愛(アガペー)VII

 初めに言葉ありき。次に自然が世界から切り離された。そして大いなる自然は神格化され,信仰の対象となった。太陽信仰,火の信仰,精霊信仰,その他枚挙に暇がない。一神教のはじまりは,それらと比較すると複雑な経過をたどった。


 ここ新フランクフルト大聖堂は代表的な一神教であるアブラハムの宗教のひとつ,キリスト教の宗教施設だ。



 「神は,その独り子をお与えになったほどに,世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで,永遠の命を得るためである。神が御子を世に使わされたのは,世を捌くためではなく,御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は――」



 聖堂内部に連なるレンガのアーチは荘重なパイプオルガンに向かって収束し,見る者の目を集める。エステスはため息をついてレンガを切り裂くように立つ白銀のパイプオルガンを眺めた。


 「おや,珍しい方がいらしていますね」

 そうエステスに声をかけたのはMSBSP223579T4,ここではテオと呼ぶことにする,司教アンドロイドだった。「あなたは市民プールで講師をしている929ですね。子供たちから話は聞いていますよ。やさしい先生だといつも嬉しそうに話しています」


 「あなたが司教ですね,初めまして。MSA109290Eです。」


 「ほう...」司教は豊かなグレーのひげの一房を絞るようになでると,エステスの黄色みがかったグリーンの瞳をのぞき込んで笑った。「ロット番号Aということは,地球出身ですか。これは驚いた。私より100歳以上も年上とは」

 「そうですね,僕の知る限り地球出身はこの街に一人だったはずです」エステスは目の前の100歳も年下の老人が豊かなひげをいじるしぐさを目で追いながら答えた。地面がかすかに揺れ,青白い光がパイプオルガンの奥にあるステンドグラスから差し込むと,老人の深い皺が強調された。

 「立ち話もなんですから,席におかけになってください。今日はヨハネの福音書の交読をしていますから,よろしければ参加してください。お聞きになるだけでも結構ですよ」司教はエステスを促すようにステンドグラスの方を指した。エステスはこれに従った。




 エステスの勤務先における爆発事故は,エステスに長期休暇をもたらした。はじめの三日ほどは手持ち無沙汰でルーク,サラ,アンジー,そして同じく暇を得た同僚アンドロイドと街に出たり,積んでいた紙の本を読んだりして時間を潰したが,飽きてしまった彼はパブのマスターの言葉を思い出して新フランクフルト大聖堂を訪れた。

 数百年この街で生活してきて,何万回もこのミステリアスな建造物の前を通り過ぎたエステスだが,ただの一度も中に入ることは無かった。というのも,彼は無宗教という設定だったのである。彼やルークのような旅行客を相手にするサービスアンドロイドは基本的に宗教的価値観の対立が生じないよう,信仰に関わる思考・発言に関して制限がかけられていた。それは無論行動にも影響を及ぼし,彼が自由時間を潰してまでカトリック教会を訪れることを妨げた。ルークを伴ってこの歴史ある―オリジナルの歴史を含めれば1500年の―教会の前を横切った時は,「どいつもこいつも辛気臭い顔しやがって...」と忌々し気に信者を睨みつけるルークにエステスが「あれは信心深い顔なんじゃないのか?」ととぼけたものだ。


 「かつては」司教はベンチの真ん中に座ったエステスの左隣に人一人分をあけて腰掛け,数人の信徒と聖書を交読する司祭の方に目をやりながら話し始めた。「この教会にも人間が訪れていたそうです。火星生まれの人間。数世代で絶えてしまった悲しい存在......私は残念ながら人間に教えを説いた経験は一度もありません。私の先代当区司教,彼女はあなたと同じ地球出身でしたので,その方は恐らくその経験があったでしょう」



 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」



 「先代,ということはその方のモデルは廃版とは亡くなったなったのですか?」エステスは前を見ながら問うた。これに司教は「ええ」と答えた。そして少し間をおいて続けた。「人間が去った後の『大整理』で聖職者は軍務者同様大きく再編されましたが,彼女もその時に」


 「大整理......」エステスはMS社が行った最大にして最後の人員整理ともいえる出来事を思い出した。2400年,人間のにより,世界からはいくつかの概念が事実上消失した。信仰,性愛,成長,戦争。いまや,これらの概念はあえて表現するならimago hominis人間の似像たるアンドロイドがimago似像としてあるために形式上現在も記録として残している遺物に過ぎない。数多く存在した人間の人生に寄り添うアンドロイド達はその役目を終えて回収され,一部がモニュメントとして残された。エステスもこの時期に多くの友人を失った――無論それは尽くすべき対象である人間を失った直後のことである。



 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」



 「だから,なのでしょうか」エステスが司教に目を向けたとき,彼は遥か高く決して手の届かない赤レンガのアーチに手を伸ばしていると錯覚した。実際には彼はエステスを見つめ返していた。「何がでしょう」


 「先代司教やあなたのように,『信じる』ことができないのです。語義も教義も腑に落ちない,いつまでたっても」


 ――信じる。


 エステスは司教から目を落とした。木製に見えて実際には合成素材でできているベンチは彼らの隔たりを表面温度によって表現している。

 エステスはすぐさま否定しようとした。彼とて,「信じる」などという大げさな言葉を解するところではなかった。ただエステスは不思議なものを見て,不思議なことを体験しただけだったのだ。しかし言葉が出なかった。

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