには見えないが、視線を下げた顔は表情を読みにくい。
「すみません、適当に答えた訳じゃないんですけど! あんなに泣いてたのに薄情ですよね、おれ。でも何か、わかんなくて」
「あ、いやいや、そんなもんだと思う。だって佑くん、振られたって言ってたじゃん。理由はわかんないけど、自分のこと傷つけた相手であることは間違いないんだし」
注文していたビールジョッキが届き、真斗さんはジョッキを軽やかにあおった。おれも、次はマグロへ箸を伸ばす。酔ってしまいたいのにレモンサワーはあまり進まない。
「適当だと思った訳じゃないよ、こっちの事情と言うか。ごめんね」
「いえいえいえいえ」
「――これこそ言いたくなかったらいいんだけど、佑くんを振ったのって前に映画館に一緒に来た彼じゃない? 日焼けした肌で背の高い、彼」
マグロの旨味がどこかへ消えたのがわかった。真斗さんの顔にからかうような色は見えず、何故かおれ以上に真剣な面持ちをしている。純と付き合っていた時特に誰かへ話すことはなかった。隠している、というよりも聞かれないので言わないという選択肢。
「そう、です」
まさか別れてから言うことになるとは。誤魔化すことはいくらでも出来たし、そもそも黙っていれば答えたことにはならなかったが、真斗さんには話そう、直感がそう言ったので信じることにした。こういうのは大体合っている。
「でもよくわかったっすね、真斗さん。映画館には一回しか行ったことないし、そもそも付き合ってるって見たらわかるんすか」
「やっぱりそっか。確かに一回しか見たことないし、佑くんが来なくなる前の話だから結構前だけどあれはね、わかるよ。すっごくいい顔してたから、佑くん。オレにはわかっちゃった」
緊張からペースが上がり、レモンサワーがやっと空になる。すかさず真斗さんが呼びボタンを押し、次はグレープフルーツサワーを、そしてビールをもうひとつ注文した。刺身の盛り合わせはツマだけになったので今度は煮魚へ箸をつける。甘さと塩辛さが絶妙な塩梅で白身は口の中、ほろろと崩れた。
「……あいつは映画、好きじゃなくて。でもおれが好きだって言ってたら一緒に行きたいって言って、来たんすよ。結局、あんまり楽しくはなかったみたいだけど嬉しかったんですよね。だからそんな顔してたのかも」
好きなものを知ろうとする優しさはあった。他にも噛み合わないところはあったけど、お互い出来るだけ話すようにもしていた。それで何が悪かったのか。まだ好きなのかはわからない。純の笑顔。それでも話しているうち鼻の奥が痛み、気持ち顔を下げた。店内の喧騒が遠くなるのは悪い兆候、切り裂くようにグレープフルーツサワーとビールが到着する。
ジョッキを伝う水滴を見た瞬間、おれの目からも水が流れ落ちた。真斗さんは大きな目を更に大きくしたが何も言わずビールを引き寄せ、空けたジョッキを隅へと置く。
「……何となくって、なんだよ……」
昨日カフェで言うべきだった、そして衝撃に思いつきもしなかった言葉が今更涙と共に溢れ出る。言うべき相手はもう居ない。それでも止められなかった。
「好きだ、って言ってたんすよ。だからたくさん話し合おうって。話さなきゃ伝わんないこともあるからって、出来るだけ話すようにしよう、色々話し合おうって言い出したのは向こうだったのに。だからたくさん話すようにして、おれも興味ない話だって聞いてたのに、それで最後が、何となくってなんなんだよ……っ」
涙も、言葉も止まらない。純は話せば伝わるとよく言っていたし、理性的に色々な感情を言語化しておれに教えてくれた。なのに最後の最後で純は言語化に失敗したのか、それとももう疲れてしまったのかは知らないが、伝えるための言葉を失くし、おれの思考も言葉も奪ってしまった。遅すぎた言葉が宛先を間違えて漂っている。
「何となく、別れようって言われたの?」
未開封のポケットティッシュを差し出しながら真斗さんが眉尻を下げる。まだ映画館でもらった分もあるのに溺れる者は藁をも掴むよろしく、潤んだ視界の中でそれを受け取って頷くと、
「出来るだけ話し合おうって言ってた相手がそれかぁ。災難だよそれは。災害かも」
「もう話したくなかっただけなんすかね……恋とか愛とかって何となく終わっちゃ駄目な気がするんですけど。てか、駄目ですよね」
受け取ったティッシュを鼻へ押し当てる。半個室に好奇の視線は届かず、おれはあとからあとから流れる諸々をティッシュで何とか片付けた。泣くつもりはなかったのに。傷は思ったよりも生々しく口を開けている。
「駄目だよ」
一音一音に力を込めて真斗さんはおれの欲しかった言葉を発してくれた。
「最後の最後で対話を投げるなんざ、最低の行為だと思う。どんな事情があってもさ。佑くんは悪くない、それこそ災難だったね」
大きな目にちらつくのはおれの相手に対する怒りだろうか、強い光が見え隠れしている。
「……オレは君の味方しかしない。不公平だとしても」
三杯目のビールへ口をつけ、多少勢いをつけて真斗さんはジョッキをテーブルへ置いた。おれが視線を上げるのと真斗さんが林檎のような唇を豪快に手で拭うのは同時で、
「間違いなくそんな顔させるヤツと一緒に居るより楽しいことあるよ、これから。もっと君のことを笑わせてくれる人も。断言出来る」
横たわる月のように細められた目と鮮やかな口元に目を奪われる。花は綻ぶどころか咲き誇り、目や鼻よりも、突然早くなった鼓動で心臓が痛いような、知らず手でシャツの胸を触ったところで真斗さんは更に言葉を続けた。視界は少しずつクリアになってきている。
「例えばオレとか」
「真斗さんとか……?」
純と一緒に居るよりも楽しいこと、純よりも素敵な人。目の前で花のように笑う人。理解が追いつかず、それでも辛うじて言われたことを鸚鵡返しすると、うん、と頷いた。おれの左手はグレープフルーツサワーのグラスを掴んだところで動きを止め、水滴でぐっしょりと濡れている。真斗さんの目にアルコールの影は見えず、ふざけているような軽さはどこにもなかった。真顔で冗談を言うタイプだとしても泣きたい時には泣けばいい、溜め込まない方が、と慰めてくれた人が、今更おれを馬鹿にするとは思えないし、思いたくない。
「どういう意味ですか。おれ、今、ちょっと混乱してるんですけど、ぇ?」
真斗さんが馬鹿にしているのでなければ、人は自分に都合がいいように物事を解釈すると聞いたことがある。それが今なのかもしれない。混乱のまま、思いついた言葉を咀嚼もせずに吐き出してグレープフルーツサワーを一気にあおる。氷の欠片が勢いよく口に入ったが気にせず、言葉の代わりに噛み砕いた。
今度は真斗さんが目を伏せる。そして僅かな間何かを探して視線をさ迷わせた後、強い意思を宿しておれを見つめ、
「言葉の通りの意味だよ、佑くん。今すぐ付き合ってくれとか、そんなこと言わないけど……つけられた傷が良くなるまで、それを保護する絆創膏みたいなのになりたいな、と」
そこまで言ってからすぐ、何言ってんだろうね、眉尻を下げてどうにもならない、そんな困惑した顔を見せた。言葉は続く。どこかのグループが上げた歓声は遠く、耳は真斗さんのやや高い声に占領されている。
「とにかく、佑くんがこれ以上泣くことがないといいなって、そう思ってるのは本当だよ。からかってる訳じゃないし、本当に……そんな顔はさせたくない。オレならさせないとも思ってる」
「……おれ、そんなにひどい顔してます? 結構恥ずかしいんすけど。いや、泣いた時点でもう恥ずかしい、んですけど……」
「別に変じゃないよ! 映画館ではもっと死にそうな顔してたし。最初は、ホラー映画だし、体調不良かなと思って声をかけて色んな意味で驚いた」
もう来ないと思ってた佑くんが、泣いてたんだから。
「とにかくホラーで泣いたんだってことだけは否定したかったんすけど、今考えるとそこまでこだわってること自体がホラーだったかも、ですね」
相手が真斗さんでなかったら訂正しなかったかもしれない。涙や鼻水、そしてテーブルの上にあった料理はあらかた片付いていた。ビールとグレープフルーツサワーは飲み干すには微妙な量で、話の続きを待っている。
「オレでも訂正するよ、きっと。あの映画結構残虐シーン多いみたいだし、泣くトコあんまりなさそうだもん」
「サイコホラーとスプラッタの境目を攻めてた感じっすね……グロかったです」
脇に逸れた会話を懐かしく感じたのは以前、カフェでもこんな風に映画について話していたからだろう。真斗さんはジャンルにこだわらず、どちらかと言えば映画館が好きで映画を観ているらしく、マイナーなホラー映画の話題にも乗り、盛り上がってくれていた。微妙な敬語が抜けない。
そうなんだ、気をつけないと。呟いてから真斗さんはメニューをおれへ差し出し、
「あんまり吐き出すの手伝えてない気がするんだけど」
「そんなことないっす。話してて気がついたこともあるんで。……本当ですよ」
大丈夫です、受け取ったメニューは開かずにテーブルの脇へと差し込む。まだ話していたい気持ちはあったが明日は朝から卒論制作に向けたゼミがあり、深酒をする訳にはいかなかった。そう、気づいたのは案外薄情な自分だった。純のことを好きだったのは間違いなく、もう二度と恋人として一緒に居られないことが泣くほど悲しかったし、あれだけ対話していたのに別れる理由が曖昧だったこともそれに拍車をかけた。
それでも、まだ好きかと問われた時に好きだと答えられなかったのも本当で、再会した真斗さんは以前と変わらず優しくて素敵で、美味しいものはこんな時にも美味しかった。終わるものがあっても、始まるものがあっても、一日は一日なんだなと感じる。
純の隣でしか見えなかったものがあったけれど、ひとりでも、他の誰かとだからこそ見れるものもあるはず。真斗さんと話したからこそ、気づいたものだった。優しい人は残っていたビールを飲み干して呼びボタンを押す。
「そう? オレが少しでも役に立ったならいいんだけど」
「役に立つとかそんな道具みたいなこと言わないでくださいよ。気にかけてもらって、ありがとうございます。マジで助かりました。……もう、泣かないっす、きっと」
「泣きたかったら泣いてもいいと思うけど、佑くんがそう思えるなら良かった」
伝票を確認する隙も与えずに真斗さんは支払いを済まし、当てずっぽうでおれが差し出したお金は一円も受け取ってもらえなかった。何か言いたげな真斗さんからの申し出に対して返事をしなかったこと、何より連絡先の交換をしなかったことに気づいたのは部屋に帰り着き、スニーカーを脱いだまさにその時だった。映画館のカラフルな椅子に続き、今度は部屋に一本きりのビニール傘が間抜けなおれを笑っている。
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