愛 IX

 「おお,今日は雷が一段とひどい。もしドームがなかったらどうなるかと思うとひやひやする」かさばる荷物を抱えたエステスは不平を呟きながら家に向かって歩いていた。「しかし,よく考えると俺はサラの家を知らんぞ......」アンジーと会話しながら脳内でデータ整理をしていたエステスは,大容量の「favoriteお気に入り」ファイルを誤ってゴミ箱にカット&ペーストし,さらに転送をキャンセルしようとしてうっかり完全消去してしまったため,復元作業に追われることになって彼女の話をなおざりに聞いていた。そのがこの状況である。

 「トイレットペーパーと工具持って女の家探すっていうのもちょっとなあ,特にこの辺は懇意にしているご近所さんも多いし......いや,そうか,今度渡せばいいんだ。今日は持ち帰って,MSセンターにいけば,いやしかしまあまあ遠いからめんどくさい」エステスがうだうだと独り言をつぶやいていると,「どうしたの,それ」と話しかける声があった。


 「おおこれは,やあサラ,素晴らしい,エクセレント。これどうぞ,アンジーが,じゃなくて,2348から」

 「何言ってるの?」


 サラはいつも着ている濃紺のジャケットではなく,爽やかなライムグリーンでゆったりとしたシルエットのニット姿だった。やや暗いブロンドの髪にはきれいなウェーブがかかっている。右腕には紙袋が二つ提げられていて,グレーのスラックスとカジュアルなVANSのスニーカーを合わせると,今日はショッピングでもして楽しんでいたのだろうと分かる。

 「オフィススタイルもいいけど,私服姿も可愛い――いけね」うっかり軽口を叩いたエステスをサラは無言で睨みつけた。「こればかりはしょうがないんだ。海の男は軽口を叩くのが似合うというイメージ先行で僕の発言パターンは設定されているから,まったく人間のプログラマはこまったものだね」

 へらへらとするエステスを以前睨み続けるカレンは「ふーん」とだけ言うと彼の左手から修理キットをもぎ取った。


 「そっちじゃないよ。君に渡すのはこっちのトイレットペーパー」

 「落としそうだからでしょう!精密機械を小指で引っ掛けて持つなんて考えられない。それにこんなに大量のトイレットペーパー持って歩きたくない。恥ずかしい」

 「僕も恥ずかしい」

 「そう」

 「......はあ,わかったよ,家まで案内して。あとこっちのバッグも持って」

 「はいはい......ってこれ精力剤じゃない!なんてもの渡してくれんの!というかなんだってこんなもの買ったの?本当にサイテーっ。幻滅した」

 「ちが,それは肩掛けカバンだろう,バッグって,ああもう,買い物袋......」

 「早く歩いて。盛った猿と一緒に歩いてるところ見られたら私まで猿だと思われる」


 おすすめ商品は必ず買うことにしているというささやかな言い訳を口にする気力も失せたエステスはサラに引っ張られて住宅街を駆けた。




 「どぅあーっ」エステスは居住者同伴でしか乗ることのできないエレベーターに同乗することを拒否され,スチームをまき散らしながら31階まで非常階段で登り,ようやく彼女の居室の玄関にたどり着いた。

 「トイレットペーパーって長距離持って歩くとわりと重く感じるな。個人向け宅配サービスのあった頃が懐かしいよ」ぼやくエステスのもとにサラがやってきて,エステスに水をぶっかけた。途端に煙がうっすらと立ち上った。

 「なにするんだ......」

 「ライフセーバーアンドロイドはかわいそうだなぁって思って。体内冷却装置が標準装備されてないからこんなんになっちゃうんでしょ?」

 「旧型,を頭につけような。みんなこうじゃない」


 エステスは少し湿ったブロンドの髪を指の腹で整えるとナップザックを下ろし,玄関マットレスの上に置かれたトイレットペーパーの上にさらにもう二袋積み重ねた。


 「いい趣味してるな」ルービックキューブ様のペン立て,小さなカンガルーの親子の置物,ミニチュアトーテムポール,多肉植物のエケベリアなど,モダンな玄関とはやや相性の悪い雑然とした小物を集めたシューズボックス上エキスポをエステスは微笑ましく鑑賞しはじめたが,サラはこれを両手を伸ばして隠した。

 「見られたいから置いたんだろう?隠すなって」

 「海で水着を着ている人に向かって,『見られたいから出してるんだろう?隠すなって』て言う人をどう思う?」

 「......その例はアナロジーとして適切であるとは言えません」

 「そういうときだけデータバンクを使うのね」


 ふとエステスはルークとパブで話した女のことを思い出した。


 ――そういうときはインターネットを使うのね。ずるいな,アンドロイドは


 ルークに女について話したとき,エステスは嘘をついていた。彼は彼女とは一夜のあとはそれきりだと言ったが,実際のところ彼は彼女の故郷を訪ねていた。少し,というのは,彼女に会うことができなかったのは事実だからである。


 ――ねえねえ,アンドロイドのお兄さん,落とし物しちゃったんだけど...


 イングランドから来た栗毛の女。あの日929は彼女から名前を聞き出したが,その名前を自分で覚えずインターネットクラウドに保存した。インターネットクラウドサービスが新サービス「データバンク」に移行したとき,彼女に関する「記録」はすべて失われてしまった。エステスは今でもそれを深く後悔している。


 ――あなたはここでずっと働くの?......また,会えるといいな


 彼女は紙に住所を書いて手渡した。会う約束はしなくても,互いの居場所が分かっていればまた会えるかもしれない,そう考えた。


 ――ええ,たしかにここにイングランドからコリンズ一家が越してきました。しかしご覧のように......


 夏が彼女のアッシュブラウンの髪を,ラピスラズリの瞳を思い出させ,『真夏の夜の夢』に挟んだ住所のメモを開かせた。しかしそれはあの夏から20年も過ぎた日のことだった。役所でアクセス権を獲得し,彼女の家族の転居先を発見したときには,すべてが終わっていた。イギリスで結婚した女はドイツのフラウ・コリンズとなり,紛争に巻き込まれて灰になっていた。


「ここが...」929は声にならない声をあげた。「あの人とその家族が最後に暮らした場所...」

「そうですね。コリンズ一家はこちらで10年程生活していたそうです」案内人を買って出た親切な役場の職員が答えた。929の悲痛な面持ちに同情した彼はエステスの背中をさすった。

「中に入っても?」

「もちろん」案内人は間を置かず答えた。

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