のしかかるような重低音がその場の空気を支配していた。暗い防空壕の中、唯一の光源である小さなランプの明かりがチロチロと揺れ、その場にひしめく数名の男女の陰を背後の土壁に刻んでいる。

　重低音の正体はしばらく前から続く空襲である。19XX年、アジアの植民地化に乗り出した日本は列強諸国とどっぷり組み合っての戦争状態に突入し、戦況は移り移ろいで今や日本の劣勢となっていた。

　毎日の食べるものや着るものすら満足に配給されず、国全体を敗戦の色が包んでいたが、ラジオから流れるのは今日も勇ましい大日本帝国の国歌であり、明らかに消耗戦の色こいムードの中、国民はなんとか士気を振り絞って生き延びていた。

　自分は海岸沿いの一都市の駐屯という身分だ。主要な軍部施設の多い都市部から一歩離れているだけに、この街は比較的戦禍がマシな方であったが、それでも毎日のように空襲警報が鳴り響き、いつここで散ることになるかもしれない緊張状態の中日々走り回っている。

　いつも身に着けている薄い布製の財布には、それほど多くない小銭の他に、ただ唯一の財産と言える恋人の写真が申し訳程度に包まれていた。もう何度取り出して眺めたか知れない。

　薄っぺらいその紙片が挫けそうになる精神をなんとか繋ぎ止めていた。

　開戦から間もなく国中に掘られた防空壕の一つであるここには、現在ようやく避難してきた親子連れが数組、それもまだあどけなさの残る赤ん坊と母親という組み合わせばかりである。働ける年と性別のものは皆、戦地か軍の工場に送られてしまった。

　駐屯兵である自分の手にした銃器も軍のおこぼれのもので、もしこの場に敵の兵が現れたとして、もはやなす術がないことを皆理解していた。

「あの、兵隊さん」

　母親の一人がぐずって今にも泣きそうな我が子をあやしながら、心細そうに問う。

「いつまでここに居れば良いんでしょうか」

「…まもなく空襲も終わります。もう少しの辛抱です」

　他にかける言葉がなかった。外から聞こえてくる爆撃や人の走り回る足音は衰えることもなく、この場の状況は掛け値なしに絶望的、と言えた。

　そんな中、防空壕の扉を外から叩く者があった。その場の全員が身をこわばらせる。が、丁寧なノックは一つ叩いて、一拍開けてもう二つ。

「…や、大丈夫、味方のようです」

　こちらからも内側から三つ扉を叩くと、ゆっくりと扉を上に押し開けた。

「すみません、思った以上に状況が厳しく、遅くなりました」

「いや、よくやってくれた。お前ひとりか？」

「…まあ、一人と言えば一人」

　この場に馴染まない横柄な口調でぼやきながら入ってきたのは、最近駐屯兵団に入団した若い兵士だった。

　が、早速違和感に気づく。

「なんだそれは」

「ああ、この鍋ですか。いやー…何と言いますか」

「役に立つと思って」

「黙って。いやまあ気にしないで下さい」

　いきなりべらべらと喋り出す新米兵に、普段なら怒鳴りつけるくらいすべきなのだろうが今は正直、救われていた。巨大な鍋を頭からすっぽりかぶった新米兵は、自分のものと同様粗末な銃器を担ぎ直すと身軽な動作で防空壕に入ってくる。

「白のキング発見だね」

「黙って。黒のキングも間もなく到着するんだよね？」

「黙らせるのか尋ねるのかははっきりしようよ」

　相変わらずぶつぶつと独り言を大鍋の中に響かせる新米兵を、周囲の人間は気味悪げに見つめていたが、しかしその場の空気がわずかに安堵に緩むのを感じた。一応軽く咳払いをしてから、心中この新米兵に感謝を述べたものである。

「それで、外の状況はどうだ？」

「芳しくないですね。敵兵の一部がかなり奥まで侵入してきているようで、今防衛陣を張り直していますが…」

「こんな僻地まで侵略か…くそっ」

「とは言え、この街一個で言うならさほど劣性でもないようです。近くに逗留中の海軍兵団がいるそうで、今こちらに向かっているとか」

「ふむ…？」

　どこか違和感を感じる。新米兵の口ぶりは非常に確かで客観的だが、客観的過ぎるのではないか。戦地における情報の価値は、兵や装備の価値と並べられるほど、重い。そんな中これほどに全体を見渡した戦況を把握できるものだろうか。

　そこまで考えた時、一際バカデカい爆発音がその場の空気を揺らした。

「おでましだね」

　防空壕の扉が蹴破られ、男が一人転がり込んでくる。一目見て防空壕内の全員ーー二人をのぞいてーーが戦慄した。男の軍服も、手にした銃も、まぎれもなく敵兵のもの。

　そこまでを瞬時に把握したところで自然に体が動いた。小銃を構え、全員の壁になるように敵兵の間に立ちふさがる。新兵も鍋をゆらゆら揺らしながら、やけに慣れた仕草で小銃の狙いを定める。

　引き金にかけた指に力を込めようとする。

「マ、マッテ」

　たどたどしい日本語がその動作を止めた。

　よくよく見ればその敵兵は、破れた軍服のあちこちから血を流し、ホコリと泥まみれである。…敗残兵か。どうやら新兵の言っていた通り状況はこちらの優勢に転じたらしい。

　よろよろと壁際に後ずさりながら、敵兵は手にした機関銃を地べたに放り投げた。

「タスケテ。マケタ」

「日本語が話せるのか？　どうなってる、お前は降伏するつもりなのか？」

「マケタ、コウサン。ウタナイデ」

　相変わらず舌に絡まるような日本語で敵兵は命乞いを繰り返す。ほっと息を吐き、銃の構えを解いた。

「わかった、とりあえずお前はここに居ろ。後で本隊に引き渡す」

「めでたしめでたしだね」

「黙って。まだ終わってない」

　敵兵を拘束するために歩み寄ろうとした自分の腕を、新兵が思い切り引っ張った。

　余りにも軽い発砲音が響き、敵兵の手の中に仕込まれた小型の仕込み銃からかすかに火薬の匂いが広がる。断続的に響いた甲高い音と共に新兵の頭の鍋がはじけ飛んだ。

「ね、役に立ったでしょ」

「黙って」

　新兵はこちらの利き腕を掴んだまま、握られた小銃を正確に敵兵に向ける。

「チェック」

　自分の意思とは関係なく、小銃を持った指が引き金を引いていた。

「チェックメイト」

　敵兵の額に空いた風穴にすべてが吸い込まれ、暗転する。

　ぼんやりと目の前に光が差し、重い瞼を開けた。目が霞み、わずかに周囲に人の気配が感じられるだけでよく見えない。体も凍てついたように動かなかった。唯一まともに働いているらしい耳から、読経と聞き慣れた親族たちのすすり泣きが聞こえてくる。

　そうか。あれは自分の走馬灯だ。

　上手く開かない口で呟いた。

「俺…が、あの時…生き残れたのは…」

　現実の世界もそこで途切れた。