15話 正しい人殺し
ホメロスは浮かせかけた腰を下ろした。空気が再びピリッと張りつく。ウェナはしっかりとホメロスを見据え、胸を張って問うた。
「あなたが、正しき信念と国のみんなを想う心をもって、その罪と生涯向き合う覚悟を持った上で魔女様の力を借りるのだと、この場で宣言し、誓ってください。そしてこれが終われば、二度と人を傷つけることはしないと……誓ってください」
ホメロスは考えるように指先でテーブルを数度鳴らし、口髭の先を撫でた。
「ああ、誓おう。このホメロス・デンフォールド、ドル帝国宰相として命の魔女の力をもって、敵対国の民の抹殺を求める」
天秤が揺れだす。ホメロスはあくまで冷静に言葉を紡ぐ。
「この身勝手かつ残酷な願いは、しかし我が国とその民を守り、未来を存続させていくための確固たる我らが信念である。この戦いを終えてのち、民の命を奪った咎と贖罪を一生涯かけて続け、今後いかなる理由があろうとも他者を害することなく生きることを誓おう」
カタ──────ン。音がして、誰もがそれに目を向ける。デスは安堵半分、同情半分で息をついた。
ホメロス、お前はたいした男だよ。たとえ子ども相手でなくても、その迫力と弁舌で言いくるめることができたろう。いや、大人相手ならまず間違いなくお前の勝ちだった。
だが、子どもの純情をかわすのは手間がかかる。不必要な宣言をしなければならないほどに。
ウェナはきっと無意識だった。書類によるやり取りなどほとんどない子どもにとって最も効力を持つものは、言質。口約束こそ、子どもにとって最も価値ある約束なのである。
だからホメロスは言うしかなかった。最大限慎重に言うしか、足掻く手段はなかった。だが詰みだ。言わされた時点で詰みなのだ、その台詞は。
正しい人殺しなど存在しない。人に殺意を向けるとき、ほんの断片も、一点の曇りもなく悪意を込めずにいられる人間など──
(いやしない)
天秤は傾いた。黒い炎が深く、深く沈んで、止まっている。ホメロスは風もないのに揺らぐ炎を、まばたきもせずじっと見つめていた。
「結論は出た。残念だが……」
シャリンと硬い音がして、ウェナの短い悲鳴があった。デスは組んでいた手をゆっくりと放し、前を見つめたまま言った。
「それが何を意味するか、お前は理解してるんだろうな」
抜き放った軍刀の刃をウェナの首筋に添え、兵士の男は無言で佇む。ホメロスは足を組んだ。
「戦の傷で口が利けない彼に変わって私が答えよう。すべて命令の通りだ。うむ、できれば穏便に済ませたかったが、致し方あるまい」
「まだ穏便に済ませられるぜ。特別サービスだ」
「命の魔女、そなたに許されたのは『わかりました』の一言だけだ」
「ホメロス・デンフォールド、最後のチャンスだ。後ろのバカ共を連れて、さっさと失せろ」
兵士がウェナのあごを掴み、首筋に刃を押しつける。
「やめ、やめてください……っ」
ウェナは細い声で懇願する。
「君の主人が刃向かわなければ無用に傷つけはせんよ」
「──やめてください、魔女様!」
カシャンと軍刀が落ちた。ウェナは自分を押さえつけていた兵士の手から力が抜けていくのを感じた。ああ、と喉を震わせる。
ガタンと派手な音を立てて、ウェナを捕らえていた兵士は床に倒れた。それきり、動かない。
「お前たちは本当に愚かだな」
兵士たちの間に動揺が流れた。ホメロスの背に冷や汗が浮かぶ。彼らの前に座した魔女は、暗い光を瞳に浮かべて告げる。
「想像しなかったのか? あるいは、ここまでだとは思わなかったか?」
デスはソファに腰を沈めたまま、紅茶の最後の一口を啜った。
「命を奪う魔法、その恐ろしさを」
「──貴様ら、何をしている! 捕らえろ、命の魔女を捕らえろ! 腕の一本は落として構わん!」
居並んだ兵士の半分が軍刀を抜き、半分が銃剣を構える。動揺か、躊躇いか、その動作から鋭敏の二文字を探すことはできなかった。ゆえに、間に合わなかった。
鎧が床板を叩く音が重なる。バタバタと兵士たちは気絶するように倒れ伏し、それきり呼吸を止めた。誰ひとり、呻き声ひとつ上げることはなかった。
静かな、けれど圧倒的で絶対的な死が、小さな室内を満たしていた。
「貴様……」
ホメロスは怯え、指を震わせデスを指す。
「貴様ッ、こんなことをして、ただですむと思っているのかッ! 我らを、ドル帝国を敵に回したこと、一生後悔することになるぞッ!」
「そんときはドル帝国の人間を根絶やしにすれば良い話だ。遺恨のないようにな」
ホメロスは突然胸を押さえ、苦しげにテーブルに体を倒した。大きく見開いた目でデスを見上げ、しかし何も言えず、ズルズルとテーブルから滑り落ちていく。
「アン、ナ…………ジ、ゼル………………」
最期に呟いて、ホメロスは床に倒れこんだ。その目は呆然と天井を見上げ、見失った己の魂の在処を探しているかのようだった。
「家族の名前、かな。やれやれ、人の家族を奪おうとしておきながら、最期に自分の家族の名を呼ぶとは。傲慢極まるね」
デスは視線をすいと移した。
「お前もそう思わないか?」
豪奢な鎧に身を包んだ男は、沈黙したまま魔女を見つめていた。
「……なぜ、俺だけ生かした」
「気分さ。お前はウェナに丁寧に接したし、たった一人、抜刀もしなかった。逆に聞きたいね。なんでだ?」
「……俺は信念から外れたこともやってきた。兵士でいるため、金を稼ぐため、家族を養うため、そうしなければならなかった。敵国の兵士も数えきれないほど殺してきて、気づけば多数の部下を従えるようになっていた。だが何故だろうな」
ふっとウェナを見やる。
「彼女を見て、彼女の叫びを聞いて、俺の手はどうしても動かなくなった。彼女に手をかけることも、彼女を一人にさせることも、俺は決してしたくないと思ったんだ。俺に足りなかったのはきっとこれだ、見つめることだったんだ。自分がなしていること、その結果として起こること、その事実を見つめる心が足りなかった」
兵士は顔を覆う鉄仮面を脱ぎ捨てた。
「俺はもう、己の信念を裏切らない」
デスはその顔を一瞥し、ため息のような嘆息のようなものをふぅと吐く。蚊でも追い払うかのごとく手を振り、
「とっとと帰れ。どうとでも報告しな」
兵士は深々と頭を下げると、扉から森の中へと足を踏み出す。
「ああ、ちょっと待った」
デスはその背を呼び止めると、唇に指を添え、ふっと息を吹いた。周囲の木が組み上がり、紐が結われ、四足の獣の姿を成していく。
荷馬車と馬が森の中に現れた。
「こいつらの死体、持って帰れ。置いてかれても困る」
それは本音のようにも思えたし、彼らの家族に遺体だけでも届けさせようという心遣いのようにも思えた。
「感謝する」
兵士は言い、荷馬車に仲間たちの亡骸を積み込むと、馬に跨がって去っていった。
二人はその背を見送り、しばらく森を吹き抜ける魔力混じりの風を受けていた。
「五百四十八年」
デスは呟く。
「今日増えた、私の寿命だ」
ウェナは応えない。
「脅すだけで良かったんじゃないか、って思ってるか?」
ウェナは応えない。
「そうだったかもしれない。でも、そうではなかったかもしれない。ウェナの首は斬られ、私は撃たれていたかもしれない。ホメロスを逃がせば、大軍が押し寄せ、私はさらに多くの命を奪わざるを得なかったかもしれない。未来の損害を考えれば、あそこで殺すべきだと判断した」
ウェナはデスの腰に抱きついた。
「ごめんなさい。ウェナが上手にできなかったから」
「んなことねーさ。やらせたのは私だし、ウェナはできることをやったよ。選んだのはあいつらだ。武力行使を選んだのはあいつらなんだよ」
デスはわしゃわしゃと少女の髪を撫でた。
「それが奴らの選んだ、命の使い方だ」
今日はウェナの好きな川魚のソテーにしてやろうと、デスは決めた。あれだけは上手く作れるようにしたのだ、ウェナのために。それが慰めになるかはわからないけれど。
五百四十八年。それだけの寿命が彼らにはあった。それは完遂されず、全て今日、奪い取られた。彼らの未来は潰えた。後悔はなかっただろうか。あるに決まっている。後悔を考えることすらできずに死んだかもしれないが、夢も希望もきっとあったはずだ。
それを費やしてまで、彼らは魔法の力をほしがった。この命を弄ぶ力をほしがった。
「罪作りな魔法だよ、まったく」
重い息を吐いて、デスはぐわっとウェナを抱き上げた。
「よーし、釣りに行くぞ! 釣れても釣れなくてもデス様が魔法でどうにかしてやる! そら準備!」
ぽーんとソファに放り投げる。ぽいーんと跳ねたウェナは「あええっ」と慌てながらバタバタ準備に取りかかった。忙しくすれば余計なことも考えずに済む。
しかし──
デスは兵士が去った方を顧みる。当然ながら彼の影も形もなく、馬が土を踏んだ足跡と、荷馬車の轍が音もなく残るのみである。
一番不気味なのは、何を差し置いてもあの男だった。察するに、あの男は部隊長か何かで、あの場にいた兵士のリーダーだったのだろう。鎧の雰囲気やホメロスの対応を見ても、彼だけが他の兵士とは別格に扱われていた。他の兵士は彼の部下で、ホメロスからは信頼を置かれていた。
それを全て残らず殺されて、あの男は異常なまでに冷静だった。
ちらりとテーブルに残ったままの天秤を見下ろす。ゆらゆら揺れる白い炎が、すっかり下方に落ちていた。
善意。まったくの悪意なく、心の底からあの男は、あの台詞を言ってのけた。上司も部下も殺されてなお、自信の信念を裏切らなければそれで満足だと。
彼の発言は至極真っ当で、義侠心に満ち溢れているものに聞こえるが、実態を考えるとそれは妄執に近い空恐ろしいもののように思えてならなかった。だから、逃した。彼なら魔女の存在もホメロスたちの死も上手くごまかすだろう。信念とやらのために。
信念──あるいは保身? けれど、ただの保身であれば、天秤がああも傾くのは不可解だ。考えれば考えるほど答えが遠のいていくような感覚。ほどけばほどくほど糸が絡んでいくような感覚。
「……魔女より恐ろしいものなんて、この世にいくらでもいるんだよなぁ」
デスは目を逸らすように、家の扉を閉じた。
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