●そして親友のDのことも。


「まいったな。」とオレは独り言を言いながらジントニックを飲んだ。というのも、黒いコートの男が殴りこんできたおかげで、事の真相を見え出したからだ。しかも、彼の二人の娘が寧々と奈々とは。新井ナナ、オレはシンガーだった彼女のことを思い出していた。そして親友のDのことも。オレは全力を尽くして、二人を探したのに。

「どうしました。」とそこで声をかけてきたのは、いつものバーテンだった。

「いや、ちょっと。」とオレは答える。どう口に出していいのかわからない。人と人は何かを分かち合うことができるのだろう。

「いいことなら、できるんじゃないですか。」とバーテンは答えてくれた。

「なるほど。」とオレは言う。たしかにそうかもしれない。いいことなら人と分かち合う。では悪いことは?

「悪いことは、墓場まで持ち込んで埋めてしまえばいい。」とバーテンは詩人のようなことを言った。

「そうだな。それは名案だ。」とオレは言ってグラスを傾ける。墓場まで持ち込むか。ならその埋めてしまったものは、その後一体どうなるんだろう。土に埋もれて二度と帰ってこないのか。それとも、いつか復活して街中を彷徨うのだろうか。亡霊のように。

「そんなことはないでしょう。ホラー映画じゃないし。」とバーテンはクールに言った。

「ホラー映画か。」オレはうなずく。しかし殺人や裁判、金にまみれた汚職や脱税、そういう人間の汚さはホラー映画よりもたちが悪いように思える。

「人間が一番怖いって言いますしね。」とバーテンはグラスを磨き始める。

「ああ。」とオレは言った。新井ナナとDを連れ去った男、それが××だとしたら。しかもその彼を救うために、その妹がオレに依頼をしてくる。そんなことがあるのだろうか。オレにはすべてが罠であるような気もした。今や何が真実で何が真実でないか、オレには分からない。

「答えなんてないのかもしれません。」と詩人であるバーテンが言った。

「どういうことだ。」とオレはジントニックを飲み干す。

「偶然という運命が、人を動かしているのかもしれません。」と彼は言った。

「今日は冴えているな。」とオレは半分笑いながらも、彼に感謝をした。少なくとも憂鬱な気分からは脱することができた。そして、もしかしたら事件の糸口というやつは、わりと簡単にすぐそこに落ちているのかもしれないと思った。

「今日は喋りすぎですかね。」とバーテンが笑った。

「そうかもしれない。」と女のような愛想笑いをしながらも、オレは仮面を再び被りなおした。


 病院へとやってくる。桜の季節も近いというのに、まだ寒い。オレは患者の名前を確認する。

「寧々か。」苗字が書いていない。気づかないわけだ。

「こんにちは。」とベッドの上から彼女は言った。前回よりも管の数は少なくなっていて、包帯の下の顔色も悪くなかった。

「こんにちは、新井さん。」とオレはあえて苗字を口に出した。

「ん?」と彼女は一瞬じっとオレを見つめた。その姿に惚れてしまいそうだ。

「いえ、お父さんにお会いしまして。」とオレは言った。

「父。」と彼女は怪訝な表情をする。

「はい、どうやらすべての原因が私だと思ったようです。」とオレは言う。

「うん。」と彼女はため息をついた。

「なかなか血気盛んなお父様ですね。」とオレは少し嫌味を言った。

「手を出したの?」と彼女はもう一度オレを見た。

「そうです。」と言って、オレは彼女の横に腰を下ろす。

「困った父だわ。ごめんなさい。」と彼女は謝った。

「それはいいのですが。」とオレは言った。さすがに反撃したことは伏せておくこと。

「何か言ったのね。」と彼女は遠くを見て言う。

「はい。」とオレはシンプルに答える。

「なんて?」と彼女はベッドの上から聞いた。

「そうですね。××さんのことです。」とオレは言った。

「ああ、父は彼のことを好きじゃないの。」と言葉少なく彼女は言う。

「ええ、分かります。」とオレは答える。

「なんて言っていいか分からないけど。」と彼女はためらう。

「娘さんを取られたと思っているようですね。」とオレはさぐりを入れる。

「ええ。」と寧々はうなずいた。

「しかも二人とも。」とオレは言った。

「え?」と彼女は再びオレを見た。

「お父さまと話をしまして。」とオレは言った。

「あ、うん。」と彼女はもう一度うなずいて、窓の外を見た。そこから見えるのは、雲のない空だけだった。


 オレは中野に帰ってくる。手がかりという手がかりは寧々からは何も手に入らなかった。

「ナナのこと、聞いたのね。」とベッドの上で彼女は答えた。

「まぁ、そうです。」とオレは言う。Dのことは置いておく。

「妹。」と彼女は言って、それきり黙ってしまった。

「今も見つかっていないようですね。」と彼女に言うことは、オレにもさすがにためらわれた。

「妹は、彼のことを好きだったのかな。」と彼女は独り言のようにつぶやいた。

「どうでしょう。」それが問いかけなのか。どのみち答えなど分からない。

「ごめんなさい。あなたに聞いても仕方ないわね。」と寧々は言った。

「いえ、ただ××さんは。」と言いかけて、オレは言葉を選んだ。

「彼は、妹に執着していたわ。」と彼女の方が率直に述べる。

「執着。」とオレはその言葉を繰り返す。

「ええ、あれは執着だった。」と姉である寧々は言った。

「なるほど、それで事件が起きた。」とオレは断定してみせる。

「そうね。」と彼女は目をつむる。

「でもあなたはそんな彼のことを。」とオレは言いかけて、まずいと思った。

「どうかな。」と彼女はそれを遮った。

「妹さんの行方は分かっていないのですか。」とオレは別の問いかけをした。Dのことも聞きたかったが、それはやめにした。

「言えない。」と彼女はきっぱりと言った。

「そうですか。」とオレは寧々を見つめる。

「すべてがいけない方向に向かってる。」と彼女は顔面の包帯をゆっくりとさすった。

「ええ。」とオレは返事をしながら、何と答えていいのか迷った。

「妹と比べたらこれくらい。」と寧々は言った。どこまで彼女は知っているのだろう。

「妹さんは。」どういう状況だったのですか、そして今はどうなのです。とオレは聞きたかった。

「ナナは強いところがある子だった。シンガーを目指していて。」と姉の彼女は言った。

「はい。」とオレはうなずいた。

「でも、だからこそ、変な男たちが寄ってくる。」と寧々は言う。

「その一人が××さんというわけですか。」とオレが聞くと、彼女は顔を上げた。

「そうね。」と言う彼女の顔はまだ少し痛々しかった。オレは中野の駅を降りて商店街を歩きながら、その微妙な顔色を思い出していた。


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