第3話『あまく危険な愛の薫りは時に血の盟約とも為り得る(なんて考えもしない人間がこの世界を為す)』


結局、俺は神城先生(と呼ぶと「頼むからやめてくれ」と懇願された)によって、病院送りにされた。


件の文庫本には、しっかりサインを戴いた。そして病院の待合室にも持ち込み、堂々と開いて読んでしまっていた。

苦笑しながらも彼、塔一さん(そう呼んでくれと以下略)は、作品についての踏み込んだ質問にも快く答えてくれた。


神城塔一。1947(昭和20)年、秋田県角館町の旧家に生まれる。 14歳にして、家出同然で上京。

当時文通していた大蔵省の官僚のもとに身を寄せ、ゲイバーや青線などで働きながら小説を書き続けた。


17歳(今の俺と同い年)で雑誌「瑞祥」の「鶏冠賞」に短編『いづれ廻復する傷』を投稿し、みごとその年の大賞を受賞。

規定枚数を越えていたにもかかわらず誌上にて全文掲載、という華々しいデビューを飾り、『そどみあ譚』と題して連載開始。

その中の一篇『縫會鷄環』を基にした映画『狗褸のとき』が、渡邊清輝監督で1968に公開されている(まだ観た事はない)。


読みやすく平易な語り口で、それでいて品性を失わず総じて頽廃美を湛え、段落や行間の隅々まで美意識の行き届いた流麗な文章。

聞くところによると、昔から文字を「意味のある言語」として理解するのに難渋していたそうで、文字列の美しさを求めたらこうなったそうな。

そして彼いわく「昔から虚弱体質で病院にはしょっちゅう出入りしていた」上に「この世に嫌気が差して割腹自殺を試みた事もある」らしい。


「13歳の頃だったよ。その日はまるで今日のように、霧雨が降っていてね。閉じた世界に生きる今の自分が、何より悲しかったんだ……。

 父や母はまるで僕を理解しようとせずに、ただ勉強して世のため人のためになれ、と云って叱るだけ。云うなれば、僕は囚人だったんだ。

 それから何度か自殺未遂を繰り返してね、とうとう精神病院に叩き込まれるところまで来て、ようやく家を飛び出し夜汽車に乗ったのさ」


ぽつりぽつり、と語られる彼の人生から滲み出る、壮絶な「見捨てられ感情」。

自分たちが扱いに困ると、すぐ学校や病院に放り込もうとする、無理解な大人達。

なんとなく、他人事とは思えなくて……うっかり涙ぐんでしまった。恥ずかしながら。


「あまり、こういう事は云いたくないんだが……その、君の気持ちは痛いほど判るんだなぁ……」

「でしょうね……死への希求というのを、あそこまで克明に書き出してしまえるくらい、ですもんね……」

「基本、神は憎しみ恨むものだと私は捉えているがね。まぁ、この文才を授けてくれた事だけは感謝してやるさ」


それはきっと、作家・神城塔一のファンは全員、感謝しているだろう。いるかいないか判らない「神」に。

その事をそのまま本人に伝えた処、まるでひきつけでも起こしたかのように、ひとり静かに笑い転げていた。


「ところで君、『狗褸のとき』は、観た事があるかい?……アレをどう思うね」

「いえ、まだ……っていうか、最近やっとソフト化されたばっかりじゃないですか」

「ああ、そうだったね。いや、なに……アレはもう僕の『縫會鷄環』じゃない。個人的に気に入りの映画ではあるが」

「激しく酷評されるか称讃されるか、のどちらかですよね。雑誌の映画評を見る限り……ほんと人間っていい加減だ」

「僕が世に出た時も、そんなものさ。ちょうど今の君ぐらいの時分だな。人間ほどいつの世もいい加減なものはないと、痛感した」


云って、眸を伏せ溜息を吐く、塔一さん。こんなにも美しく自嘲を湛えた表情、産まれてはじめて見た。


「それでも、やっぱり凄いですよ。塔一さんは」

「いや、そんな事……そうかい?……どうして、そう思うね」


うって変わって、面白いほど当惑の色を見せる、色素の薄い眸。

つとめて「何も知らない無垢な少年」の体で、こう問い返してみた。


「え? だって今の俺と同じ10代で、文章でここまで頭の堅い大人キレさせれる、ってなんか恰好いいじゃないですか」


云った瞬間、吹き出す塔一さん。吾ながら、確かに語彙の足りない返しだとは思う。もっとマシな事を云えばよかった。

だからってそんなに笑わなくたっていいじゃん……とかなんとか思っているとクックッ、と笑いながらこう返す、塔一さん。


「君も何か、書いてみるといい。そして一緒にあざ笑ってやろう、この気詰まりな世界というものを」



この楽しい語らいのひと時は、俺が手術室に「連行」されるまで続いた。神は死んだ、かもしれない。

局所麻酔だけされて、ざっくりと傷口を縫われまくった。何針だったかは、もう嫌だ、思い出したくもない。


「よかったねぇ、手術も日帰りで済んで」

「いや、むしろ入院したかったです。半年ほど」


思わず、本音が口を吐く。ふっ、と吹き出す塔一さん。


そして、握っていた俺の手を両手で包み、そっと擦ってくれる。

どういう訳だか俺達は、しっかりと「手を繋いで」、歩いていた。

どちらからともなく、気づけば所謂、「恋人つなぎ」。これには笑った。


「だいぶん血を搾り取ってるから、体調もよろしくないんだろう? 無理は禁物だよ」

「いっそ、そのまま死ねたらどんなにいいか……勿論、痛いのは御免ですけどね。ははっ」

「誰だってそうさ。それに入院と云うものは、体力と金銭を消耗する、最高の道楽だからねぇ」


さすが、幻想文学の大家にして「病める魂の救済者」・「耽美・頽廃の伝道師」、神城塔一。云う事が違うぜ。


「もしも入院したいなら、ご飯の美味しい処を知っている。紹介しようか」

「もしかして、過去に塔一さんがお世話になったところ、なのでは……?」

「ああ、そうだよ。貧血気味だといったら、レバにら炒めが出た。アレはえらく美味かった」


なるほど、レバーなら俺も大好きだ。 勿論、モツやハツだって。

好きな食べ物の中に、「臓物」系が入ってる辺りも、親近感が湧く。


「食餌療法も取り入れてる処……ってわりかし旧い病院なんですね。そういうの、好きです。俺」

「……こうして青少年に悪影響を及ぼしてしまうのが、神城塔一という作家の業、なのだな……」

「だから、あなたの作品を読んだからじゃないですって……そろそろ『先生』呼び、しちゃいますよ?」


話してみて判った事だが割と彼、感情の起伏が激しく、よく判らないトコロに喰らいつく。

それゆえ時にクックッと笑い転げ、時に憮然として黙り込み、静かながらなんとも忙しない。

このおじさん、めちゃくちゃ可愛い。彼の挙動を見るにつけ、そう感じてしまう。どうしてだろう、大人なんか嫌いだったのに。


しかし俺に対しては、仰け反るほどの優しさを見せてくれる。いや、本当に。いいのか。

旧世代の人類に見られる、病める青少年によせる同情、とも何処か違うように思える。


貧血も手伝ってる、かもしれない。ぐるぐる、と思考が撹拌されてしまう。


この人、「大人の男」だ。善きにつけ、悪しきにつけ。

絶対に、俺が勝てなさそうな「賭け」に、出てみたくなった。


「なんかもう、帰りたくないな。 家にも、学校にも」

「なら、家にくればいいじゃないか」


思わず、莫迦みたいに悲鳴を上げて、飛びのいた。

そんな、悪いですよ……とも云ったような気がする。


「僕にも、必要なんだよ。死なないように、見張っててくれる人がね」


云って、袖をたくし上げ見せられたのは、左腕の無数の切り傷。やがて涙で滲む赫い線。

これ以上、野暮なことは云えまい。傷跡を隠すように彼の腕を取り、必死で頷くにとどまった。


この時もそうだが、壮絶な葛藤が裡にあったという事に彼、塔一さんは気づいていなかったそうだ。


その後、彼の行きつけの洋食屋「薔薇薗」に往き、ビフテキやバジリコ・スパゲティなぞをご馳走になった。

それから邸に戻り、その夜は泊っていった。就寝前にふたり並んで洗面台の前に立ち、念入りに歯磨きもした。

同じバスタブに身を浸し、異教の儀式さながら薄暗い浴室で抱き會う。消えかかった燭台の、蠟燭のあかりの許で。


朝まで続く深いくちづけと、それに付随する、さまざまな「遊戯」。

それらのためにあの、薔薇の薫りの石鹸さえ、確かに在ったのだ。


「赦しておくれ、ね……僕は君を、都合よく扱ってしまう……ああ」

「何も云わず、俺を貪っていてください。その為に存在してるんで」


そう、あの「夜」は確かに在った。「どうしようもない自分」を、再確認するために。


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