第3話 昏睡
トワちゃんは、眠ってしまった。両親の離婚と彼女を引き取った叔母からのネグレクト、学校でのいじめ。そういう諸々から目を塞いで、夢の中に閉じこもってしまった。
彼女が学校の屋上から飛び降りたその日、矢のような速さで学校中に広まる彼女の良くない噂を耳にして、私は、自分の力の足りなさとあまりにも覚悟がない弱さを悔いた。
いくらでもやりようはあったはずだった。彼女を引き取り先の家から引き剥がして児童を保護してくれる施設に預ける、学校でもっと積極的に味方になる。誰か頼りになる先生にことの次第を報告して相談に乗ってもらうことだって、できた。
だけど私はそれをやらなかった。誰かがいずれトワちゃんに手を差し伸べることを期待して、自分だけ助かりたくて、今得ている穏やかな世界を捨てられなくて。
毎日誰も来ない病室を見舞い、彼女が目覚めるのを待つ時間、彼女がどんな気持ちで教室で目を合わせない私を見ていたのか、ぐるぐるぐるぐる考え続けた。穏やかに眠っている彼女の左腕には、カッターでつけたのであろう無数の傷跡がついていた。
「あら、また来てたの」
背後からの声に振り向くと、日々トワちゃんの身の回りの世話をしているらしい看護師さんがタオルと湯の張られた洗面器を手に、立っている。
「…こんにちは」
「はい、こんにちは。毎日よく来るわねえ、他の人は、トワちゃんの保護者ですら一度も見舞いに来ないのに」
看護師さんはパタパタとスリッパを鳴らしながら近づいてくると、私に構わずトワちゃんの布団を剥いで、入院着の裾を開いた。トワちゃんのお腹から胸までが丸見えになり、そこに転々とついた青あざの跡を見とめたところで、私は目を背けた。
「トワちゃん、今日も体、拭くわね。痒くなっちゃうもんねえ」
語りかけながら湯で絞ったタオルで彼女の体を拭いていく。私はなんとなく手持ち無沙汰になったが、心得がない者が手伝っても却って邪魔になるかと思い、いつものように身じろぎしながら看護師さんの仕事が終わるのを待った。
やがてあらかた体を拭き終えると、看護師さんはちょっと息を吐いてからタオルをぴしゃん、と洗面器の中に放り込み、私に向き直る。
「ねえ、あなたは、後悔してる? トワちゃんを救えなかったこと」
「え…なんで…」
「うん? ちょっとした興味。今も助けたいって気持ちがあるのかの確認?」
「そりゃあ、後悔してます。だって、私だけがトワちゃんの辛さに気付いてた。私がやらなきゃいけなかった。私が…」
「じゃあさ」
至近距離で顔を近づけて話していた看護師さんの目が、不思議な色にキラキラとゆらめく。
「彼女の本心、聞いてみる?」
「そんなこと、できるんですか」
「知り合いのツテでね、ちょっと特殊なことができる人がいるの。今夜寝る時、これを枕の裏に敷いて寝て。あなたに力を貸してくれる」
ぐるぐると子供が落書きしたような模様が描かれたカードを差し出してくる手からそれを受け取ると、看護師さんは曖昧な顔で笑って洗面器を持ち上げ、手を振る。
「それをどうするかはあなたの自由だけど、よく考えて使ってね。どんな物事でもそうだけど、必ずいい結果が約束されてる事柄なんて、そうないから」
言い置いてまたパタパタと足音を立てて去っていく。私は手に残ったカードと目を開けないトワちゃんの顔を、変わるがわる見つめた。
そんなの、わかってる。けど、やるしかない。こんなものを渡されたら、やるしかないじゃないか。
目を開くと、花畑のど真ん中にいた。見覚えのないパステルカラーの花々が咲き乱れている。束の間意味がわからず目を瞬くも、徐々にあのカードを看護師さんのいうように枕の下に敷いて寝た、という直前の記憶が蘇ってきた。つまり、これは夢の中か。
確かに空の色がマーブル模様になっていてなんだか妙だし、足元の花々にも現実味がない。
「君がミチコさんの言ってた子か」
声に振り返ると、真っ黒い日傘を刺した女の子が、これまた真っ黒なドレスをきてすぐ後ろに立っている。…確かゴシックロリータというやつだ。大昔、トワちゃんがいつか着てみたいと言っていた。
一方私は寝ていた時に着ていたパジャマを身に纏っており、なんだか場違いで恥ずかしくなってしまう。
「あなたが、看護師さんの言ってた人?」
「うん? ミチコさんがどう言ってたか知らないけど、多分そう。じゃあまあ、早速案内するね」
「ファンシーでファンキー!」
「黙って。自分でも恥ずかしいんだよ、これは」
ぶつぶつ独り言を言いながら傘とドレスのフリルを揺らして、スタスタと花畑の中を歩いていく。仕方なくそれに倣うと、やがて前方に小さな女の子が佇んで、どうやら花を摘んで冠か何かを作っているのに出会した。
「…トワちゃん」
「セッちゃん?」
「トワちゃんっ」
シンプルな白いワンピースを着ている彼女に抱きつく。トワちゃんは、私の大事な大事なトワちゃんは、きょとんとした顔をして、次にくすくすと笑い出した。
「どうしたの、セッちゃん。髪がくすぐったいよ」
「トワちゃん…トワちゃん、私、ごめんね、ごめんねえ!」
「何が? よくわからない」
「ねえ、トワちゃん。私、トワちゃんを守るから。これからずっと側にいて、助けるから。だから…」
「えっ、嫌だよ」
言葉を遮られて、そのあまりの語気の強さに息を呑む。
「現実に戻れっていうんでしょ? 嫌だよ。嫌に決まってるじゃん。せっかく素敵な場所を手に入れたんだ、誰もいない、傷つけてくる人も嫌な叔母さんもワケのわからないクラスメイトも、だーれもいない。私だけの花畑」
「で、でも、トワちゃん…私は…」
「セッちゃんの都合なんか、知らない。今更、なんだよ。あの時も、あの時もあの時も、助けてくれなかったじゃん。ただただ見てたよね、セッちゃんは。どんなに私が視線で助けを求めても、泣き叫んでも」
「…」
「そんなことよりさ、花でサークレットを作ったんだ。セッちゃんに似合うと思う」
また優しげなあの頃のトワちゃんに戻った彼女が、やけに手の込んだ花の冠を差し出してくる。俯く私の頭の上に、それをぽん、と乗せる。
「わあー、かわいい。セッちゃんも作ろうよ。ここにはたくさん、たくさん花があるから」
「うぅ…」
ボロボロと涙をこぼす私に構わず、トワちゃんは花で何かを編み続ける。
音もなく傍に佇んでいたあのゴスロリの少女が、微かなため息と共に口を開いた。
「まあ、こういうこともあるよ。何がその人にとっての幸せか、なんて、誰にも計れない」
「君も毎朝遅刻ギリギリで布団の中にいる時間が至福だっていつも言ってるもんね」
「黙って。まあでも、無理やり解決することはできるよ? どうする?」
「え…」
「この子を強制的に目覚めさせる手段がある、って言ってる」
「そんな…でも…」
「そうだね。そんなことをすればこの子はきっと不幸になる。この子にとってはここだけが、この花畑の夢の中だけが、唯一の居場所だ」
「…」
「君が居場所を作ってあげられるなら、目覚めた後、ミチコさんにもらったカードを今度は現実のこの子の枕の下に入れるといい。自信がないなら、カードを破りな」
そう言ってクル、と女の子が身を翻した途端、目が覚めた。
窓からカーテン越しの暖かな日差しが降り注いでくる。体の上にマーブル模様を刻むそれが、自分だけが享受しているその温かさが、許せなかった。枕の下を弄る。一部が黒く変色したあのカードが出てきた。それを、黙って破り捨てた。
私にはトワちゃんの幸せを決められない。あの夢の中で、トワちゃんは、見たこともないくらい穏やかな表情をしていた。だったら、それが全てだ。
布団の上に散らばったカードの破片を拾い集めてゴミ箱に放ると、今日も学校に行くための支度を始める。またね、トワちゃん。また病室に会いに行くね。
あなたが永遠に目覚めなくても。
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