第2話 多重夢

 やかましい目覚ましの音で目覚めた。枕元に置かれていた目覚ましを叩きつけるように黙らせ、息を吐く。やれやれ、また一日が始まってしまった。


 一流商社に内定が決まり、喜び勇んで仕事を覚えては毎日わざわざ始業三十分前に出社する生活も、二ヶ月続けばダレてくる。初めは耐えられた上司からの小言や同僚とのコミュニケーションも徐々に鬱陶しく感じられてくるし、何より毎日早起きし、そのために定時には寝なければいけない。

 仕事そのものは大した労力を伴うものではなかったが、半年、一年過ぎるごとに責任だけが増し、細かなミスが重大な損失を生むようになっていく。


 自分は社会で生きるに向いていない。そんなことを度々思うようになっていた。

 そりゃわかってる、みんな似たような立場で我慢しながら、食い扶持のために必死で仕事にしがみついているのである。よほどのブラック企業に当たったわけでもない限り、そこで踏ん張れない人間が転職などしたところで、新天地でも似たような重圧に苦しんでまたすぐに辞めることになるだけだ。わかりきっている。

 実際のところ、今の職場は人間関係も円滑であるし、上司も理不尽に怒ってくるタイプなどではなく、ただただ自分の社会適性が低いーー気がする、というだけのことなのだった。


 しかし、こんな生活をみんな根性だけで続けていると言うのか。なんて不自由なんだ、この世は。


 だるい頭をとりあえずリフレッシュさせるために、顔を洗い無精髭を剃り落とし、野菜スムージーを作って飲み干すいつものルーティンに移る。その時になって、時計がまた鳴り出した。


『遅刻だよ! 遅刻だよ!』


 …? 推しの声で目が覚めれば少しは爽やかか、と思って音声を自由設定できるタイプの目覚ましを買ったが、こんなセリフを入力していただろうか。

 汗をかくタンブラーをとりあえずテーブルに置いて目覚まし時計を確認すると、十時。十時!? まさに遅刻だよ、くそっ。


 寝巻きを我ながらすごい勢いで剥ぎつつ、携帯に手を伸ばして会社の連絡アプリにチャットを送る。


ーーすみません、朝から体調が悪く、病院に寄ってから出社するので一時間ほど遅れます。


 スーツに着替えると、髪をセットする時間も惜しんでそのまんまアパートを飛び出し、列車に飛び乗った。

 やかましい目覚ましの音がする。


 …?


 目を開けると、自宅のベッドの上だった。夢か、助かった。しかし何か妙な違和感を感じる。


『遅刻だよ! 遅刻だよ!』


 目覚ましがうるさい。文字盤を見ると、十時である。正夢じゃないか。慌ててスーツに着替え、スムージーを飲む日課すら惜しんで家を飛び出す。通勤客でぎゅうぎゅうの列車に飛び乗ると、また目覚ましの音がした。


 目を開けると、布団に横たわった自分の枕元で目覚まし時計がうなりを上げている。


『遅刻だよ! 遅刻だってば!』


 なんだ、どう言うことだこれは。確かに今し方、ちゃんと着替えて列車に乗ったはず。同じ時間を繰り返している…? それもこんなに近間隔で?


「おはよう、おじさん」


 枕元で誰かが囁き、俺は大きく飛び退いてベッドから落ちた。


「だ、だ…」

「ああ、気にしないで。ただの夢なんだよね、これ」

『遅刻だよ! 遅刻だよ!』

「黙って。また今日は大層不自由な姿をしているね」


 いつの間にか俺の部屋に侵入していたらしい子供ーー性別がはっきりする前の歳の子といった見た目だが、女の子だろうかーーが、枕元から目覚まし時計を取り上げてぐるぐる弄び始める。


『おもちゃじゃないよ! おもちゃじゃないよ!』

「目覚まし時計なんておもちゃみたいなもんでしょ」

「だ…、だっ」

「落ち着いて、おじさん」

「俺はおじさんって歳じゃない!」

「まず気にするとこ、そこかぁ」


 面倒くさそうな顔をしたその子供の態度に、舐められているな、と直感する。

 しかしそんなあれこれには無関心なように、子供は時計を抱えたままスタスタとキッチンとは名ばかりの流しの方に向かう。


「ここら辺にあると思うんだけどなあ」

『冷凍庫! 冷凍庫!』

「おっなるほど」

「いや待て、君はなん…誰なんだ!?」


 いい加減説明してくれてもいいだろうと思ったが、子供は相変わらず無感動を顔に貼り付けたまま小型の冷蔵庫の上段を開けて冷凍庫を物色する。程なくそこからアイスピックを取り出した。


「はっけーん、さて、黒のキングはどこかなっと」

「おいおいおい、勝手に色々触るな」

『遅刻だよ! 遅刻だよ!』

「おっと、やば」


 そこで景色が途絶えた。気がつくとベッドの上で目覚ましの音を聞いている。頭がガンガンと痛み始め、この状況の異常さを、自分はようやく認識し始めていた。


「地味に面倒くさいな、この夢…」


 枕元で声がするので反射的にそちらを見ると、先ほどの時間軸の子供がまた頬杖をついてこちらを凝視している。


「仕方ない、一通り説明するね」

『腹括れ! 腹括れ!』

「黙って」

「これは…夢…?」


 ぶっちゃけ現実逃避の思考だったが、俺の漏らした一言に子供はぶんぶんと頷く。


「そうそう。察しが良くて助かるよ」

「いや…ど…」

「だんだんわかってきてると思うけど、これ、多重夢なんだよね。夢から覚めたと思ったらまだ夢の中にいる、っていうアレ」

「は、はあ」

「おっ、クールになってきた?」

『ビークール! ビークール!』

「黙って。いつも以上にムカつくなその配役」


 なるほど、夢…夢、か。そう言われれば昨日寝る前に玄関も窓もしっかり施錠した記憶があるし、そこにこの子供が平気で入り込んでいることも、目覚まし時計がやたらおしゃべりなことも、これが夢というならすんなり説明がつく。…やや投げやりすぎる気もするが。


「ああー…なあ、どうやったら目が覚めるんだ? 今日も仕事で外せない商談があるんだよ。このまんまじゃほんとに遅刻しちまう」

「えっとね、おじさんは白のキングで、悪夢の元凶として黒のキングがどこかにいるはずで」

「…要点を頼む」

「つまりね、この悪夢を見せてる宿主を殺すか壊せば、おじさんは目覚めるよ」

「お兄さんな。なるほど…」


 訳のわからない状況が続くと、人間却って頭が冷えるものだ。夢の中でのルールなんて元来出鱈目なものだし、その夢の中に出てきた存在が言うなら、一度試してみて損はない。


『急いで! 急いで!』

「やべ…おじさん、これこれ!」


 いつの間にかまた冷凍庫から取り出してきたらしいアイスピックを差し出してくる。受け取って、部屋を見まわした。

 悪夢の元凶。元凶ね。


『限界! 限界!』

「わかった…そこだ」


 子供が指差す先、洗面所の鏡にアイスピックを突き立てる。悲鳴のような声がして鏡に亀裂が入り、そこに写った俺が血を流すーー。


「チェックメイト」




 ハッとして目覚めた。傍には俺が弾き飛ばしたらしい目覚まし時計が、文字盤がバッキバキになった状態で転がっている。


「あっ、会社…」


 携帯で時間を確認し直すと、八時半。遅刻ではないがのんびりともしていられない時刻だ。勢いよく起き上がって、洗面所でバシャバシャと顔を洗う。鏡を見つめてみたが、いつも通りの俺と、いつも通りの朝だった。


「変な夢だったな…」


 呟いて、スムージーを作るためにキッチンに向かう。

 目覚まし時計、買い直さなきゃ。今度は喋らないやつにしよう…。

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