五章 罪業を司る女神(2)
ごつごつとした岩に囲われた窪地に白い煙を上げる湯を見つけて、ディノンは思わず声を上げた。左側の岩の亀裂から湯が湧き出ていて、その反対側には川が流れ、そこに湯が排水されているようだった。ディノンは排水されているあたりに近寄り、湯の中に手を入れた。
「いい湯加減だ」
ディノンはさっそく血で汚れた服を脱ぎ捨て、湯が排水されているそばから入れた。思ったより身体が冷えていたのか、温かい湯に身体をつけると、その温もりが全身に伝わりうなじのあたりが軽く痺れた。思い切って頭まで湯につかり、髪に手櫛を入れて、かきむしるようにしながら血を洗い流した。血で汚れた湯は、そのまま川に排水されていく。顔を出して大きく息を吸い、岩に背をあずけてため息をついた。
「こいつは最高だな」
「――私は最悪だけどね」
「うおっ!」
突然煙の奥から声が聞こえて、ディノンは軽く飛び上がった。危うく下半身まで湯から出かけた。
「シェリアか?」
白く濃厚な湯気の先、岩の影に隠れてシェリアが湯に浸かっていた。
「いたんなら声かけろよ。びっくりしたぜ」
「いきなりあなたが来たから、驚いて声が出なかったのよ」
「そいつは悪かったな。――あれ? でも、メイアの奴、あんたがいるなんて言ってなかったぞ」
「嘘でしょ?」
ははぁん、とディノンは苦笑した。
「あいつ、長年引きこもってたせいで、男女の垣根とか忘れてんのかもしれねぇ。もともと変わってる奴だったし。――邪魔して悪かったな。血は洗いながせたから俺は上がらせてもらうぜ」
「ちょ、待ちなさい……」
湯から出ようとするディノンを、シェリアは慌てて止めた。口ごもるように彼女は言う。
「その、ちゃんと、身体を温めないと」
「いや、でも、悪いし」
「私は気にしないから。あなたが気にならなかったら、もうちょっとゆっくりしていきなさい」
「そうか? あんたがそう言うんだったら……」
ディノンは湯に浸かりなおし、背をあずけた岩に両腕を乗せて、ゆったりとくつろいだ。そんな中、ディノンはずっと視線を感じていた。シェリアがじっとこちらを見つめているようだ。しかし、ディノンは気づかないふりをして、湯を楽しんだ。
(な、なんで、引き止めちゃったのよ……)
シェリアは己の欲深さを自責した。先ほどから心臓が早鐘のように鳴り響いている。その鼓動で湯が振動していないか心配になるほどだ。
ディノンは〈終生回帰症〉という神代の病によって一日で赤子から老人になるという。今朝、里を発ったときは十を少し過ぎたくらいだった少年は、いま初老を少し過ぎたくらいの姿になっていた。
ぼさぼさの白髪に無精ひげを生やした無骨な男。巨躯というわけではないが、上背で引き締まった身体つきをし、目つきは険しいが、湯に浸かって和む姿はどこか柔和な印象を受ける。
――それは、シェリアが好む男性の姿だった。
シェリアはエルフの男のような美男子には興味がなかった。そういうのとは逆に、多少無骨ながらも心身共に成熟した見た目の男性が好きだった。渋く、少しだけ険しい雰囲気があるとなおいい。まさに、いまのディノンがそれだった。
「……あー、その……なんだ?」
突然、ディノンから声をかけられ、シェリアは軽く飛び上がった。
「え、な、なにが?」
「いや、ずっとこっち見てるから……」
シェリアはぎょっとして、慌てて視線をディノンから外した。無意識にディノンを見ていたようだ。「まぁ、あんたみたいな美人に見られんのも悪い気はしねぇが、そんなに見られると、さすがに照れるぜ」
「び、美人⁉」
冗談で言ったつもりなのだろうが、シェリアはさらにどぎまぎしてしまった。うわずった声を上げ、再びディノンを見てしまう。ディノンはいよいよ困惑してしまい、乾いた笑い声を上げた。
「そ、そんなことより、聞いてもいいかしら」
照れ隠しに咳払いして、シェリアは視線をそらしながらたずねた。
「里を襲って霊剣を奪った連中――レヴァロスって言ったかしら。あれって、いったいどういった集団なの? あなたたちの国で信仰されているアースィル神団の教えに反発する暴徒って聞いたけど、かなり組織的だったわよ」
ディノンは難しい表情をした。
「ああ。あれにはさすがの俺も驚いた。だが、表向きは暴徒に見えるよう活動して、裏でいろいろ暗躍している可能性がある、っていう噂はかなり前からあったんだ。おそらく、あれが本来の奴らの姿なんだろう。しかも、連中の中にはビストリアのもと将軍や魔族までいた」
犬人氏族師将軍リバル、と彼は名乗った。ウリの話では、リバル将軍は各氏族師の中でも特に有名らしく、一度ビストリア連合軍が組まれたとき大将軍に抜擢されたほど有能な用兵家だったという。しかし、一年ほど前、犬人氏族領に侵入した魔獣の群れを掃討する際、多くの部下とともに行方不明になったという。それからしばらくして、彼は殉職したと発表されたが、死体は発見されなかったらしい。
「そのリバル将軍って狼人が実は生きていて、レヴァロスの一員になっていた」
ディノンは頷いた。
「加えて魔族の娘。なんで連中が一緒に行動しているのか、霊剣を使ってなにを企んでいるのか、まったくわけが分からん」
シェリアは少し考え、ふと疑問に思った。
「たしかレヴァロスは、アースィル神団が提唱する『勇者を犠牲に魔王を倒す』っていう予言に反発して暴れまわってるのよね。神団の言う勇者ってどんな存在なの?」
シェリアの質問に、ディノンは感心したように笑った。
「いいところに目をつけたな」
「そ、そう?」
ああ、とディノンは深く頷いた。
「勇者と言っても時代によってさまざまだ。実在した勇者の中で最も古いのは聖剣を手にした人間族の若者で、これがのちに王国を築いた。フィオルーナの初代国王エドリエル・フィオルーナだ。その後も勇者と呼ばれる者がたくさん現れた。あるときは民衆から祀り上げられた者が勇者と呼ばれ、あるときは功績から勇者の称号を与えられ、さらには国が勇者を選定してそう呼ばせた」
「勇者って、そんなにいるの?」
「神話や伝説から史実まで、数多くの勇者が存在するな。だが今回、神団が提唱した勇者がどういった存在なのかは、はっきりしていない。ところがあるとき、民衆の間で『魔王を倒した者が勇者となる』という噂が広まった。ちょうどそのあたりからだ、レヴァロスが活動をはじめたのは」
「まさか、レヴァロスがその噂を広めた?」
「国や神団はそう考えてる」
「でも、それっておかしくない? レヴァロスは『勇者を犠牲に魔王を倒す』っていう神団の予言を否定してるんでしょ? でも神団はまだ勇者の存在を特定していない。なのにレヴァロスは勇者の定義を勝手に定めて、神団を否定してる」
「完全な自作自演だな。だが連中はそれを信じ、行動している。エルフの里を襲い、霊剣まで奪っていっちまった」
シェリアは悪寒のようなものを感じた。思想は人を動かす。しかし、間違った思想にも人を動かす力がある。今回のレヴァロスの一件のように。
「ただ、レヴァロスの考えも一部の者には理解があるらしい。たとえ勇者が犠牲にならなくても、別の者が戦争の犠牲になってる。犠牲無くして終わらない戦争なら、さっさと止めてしまえ、というのが連中の言い分で、戦争を望まない民の間じゃ密かに支持されてる。だから、レヴァロスは想像以上に巨大な組織だという話もある。実際、今回エルフの里を襲った連中は、かなり統率が取れてたうえに数も多かった。連中から霊剣を取り返すのは難しいかもしれん。場合によっちゃあ、国に支援を求めることになるが……」
うかがうようにシェリアを見ると、彼女は小さく頷いた。
「父もそのことくらい分かってると思うわ。この旅が終わったら、話し合ってみましょう」
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