五章 罪業を司る女神

五章 罪業を司る女神(1)

 ディノンたちはその日のうちにエルフの里を発ち南へ向かった。目的の場所は大山脈のはるか南にあるという。


 旅装を整えてくれたレンデインは、璇麒せんきという生き物を乗騎に貸してくれた。淡い色の毛並みを持つ鹿に似た魔獣だ。馬と同じくらいの体躯に複雑な斑紋がある立派な枝角を持つ。雄雌で名前が異なり、雌は璇麟せんりんというらしい。


 璇麒も璇麟も大人しく利口で、乗騎として非常に扱いやすい。また跳躍力に優れ、人や荷を乗せた状態でも急峻な崖を難なく上り、駆け下りることができた。平地では馬のほうが速いが、足場の悪い山岳地では璇麒、璇麟のほうが圧倒的に速いという。


 一行は璇麒に騎乗して、蛇行する谷間にそって南にのびる渓流の岸にできた、わずかな平地を進んだ。先頭を道案内のシェリアが進み、しんがりをディノンが続く。


 陽が中天を過ぎたころ、風に乗ってかすかに卵が腐ったような奇妙な匂いが漂ってきた。


「硫黄か」


 軽く眉をひそめたメイアにシェリアは頷いて、右手に見える稜線を示した。


「あの山のむこう側に噴き出しているところがあるの。でも安心して。危険なのは山のむこう側だけで、こっち側は匂いが少し流れてくるだけだから。中毒を起こすことは、けっしてないわ。それと、ここからさらに進んだところの岩場に、あの山の地下で温められた湯が湧き出ているところがあるの。近くには夜露をしのげる洞穴もあるから、今夜はそこで休むつもりよ」


 彼女の言葉通り、しばらくすると樹々がまばらになり、ごつごつとした岩がところどころに現れ、あちこちで湯気のような煙が上がっていた。


 山脈を右手(西)にのぞむこの地では黄昏が早い。陽が山脈の稜線に消えたころに、シェリアは璇麒の足を止めた。


 そこは切り立った崖の麓で、蔦に覆われた灰色の表面にぽっかりと洞窟が口を開けていた。正面は狭い草地で周囲を灌木が囲っている。近くに温い湧き水があり、沢のほうへと流れていた。洞窟は深くなく、よく乾いていた。出入口の灌木に璇麒を繋いだ一行は、薪を積んで火を熾し野営の準備をはじめた。


「ディノンは?」


 寝床を整え終えたところでメイアはディノンの姿がないことに気づく。夕食の準備をはじめていたタルラが無機質に答えた。


「夕食を調達すると出かけていかれました」

「いまから?」

「ここに到着した直後でございます。うまいものを獲ってくると」


 一行は呆れたようにため息をついた。


「夕飯は少し遅くなりそうだな」

「じゃあ、せっかくだし順番に温泉にでも入りましょう。あの岩場のむこうに、ちょうどいい湯が湧いてるから」


 シェリアは洞窟から少し離れた岩場を示した。


「ではタルラとウリが最初に入ってくるといい」


 はい、と頷いたタルラに対して、ウリは狼狽した。


「ボ、ボクは、遠慮します」


 駄目よ、とシェリアは笑い含みにウリの小さな鼠耳を撫でる。


「女の子なんだから、ちゃんときれいにしないと」


 ウリは顔をしかめた。


「ボク、男です」

「あら、そうだったわね。あなた、女の子みたいに可愛いから、つい忘れてしまったわ。ごめんなさい」


 クスクスと笑うシェリア。明らかに分かって言っている彼女に、ウリは少しむくれた。


「だから、ボク、ディノンさんが戻ってきたら、一緒に入ります」


 駄目だ、と全員が声をそろえて言った。


「なんでですか」

「なんでもだ。タルラ、構わん。連れていけ」

「畏まりました」


 立ち上がったタルラはウリを抱き上げた。ウリは必死に逃れようとするが、タルラの拘束力は強く、彼女の腕から逃れることができなかった。


「ま、待ってください! ほんとに、ボク、遠慮します……!」


 涙目になりながら悲鳴を上げて運ばれていく少年を、メイアたちは笑顔で見送った。


 しばらくして、ぐったりしたウリを抱えてタルラが戻り、メイアとリーヌが温泉に向かった。二人が戻ってきて、最後にシェリアが温泉に向かったところで、ディノンが血まみれの姿で帰って来た。


「ディノン様⁉ どうされたのですか!」


 悲鳴を上げて駆け寄ろうとしたリーヌを、ディノンは手を振って止めた。


「大丈夫だ。俺の血じゃない」


 ディノンは手に下げた小ぶりな獣を掲げた。


「気の荒い魔獣と、こいつの奪い合いをしてたんだ」

「それは?」

雁卯がんうっていう兎だ。貴族でも滅多に食べられない高級食材だぞ。しかも、いまの時期は脂がのっててうまい」


 リーヌが安堵と呆れを含んだため息をついた。


「そこまでなさらなくてもいいでしょうに」

「せっかく見つけた貴重な獲物を横取りされそうだったんだ。みんなにも食わせたかったし」


 リーヌはもう一度ため息をつき、やれやれ、とメイアが笑った。


「では、タルラ。その貴重な獲物をうまく調理してやってくれ」


 タルラは頷くと、ディノンから雁卯を受け取り、解体用の小刀を持って沢のほうへ向かった。


「ボクも手伝いします」


 と、ウリもタルラを追いかけた。


「君はその汚れを落としてこい」


 メイアはディノンの荷物からタオルと新しい服を取り出して、ディノンに投げ渡した。


「温泉はあの岩場のほうだ。汚れた服は脱いだまま置いておけ。あとでタルラに洗わせる」


「あいよ。そんじゃあ、ちょいとさっぱりしてくるぜ」


 ディノンは陽気に言って岩場のほうへ向かった。ふと、リーヌは首をかしげた。


「いまってシェリア様が入浴されてますよね?」


 ああ、と頷いたメイアを、リーヌは驚いて振り返った。


「え、分かっていて行かせたのですか?」

「なにか問題でもあったか?」


 なにも含むところのない心底不思議そうにしているメイアを、リーヌは唖然と見つめ返した。

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