14話 善悪の秤

カラン、と音を立てて、突然ひとつの天秤がテーブルに現れる。一対の皿の片方には白い炎、もう片方には黒い炎が灯っている。


 突如現れた謎の秤にどよめきが起こる。ホメロスは手で制し、兵士たちを黙らせた。じっと説明を待つ。


 ほう、とデスは少し感心した。胆力は意外やあるらしい。人の上に立つ者としてまず一点と言ったところだろう。

 考えながら、秤の頂点につんと指を乗せた。


「警戒するなよ。これはただの善悪を量る秤だ。善性──善良な心を感ずれば白い炎へ、悪性──邪悪な心を感ずれば黒い炎へ傾く」

「……なぜそんなものを?」

「お前が本当に、国のためを想う善良な心で皆殺しを求めているのであれば協力しよう。それを、これからの発言で図る」


 意図を理解したようにホメロスは挑戦的な笑みを見せた。


「なるほど──いいだろう。そなたからの質問に答えれば良いのかな」

「いや、話し相手は私じゃない」


 デスはウェナの肩に腕を回し、ぐいっと引っ張った。「わぶっ」とウェナは頭からソファに転げ落ち、一回転してその場に収まる。デスは肩を寄せた。


「ウェナだ」


 ホメロスは途端に眉を潜めた。


「子どもに駄々をこねられても困るのだがね」

「子ども一人説得できない皆殺しに何の正当性がある。お前も政の世界で生きてきたなら、目の前の子ども一人程度、納得させてみせろ」


 鼻を鳴らし、ホメロスは椅子に背を預けた。


「いいだろう」


 ウェナだけが目を白黒させていた。炎を見ていたという意味ではなく。


「お前は皆殺しをやめてくれと説得すればいいんだよ」


 デスが言うと、ウェナはピンと背筋を伸ばす。


「殺すのはダメです!」


 初球は直球勝負となった。対するホメロスの態度は実に落ち着いている。


「我々とて皆殺しなど本来は望んでいない。しかし、もはやこの手しかないのだ」


 秤の炎がゆらりと揺れる。けれど傾かない。ふぅん、とデスはあごを撫でる。

 動かない……これには二択の意味が考えられる。善意も悪意もなく発言がなされたか、あるいは善意と悪意が同量込められていたか、である。


「皆殺しは望んでない」=本音、「この手しかない」=嘘であるならトントンという扱いだ。


 さて、ホメロスが後者であって、聡く今の発言でこの性質に気づいたのなら大したものである。もしボロを出すことなくウェナを丸め込むことができれば……


 人を殺すことになる。


 デスはそっと手を組んだ。


「本当に、みんな殺すしか手はないんですか」


 だが子どもの純情をかわすのは思ったよりも手がかかる。


「話し合って仲直りとでも言うつもりかね?」

「っ……はい」

「君が考えるほど国というものは甘くない。簡単に動けもしない。我々の言葉はもはや相手に届かず、相手の言葉も我々に届き得ないのだ」


 天秤は動かない。彼は、ただ事実を述べているだけということ。ウェナは額が汗ばむのを感じた。


「ところで──今、君は『殺すのは』と言ったな。殺さなければ良いということだろうか」


 あ、と声が出そうになり、抑える。言葉尻を上手く掴まれた。ホメロスは奇妙に思えるほど人の良い笑みを浮かべて、手を広げた。


「うむ、わかった。であれば、全国民の寿命を『残り一日』まで吸ってもらおう。それであれば皆殺しではない。ただ、寿命で死ぬのだ」


 ウェナはガタリと立ち上がった。デスの手がそれを止める。無言で、ただ無言で睨みつける。ホメロスは正面からそれを見つめ返す。

 デスはホメロスの後ろで軍刀に手をかけている兵士たちをじろりと見た。表情のわからない鉄仮面で顔を覆った兵士たちはデスを見たのか、あるいはウェナを見たのか、しばらくして静かに軍刀の柄から手を放した。


「……どうしてそこまでしなくちゃいけないんですか」腰を下ろして言う。

「示しがつかないのだよ」

「示し……?」

「我が国の戦争はもう、六年続いている。その間、多くの兵士が死んだ。多くの民が死んだ。あまりにも多くの人間が死んでしまったのだよ。そして、死した者には当然、家族もいる」


 白い炎がゆらりと揺れた。


「良いかな。我らが許しても、人々が許さないのだ。家族を奪った憎き敵国の人間を根絶やしにせねば、彼らの気が休まらないのだ。我々とて心苦しい。しかし、国を守るとは時に残酷なものでもあるのだよ」


 ガタンと白い炎の皿が落ちる。ゆら、ゆら、と揺れて、ほとんど斜めのまま止まる。デスは思わず拍手の一つでも打ちたくなった。


 九割の真実と、一割の嘘。上手くやるものだ。おそらく今の発言、ある程度の民を想う心はまごうことなき真実。「心苦しい」だけがおそらく建前。ホメロスが真に民を想う心を持ち合わせていることに多少驚きつつ、これは分が悪いなと思った。

 ウェナにとって、白い炎が傾くという事象が余計な混乱を招く。


「う、嘘! 嘘です、そんなの嘘!」


 カタンと黒い炎が落ちる。


「ウェナ、それは悪意だ。不都合な真実を嘘と断ずるのはな。天秤は平等だ」


 うう、とウェナは俯く。ホメロスは突然、優しげな声を出した。


「気に病むことなどないのだ。敵がどれだけ非道なことをしてきたか、教えてあげよう。そもそも、戦争の始まりは敵国の侵略なのだよ。我々の国土を武力で制圧しようとしたんだ。自分の家を奪われそうになったら誰でも抵抗するだろう?」


 天秤の傾きは変わらない。


「それ以前にも、奴らの略奪行為は各地で起こっている。それで家族を失った者も、傷つけられた者もたくさんいるのだ。我々はずっと堪えてきたのだよ。そして今、自分たちの誇りを守るために戦っている」


 じわりと白い炎が落ちる。


「それが崩壊へと向かっているのだ。君は言えるのかね? 家族を殺された人々に対して、敵を殺すなどいけないと。人殺しなどいけないことだから、君たちは何の抵抗もせずに住み家を捨てて耐えなさいと」


 天秤は平行に戻った。悪意の発露──けれど、今のウェナにそれに気づく余裕はないだろう。ただ目の前の意見にどう言い返すか、それに思考を占められている。


 ホメロスは重要なことを隠している。それは、自国の情報を一切入れていないことだ。一方的に敵国の悪事をあげつらいつつ、その理由や過程に至る一切合切をうやむやにしている。

 そこを指摘できれば話は変わるのだろうが……


「それでも……その、ダメだと、思います、殺すのは」


 ボソボソと小声で返す。すっかり意気消沈していた。


「では何か代案でも──」


 ぐらりと黒い炎が落ちる予兆がして、ホメロスはとっさに口を閉じた。深くゆっくり息を吸う。


「つまりだね、我々もいたずらに人命を奪おうというのではないんだ。ただ国民が納得する形で戦争を終わらせるには、こうするしかない」


 彼らも同様だ。と、後ろに並び立つ兵士を示す。


「彼らもまた、戦争によって家族を失っている。彼らは国を守るため、二度と同じ悲しみを繰り返さないために兵として志願したのだ。君は今、その勇気さえも否定しようとしている」

「……」


 白い炎が静かに落ちていく。


「では、残される敵の家族の気持ちもわかるはずです」

「そのための皆殺しだ」臆面もなく、「残される悲しみがないよう、すべて、等しく、根絶やすのだよ」


 悪魔のようにも思える言葉を吐いてなお、天秤は大きくは揺らがなかった。どれだけ悪逆非道であれ、善意をもっていればそれは善である。その人間の中では。


 ウェナはついに重く口を閉ざした。膝の上で握りこんだ手をさらに強く握る。


 論理の穴はいくらでもある。けれど穴の刺し合いにおいて、策謀渦巻く弁舌の世界で生きてきた大人の胆力は、子どもに絶対的な正しさを感じさせてしまう。

 ホメロスは親身に寄り添うように、身を乗り出した。


「この世界では作るより壊す方が圧倒的に早いのだよ。そして、早く壊した方が結果的に犠牲は少なくなる。私は未来の子どもたちを守るために、こうして危険を冒して命の魔女へ会いに来たのだ。わかってくれるかね」


 天秤はわずかに白い炎へ傾き、止まった。重い沈黙が続く。デスが口を開こうとしたところで、ウェナが顔を上げた。


「わかりました」

「……君は聡明だ。では──」


「だから最後にお願いがあります」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る