●寧々が言わなかったことがある。
寧々が言わなかったことがある。それは妹のナナが亡くなっているということだ。結局、寧々が病院に入院していたのは精神的なことも影響していたのかもしれない。退院した彼女は確かに裁判に出席したが、精神的に不安定ということで証言が認められなかった。そして結果として、××は再び留置所に行くことになる。もちろん企業との長い裁判が終わってからのことだが。そして新たな裁判が彼を待っている。
「ナナが亡くなっているとは。」と中野のバーで、オレは新聞を閉じる。
「お知り合いですか。」とバーテンがグラスを磨きながら言う。
「ああ。」とオレは言葉少なくうなずく。
「女性が亡くなると、特に若い女性の場合は悲しさが増すものです。」とバーテンは言った。
「そうかもな。」とオレは答える。
「その人のあるべき未来まで寸断されるわけですから。」と彼は言う。
「たしかに。」とオレは言ってグッとジントニックを飲み干した。
「できるなら私が。」とバーテンが言いかけたところで、店のドアが開いた。
「こんにちは。」と言ったのは白いコートを着た女だ。新井ナナかと思ったが、もちろんそうではなかった。
「ナナかと思ったよ。」とオレは正直に言った。
「ナナ。」と言って、田中美千代はカウンターにコートをかけて座った。
「残念だったな。」とオレは彼女の親友のことを気遣った。
「うん。」と答える美千代はまだ心の動揺が見て取れる。
「沼津だってな、やっぱり。」とオレは言った。
「そうだね。」と彼女は答える。
「あの時、オレたちはどれくらいまで近くまでいってたんだろ。」とオレはつぶやいた。
「もっと探せば、いたのかも。」と美千代は目を伏せた。
「あの漁港町の、どこを探せばよかったというんだ。」とオレは言った。
「そうだけど。」と彼女は言って、バーテンの作ったお酒を一息に飲む。
「できることはやったさ。」とオレは何かを振り払うように言った。
「う、うん。」と言う美千代は再び伏見がちにした。
「あとはDだな。」とオレは目をつむって言う。
「Dさん、生きてるのかな。」と美千代は絞り出すように言う。
「多分。」とオレは答える。
「ああ。」と隣の男が答えた。
「沼津で何があった。」とオレはコーヒーを飲みながら聞いた。
「さぁ。オレは目隠しされてたからな。」とDはおなじみのタバコに火をつける。
「それでお前はクロスロード・ホテルに監禁されて、ナナは平気で××とつるんでたのか。」とオレは聞く。
「女なんてそんなもんだ。」とDは肩をすくめる。
「××に依頼した件は?」とオレは尋ねる。
「ああ、最初は冗談のつもりだった。」とDは言った。
「冗談?」とオレは聞く。
「そう、交換条件というかな。オレを自由にしてくれたら、後で腕ききの探偵に頼んで××の裁判を有利にしてやるって言ったんだ。」とDはタバコの煙を吐きながら言った。
「裁判のことを知っていたのか?」とオレはDに聞いた。
「そりゃね。長いこと一緒にいたわけだからな、奴らと。さっきも言ったけど、最初は冗談だったんだ。オレは妻から逃げるため。そして××は寧々から逃げるため。」とDは半笑いで答えた。
「自作自演?」とオレは眉をひそめる。
「ああ、まぁそういう言い方もできるかな。」とDは言う。
「それで誘拐のフリをして、××はナナと一緒になった。そしてお前の奥さんにも手紙を送ったというのか。」とオレはカップを置いて言った。
「まぁな。それがいつの間にか、本当に監禁されちまったんだ。」とDはため息をついた。
「三保の松原で。」とオレは尋ねる。
「そう、いいホテルを知ってると言うんだ。あの男が。」とDは二本目のタバコに火をつけた。
「渋谷から消えた朝だろ。」とオレはナナのライブを思い出して言った。
「そう、あの朝にナナの携帯に電話があって。ラブホから渋谷の喫茶店に向かった。そして初めて××と会った。」と言いながらもDは首を振った。
「それが始まりか。」とオレは聞いた。
「どこが始まりかもわからない。ただ言えることは、あれは間違いだった。ナナが死んで、申し訳ないことをした。」Dはそう言ってから、悲しさも見せずにタバコを吸い続けた。
「ああ。」とオレは答える。
Dは奥さんから逃げるためにナナと偽の逃避行をした、と言った。だがそれがどこまであてになるかは分からない。なぜなら元々、離婚したがっていたのは奥さんのほうだったからだ。となると、Dがあんなことをしたのは奥さんの気を引くためじゃなかったのか。しかしオレはそのことをDに直接言うことはできなかった。どちらにしても、半分は成功して、半分は失敗だったってわけだ。
「お前のかみさんが、元スッチーだったとはな。」とオレは言った。
「また離婚用紙を突き付けられたぜ。」と牛丼を食べながらDが言う。
「離婚しないのか。」とオレは笑う。
「愛が燃え上がったのも、帰ってきてからの三日間だけってことだ。」Dはしょんぼりと紅ショウガをつまんだ。
「よく言うよ、愛なんて。」とオレはつゆダク大盛りをたらいあげる。
「愛じゃなけりゃなんだ。セックスだってはっきり言うのか。」とDは箸を置いて、タバコに火をつける。
「しかし、あの××という男はやり手だな。」とオレは話を変えた。
「やり手どころか、変態だよ。」とDは首を振る。
「どんな目にあったんだ。」とオレは聞いた。
「一生言いたくないね、警察にも聞かれたけど。」Dは煙を吐いた。
「だろうな。」と言ってオレは緑茶をすする。
「ま、オレもひどい目にあったけど、ナナには気の毒なことをした。」と低い天井を仰いでDは言う。
「でも、お前だけ監禁されてたんだろ。どういうことだ。」とオレは聞いた。
「女の気持ちはわからん。オレにしてみれば、ナナが演じてるように思ったが。」とDは唇を噛む。
「演じるって、××の女をか?」とオレはDに尋ねた。
「そういうこと。男の脅しにどこまで乗るか。反抗して、痛い目にあうか。そのへんの駆け引きだ。」とDは顔をしかめる。
「で、お前のことは見捨てた?」とオレはさらに聞いた。
「心中でどう思っていたか。」とDは言う。
「なのに生き残ったのがお前だけだとはな。」とオレは言った。
「縄がほどけた。いや、ナナが緩ませてくれたのかもしれん。それで逃げたのはいいが、車にひかれて。」とDは言う。
「病院で意識不明。」とオレが続きを述べた。
「そういうこと。」とDが言うと、店員がこちらを見た。
「その間オレはお前の依頼を受けてたってことか。」とオレは聞く。
「ああ、奴は律儀にもお前に依頼したってわけだ。」とDは不適な笑みを浮かべた。
「なんだか救われないな。」と言って、オレはDと並んで歩く。だが企業を相手にしたすったもんだも、実は殺人のカモフラージュだったのかもしれない。××がどこまで考えていたのか。真実は闇の中。または新井ナナがいる暗くて深い海の底。
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