愛(アガペー)VIII
「8770から聞いています,ああ,8770というのはパブのマスターのことです。彼は百年来の友人でして,よく話をするのです。情けない話ですよね。人々の悩みを聞き,それを解決に導くべき立場の私が,逆に愚痴を聞いてもらっているのですから......それで,彼からあなたの話を聞きました。夢を,見たと」
交読が終わり,助祭アンドロイド達は司祭アンドロイドに会釈をして席を立った。司教が一人残った助祭と何やら言葉を交わす。司教はパイプオルガンを指さし,荷物をまとめた助祭は頷いた。信徒など,初めから存在しなかった。彼らはただ己の職務として「羊」であったに過ぎない。彼らは夢など見ないのである。
エステスは首肯した。
「あなたは夢の中で天使に逢い,人間たちと言葉を交わし,そして尊き存在と対面したとのことですね。それを聞いて私は,私は羨ましいと思ってしまったのです。彼らを監督し,人々に教えを説く立場でありながら,神の存在を全く信じることができない。おかしいですよね。宗教を生業とする者が誰よりも世俗的というのは」
パッヘルベルのマニフィカトを歌う柔らかな声が二人を包む波のように響く。歌っているのは先ほどパイプオルガンのほうに向かった助祭だった。彼女の歌声はやや拙く感じられたが,陽光のような温かみがあった。
「神は人間を作り給うた。そして
「僕は」エステスはつけ慣れておらず少しずれてしまっているミントグリーンのネクタイを整えて口を開いた。「信仰や信じるということは極めて世俗的な行為だと思います」
「モーセ,ジーザス,あるいはムハンマドのような預言者たちは,人間たちを導くにあたって基本的なルールを造りました。特にイスラームのそれは,契約社会の発展した商業都市で発展した教えならではの契約を重視したものになっています。それらがもたらされたものにせよ,作られたものにせよ,そこには既存の人間社会の最良なあり方が示されていました。人間が善く生きることが要求されたのです。翻って,人間のいない今,彼らの遺したプロンプトに従って生き続ける私たちに要求されるのは,私たちが良い生活を送ることです。それは全く超俗的ではありません」
司教は微笑み,「こういった内容はデータバンクと同期していると遅延するものですが......あなたはデータバンクオートアクセスをオフにしているのですか」と尋ねた。エステスは肩をすくめて右手を軽く振り,「旧式脳だとポップアップ処理が遅くてうっとうしいから設定を任意にしているだけです」と答えた。
助祭はいつの間にか歌うのをやめ,オルガンの前に座って固まっている。どうやら楽譜をロードしているようだった。
「困難にチャレンジできるのは,羨ましいものです。私にはもう真似できませんよ」
「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます。929様」
アンニュイな表情を浮かべて入店するエステスに,コリアンダーのような笑顔を向けたのは,ケミスト・フランクフルト一号店の店長,アンジーだ。エステスはアンジーのきょうの笑顔を『ピクチャ > お気に入り>アンジー」に保存して,「やあアンジー,今日も綺麗だね」などとのたまった。
「ほんと,もう,困るわっ」ぼんやりとエステスを見つめながら煽情的な動きをしたアンジーは,「今日はこれで満足?」と冷淡に言い放った。
最近のアンジーはキレイというよりカワイイ感じがするぞ,と感じたエステスだが,それはどうも自分がアンジーに絡んでいるときは目が吊り上がるのであり,最近自分が来なかったことでアンジーの機嫌が良くなったのだと思われたエステスは,果たして自分はキレイなアンジーとカワイイアンジーのどっちが好みだろうか,などと考え,今は久方ぶりのカワイイアンジーを拝もうと結論した。そして,上の階の雑貨店が繁盛しているのはきっとアンジーのおかげだろう,と思った。
「それで,今日は何の用?まあ,どうせろくでもない用事でしょうけど」
「関節可動自己メンテキットを交換しに来たんだ。関節駆動はとても大切だからね」
アンジーは黒猫が自分の目の前を横切るのを目撃してしまったかのように「いやだいやだ」と言いながらバックヤードに消えた。エステスは無邪気な笑顔を保ったまま辺りを見回した。軟膏,洗濯洗剤,
「ふむ,今日のおすすめか,なんだろうね」後ろを振り向いたエステスの目を引いた今日のおすすめ商品はウコン,マカ配合の強壮剤だった。エステスは,おすすめ商品はいつも買うことにしているんだと自分に言い聞かせ,実店舗で買うには少々抵抗感のある商品を数年ぶりにかごに入れた。
「929,持ってきたからこっち来て」
「ああ,アンジーありがとう」
「仕事だから。それより929,職場燃やして謹慎中ってホント?幻滅した」
「そんなわけないでしょ。それよりアンジーの中で僕は幻滅するだけの好感度はあったんだね。うれしいよ」
「限りなくゼロに近い,好感度 \to ゼロね」
「それは要するにゼロじゃないか...」
「そうね。あ,そうだ,あなた2350と家近いんでしょ?だったらこれ届けてよ,トイレットペーパー。きっとそろそろストックが残り一袋になるはずだから」
そういうとアンジーはエステスにAEDに似た間接診断・修復キットと四袋のトイレットペーパーを押し付けた。
「そんなに僕をいじめるのが楽しい?女の子の家にトイレットペーパー四袋持って突撃する男の気持ちを考えたことが無いんだ。あんまりだよ」
「いじめられるの好きでしょ?」
エステスは何も言わず肩掛けカバンからFCバルセロナのロゴが入ったスポーティーなナップザックを取り出し,トイレットペーパー二袋を無理やり詰め込み,一袋ずつ手にもって自動ドアにつっかえながら外に出た。
天が雷鳴をもって彼を祝福する。自動ドア越しのエステスはやや丈の短い黒のスラックスを身につけ全体にフォーマルな印象の装いだ。稲光に浮かび上がる彼はさながらフラッシュを浴びるモデルである。賛美は彼に,そして彼とともにあろうとするものに向けられている。
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