夢踏み

山田 唄

プロローグ 白昼夢

 見渡す限り白一色の世界に、いた。上下左右どこを見ても真っ白だ。自分の存在さえ不確かで、ここがどれだけ広い空間なのか、今は何時なのか、そもそも地球上のどこかなのかもおぼつかなかった。つい先ほどまで会社で昼休みを返上しての事務処理に当たっていたのに。

 そこまで考えてようやく自分の名前を思い出した。私は●●●。小さな株式会社の事務職に必死の思いで就職して、そこでもうだつの上がらない毎日を送っているOLだ。先程まで仕事をしていたのも間違いない。

 なのに、周囲には机も椅子も、厄介なだけの書類の束も、いつも仕事の小さな不備をつついては怒鳴り散らしてくる上司もいない。

 もしかしたら、私は死んでしまったのか?


 普通は慌てる所かもしれない。が、自分の胸にじんわりと広がって行ったのは、まぎれもなく安心、安らぎだった。これでもうあの嫌な上司に会う事もない。仕事に追われて残業疲れを引きずり深夜に帰宅することもない。私はようやくしがらみから解放されたのではないか。

 すっと視界が開けたような気がしてよく見てみれば、自分は先程までの恰好をし、手に電卓を抱えたままその白い世界の中心に立って居た。

 そうだ、自由なんだ。



 そう思った時、彼方から聞き慣れた声がした。

 記憶が確かなら上司の声と瓜二つである。冷や汗が吹き出した。まさかこんなところまで私を追ってきたのか。焦って見渡すと、自分の斜め後方辺りに黒い靄のようなものが漂い、次第に集まって形を為しては過たず上司の姿を形づくった。脂ぎった皮脂まみれの肌も、ズボンからはみ出した三段腹も、センスのない髭も間違いなく上司のもの。


「そんな…」


 思わず口をついて出た言葉は、次には悲鳴に変わった。いきなり目の前に女の子が現れたのである。

 こちらは上司と違って全く見覚えが無い。いや、もしかしたら近所にこんな子どもが住んでいただろうか。もしくは天国の住人か天使と言った所か。だとすると上司は死んでまで私を追ってきたのか。


「あー、混乱しないでお姉さん」


 少女は意外と生意気そうな口を利いた。手に持った安っぽい色の風船が少女の頭の上のほうでゆらゆら揺れている。


「そうそう。焦ったって何も良い事ないしね」

「黙って。時間が無い」

「いいでしょ、もう白黒のキングは捕捉したんだし」

「それはそう」


 べらべらと喋る少女。混乱するな、と言う割にこちらを落ち着かせようという努力が見えない。情報の渋滞で目を回していると、追い打ちをかけるようにもう一つの現象に気付く。

 少女が独り言を言っているのではない、風船が喋っている。

 気が付くと上司のがなり声が間近まで迫っていた。上司の肩辺りからゆらゆら立ち上る黒い靄が、生き物のように蠢いている。

 そうか、これは…。


「分かったみたいだね、これは夢なの」

「しかも悪夢なんだよねこれが」

「黙って。お姉さんの体は今会社で忙殺されて現実逃避に勤しんでる。私達の業界で言う白昼夢ね。だからその」

「その銃であのハゲ親父をばーんと! それで解決!」


 銃?

 気が付くと右手に握りしめていたはずの電卓が、黒光りする銃に代わっている。なるほど、これは完全に夢だ。少女と風船がいう事が本当なら、この銃で上司を打ち殺せば。


 腕が自然に動いた。撃鉄を引き、ゆっくりと近づいてくる上司に照準を合わせる。何度もそうしてきたように慣れた仕草で。


「チェック」


 少女が叫んだ。


「チェックメイト」


 指が勝手に引き金を引き、上司も少女も世界も、私も、膨張する白に塗りつぶされていった。視界がホワイトアウトする。

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